五
たかがウイスキイ一杯で、こんなにだらしなく酔ぱらったことについては、私はいまでも恥かしく思っている。その日、私はとめどなくげらげら笑いながら、そのまま「いでゆ」から出てしまったのであるが、宿へ帰って、少しずつ酔のさめるにつれ、先刻の私の間抜けとも阿呆らしいともなんとも言いようのない狂態に対する羞恥と悔恨の念で消えもいりたい思いをした。湯槽にからだを沈ませて、ぱちゃぱちゃと湯をはねかえらせて見ても、私の部屋の畳のうえで、ごろごろと寝がえりを打って見ても、私はやはり苦しかった。わかい女のまえで、白痴に近い無礼を働いたということは、そのころの私にとって、ほとんど致命的でさえあったのである。
どうしよう、どうしよう、と思い悩んだ揚句、私はなんだか奇妙な決心をした。「初恋の記」――私が或る新進作家の名前でもって、二三行書きかけているその原稿を本気に書きつづけようとしたのであった。私はその夜、夢中で書いた。ひとりの不幸な男が、放浪生活中、とあるいぶせき農家の庭で、この世のものでないと思われるほどの美少女に逢った物語であった。そして、その男の態度は、あくまでも立派であり、英雄的でさえあったのである。私は、これに依って、ひそかに私自身の大失敗をなぐさめられたいと念じていたのであった。昼に見た「いでゆ」の少女に対するこらえにこらえていた私の情熱が、その農家の娘に乗りうつり、われながら美事な物語ができたのである。私はいまでもそう信じているのであるが、あのようなロマンスは、おそらくは私が名前を借りたその新進作家ですら書けないほどの立派なできばえだったのである。
夜のしらじらと明けそめたころ、私はその青年と少女とのつつましい結婚式の描写を書き了えた。私は奇しきよろこびを感じつつ、冷たい寝床へもぐり込んだ。
眼がさめると、すでに午後であった。日は高くあがっていて、凧の唸りがいくつも聞えた。私はむっくり起きて、前夜の原稿を読み直した。やはり傑作であった。私はこの原稿が、いますぐにでも大雑誌に売れるような気がした。その新進作家が、この一作によって、いよいよ文運がさかんになるぞと考えたのである。
もはや私にとって、なんの恐ろしいこともない。私は輝かしき新進作家である。私は、からだじゅうにむくむくと自信の満ちて来るのを覚えた。
その日の夕方、私は二度目の「いでゆ」訪問を行った。
六
私が「いでゆ」のドアをあけたとたんに、わっと笑い崩れる少女たちの声が聞えた。私はどぎまぎして了った。ひらっと私の前に現れたのが、昨日の断髪の少女であった。少女は眼をくるっと丸くして言った。
「いらっしゃいまし。」
少女の瞳のなかに、なんの侮蔑も感じられなかった。それが私を落ちつかせた。それでは、昨日の私の狂態も、まんざら大失敗ではなかったのか。いや、失敗どころか、かえってこの少女たちに、なにか勇敢な男としての印象を与えたのかも知れない。そう自惚れて私は、ほっと溜息ついて、傍の椅子に腰をおろした。
「きょうは、私、サアヴィスしないことよ。」
日本髪の少女は、そう言っていやらしく笑いこけた。
「いいわよ。」断髪の少女が長い袖で日本髪の少女をぶつ真似をした。「私がするわよ。ねえ、私、だめ?」
「ふたり一緒がいい。」
私は、酒も飲まぬうちに酔っぱらっていた。
「あら! 欲ばりねえ。」
断髪が私をにらんだ。
「いや、慈悲ぶかいんだ。」
「うまいわねえ。」
日本髪が感心した。
私は面目をほどこして、それからウイスキイを命じた。
私は、私に酒飲みの素質があることを知った。一杯のんで、すでに酔った。二杯のんで、さらに酔った。三杯のんで、心から愉快になった。ちっとも気持がわるいことはないのである。断髪の少女が、今夜は私の傍につききりであった。いよいよ、気持がわるい筈はないのである。私の不幸な生涯を通じて、このときほど仕合せなことはいちどもなかった。けれども私は、その少女と、あまり口数多く語らなかった。いや、語れなかった。
