それやこれやで、私は、私自身、湖畔の或る古城に忍び入る戦慄の悪徳物語を、断念せざるを得なくなった。その古城には、オフェリヤに似た美しい孤独の令嬢もいるのだけれど。いまは一切を語らぬ。いい気になって、れいの調子づいて、微にいり細をうがってどろぼうの体験談など語っていると、人は、どうせあいつのことだ、どろぼうくらいは、やったかも知れぬと、ひそひそ囁き合って、私は、またまた、とんだ汚名を着せられるやも、はかり難い。それゆえ、このような物語は、私が、もう少し偉くなって、私の人格に対する世評があまり悪くなく、せめて私の現在の実生活そのままを言い伝えられるくらいの評判になったとき、そのときには私も、大胆に「私」という主人公を使って、どのような悪徳のモデルをも、お見せしよう。いまは、いけない。悲しいけれども、いけない。
次に物語る一篇も、これはフィクションである。私は、昨夜どろぼうに見舞われた。そうして、それは嘘であります。全部、嘘であります。そう断らなければならぬ私のばかばかしさ。ひとりで、くすくす笑っちゃった。
ゆうべは、おどろいたのである。笑いごとではない。実に驚いた。生れて、はじめて私はどろぼうに見舞われた。しかも、ばかなこと、私はそのどろぼうと、一問一答をさえ試みてしまったのである。大袈裟に言えば、私たち二人さしむかいで、一夜をしみじみ語り明かしたのである。もとから私は、どろぼうという種属の人間に、馴れ親んでいるわけではない。冗談ではない。全く、生れて、はじめて、どろぼうという者を見たのである。火事は、中学校四年生のときに、はっきり一ぶしじゅうを見とどけたことがあるけれども、どろぼうは、はじめてなのである。火事は、あれも不思議なものである。私のお隣りの家が焼けているのだけれど、私は、どういうものか、ぼんやりして、二階の窓に頬杖ついて、うっとり見ていた。秋の終りの、朝のことである。手にとるようによく見える、というが、そのときには、実際、お隣りの家の燃えている軒と、私の頬杖ついている窓縁とは、二間と離れていず、やがてお隣りの軒先の柿の木にさえ火が燃え移って、柿の枯葉が、しゃあと涼しい音たてて燃えては黒くちりちり縮み、その燃えている柿の一枝が、私の居る二階の窓から、ほんとうに、ちょっと手を伸ばせば、折り取れるところに在って、それこそ咫尺の間に於いて私は、火事を見ていたのである。軒が燃え出すまでの、焔の順序が面白かった。はじめ軒端を伝って、ちょろちょろ、まるで鼠のように、青白い焔が走って、のこぎりの歯の形で、三角の小さい焔が一列に並んでぽっと、ガス燈が灯るように軒端に灯って、それから、ふっと消える。軒端の材木から、熱のためにガスが噴き出て、それに一先ず点火されるのであろう。また、ちょろちょろと、青白い焔が軒端を伝って伸びて、と思うと、ちちと縮まり焔の列が短かくなり、また、ちょろちょろと伸びる。行きつ、戻りつ、それを、五、六度、繰りかえしているうちに、ぼっという荒い音がして、軒が一時に燃え上る。こんどは、ほんとに燃えるのである。黒い煙と、パチパチという材木の爆ぜる音。ほんものの悪性の焔が、ちろちろ顔を出す。かたまった血のような、色をしている。茶褐色である。棘のある毒物の感じである。紅蓮、というのは当っていない。もっと凝固して、濃い感じである。いかにも、兇暴の相である。とぐろを巻いて、しかも精悍な、ああ、それは蝮蛇そっくりである。私の眉にさえ、刺されるような熱さを覚えた。火事は、異様の臭気がする。鰊を焼くとき、あんな臭いがする。なまぐさい。所詮は、物質が燃え上るだけのことに違いないのだけれど、火事は、なんだか非科学的だ。椅子が燃え、柱が燃えるなど、ふだんは、なかなか想像できない。障子に揮発油をぶっかけて、マッチで点火したら、それは大いに燃えるだろうが、せいぜいそれくらいのところしか想像に浮んで来ないのであって、あんな、ふとい大黒柱が、めらめら燃え上るなど、不思議な気がする。