冬の花火
―――三幕
太宰治
人物。
数枝 二十九歳
睦子 数枝の娘、六歳。
伝兵衛 数枝の父、五十四歳。
あさ 伝兵衛の後妻、数枝の継母、四十五歳。
金谷清蔵 村の人、三十四歳。
その他 栄一(伝兵衛とあさの子、未帰還)
島田哲郎(睦子の実父、未帰還)
いずれも登場せず。
所。
津軽地方の或る部落。
時。
昭和二十一年一月末頃より二月にかけて。
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第一幕
舞台は、伝兵衛宅の茶の間。多少内福らしき地主の家の調度。奥に二階へ通ずる階段が見える。上手は台所、下手は玄関の気持。
幕あくと、伝兵衛と数枝、部屋の片隅のストーヴにあたっている。
二人、黙っている。柱時計が三時を打つ。気まずい雰囲気。
突然、数枝が低い異様な笑声を発する。
伝兵衛、顔を挙げて数枝を見る。
数枝、何も言わず、笑いをやめて、てれかくしみたいに、ストーヴの傍の木箱から薪を取り出し、二、三本ストーヴにくべる。
(数枝)(両手の爪を見ながら、ひとりごとのように)負けた、負けたと言うけれども、あたしは、そうじゃないと思うわ。ほろんだのよ。滅亡しちゃったのよ。日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、ひとり残らず捕虜なのに、それをまあ、恥かしいとも思わずに、田舎の人たちったら、馬鹿だわねえ、いままでどおりの生活がいつまでも続くとでも思っているのかしら、相変らず、よそのひとの悪口ばかり言いながら、寝て起きて食べて、ひとを見たら泥棒と思って、(また低く異様に笑う)まあいったい何のために生きているのでしょう。まったく、不思議だわ。
(伝兵衛)(煙草を吸い)それはまあ、どうでもいいが、お前にいま、亭主、というのか色男というのか、そんなのがあるというのは、事実だな?
(数枝)(不機嫌になり)いいじゃあないの、そんな事は。(舌打ちをする)なんにも言わなけあよかった。
(伝兵衛) お前が言わなくたって、どこからともなくおれの耳にはいって来る。
(数枝) もったいぶらなくたって、わかっているわよ。お母さんでしょう?
(伝兵衛)(軽く狼狽の気味)いや。
(数枝)(小声で早口に)そうよ、それにきまっているわ。お母さんはまた、どうして勘附いたのかしら。ばかなお母さん。
間。
(伝兵衛) あさから聞いた。しかし、あさは、決して、何も、……。
(数枝)(それを相手にせず、急に態度をかえて)お母さんは、どこへ行ったの?
(伝兵衛) 鱈を買いに行かなくちゃならんとか言っていたが。
(数枝) 睦子をおぶって?
(伝兵衛) そうだろう。
(数枝) 重いでしょうにねえ。あの子は、へんに重いのよ。いやにおばあちゃんになついてしまって、いい気になってへばりついてる。
(伝兵衛) お前の小さい時によく似ている。(改まった顔つきになり、強い語調で)あさは、あの子をほしいと言っているのだが。
(数枝)(顔をそむけ)ばかな。
(伝兵衛) いや、まじめに言ってる。まあ、聞け。あさが、ゆうべ、(かすかに苦笑を浮べて)おれにまじめに相談した事だ。栄一の事はもうあきらめている。戦地からのたよりが無くなってから、もう三年経つ。あれの部隊が南方の何とやらいう小さい島を守りに行ったという事だけは、わかっているが、栄一はいま無事かどうか、さっぱりわからぬ。あきらめた、とあさは言っている。ちょうどいい具合いにお前が睦子を連れて東京から帰って来た。しかし、お前にはもう内緒の男があるらしい。またすぐ東京へ行ってしまうつもりだろう。まあ、黙って聞けよ。それはお前の勝手だ。好きなようにしたらいいだろう。しかし、睦子は置いて行ってもらえまいか。
(数枝)(また異様な笑声を発して)本気でおっしゃったの? そんな馬鹿な事を、まあ、お母さんもどうかしてるわ。もうろくしたんじゃない? ばかばかしい。