「君の名は、なんて言うの?」
「私、雪。」
「雪、いい名だ。」
それからまた三十分も私たちは黙っていた。ああ、黙っていても少女が私から離れぬのだ。沈黙のうちに瞳が物語るこのよろこび。私が昨夜書いた「初恋の記」にも、こんな描写がたくさんたくさんあったのだ。夜がふけるとともにお客がぽつぽつ見えはじめた。やはり雪は、私の傍を離れなかったけれど、他のお客に対する私の敵意が、私をすこし饒舌にした。場のにぎやかな空気が私を浮き浮きさせたからでもあったろう。
「君、僕の昨日のとこね、あれ、君、僕を馬鹿だと思ったろう。」
「いいえ。」雪は頬を両手でおさえて微笑んだ。「しゃれてると思ったわ。」
「しゃれてる? そうか。おい、君、ウイスキイもう一杯。君も飲まないか。」
「私、飲めないの。」
「飲めよ。きょうはねえ、僕、うれしいことがあるんだ。飲めよ。」
「では、すこうし、ね。」
雪は、そう言ってカウンタア・ボックスに行って、二つのグラスにウイスキイをなみなみとたたえて持って来た。
「さあ、乾杯だ。飲めよ。」
雪は、眼をつぶってぐっと飲んだ。
「えらい。」私もぐっと飲んだ。「僕ね、きょうはとても、うれしいんだ。小説は書きあげたし。」
「あら! 小説家?」
「しまった。見つけられたな。」
「いいわねえ。」
雪は、酔っぱらったらしく、とろんとした眼をうっとり細めた。それから、この温泉地に最近来たことのある二三の作家の名前を言った。ああ、そのなかに私の名前もあるではないか。私は、私の耳をうたがった。酔がいちじに醒める気がした。ほんものがこのまちに来ている。
「君は、知っているの?」
私は、こんな場合に、よくもこんなに落ちつけたものだ、といまでも感心している。臆病者というものは、勇士と楯のうらおもてぐらいのちがいしかないものらしい。
「いいえ。見たことがないわ。でもいま、そのかた、百花楼に居られるって。あなた、おともだち?」
私は、ほっと安心した。それでは、私のことだ。百花楼のおなじ名前の作家がふたりいる筈がない。
「どうして百花楼にいることなんか知れたんだろう。」
「それあ、判るわ。私、小説が少し好きなの。だから、気をつけてるの。宿屋のお女中さんたちから聞いたわ。なんと言ったって、狭いまちのことだもの。それあ、判るわ。」
「君は、あいつの小説、好きかね。」
私は、わざと意味ありげに、にやにや笑った。
「大好き。あの人の花物語という小説、」言いかけて、ふっと口を噤んだ。「あら! あなただわ。まあ、私、どうしよう。写真で知ってるわよ。知ってるわよ。」
私は夢みる心地であった。私が、かの新進作家と似ているとは! しかし、いまは躊躇するときでない。私は機を逸せず、からからと高笑いした。
「まあ、おひとが悪いのねえ。」少女は、酒でほんのり赤らんでいる頬をいっそう赤らめた。「私も馬鹿だわねえ。ひとめ見て、すぐ判らなけれあ、いけない筈なのに。でも、お写真より、ずっと若くて、お綺麗なんだもの。あなたは美男子よ。いいお顔だわ。きのうおいでになったとき、私、すぐ。」
「よせ、よせ。僕におだては、きかないよ。」
「あら、ほんと。ほんとうよ。」
「君は酔っぱらってるね。」
「ええ、酔っぱらってるの。そして、もっと、酔っぱらうの。もっともっと酔っぱらうの。けいちゃあん。」他のお客とふざけている日本髪の少女を呼んだ。「ウイスキイお二つ。私、今晩酔っぱらうのよ。うれしいことがあるんだもの。ええ、酔っぱらうの。死ぬほど酔っぱらうの。」
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