火事は、精神的なものである。私は、宗教をさえ考える。宿業に依って炎上し、神の意志に依って烏有に帰する。人意にて、左右することの、かなわぬものである。そうして、盗難は、――これは火事と較べて、同じ災禍でありながら、あまり宗教的ではない。宗教的どころか、徹頭徹尾、人為的である。けれども、これにも何か不思議がある。人為の極度にも、何かしら神意が舞い下るような気がしないか。エッフェル鉄塔が夜と昼とでは、約七尺弱、高さに異変を生ずるなど、この類である。鉄は、熱に依って多少の伸縮があるものだけれども、それにしても、約七尺弱とは、伸縮が大袈裟すぎる。そこが、不思議である。神意、ということを考えないわけにいかない。私のこのたびの盗難にしても、たしかに数数の不思議があった。
だいいちには、あの怪しからぬ泥靴の夢を見たことである。実に不愉快な大きな泥靴の夢を見たのである。いまになって考えてみると、あれは夢のお告げ、というものであった。それは、たしかだ。私は、諸君に警報したい。泥靴の夢を見たならば、一週間以内に必ずどろぼうが見舞うものと覚悟をするがいい。私を信じなければ、いけない。げんに私が、その大泥靴の夢を見ながら、誰も私に警報して呉れぬものだから、どうにも、なんだか気にかかりながら、その夢の真意を解くことが出来ず愚図愚図まごついているうちに、とうとうどろぼうに見舞われてしまったではないか。まだ、ある。なんとも意味のわからぬ、ばかげた言葉が、理由もなくひょいと口をついて出たときには、注意しなければいけない。必ず、ちかいうちにどろぼうが見舞う。私の場合、「やって来たのは、ガスコン兵。」という、なんとも意味の知れない、不思議すぎて、ばからしい言葉が、全く思いがけず、ひょいと口をついて出たのである。それも、一度や、二度では無い。むやみ矢鱈に、場所をはばからず、ひょいひょいと発するのである。「やって来たのは、ガスコン兵。」ちっとも、なんとも、面白くない言葉である。どういう意味であるか、自分で考えてみても判明しない。私は、そのときも不安であった。いま考えてみると、たしかに胸騒ぎがしていた。虫の知らせ、というやつであろう。けれども、まさか、これが、どろぼう入来の前兆であるとは気がつかなかった。私はこれを、自身のありあまる教養の故であろうと、お恥かしい、そう思っていたのである。思い出す。チエホフの芝居にも、ひとりの気のきかない好人物が、「あわや、というまに熊は女を組み伏せたりき。あわや、というまに熊は女を組み伏せたりき。おや、これは、どういうわけだろう。きょうは、朝から、この言葉がふいと口をついて出て来て、仕様がない。あわや、というまに熊は女を組み伏せたりき、か。」などと、一向にぱっとしない、愚にもつかぬ文句を、それでも多少、得意になって、やはり自身の、ありあまる教養に満足しながら、やたらにその文句を連発してサロンを歩きまわって、サロンの他の客はひとしく、これには閉口するところが、在ったように記憶しているが、私は、いまだったら、観客席から、やにわに立ち上り大声あげて、その劇中の好人物に教えてやる。注意しろ! おまえは一週間以内に、どろぼうに見舞われるぞ。
不幸なことには、私には、そのように親切に警告して呉れる特志家がなかった。私は、それを神の意志に依る前兆のあらわれとも気づかず、あさましい、多少、得意になって、ばかな文句を、繰り返し繰り返し、これは、プルタアクの英雄伝の中にあった文句であろう、どうも文学的教養がありあまって、ちょっと整理もつきかねるて、などと、ああ穴があれば、はいりたい、そう思って湧き上る胸の不安を、なだめすかしていたものだ。
