Wandervogel の大先輩の悲壮の心事を偲び、少しく勇気を得て仙台に着いた。仙台は日本の東北で最も大きい都であると聞いていたが、来て見ると、東京の十分の一にも足りないくらいの狭い都会であった。まちの人の言葉も、まさか鴃舌というほどではなかったが、東京の人の言葉にくらべて、へんに語勢が強く、わかりにくいところが多かった。まちの中心は流石に繁華で、東京の神楽坂くらいの趣きはあったが、しかし、まち全体としては、どこか、軽い感じで、日本の東北地方の重鎮としてのどっしりした実力は稀薄のように思われた。かえってもっと北方の盛岡、秋田などというあたりに、この東北地方の豊潤な実勢力が鬱積されているのだが、仙台は所謂文明開化の表面の威力でそれをおさえつけ、びくびくしながら君臨しているというような感じがした。ここは伊達政宗という大名の開いたまちだそうであるが、日本で、der Stutzer の気取屋のことを「伊達者」といっているのは、案外、仙台のこんな気風をからかったことから始ったのではないかしらと思われるほど、意味も無く都会風に気取っているまちであった。要するに、自信も何も無いくせに東北地方第一という沽券にこだわり、つんと澄ましているだけの「伊達のまち」のように自分には思われたのだが、しかし、あなたがさっき話してくれたように北方の奥地からいきなりこの仙台に出て来た人にとっては、この土地の文明開化も豪華絢爛たるものに見えて、これに素直に驚歎し、順服するというのは自然の事で、これこそ仙台の開祖政宗公が東北地方全体を圧倒雄視するために用いた政策の狙いで、それが伝統的な気風になり、維新後三十七年を経過したいまでも、その内容空疎に多少おどおどしながらやっぱり田舎紳士の気取りを捨て切れないでいるのである。しかし、こんな悪口を言っても、自分はこの仙台のまちに特に敵意を抱いているというわけでは決してない。地方の、産業の乏しい都会は、たいていこんな悲しい気取りで生きているものだ。これから自分は一生涯の、おそらくは最も重大な時期を、仙台のまちに委ねてしまうのだから、つい念入りにこのまちの性格に就いて考え、あれこれと不満を並べてみたくなっただけの事で、こんな気風のまちは、学問するにはかえって好適の土地なのかも知れない。事実、このまちへ来てから、自分の学習は順調である。多分、物は希れなるを以て貴しとするからであろう、自分は、この仙台のまちにとって、最初の、また唯一人の清国留学生だというので、非常に珍重がられ、それこそあなたの言うように、何の見どころのない烏でも、ただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらでなく、漆黒の翼も輝いて見えるらしく、学校の先生たちもまるで大事なお客様か何かのように自分を親切にあつかってくれるので、自分はかえってまごついているくらいである。自分にとって、こんなに皆から温情を示されるのは、生れてはじめてのことである。きっと枯枝の烏を、買いかぶっているのに違いない。有難く思うと同時に、また、あの人たちの好意を裏切ったら相すまぬという不安も自分は持っている。同級生たちも、おそらくは物珍らしさからであろう、朝、教室で顔を見合わせると、たいてい、向うから微笑みかけてくれるし、また、隣りの席に坐った生徒は、進んで自分にナイフや消ゴムを貸してくれて、中でも津田憲治とかいう東京の府立一中から来たのを少し自慢にしている背の高い生徒は最も熱烈な関心を持っているようで、何かと自分にこまかい指図をしてくれて、カラアがよごれていますよ、クリイニングに出しなさい、とか、雨降りの時の長靴を一足買いなさい、とか、服装の事まで世話を焼き、とうとう自分の下宿まで出張して来て、これはいかん、すぐここから引越して僕の下宿へおいでなさい、と言う。