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鉄面皮(てつめんぴ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-22 8:52:58  点击:  切换到繁體中文


(前略)私は御奉公にあがったばかりの、しかもわずか十二歳の子供でございましたので、ただもうおそろしく(中略)その時の事をただいま少し申し上げましょう。二月のはじめに御発熱があり、六日の夜から重態にならせられ、十日にはほとんど御危篤きとくと拝せられましたが、その頃がとうげで、それからはわば薄紙をはがすようにだんだんと御悩も軽くなってまいりました。忘れもしませぬ、二十三日の午剋うまのこく尼御台あまみだいさまは御台所さまをお連れになって御寝所へお見舞いにおいでになりました。私もその時、御寝所の片隅に小さく控えて居りましたが、尼御台さまは将軍家のお枕元にずっといざり寄られて、つくづくとあのお方のお顔を見つめて、もとのお顔を、もいちど見たいの、とまるでお天気の事でも言うような平然たる御口調ではっきりおっしゃいましたので、私は子供心にも、ドキンとしていたたまらない気持が致しました。御台所さまはそれを聞いて、ええず、泣き伏しておしまいになりましたが、尼御台さまは、なおも将軍家のお顔から眼をそらさず静かな御口調で、ご存じかの、とあのお方にお尋ねなさるのでした。あのお方のお顔には疱瘡の跡が残って、ひどい面変りがしていたのです。お傍の人たちは、みんなその事には気附かぬ振りをしていたのですが、尼御台さまは、そのとき平気で言い出しましたので、私たちは色を失い生きた心地も無かったのでございます。その時あのお方は、かすかにうなずき、それから白いお歯をちらとのぞかせて笑いながら申されました。
 スグレルモノデス
 このお言葉の有難さ。やっぱりあのお方は、まるで、ずば抜けて違って居られる。それから三十年、私もすでに四十の声を聞くようになりましたが、どうしてどうして、こんな澄んだ御心境は、三十になっても四十になっても、いやいやこれからさき何十年かかったって到底、得られそうもありませぬ。(後略)
 べつに、いいところだから抜書きしたというわけではない。だいたいこんな調子で書いているのだという事を、具体的にお知らせしたかったのである。実朝の近習きんじゅが、実朝の死と共に出家して山奥に隠れ住んでいるのを訪ねて行って、いろいろと実朝に就いての思い出話を聞くという趣向だ。史実はおもに吾妻鏡にった。でたらめばかり書いているんじゃないかと思われてもいけないから、吾妻鏡の本文を少し抜萃ばっすいしては作品の要所々々に挿入して置いた。物語は必ずしも吾妻鏡の本文のとおりではない。そんなとき両者を比較して多少の興を覚えるように案配あんばいしたわけである、などと、これではまるで大道の薬売りの口上にまさる露骨な広告だ。もう、やめる。さすがの鉄仮面も熱くなって来た。他の話をしよう。なにせ、Dって野郎もたいしたものだよ。二三年前に逢った時には、足利時代と桃山時代と、どっちがさきか知らない様子で、なんだか、ひどく狼狽ろうばいして居ったが、実朝を、ねえ、これだから世の中はこわいと言うんだ、何がなんだか、わかったもんじゃない、実朝を書きたいというのは余の幼少の頃からのひそかな念願であった、と言ったってね、すさまじいじゃないか、いよう! だ、気が狂ってるんじゃないか、あいつが酒をやめて勉強しているなんて嘘だよ、「源の実朝さま」という子供の絵本を一冊買って来て、炬燵こたつにもぐり込んで配給の焼酎しょうちゅうでも飲みながら、絵本の説明文に仔細しさいらしく赤鉛筆でしるしをつけたりなんかして、ああ、そのさまが見えるようだ。
 このごろ私は、誰にでも底知れぬほど軽蔑されて至当だと思っている。芸術家というものは、それくらいで結構なんだ。人間としての偉さなんて、私には微塵みじんも無い。偉い人間は、咄嗟とっさにきっぱりと意志表示が出来て、決して負けず、しくじらぬものらしい。私はいつでも口ごもり、ひどく誤解されて、たいてい負けて、そうして深夜ひとり寝床の中で、ああ、あの時にはこう言いかえしてやればよかった、しまった、あの時、っと帰って来ればよかった、しまった、と後悔ほぞをむ思いに眠れず転輾てんてんしている有様なのだから、偉いどころか、最劣敗者とでもいうようなところだ。