いま考えてみると、その他にも、たくさんの不思議な前兆があった。ずいぶん猛烈のしゃっくりの発作に襲われた。私は鼻をつまんで、三度まわって、それから片手でコップの水を二拝して一息で飲む、というまじないを、再三再四、執拗に試みたが、だめであった。耳の孔が、しきりに痒ゆい。これも怪しかった。何かしらの異変を思わせるほどに、痒ゆかった。その他にも、いろいろある。ふいと酒を飲みたくなる。トマトを庭へ植えようかと思う。家郷の母へ、御機嫌うかがいの手紙を書きたくなる。これら、突拍子ない衝動は、すべて、どろぼう入来の前兆と考えて、間違いないようだ。読者も、お気をつけるがよい。体験者の言は、必ず、信じなければいけない。
いよいよ、四月十七日。きのうである。この日は、悪い日だった。私は、その日、朝から、しゃっくりに悩まされていた。しゃっくりが二十四時間つづくと、人は、死ぬそうである。けれども、二十四時間つづくことは、めったにないそうである。だから、人は、しゃっくりでは、なかなか死なない。私は、朝の八時から、黄昏どきまで、十時間ほど、しゃっくりをつづけた。危いところであった。もう少しで死ぬところであった。黄昏どきになって、やっと、しゃっくりもおさまり、けろりとして机のまえに坐っていた。しゃっくりは、それが、おさまったとたんに、けろりとするものである。たったいままでの、あれほどの苦痛を、きれいさっぱり、それこそ、根こそぎに忘却してしまうものである。ああ、いまのしゃっくりは、ひどかったなど、そんな思い出さえ、みじんも浮ばず、心境が青空の如く澄んで一片の雲もなく、大昔から、自分はいちども、しゃっくりなんか、とんと覚えがなかったような落ちつき。私は机に向い、ふと家郷の母に十年振りのお機嫌伺いの手紙を、書きしたためようと、、突拍子もない衝動を感じた。そのときである。パリパリという、幽かな音が、窓の外から聞えて来た。たしかに、雨傘をこっそり開く音である。日没の頃から、雨が冷たく降りはじめていたのである。誰か、外に立っているにちがいない。私は躊躇せずに窓をあけた。たそがれ、逢魔の時というのであろう、もやもや暗い。塀の上に、ぼんやり白いまるいものが見える。よく見ると、人の顔である。
「やって来たのは、ガスコン兵。」口癖になっていた、あの無意味な、ばからしい言葉。そいつが、まるで突然、口をついて出てしまった。すると、その言葉が何か魔除けの呪文ででもあったかのように、塀の上の目鼻も判然としない杓文字に似た小さい顔が、すっと消えた。跡には、ゆすら梅が白く咲いていた。
私は、恐怖よりも、侮辱を感じた。ばかにしてやがる、と思った。本来の私ならば、ここに於いて、あの泥靴の不愉快きわまる夢をはじめ、相ついで私の一身上に起る数々の突飛の現象をも思い合せ、しかも、いま、この眼で奇怪の魔性のものを、たしかに見とどけてしまったからには、もはや、逡巡のときでは無い、さては此の家に何か異変の起るぞと、厳に家人をいましめ、家の戸じまり火の用心、警戒おさおさ、怠ることの無かったでもあろうに、かなしいかな、この日頃の私には、それだけの余裕さえ無かった。おのれの憤怒と絶望を、どうにか素直に書きあらわせた、と思ったとたん、世の中は、にやにや笑って私の額に、「救い難き白痴」としての焼印を、打とうとして手を挙げた。いけない! 私は気づいて、もがき脱れた。危いところであった。打たれて、たまるか。私は、いまは、大事のからだである。真実、そのものを愛し、そのもののために主張してあげたい、その価値を有する弱い尊いものをさえ、私は、いまは見つけたような気がしている。私は、いまは、何よりも先ず、自身の言葉に、権威を持ちたい。何を言っても気ちがい扱いで、相手にされないのでは、私は、いっそ沈黙を守る。激情の果の、無表情。あの、微笑の、能面になりましょう。この世の中で、その発言に権威を持つためには、まず、つつましい一般市井人の家を営み、その日常生活の形式に於いて、無慾。人から、うしろ指一本さされない態の、意志に拠るチャッカリ性。あたりまえの、世間の戒律を、叡智に拠って厳守し、そうして、そのときこそは、見ていろ、殺人小説でも、それから、もっと恐ろしい小説を、論文を、思うがままに書きまくる。痛快だ。鴎外は、かしこいな。