自分の下宿は、米ヶ袋鍛冶屋前丁の宮城監獄署の前にあって、学校にも近いし食事も上等だし自分には大いに気にいっていたのだが、その津田さんの言によれば、この下宿屋は、監獄の囚人の食事の差入屋を兼ねているからいかん、という事であって、いやしくも清国留学生の秀才が、囚人と同じ鍋のめしを食っているというのは、君一個人の面目問題ばかりでなく、ひいては貴国の体面にも傷をつける事になるから早く引越さなければいけない、と幾度も幾度も忠告してくれて、自分は笑いながら、そんなことは自分はちっとも気にしていない、と言っても、いやいや君は遠慮して嘘をついているのだろう、支那の人は何よりも体面ということを重んずるということだ、囚人と同じめしを食っても気にならんというのは嘘でしょう、早くこの不吉な宿を引上げて僕の下宿へ来たまえ、と執拗にすすめる。ひどくまじめな顔をして、そんなことを言うのだが、あれで内心は自分をからかっているのかも知れない。どうだか、わかったものではないが、とにかく友の好意を無下にしりぞけて怒られてもつまらないから、自分は仕方なく、その津田さんの荒町の下宿に引越した。こんどは監獄からは遠くなったけれども、食事が以前のようにいいとは言えない。毎朝のお膳に、なまの里芋を擂りつぶしてどろりとさせたものが出て、これにはどうにも箸をつけかねて非常に困惑したが、れいの津田さんは、或る朝、自分の部屋をのぞいて、それをなぜたべないのかと、すぐに見とがめて、それはなかなか養分の多いものだから必ずたべなければいけない、それを、おみおつけにまぜて充分に掻きまわすと、おいしいとろろ汁が出来上るから、そのとろろ汁をごはんにかけて食べるといい、と教えてくれて、それから自分は毎朝、おみおつけにまぜて掻きまわしてごはんにかけてたべなければならなくなった。あのひとも、決して悪い人間ではないらしいが、どうもあの過度の親切には、閉口している。しかしまあ、いまのところ、津田さんのこんなおせっかいが少し苦痛なだけで、あとは、自分には何の不服も無い。全部、順調である。幸福な身の上と言っていいのかも知れない。学校の講義はどれもこれも新鮮で、自分の永年の志望も、ここへ来て、やっとかなえてもらえたような気がしている。中でも、解剖学の藤野先生の講義は面白い。別に変ったところも無い講義だが、それでも、やはりあの先生の人格が反映されているのか、自分ばかりでなく、他の生徒もみな楽しそうに聴講している。前学年に及第できなくて原級に留った所謂古狸の連中の話に拠れば、藤野先生は服装に無頓着で、ネクタイをするのを忘れて学校へ出て来られる事がしばしばあり、また冬は、膝小僧をかくす事が出来ないくらいの短い古外套を着て、いつも寒そうにぶるぶる震えて、いつか汽車に乗られた時、車掌は先生を胡散くさい者と見てとったらしく、だしぬけに車内の全乗客に向い、このごろ汽車の中に掏摸が出没していますから皆さま御用心なさい、と叫んだとか、その他、まだまだ面白い逸事があるらしく、お心も高潔のようだし、講義も熱心で含蓄が深いのに、一面に於いてそんな脱俗の風格をお持ちのせいか、クラスの所謂古狸連は、この先生に狎れ、くみし易しとしている様子で、この先生の講義の時には、何でも無い事にでもわっと笑声を挙げて囃すので教室がたいへん賑やかになるのである。最初の授業の時も、この先生が、やや猫背になって大小さまざまの本を両わきにかかえて教室にあらわれ、そのたくさんの本を教壇の机の上に高く積み上げてから、ひどくゆっくりした語調で、わたくしは、藤野厳九郎と申すもので、と言いかけたら、れいの古狸たちが、どっと笑い出したので、自分は先生を何だか気の毒に思ったくらいである。しかし、この最初の講義は、日本における解剖学の発達の歴史であって、その時、持って来られた大小さまざまの本は、昔から現代に到るまでの日本人の解剖学に関する著作であった。杉田玄白の「解体新書」や「蘭学事始」などもその中にあった。そうして、玄白たちが小塚原の刑場で罪人の屍を腑分する時の緊張などを、先生は特徴のあるゆっくりした語調で説いて聞かせたが、あの最初の講義は、自分の前途を暗示し激励してくれているようで、実に深い感銘を受けた。もう今では自分の進路は、一言で言える。支那の杉田玄白になる事だ。それだけだ。支那の杉田玄白になって、支那の維新の狼煙を挙げるのだ。