先日も、ある年少の友人に向って言った事だが、君は君自身に、どこかいいところがあると思っているらしいが、後代にまで名が残っている人たちは、もう君くらいの年齢の頃には万巻の書を読んでいるんだ、その書だって猿飛佐助だの鼠小僧だの、または探偵小説、恋愛小説、そんなもんじゃない、その時代に於いていかなる学者も未だ読んでいないような書を万巻読んでいるんだ、その点だけで君はすでに失格だ、それから腕力だって、例外なしにずば抜けて強かった、しかも決してそれを誇示しない、君は剣道二段だそうで、酒を飲むたびに僕に腕角力うでずもうをいどむ癖があるけれども、あれは実にみっともない、あんな偉人なんて、あるものじゃない、名人達人というものは、たいてい非力の相をしているものだ、そうしてどこやら落ちついている、この点に於いても君は完全に失格だ、それから君は中学時代に不自然な行為をした事があるだろう、すでに失格、偉いやつはその生涯に於いて一度もそんな行為はしない、男子として、死以上の恥辱なのだ、それからまた、偉いやつは、やたらに淋しがったり泣いたりなんかしない、過剰な感傷がないのだ、平気で孤独に堪えている、君のようにお父さんからちょっと叱られたくらいでその孤独の苦しさを語り合いたいなんて、友人を訪問するような事はしない、女だって君よりは孤独に堪える力を持っている、女、三界に家なし、というじゃないか、自分がその家に生れても、いつかはお嫁に行かなければならぬのだから、父母の家もわば寓居ぐうきょだ、お嫁に行ったって、家風に合わなければ離縁される事もあるのだし、離縁されたらこいつは悲惨だ、どこにも行くところがない、離縁されなくたって、夫が死んだら、どうなるか、子供があったら、まあその子供の家にお世話になるという事になるんだろうが、これだって自分の家ではない、寓居だ、そのように三界に家なしと言われる程の女が、別にその孤独を嘆ずるわけでもなし、あくせくと針仕事やお洗濯をして、夜になると、その他人の家で、すやすやと安眠しているじゃないか、たいした度胸だ、君は女にも劣るね、人類の最下等のものだ、君だって僕だって全く同等だが、とにかく自分が、偉いやつというものと、どれほど違うかという事を、いまのこの時代に、はっきり知って置かないといけないのではなかろうかと、なぜだか、そんな気がするのだがね、などとその自称天才詩人に笑いながら忠告を試みた事もある。このごろ私は、自分の駄目加減を事ある毎に知らされて、ただもう興覚めて生真面目きまじめになるばかりだ。黙って虫のように勉強したいなどというてれくさい殊勝げの心も、すべてそこのところから発しているのだ。先日も、在郷軍人の分会査閲に、戦闘帽をかぶり、巻脚絆まききゃはんをつけて参加したが、私の動作は五百人の中でひとり目立ってぶざまらしく、折敷さえ満足に出来ず、分会長には叱られ、面白くなくなって来て、おれはこんな場所ではこのように、へまであるが、出るところへ出れば相当の男なんだ、という事を示そうとして、ぎゅっと口を引締めてまなじりを決し、分会長殿をにらんでやったが、一向にききめがなく、ただ、しょぼしょぼと憐憫れんびんを乞うみたいな眼つきをしたくらいの効果しかなかったようである。私は第二国民兵の、しかも丙の部類であるから、その時の査閲には出なくてもよかったらしいのであるが、班長にすすめられて参加したのだ。服装というものは不思議なもので、第二国民兵の服装をしていると、どんな人でも、ねっからの第二国民兵に見えて来るもので、職業、年齢、知識、財産などのにおいは全然、消えてしまって、お医者も職工さんも重役も床屋さんも、みんな同年配の同資格の第二国民兵に見えて来るものである。まずしい身なりをしていても、さすがに人品骨柄いやしからず、こいつただものでない、などというのは、あれは講談で、第二国民兵の服装をしているからには、まさしくそのとおり第二国民兵であって、そこが軍律の有難いところで、いやしくも上官に向って高ぶる心を起させない。私はその日は、完全に第二国民兵以外の何者でもなかった。しかもすこぶる、操作拙劣の兵である。私ひとり参加した為に、私の小隊は大いに迷惑した様子であった。それほど私は、ぶざまだった。けれども、実に不慮の事件が突発した。査閲がすんで、査閲官の老大佐殿から、今日の諸君の成績は、まずまず良好であった。という御講評の言葉をいただき、