(伝兵衛) もうろくしたのかも知れない。おれだって、ばかばかしい話だと思った。しかし、あれはまじめにそんな事を考えているようだ。お前がこれから、いまのその、亭主だか色男だかのところへ引上げて行くにしても、睦子がついているんでは、この後、その男との間に面白くない事が起るかも知れない。お前もまだ若いのだから、これから子供はいくらでも出来るだろう。とにかく睦子は、この家に置いて行ってもらいたい、と言うのだが、あれとしては、いろいろ考えた末の名案のつもりなのだろう。お前のためにも、それが一ばんいいと考えているらしい。
(数枝) 余計なお世話だわ。
(伝兵衛) そうだ。余計なお世話にちがいない。しかし、お前のように、ただもう、あさを馬鹿にして、……。
(数枝)(皆まで聞かず)そんな事、そんな事ないわ。ねえ、お父さん。生みの親より育ての親、と言うでしょう? あたしの生みの母は、あたしが今の睦子よりももっと小さい時になくなって、それからずっといまのお母さんに育てられて来たのですもの、あとでひとから、あれはお前の継母で、弟の栄一とは腹ちがいだなんて聞かされてもあたしは平気だったわ。継母だって何だってあたしのお母さんに違いないのだし、腹ちがいでも栄一はやっぱりあたしと仲のよい弟だし、そんな事はちっともなんにも気にならなかった。だけど、あたしが女学校へ行くようになってから、何だか時々ふっと淋しく思うようになったの。だって、お母さんは、あんまりよすぎるんだもの。一つも欠点が無いんだもの。あたしがどんなわがままを言っても、また、いけない事をしても、お母さんは一度もお叱りにならず、いつも笑ってあたしを猫可愛がりに可愛がっていらっしゃる。あんな優しいお母さんてないわよ。優しすぎるわ、よすぎるわ。いつかあたしが、足の親指の爪をはがした時、お母さんは顔を真蒼にして、あたしの指に繃帯して下さりながら、めそめそお泣きになって、あたし、いやらしいと思ったわ。また、いつだったか、あたしはお母さんに、お母さんはでも本当は、あたしよりも栄一のほうが可愛いのでしょう? ってお聞きしたら、まあ、上手に答えるじゃないの、お母さんはね、その時あたしにこう言ったの。時たまはなあ、だって。あんまり正直らしく、そうして、優しいみたいで、にくらしくなっちゃったわ。栄一にばかり、ひどく難儀な用事を言いつけて、あたしには拭き掃除さえろくにさせてくれないのだもの。だからあたしも意地になって、うんと我儘をしようと考えたのよ。思いっきりお行儀を悪くして、いけない事ばかりしてやろうという気になっちゃったのよ。だけど、あたしはお母さんをきらいじゃないのよ。大好きなのよ。好きで好きで武者振りつきたいくらいだったわ。お母さんだって、あたしを芯から可愛かったらしいのね。あんまり可愛くて、あたしにいつも綺麗な着物を着せて置いて、水仕事も何もさせたくなかったらしいのね。それはわかるわ。本当はね、(突然あははと異様に笑う)お母さんとあたしとは同性愛みたいだったのよ。だから、いやらしくって、にくらしくって、そうして、なんだか淋しくて、思いきり我儘して悪い事をして、そうしてお母さんと大喧嘩をしたくて仕様が無かったの。
(伝兵衛)(顔をしかめて)三十ちかくにもなって、まだそんな馬鹿な事ばかり言っている。も少し、まともな話をしないか。
(数枝)(平然と)お父さんは鈍感だから何もわからないのよ。お父さんみたいなひとを、好人物、というんじゃないかしら。まるでもう無神経なのだから。(語調をかえて)でも、お母さんは昔は綺麗だったなあ。あたし、東京で十年ちかく暮して、いろんな女優やら御令嬢やらを見たけれども、うちのお母さんほど綺麗なひとを見た事が無い。あたしは昔、お母さんと二人でお風呂へはいる時、まあどんなに嬉しかったか、どんなに恥かしかったか、いま思っても胸がどきどきするくらい。
(伝兵衛) おれの前でそんなくだらない話は、するな。それで、どうなんだ? 睦子を置いて行く気か?
(数枝)(呆れた顔して)ま、お父さんまでそんな馬鹿げた、……。
(伝兵衛) しかし、男があるんだろう?
(数枝)(顔をしかめ、うつむいて)ほかに聞き方が無いの?