あの松島の旅館で、当時二十四歳の留学生、周さんは、だいたい以上のような事情を私に打明けて聞かせてくれたのであるが、もちろんその夜、周さんがひとりでこんなに長々と清国の現状やら自身の生立ちやらを順序を追って講演したというわけではなく、お酒を少し飲んだりして私と夜明け近くまで語り合ったさまざまの事柄を綴り合せ、それにまた私が後に得た知識をも多少補足して、以上の如くまとめ上げてみたのである。とにかく、私はあの夜、周さんの打明け話を聞いて、かなり感動した。私みたいに、ただ、親が医者だから、その総領息子の自分もまた医者、というようないい加減な気持で医専に入学したのではなく、さすがに、はるばる海を越えてやって来た人には、やっぱりそれだけの、深い事情と、すぐれた決意とが秘められているものだと唸るほど感心し、この異国の秀才に対して大いに尊敬をあらたにし、何とかしてこの人の高邁の目的を完遂させてやりたいと、そのくせ何の助力も出来ないくせに、義気さかんに起るを覚えたものである。周さんは、私を、周さんの弟さんに似ていると言っていたし、また、私のほうでは、周さんと逢って話をしている時だけは、自分のれいの言葉の訛りに就いての苦慮から解放されるという秘密のよろこびがあって、そんな事が二人の親しい友交を成立させたとも考えられるが、しかし、そんなにいちいち理由らしいものを取上げて言うまでも無く、ただ、俗に呼称する「ウマが合った」とかいう小さい奇蹟は、国籍を異にしている人の間にもたまたま起り得る現象なのかも知れない。けれども、この日本三景の一の松島海岸で不思議に結ばれた孤独者同士の何の駈引も打算も無い謂わば頗る鷹揚な交友にも、時々へんな邪魔がはいった。純粋に二人きりの、のんきな交友など、この世に存在をゆるされないものかも知れない。必ず第三者の牽制やら猜疑やら嘲笑やらが介入するもののようである。その松島の宿で互いに遠慮を忘れ、思う事を語って笑い、翌る日、一緒に汽車で仙台に帰り、ではまたあした学校で、どうも、いろいろ有難う、いや僕こそ、と意外に楽しかった小旅行を共に感謝し合って別れ、その次の朝は、新しい友人にまた逢えるという張合いがあって、下宿のひとたちも驚いていたくらいに早く起きて学校に出たのだが、周さんの姿は校庭にも、教室にも見受けられなかった。私はその日一日はなはだ索莫たる気持で、いろんな先生の講義を聞いた。私は周さんほど痛切な目的を以て、この医学に志したわけでも無かったから、そのさまざまな講義も別段ありがたく思えなかったし、また、たいして新鮮にも感ぜられなかった。藤野先生の講義にも、その日はじめて出席してみたが、周さんがあんなに情熱をこめて褒めていたほど、それほど、たのしい授業ではなかった。ちょうどそのころ、藤野先生の講義は、骨学総論を終り、骨学各論にはいったばかりのところであったが、等身大の躯幹骨の標本を傍に置いて、まるでそれがご自分の肉親のお骨でもあるかのように実になつかしげに撫でまわしながら、聴講生ひとり残らず全部の者に深くあやまたず納得させずんばやまじというような、懇切丁寧を極めた講義であって、良心的というのか、糞まじめというのか、私のように気の短いものには、どうにもややこしくて、やり切れない感じがした。解剖学というものが、もともとそんな、ややこしい学問であるという事は後で知ったが、それにしても、藤野先生の繰り返し繰り返しの熱心な説明には、まいらざるを得なかった。風貌も、その時はちゃんとネクタイをしておられたし、飄々などという仙人じみた印象は微塵も無く、お顔は黒く骨張って謹直な感じで、鉄縁の眼鏡の奥のお眼は油断なく四方を睥睨し、なつかしいどころか、私にはどの先生よりも手剛いお方のように見受けられた。それでも、やはり周さんが話したように、教室のうしろの方の古狸連中は、何でも無い事にどっと笑い崩れたりして騒いでいたが、それは私の観察したところでは、かの落第生たちは、藤野先生のこんな几帳面すぎると言っていいくらいの真剣な講義に圧迫を感じ、かえって虚勢を示し、われら古参の兵には、こんな講義など可笑しくてかなわぬ、新入生たちよ、そんなに緊張しなさんな、という示威運動を試みているだけのものの如く思われ、ひょっとしたら、あの連中は全部、藤野先生の解剖学で落第点をもらって、その腹いせに、あんな無意味な騒ぎ方をしているのではないかしらと疑いたくさえなった程で、とにかく、藤野先生の講義そのものは、決して私の予期していたような春風駘蕩たるものではなく、痛々しいくらいに、まじめで、むきなものであった。