ちゃんとそいつを、知らぬふりして実行していた。私は、あの半分でもよい、やってみたい。凡俗への復帰ではない。凡俗へのしんからの、圧倒的の復讐だ。ミイラ取りが、ミイラに成るのではないか? よくあることだ。よせ、よせ。そんな声も聞えるが、けれども、何も私は冒険をするわけではないのである。鴎外なぞを持ち出したので、少し事が大袈裟に響くだけのことであって、これを具体的に言うならば、あまり世間の人に甘えるな、というだけのことなのである。「しかしなんといっても、」ゲエテが、しんみりそう教えたではないか。「自己を制限し、孤立させることが、最大の術である。」ミイラになる心配は、ないようだ。
すべては、自身の弱さから、――私は、そう重く、鈍く、自己肯定を与えているのであるが、――すべては弱さと、我執から、私は自身の家をみずから破った。ばらばらにしちゃった。外へ着て出る着物さえ無い始末である。これでは、いけない。ふんどし一つで、金言を吐いていたんじゃ、まるで何かみたいだ。しかも私には、その金言さえ、おぼつかない。あたりまえの発見を、人よりおそく、一つ一つ、たんねんに珍重し、かなしみ、喜び、歎息している有様である。のろいのである。近ごろ、また、めっきり、のろくなった。いまは、まず少しずつ生活を建て直し、つつましい市井人の家をつくる。それが第一だ。太宰も、かしこいな。何を言ったって、人から相手にされないのでは、仕様がないからね。私は、もともと、そんなに嘘つきじゃないんだ。権威を持ちたい。自身が、死んでから五年、十年あとあとの責任まで持って、懸命に考え考えしながら書き綴る文章の、ことごとく、あれは贋物、なるほど天才じゃなど、いい笑いものにされていて、それで、くやしくないのか。堂々、太刀打ちするには、言葉だけでは、だめなんだ。手紙だけでは、だめなんだ。私は、いまは、その興覚めの世のからくりを知った。芸術界も、やっぱり同じ生活競争であった。思考をやめよ! 負けては、ならぬ。どんぐりの背並べ。
一路、生活の、謂わば改善に努力して、昨今の私は、少し愚かしくさえなっている。行動は、つねに破綻の形式を執る。かならず一方に於いて、間抜けている。完璧は、静止の形として、発見されることが多い。それとも、目にとまらぬ早さで走るか、そのいずれかである。沈黙している作家の美しさ、おそろしさも、また、そこに在るのであるが、私は、いまは、そんなに色気を多くして居られない。まごまごしていると、あのむざんな焼印が、ぴったり額に押されてしまう。押されてしまったら、それなりけり。義務の在る数人を世話するどころか、私自身さえ行路病者だ。事態は、緊迫しています。もはや、かの肥満、醜貌の大バルザックになるより他は無い。ほんとうは、若いままで死にたいのだが、ああ、死にたいのだが、ままにならない。よろめき、つまずき、立ち上り、昨今、私はたいへんな姿である。そのような愚直の、謂わば盲進の状態に在るとき、私は、神の特別のみこころに依り、数々の予告を賜って、けれども、かなしいかな、その予告の真意を解くことができず、どろぼう襲来の直前まで、つい、うっかり、警戒を怠っていたということに就いては、寛大の読者は、これを哀れとこそ思え、決してとがめだてをせぬだろうと信じる。繰りかえして言うが、私は、決して家を粗末にしていたわけではないのである。家を愛している。文学のつぎに、愛している。けれども、何せれいの家の建て直しに、着て出る着物の調整に、やっさもっさ、心をくだき、あまりの向上心に、いきおい守るほうを失念してしまっていた。人間のアビリティの限度、いたしかたの無いものである。たしかに一方、抜けていた。まさしく破綻の形である。私は、そのような奇怪の、ほの白い人の顔の出没に接しても、ただ単に、屈辱を感じただけで、それ以上の深い詮索をしなかった。ほかに、あれこれ考えなければならぬ事が多く、そんな、黄昏の人の顔など、ものの数で無かった。ばかにしてやがる。