(伝兵衛) どんな聞き方をしたって同じじゃないか。(こみ上げて来る怒りを抑えている態で)お前も、しかし、馬鹿な事をしたものだ。そう思わないか。
(数枝)(顔を挙げ、冷然と父の顔を見守り無言)
(伝兵衛) 小さい時から我儘で仕様がなかったけれども、しかし、こんな馬鹿な奴とは思わなかった。お前のためには、あさも、どれだけ苦労して来たかわからないのだ。お前が弘前の女学校を卒業して、東京の専門学校に行くと言い出した時にも、おれは何としても反対で、気分が悪くなって寝込んでしまったが、あさはおれの寝ている枕元に坐ったきりで、一生のたのみだから数枝を数枝の行きたいという学校に行かせてやってくれと頼んで泣き、おれも我を折って承知した。お前は、当り前だというような顔で東京へ行き、それっきり帰って来ない。小説家だか先生だか何だか知らないが、あの島田とくっついて学校を勝手にやめて、その時からもうおれはお前を死んだものとして諦めた。しかし、あさは一言もお前の悪口を言わず、おれに隠して、こっそりあれのへそくりをお前に送り続けていたようだ。あさは、自分の着物を売ってまでもお前にお金を送っていたのだよ。睦子が生れてそれから間もなく、島田が出征して、それでもお前は、洋裁だか何だかやってひとりで暮せると言って、島田の親元のほうへも行かず、いや、行こうと思っても、島田もなかなかの親不孝者らしいから親元とうまく折合いがつかなくて、いまさら女房子供を自分の親元にあずかってもらうなんて事は出来なかったようで、それならば、おれたちのほうに泣き込んで来るのかと思っていたら、そうでもない。おれはもう、お前の顔を二度とふたたび見たくなかったので知らん振りをしていたが、あさは再三お前に、島田の留守中はこっちにいるようにと手紙を出した様子だった。それなのに、お前はひどく威張り返って、洋裁の仕事がいそがしくてとても田舎へなんか行かれぬなどという返事をよこして、どんな暮しをしていたものやら、そろそろ東京では食料が不自由になっているという噂を聞いてあさは、ほとんど毎日のように小包を作ってお前たちに食べ物を送ってやった。お前はそれを当り前みたいに平気で受取って、ろくに礼状も寄こさなかったようだが、しかし、あさはあれを送るのに、どんな苦労をしていたかお前には、わかるまい。一日でも早く着くようにと、必ず鉄道便で送って、そのためにあさは、いつも浪岡の駅まで歩いて行ったのだ。浪岡の駅まではここから一里ちかくもあるのだよ。冬の吹雪の中も歩いて行った。六時の上り一番の汽車に間に合うようにと、暗いうちに起きて駅へ行く事もあった。あれはもう、朝起きてから夜眠るまで、お前たちの事ばかり考えて暮していたのだ。お前ほど仕合せな奴は無い。東京で罹災したと言って、何の前触れも無く、にやにや笑ってこの家へやって来て、よくもまあ恥かしくもなく、のこのこ帰って来られたものだとおれは呆れてお前たちには口もききたくない気持だったが、しかし、お前もいまはおれの娘ではないんだし、島田という出征軍人の奥様なのだから、足蹴にして追い出すわけにもゆかず、まあ、赤の他人の罹災者をおあずかり申すつもりで、お前たちを黙ってこの家に置いてやる事にしたのだ。つけ上っては、いけない。おれには、お前たちの世話をしてやる義務もないし、お前だってこの家で我儘を言う権利などは持っていない筈だ。
(数枝)(うつむいて、けれども、はっきりと)島田は死んだようです。
(伝兵衛) そうかも知れない。しかし、まだ遺骨が来ない。お葬いも、すんでいない。馬鹿な奴だ、お前は。いったい、いまの亭主だか何だか、それはどんな男なんだ。
(数枝) お母さんにお聞きになったらいいでしょう。なんでも知っていらっしゃるらしいから。
(伝兵衛)(無意識にこぶしを握り)まだそんな馬鹿な事を言うのか。あさは何も知ってはいない。ただお前が、こっそり誰かと文通しているらしいという事、たまにはお金も送られて来る様子だし、睦子が時々、東京のオジちゃんがどうのこうのと言うし、それは、あさでなくったって勘附くわけだ。
(数枝) でも、お父さんは知らなかったのでしょう?
(伝兵衛)(苦しそうに)夢にもそんな事を思う道理が無いじゃないか。(溜息をついて)お前はまあ、これからさき、どこまで堕落して行くつもりなのだ。
(数枝)(静かに)この家に置いていただけないなら、睦子を連れて東京へ帰るつもりでいます。春までこちらに置いていただき、そうしてその間に、鈴木がむこうで家を見つけるという事になっていたのですけど。
(伝兵衛) スズキというのか、その男は。
(数枝)(おとなしく)そうです。
(伝兵衛)(いかめしく)その男と一緒になってから何年になる。
(数枝)(無言)
(伝兵衛) 聞かないほうがよいのか? よし、たいていわかった。(興奮を抑えつつ静かに、しかし、音声が変っている)出て行け。いますぐ出て行け。どこへでもかまわない。出て行ってくれ。睦子を置いて、いますぐその男のところに行ってしまえ!
(数枝)(顔を挙げて)お父さん、あなたは、あたしが東京でどんな苦労をして来たか、知っていますか。