もっとも、痛々しいという感じは、特に私ひとりだけに強く響いたものかも知れない。というわけは、この先生は、その講義に於いてずいぶんご自分の言葉使いに気をくばっておいでの様子で、私もまた自分の言葉の田舎訛りにはかねがね苦労させられているので、他人のそんな気持には敏感に同情できて、そのせいもあって、特に痛々しいなどと感じたのかも知れなかった。先生は、ひどい関西訛りであった。それを隠そうと、なみなみならぬ努力をしておられるようであったが、異国人の周さんにさえ、特徴のある語調だと看破されているくらい、やっぱりその講義には、かなりの関西訛りがまじっていた。かくの如く観じ来れば、後に到って、この藤野先生と周さんと私と三人が結んだあの親密な同盟も、何の事は無い、日本語不自由組の同気相求めた結果のものに過ぎなかったのではないか、と情け無い気持にもなるが、しかし、それは、あまりにもふざけた冗談の推論かも知れない。当時、私は自分の田舎訛りを非常に気にしていたのは事実であるから、それは、たしかに周さんとの出会の当初に於いても、共感を生ぜしめた卑近なきっかけの一つになったのは前にも幾度となく、くどいくらいに念を押して説明して来たとおりで、そのことに就いてはいまも決して否定しようとは思わぬが、しかし、それから後に到っても、私たちは、ただそんな卑俗の理由ひとつだけで結ばれていたわけでは断じて無いのだ、とすこし大きく出たい気持も現在の私には有るのである。然らば、その他の高遠な理由というのは、何であるか。それは実のところ、私にもはっきりわかっていないのである。何であるか、一口には言えないのであるが、とにかく、「ウマが合った」という説明も、周さんと私と若い者同士が、ふっと互いに打ち解け合う事に使用されてこそ自然な感じがするものの、この二人の交友に、さらに藤野先生が加った時、「ウマが合った」など失礼な俗語で説明しようとしても、それだけでは追いつかぬように思われる。事実、それから後に於ける私たち三人の同盟には、そんな、日本語不自由組だの「ウマが合った」だのの観念を超越した何か大きいものに向っての信憑と努力とがあったのだが、それが何であったか、私にはどうも、よくわからない。相互の尊敬というものであろうか、隣人愛とでもいうものであろうか、或いは、正義とでもいうべきものであろうか、いやいや、そんな気持をみんなひっくるめた何かぼんやりして、もっと大きいもののような気がする。或いは、藤野先生がよくおっしゃっていた「東洋本来の道」とかいうものが、それに当っているのかも知れないが、どうもよくわからない。藤野先生の関西訛りから、妙な議論に発展してしまったが、要するに、私たちの後に到って結んだ同盟は、日本語不自由組の団結なんかではなかったのだ、それだけのものと見られるのは、いかにも残念、という気持を述べたいばかりの事であったのである。私たちの同盟の本質は何であったか、その判定は、私の力には余ることで、いずれ思想家どもの御意見にたよるより他は無かろうが、まあ、私はいまは恩師と旧友の面影をただていねいに書きとめて置けたら満足、それ以上の望蜀の希求はあきらめて、この貧しい手記を書き続けて行くという事にしよう。さて、松島の奇遇に依って、のんきに結ばれた周さんと私の交友にも、時々へんな邪魔がはいったと前に書いたが、その不愉快な介入者が、まことに早く思いがけない方面からあらわれたのである。私は、その日、周さんに逢うのを楽しみにして、いつになく早く起きて登校したのだが、周さんの姿はどこにも見えず、また期待していた藤野先生の講義も、固苦しいと言っていいほどまじめなものだったので、少し閉口の気味で、結局その日は何の面白い事もなく、夕方、授業を終えてぼんやり校門を出た時、
