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千代女(ちよじょ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-22 8:49:39  点击:  切换到繁體中文


 それからしばらくの間は、叔父さんもあまり姿を見せませんでしたし、おいでになっても、私にはへんによそよそしくなさって、すぐにお帰りになりました。私は、綴方の事は、きれいに忘れて、学校から帰ると、花壇の手入れ、お使い、台所のお手伝い、弟の家庭教師、お針、学課の勉強、お母さんに按摩あんまをしてあげたり、なかなかいそがしく、みんなの役にたって、張り合いのある日々を送りました。
 あらしが、やって来ました。私が女学校四年生の時の事でしたが、お正月にひょっくり、小学校の沢田先生が、家へ年賀においでになって、父も母も、めずらしがるやら、なつかしがるやら、とても喜んでおもてなし致しましたが、沢田先生は、もうとっくに、小学校のほうはおしになって、いまは、あちこちの、家庭教師をしながら、のんきに暮していらっしゃるというお話でありました。けれども、私の感じたところでは、失礼ながら、のんきそうには見えず、柏木の叔父さんと同じくらいのおとしはずなのに、どうしても四十過ぎの、いや、五十ちかくのお人の感じで、以前も、老けたお顔のおかたでありましたが、でも、この四、五年お逢いせずにいる間に、二十もお年をとられて疲れ切っているように見受けられました。笑うのにも力が無く、むりに笑おうとなさるので、頬に苦しい固いしわたたまれて、お気の毒というよりは、何だかいやしい感じさえ致しました。おつむは相変らず短く丸刈にして居られましたが、白髪しらががめっきりふえていました。以前と違って、矢鱈やたらに私にお追従ついしょうばかりおっしゃるので、私は、まごついて、それから苦しくなりました。きりょうが良いの、しとやかだのと、聞いて居られないくらいに見え透いたお世辞をおっしゃって、まるで私が、先生の目上めうえの者か何かみたいに馬鹿叮嚀な扱いをなさるのでした。父や母に向って、私の小学校時代の事を、それはいやらしいくらいに、くどくどと語り、私が折角せっかくいい案配に忘れていたあの綴方の事まで持ち出して、全く惜しい才能でした、あの頃は僕も、児童の綴方に就いては、あまり関心を持っていなかったし、綴方にって童心を伸ばすという教育法も存じませんでしたが、いまは違います。児童の綴方に就いて、充分に研究も致しましたし、その教育法に於いても自信があります。どうです、和子さん、僕の新しい指導のもとに、もう一度、文章の勉強をなさいませぬか、僕は、必ずや、などとずいぶんお酒に酔ってもいましたが、大袈裟おおげさな事を片肘かたひじ張って言い出す仕末で、果ては、さあ僕と握手をしましょうと、しつこくおっしゃるので、父も母も、笑っていながら内心は、閉口していた様子でありました。けれども、その時、沢田先生が酔っておっしゃった事は、口から出まかせの冗談では無かったのです。それから十日ほど経ったら、また仔細しさいらしい顔つきをして、家へおいでになって、さて、それでは少しずつ、綴方の基本練習をはじめましょうね、とおっしゃったので、私は、まごついてしまいました。後でわかった事ですが、沢田先生は、小学校で生徒の受験勉強の事から、問題を起し、やめさせられ、それから、くらしが思うように行かず、昔の教え子の家を歴訪しては無理矢理、家庭教師みたいな形になりすまし、生活の方便にしていらっしゃったというような具合いなのでした。お正月においでになって、その後すぐに私の母へ、こっそりお手紙を寄こした様子で、私の文才とやらいうものを褒めちぎり、また、そのころ起った綴方の流行、天才少女とかの出現などを例に挙げて、母をそそのかし、母もまた以前から、私の綴方には未練があったものですから、それでは一週にいちどくらい家庭教師としておいで下さるようにと御返事して、父には、沢田先生のおくらしを、少しでもお助けするためです、と言い張って、父も、沢田先生は昔の和子の先生ですから、それはいけないとも言えなかった様子で、しぶしぶ沢田先生をお迎えするというような事情だったらしいのでございます。沢田先生は、土曜日毎にお見えになり、私の勉強室でひそひそ、なんとも馬鹿らしい事ばかりおっしゃるので、私は、いやでなりませんでした。文章というものは、第一に、てにをはの使用を確実にしなければならぬ、等と当り前の事を、一大事のように繰り返し繰り返しおっしゃって、太郎は庭を遊ぶというのは、あやまり。太郎は庭へ遊ぶというのも、やっぱり、あやまり。