そう呟いて、窓をぴたと閉め、それから難渋しながら、たわいない甘い物語を書き綴る。これが、私の天職である。物語を書き綴る以外には、能は無い。まるっきり、きれいさっぱり能がない。自分ながら感心している。ある時は仕官懸命の地をうらやみ、まさか仏籬祖室の扉の奥にはいろうとは、思わなかったけれど、教壇に立って生徒を叱る身振りにあこがれ、機関車あやつる火夫の姿に恍惚として、また、しさいらしく帳簿しらべる銀行員に清楚を感じ、医者の金鎖の重厚に圧倒され、いちどはひそかに高台にのぼり、憂国熱弁の練習をさえしてみたのだが、いまは、すべてをあきらめた。何をさせても、だめな男である。確認した。そうして、自分にも、あまり優れたものとは思われない、たわいない物語を書いている。夜の九時すぎまで、神妙に机のまえに坐り、仕事をつづけた。厭きて来た。うんざりして来た。ふっと酒を呑みたく思ったが一家の経済を思い、がまんをした。そうして、寝ることにした。このごろは、早寝早起を励行している。少しでも一般市民の生活態度にあゆみ寄りたい悲壮の心からである。早起のほうは、さほど苦痛でない。私は、老いの寝覚めをやるほうなので、夜明けが待ち遠しいことさえある。睡眠時間が、短いのである。からだのどこかが、老人になってしまっているのかも知れない。朝、寝床の中で愚図愚図していると、のた打つほど苦になることばかり、ぞろぞろ、しかも色あざやかに思い出されて来て、たまったものでない。それにこの部屋は、東側が全部すり硝子の窓なので、日の出とともに光が八畳間一ぱいに氾濫して、まぶしく、とても眠って居られない。私は、またそれをよいことにして、貧ゆえでなく、いや、それもあるが、わざと窓にカアテンを取り附けず、この朝日の直射を、私の豪華な目ざまし時計と誇称して、日光の氾濫と同時に跳ね起きる。早起は、このようにして、どうやら無事であるが、早寝には、閉口している。ここは田舎ゆえ、八時すぎると、しんとしている。時々、犬が月におびえて遠吠えするくらいのものである。朝ばかばかしく早く跳ね起きてしまうものであるから、夜の八時すぎになると、自ら、うんざりして来る。目ざめて、動いていることに厭きて来る。眠りたいと思う。何かと考えているのが、いやになる。眠って、とりとめのない夢を見たいと思うのである。夢を見ることだけが、たのしみである。朝早く起きて、能率は、ちっともあがらないのであるが、それでも遊ぶのが、こわくて、たいてい机のまえに坐って、一日中、勉強のふりをしているのである。まねごとだけでも、机にからだを縛りつけて、もそもそやっていると、夜までには、かなりからだも疲れている。へとへとのことさえ、あります。そんなに自信のあるからだでもないのだから、私は、そろそろ寝なければならぬ。寝る。けれども、すぐには眠れない。絶対に眠れない。からだが不快に、ほてって、頬の皮がつっぱって熱い。転輾する。くるしい。閉口し切って、ナンマンダ、ナンマンダ、と大声挙げて、百遍以上となえたこともある。そんなときに、たまらず起きて、ひやざけを茶碗で二杯、いや三杯も呑むことがある。模範的市民生活も、ここに於いて、少し怪しくなるのである。けれども誤解なさらぬよう。私は、そんな場合に、いささか乱暴な酒の呑みかたは致しますけれども、しかし、それだけのことである。酔って不埒の言行に及ぶことは、断じて無い。呑んで、だまってそのまま、直ぐにまた寝るのである。ぐるぐる酔いがまわって来ても、私は、蒲団の中で、じっとしている。そのうちに眠くなるのである。一先輩は、私のからだを憂慮して、酒をあまり用いぬように忠告した。私は、それに応えて、夜の不眠の苦痛を語った。そのとき、先輩は声をはげまし、
「なにを言うのだ。そんなときこそ、小説の筋を考える、絶好の機会じゃないか。もったいないと思わないか!」
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