「おい、ちょっと、君。」と呼びとめられ、ふりむくと、背の高い、鼻の大きな脂顔のキザったらしい生徒が、にやにや笑って立っていた。周さんと私との交友の、最初の邪魔者は、この男であった。その名は、津田憲治。
「ちょっと君に話したいことがあるんだがね。」横柄な口のきき方である。しかし、訛りは無かった。東京者かも知れぬ、と私はひそかに緊張した。「一番丁あたりで、晩めしをつき合ってくれないかね。」
「はあ。」東京者に対しては、私は極度に無口である。
「承知してくれるね。」先に立ってどんどん歩いて、「さあ、どこがいいかな。東京庵の天ぷら蕎麦も油くさくて食えないし、ブラザー軒のカツレツは固くて靴の裏と来ているし、どうも仙台には、うまいものがなくて困るね。まあ、行きあたりばったりの小料理屋で鳥鍋でもつついていたほうが無難かも知れない。それとも、どこか他にいいところを知っているかね。」
「いや、はあ、べつに。」私は相手の威勢に圧倒されて、しどろもどろであった。この江戸っ子みたいな妙な学生は、いったい私にどんな話があるのだろうと頗る不安ではあったが、相手は私の気持などにはてんで無関心の様子で、勝手な事をおしゃべりしながら、まるで私の上官の如く颯爽と先に立って歩くので田舎者の私には、何とも挨拶の仕様がなく、ただ幽かに苦笑しながら、その後について行くより他に仕方が無かったのである。
「それじゃ、まあ、とにかく一番丁へ行ってみて、どこかあらたに開拓するとしよう。おいしい蒲焼でもたべさせる家があるといいんだが、どうも、仙台の鰻には筋がある。」さかんに、へんな食通振りを発揮する。鰻の筋とはどんなものだか、それから四十年を経過した今日に到っても未だに解し得ない深い謎として私の胸中に滓沈されている。それから私たちは、仙台の浅草とも称すべき東一番丁に行って、彼の所謂「行きあたりばったり」の小料理屋にはいり、これまた彼の言葉にしたがえば「無難」の鳥鍋をつつく事になったのであるが、彼は私と卓をはさんで坐り込むと、まず一葉の名刺を差し出した。仙台医学専門学校、クラス会幹事、津田憲治とある。この肩書では、彼は医専の先生にしてクラス会の幹事を兼ねているのか、それとも生徒なのか、或いはまた何年生のクラス会の幹事なのか、いっさいがあいまいである。そこがまた、彼の狙いなのかも知れない。当時の専門学校級の生徒は、いまと違って、社会から一個の紳士としての待遇を受けていたので、その所属の学校の名刺を所持している学生も多かったが、しかし、こんな出鱈目な肩書の印刷されてある名刺は、実にめずらしいものであった。
「はあ、そうですか。」私は噴き出したいのをこらえて、「僕は名刺を持っていませんけど、田中、――」と名乗りかけると、
「いや知っている。田中卓。H中学出身。君はクラスの注意人物なんだ。学校にさっぱり出て来ないじゃないか。」
私は、むっとした。学校に出ないからとて、「注意人物」とは大袈裟すぎる。失敬である。私は黙っていた。
「それは冗談だが、」と相手は笑って、「君の事は、きのう、周さんからくわしく聞いた。君たちは、松島の旅館で一晩、何だか眠らずに論じ合ったそうじゃないか。周さんは、おかげで風邪をひいて寝込んでしまった。あのひとには、ちょっと Lunge の傾向があるんだから、そんな徹夜なんて乱暴な事をさせちゃいけない。」
その時、私はふいと思い出した。あの夜、周さんが、或る物好きな学生の過度の親切には閉口している、と言っていたが、その学生の名は、たしか津田といったような気がする。なあんだ、それではあの、とろろ汁の指導者が、この目前の食通氏であったのか。
「熱があるのですか。」
「うん。たいした事もないらしいが、あまり丈夫な体質でもないようだからね。まあ、二、三日は学校を休ませるつもりだ。どうも、外国人は、世話が焼けるよ。ところで、鳥は、水たきがいいかね。酒も飲むだろう。」
「はあ、どうでも。」
「肉がかたいと困るな。いっそ、たたきにしてもらおうか。あれなら、無難だ。」
私は思わず、くすと笑ってしまった。津田氏の上顎が全部ぶさいくな義歯なのを看破したからである。ブラザー軒のカツレツを靴の裏と断じ、また鰻の筋の珍説も、鳥のたたきの所望も、すべてこの義歯となんらかの聯関があるのではなかろうかと思った。