「最後に」と大佐殿は声を一段と高くして、「今日の査閲に、召集がなかったのに、みずからすすんで参加いたした感心の者があったという事を諸君にお知らせしたい。まことに美談というべきである。たのもしい心がけである。もちろんこれは、ただちに上司にも報告するつもりである。ただいま、その者の名を呼びます。その者は、この五百人の会員全部に聞えるように、はっきりと、大きな声で返辞をしなさい。」
 まことに奇特な人もあるものだ、その人は、いったい、どんな環境の人だろう、などと考えているうちに、名前が私の名だ。「はあい。」のどにたんがからまっていたので、奇怪にしわがれた返辞であった。五百人はおろか、十人に聞えたかどうか、とにかく意気のあがらぬ返事であった。何かの間違い、と思ったが、また考え直してみると、事実無根というわけでもない。私はからだが悪くて丙の部類なのだが、班の人数が少なかったので、御近所の班長さんにすすめられて参加する事になったのだ。枯木も山のにぎわいというところだったのだが、それが激賞されるほどの善行であったとは全く思いもかけない事であった。私は、みんなを、あざむいているような気がして、浅間あさましくてたまらなかった。査閲からの帰り路も、誰にも顔を合せられないような肩身のせまい心地で、表の路を避け、裏の田圃路たんぼみちを顔を伏せて急いで歩いた。その夜、配給の五合のお酒をみんな飲んでみたが、ひどく気分が重かった。
「今夜は、ひどく黙り込んでいらっしゃるのね。」
「勉強するよ、僕は。」落下傘らっかさんで降下して、草原にすとんと着く、しいんとしている。自分ひとり。さすがの勇士たちもこの時は淋しいそうだ。新聞の座談会で勇士のひとりがそう言っていた。そのような謂わば古井戸の底の孤独感を私もその夜、五合の酒を飲みながらしみじみ味った事である。操作きわめて拙劣の、小心翼々の三十五歳の老兵が、分会の模範としてほめられた事は、いかにも、なんとしても心苦しく、さすがの鉄面皮も、話ここに至っては、筆を投じて顔を覆わざるを得ないではないか。
(前略)そうして、この建暦けんりゃく元年には、ようやく十二歳になられ、その時の別当定暁僧都じょうぎょうそうずさまの御室に於いて落飾らくしょくなされて、その法名を公暁くぎょうと定められたのでございます。それは九月の十五日の事でございましたが御落飾がおすみになってから、尼御台さまに連れられて将軍家へ御挨拶に見えられ、私はその時はじめて此の禅師さまにお目にかかったというわけでございましたが、一口に申せば、たいへん愛嬌あいきょうのいいお方でございました。幼い頃から世の辛酸しんさんめて来た人に特有の、磊落らいらくのように見えながらも、その笑顔には、どこか卑屈な気弱い影のある、あの、はにかむような笑顔でもって、お傍の私たちにまでいちいち叮嚀ていねいにお辞儀をお返しなさるのでした。無理に明るく無邪気に振舞おうと努めているようなところが、そのたった十二歳のお子の御態度の中にちらりと見えて、私は、おいたわしく思い、また暗い気持にもなりました。けれども流石さすがに源家の御直系たる優れたお血筋は争われず、おからだも大きくたくましく、お顔は、将軍家の重厚なお顔だちに較べると少し華奢きゃしゃに過ぎてたよりない感じも致しましたが、やっぱり貴公子らしいなつかしい品位がございました。尼御台さまに甘えるように、ぴったり寄り添ってお坐りになり、そうして将軍家のお顔を仰ぎ見てただにこにこ笑って居られます。
 その時将軍家は、私の気のせいか少し御不快の様に見受けられました。しばらくは何もおっしゃらず、例の如く少しお背中を丸くなさって伏目のまま、身動きもせず坐って居られましたが、やがてお顔を、もの憂そうにお挙げになり、
 学問ハオ好キデスカ
 と、ちょっと案外のお尋ねをなさいました。
「はい。」と尼御台さまは、かわってお答えになりました。「このごろは神妙のようでございます。」
 無理カモ知レマセヌガ
 とまた、うつむいて、低くつぶやくようにおっしゃって、
 ソレダケガ生キル道デス





底本:「太宰治全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年2月28日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:はやしだかずこ
2000年6月6日公開
2004年3月4日修正
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