太郎は庭にて遊ぶといわなければいけないのだそうで、私が、くすくす笑うと、とても、うらめしそうな目つきで、私の顔を穴のあくほど見つめて、ほうと溜息をつき、あなたには誠実が不足している、いかに才能が豊富でも、人間には誠実がなければ、何事に於いても成功しない、あなたは寺田まさ子という天才少女を知っていますか、あの人は、貧しい生れで、勉強したくても本一冊買えなかったほど、不自由な気の毒な身の上であった、けれども誠実だけはあった、先生の教えをよく守った、それゆえ、あれほどの名作を完成できたのです、教える先生にしても、どんなに張り合いのあった事でしょう、あなたに、もうすこし誠実というものがあったならば、僕だって、あなたを寺田まさ子さんくらいには仕上げて見せます、いや、あなたは環境にめぐまれてもいるし、もっと大きな文章家に仕上げる事が出来るのです、僕は、寺田まさ子さんの先生よりもる点で進歩しているつもりです、それは徳育という点であります、あなたは、ルソオという人を知っていますか、ジャン・ジャック・ルソオ、西暦千六百、いや、西暦千七百、千九百、笑いなさい、うんと笑いなさい、あなたは自分の才能にたよりすぎて、師を軽蔑しているのです、むかし支那に顔回がんかいという人物がありました、等といろんな事を言い出して一時間くらい経つと、けろりとして、また此の次の事にしましょうと言って私の勉強室から出て行かれ、茶の間で母と世間話をなさって帰ります。小学校の時に、多少でもお世話になった先生の事を、とやかく申し上げるのは悪い事でございますが、本当に、沢田先生は、ぼけていらっしゃるとしか私には思えませんでした。文章には描写が大切だ、描写が出来ていないと何を書いているのかわからない、等と、もっとも過ぎるような事を、小さい手帖を見ながら、おっしゃって、たとえば此の雪の降るさまを形容する場合、と言って手帖を胸のポケットにおさめ、窓の外で、こまかい雪が芝居のようにたくさん降っているさまをっと見て、雪がざあざあ降るといっては、いけない。雪の感じが出ない。どしどし降る、これも、いけない。それでは、ひらひら降る、これはどうか。まだ足りない。さらさら、これは近い。だんだん、雪の感じに近くなって来た。これは、面白い、とひとりで首を振りながら感服なさって腕組みをし、しとしとは、どうか、それじゃ春雨の形容になってしまうか、やはり、さらさらに、とどめを刺すかな? そうだ、さらさらひらひら、と続けるのも一興だ。さらさらひらひら、と低く呟いてその形容を味わい楽しむみたいに眼を細めていらっしゃる、かと思うと急に、いや、まだ足りない、ああ、雪は鵝毛がもうに似て飛んで散乱す、か。古い文章は、やっぱり確実だなあ、鵝毛とは、うまく言ったものですねえ、和子さん、おわかりになったでしょう? と、はじめて私のほうへ向き直っておっしゃるのです。私は、なんだか先生が気の毒なやら、憎らしいやらで、泣きそうになりました。それでも三箇月間ほど我慢して、そんなびしい、出鱈目でたらめの教育をつづけて受けて居りましたが、もう、なんとしても、沢田先生のお顔を見るのさえ、いやになって、とうとう父に洗いざらい申し上げ、沢田先生のおいでになるのをお断りして下さるようにお願い致しました。父は私の話を聞いて、それは意外だ、とおっしゃいました。父は、もともと、家庭教師を呼ぶ事には反対だったのですが、沢田先生のおくらしの一助という名目めいもくに負けて、おいでを願う事にしていたのであって、まさか、そんな無責任な綴方教育を授けているとは思いも寄らず、毎週いちど、少しは和子の学課の勉強の手伝いをして下さっているものとばかり思っていた様子でした。さっそく母と、ひどい言い争いになりました。茶の間の言い争いを、私は勉強室で聞きながら、思うぞんぶんに泣きました。私の事で、こんな騒ぎになって、私ほど悪い不孝な娘は無いという気がしました。こんな事なら、いっそ、綴方でも小説でも、一心に勉強して、母を喜ばせてあげたいとさえ思いましたが、私は、だめなのです。もう、ちっとも何も書けないのです。文才とやらいうものは、はじめから無かったのです。雪の降る形容だって、沢田先生のほうが、きっと私より上手なのでしょう。私は、自分では何も出来やしないくせに、沢田先生を笑ったりして、なんという馬鹿な娘でしょう。さらさらひらひらという形容さえ、とても私には、考えつかぬ事だった。私は、茶の間の言い争いを聞きながら、つくづく自分をいけない娘だと思いました。
 その時は、母も父に言い負けて、沢田先生も姿を見せなくなりましたが、悪い事が、つづいて起りました。東京の深川で、金沢ふみ子という十八の娘さんが、たいへん立派な文章を書いて、それが世間の大評判になったのでした。そのひとの本が、どんな偉い小説家の本よりも、はるかに多く売れて、一躍、大金持になったといううわさを、柏木の叔父さんが、まるで御自分が大金持にでもなったみたいに得意顔で家へやって来られて、母に話して聞かせたので、母は、また興奮して、和子だって書けば書ける文才があるのに、どうしてこうかねえ、いまは昔とちがって、女だからとて家にひっこんでばかりいてはいけない、ひとつ柏木の叔父さんから教わって、書いてみたらいい、柏木の叔父さんは、沢田先生なんかと違って、大学まですすんだ人だから、それは、何と言ったって、たのもしいところがあります、そんなにお金になるんだったら、お父さんだって大目おおめに見てくれますよ、とお台所のあとかたづけをしながら、たいへん意気込んでおっしゃるのです。柏木の叔父さんは、その頃からまた、私の家へ、ほとんど毎日のようにお見えになり、私を勉強室へひっぱって行って、まず日記を書け、見たところ感じたところを、そのまま書いたら、それでもう立派な文学だ、等とおっしゃって、それから何やらむずかしい理窟りくつをいろいろと言い聞かせるのですが、私には、てんで書く気が無かったので、いつも、いい加減に聞き流していました。母は興奮しては、すぐ醒めるたちなので、その時の興奮も、ひとつきくらいつづいて、あとは、けろりとしていましたが、柏木の叔父さんだけは、醒めるどころか、こんどは、いよいよ本気に和子を小説家にしようと決心した、とか真顔でおっしゃって、和子は結局は、小説家になるより他に仕様のない女なのだ、こんなに、へんに頭のいい子は、とても、ふつうのお嫁さんにはなれない、すべてをあきらめて、芸術の道に精進しょうじんするより他は無いんだ等と、父の留守の時には、大声で私と母に言って聞かせるのでした。母も、さすがに、そんなにまで、ひどく言われると、いい気持がしないらしく、そうかねえ、それじゃ和子が可哀想じゃないか、と淋しそうに笑いながら言いました。
 叔父さんの言葉が、あたっていたのかも知れません。私はその翌年に女学校を卒業して、つまり、今は、その叔父さんの悪魔のような予言を、死ぬほど強く憎んでいながら、あるいはそうかも知れぬと心の隅で、こっそり肯定しているところもあるのです。私は、だめな女です。きっと、頭が悪いのです。自分で自分が、わからなくなって来ました。女学校を出たら、急に私は、人が変ってしまいました。私は、毎日毎日、退屈です。家事の手伝いも、花壇の手入れも、お琴の稽古けいこも、弟の世話も、なんでも、みんな馬鹿らしく、父や母にかくれて、こっそり蓮葉な小説ばかり読みふけるようになりました。小説というものは、どうしてこんなに、人の秘密の悪事ばかりを書いているのでしょう。私は、みだらな空想をする、不潔な女になりました。いまこそ私は、いつか叔父さんに教えられたように、私の見た事、感じた事をありのままに書いて神様にお詫びしたいとも思うのですが、私には、その勇気がありません。いいえ、才能が無いのです。それこそ頭にびたなべでもかぶっているような、とってもやり切れない気持だけです。私には、何も書けません。このごろは、書いてみたいとも思うのです。先日も私は、こっそり筆ならしに、眠り箱という題で、たわいもない或る夜の出来事を手帖に書いて、叔父さんに読んでもらったのでした。すると叔父さんは、それを半分も読まずに手帖を投げ出し、和子、もういい加減に、女流作家はあきらめるのだね、と興醒めた、まじめな顔をして言いました。それからは、叔父さんが、私に、文学というものは特種の才能が無ければ駄目なものだと、苦笑しながら忠告めいた事をおっしゃるようになりました。かえって、いまは父のほうが、好きならやってみてもいいさ、等と気軽に笑って言っているのです。母は時々、金沢ふみ子さんや、それから、他の娘さんでやっぱり一躍有名になったひとの噂を、よそで聞いて来ては興奮して、和子だって、書けば書けるのにねえ、根気こんきが無いからいけません、むかし加賀の千代女が、はじめてお師匠さんのところへ俳句を教わりに行った時、まず、ほととぎすという題で作って見よと言われ、早速さまざま作ってお師匠さんにお見せしたのだが、お師匠さんは、これでよろしいとはおっしゃらなかった、それでね、千代女は一晩ねむらずに考えて、ふと気が附いたら夜が明けていたので、何心なく、ほととぎす、ほととぎすとて明けにけり、と書いてお師匠さんにお見せしたら、千代女でかした! とはじめて褒められたそうじゃないか、何事にも根気が必要です、と言ってお茶を一と口のんで、こんどは低い声で、ほととぎす、ほととぎすとて明けにけり、とつぶやき、なるほどねえ、うまく作ったものだ、と自分でひとりで感心して居られます。お母さん、私は千代女ではありません。なんにも書けない低能の文学少女、炬燵こたつにはいって雑誌を読んでいたら眠くなって来たので、炬燵は人間の眠り箱だと思った、という小説を一つ書いてお見せしたら、叔父さんは中途で投げ出してしまいました。私が、あとで読んでみても、なるほど面白くありませんでした。どうしたら、小説が上手になれるだろうか。きのう私は、岩見先生に、こっそり手紙を出しました。七年前の天才少女をお見捨てなく、と書きました。私は、いまに気が狂うのかも知れません。





底本:「太宰治全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:青木直子
2000年1月28日公開
2005年10月27日修正
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