「まったくね。」と津田氏は私の笑いを他の事と勘違いしたらしく、「水っぱなみたいな薄いソップの水たきなんざ、恐れ入るからね。田舎料理は、たたきに限るよ。」
そうして、たたきとお酒が注文され、津田氏みずからしさいらしく鍋の調理をして、さて、お酒をくみかわしながら、
「君、外国人とつき合うには、よっぽど気をつけてもらわないと困るよ。いまは日本は戦争中なんだからね、それを忘れていてはいけないよ。」と妙な事を言いはじめた。
私はきょとんとして、
「はあ?」と言った。
「はあではない。僕は東京の府立一中の出身だがね、この戦争がはじまってからの東京の緊張と来たら、それはとても、こんな田舎で想像してみたって及ぶものではない。」まことに変な威張り方である。「清国留学生なんてのも、東京には何千人といるんだ。ちっとも珍しい事なんかありゃしない。」いよいよ出ていよいよ奇である。「しかし、だね、この留学生問題なんかも、よっぽど慎重に考えてみなければいかんのじゃないかね。何せ、日本はいま、北方の大強国と戦争中なんだからね。旅順もなかなか陥落しそうでないし、バルチック艦隊もいよいよ東洋に向って出発するそうだし、こりゃもう、大変な事になるかも知れない。この時に当って、清国政府は、日本に対して、まあ、好意的な中立の態度をとってくれているが、しかし、これがまた今後、どのように変化するかわかったものでない。清国政府自体がいま、ぐらつきはじめているのだからね。君たちには、わかるまいが、革命思想がいま支那の国内に非常な勢いで蔓延しているらしいからね。たたきが煮えたよ、たべないか。煮えすぎると固くなっていけない。それで、その、革命思想だがね、そいつの急先鋒が、この留日学生だと来ているんで、問題がややこしくなる。君、こんな事はあまり人にしゃべってもらっては困るよ。これは、ここだけの話なんだからね。僕がなぜこんなに支那の内情に通じているかと言えば、だね、津田清蔵、知らないかね、僕の叔父貴なんだが、津田、それから清い蔵と書いて清蔵、知らない筈はないんだがね、やっぱりこのへんは田舎だな、身内の僕の口から言うのもへんだが、いまの日本の外交界では、まあ、若手の一流の働き手、というようなところだろうな。知らなけれあ仕様が無い。とにかく、そんな叔父貴があるんだから、いきおい僕も外国通になるさ。やあ、このたたきは、ひどいじゃないか。たたきには、卵をどっさりいれてよく煉り合わせないと、うまくない。卵を節約したに違いない。へんに饂飩粉くさいじゃないか。なってないねえ。やっぱり田舎だ。まあ、仕様が無い。食おう。ところで、その革命思想だがね、これは秘密だよ、ここだけの話なんだよ、そのつもりで聞いてくれ。いまはその本部が日本にある。驚いたろう。もっとはっきり教えてやろうか。東京にいる清国留学生たちが、その中心勢力になっているんだ。どうだい、話がいよいよ面白くなって来たろう。」
しかし、私には少しも面白くなかった。支那の革命運動に就いては、そんないい加減な「ここだけの話」よりも、その実情をもっとくわしく周さんから聞いていたので、何の驚くところも無かった。ただ、あいまいにその外国通の秘密の囁きに合槌を打ち、もっぱら鳥鍋に首を突込んでばかりいた。田舎者の私には、その不評判のたたきも、別に饂飩粉くさくも感じられず、非常においしく思われた。
「問題は、ここだ。いいかい、今夜は一つゆっくり考えてくれ。清国政府が金を出して留学生を日本に送り、その留学生たちが、清国政府打倒の気勢を挙げているのだから、妙なものさ。これでは、まるで、清国政府がみずからを崩壊させるための研究費を留学生たちに給与しているようなものだ。日本の政府は、この留学生たちの革命思想に対して、いまのところは、まあ、見て見ぬ振りというような形でいるらしいが、しかし、民間の日本の義侠の士は、すすんでこの運動に援助を与えている。君、おどろいてはいけない。支那の革命運動の大立者、孫文という英雄は、もう早くから日本の侠客の宮崎なんとかいう人の家にかくまわれているのだぞ。孫文。この名を覚えて置いたほうがいい。凄いやつらしいんだ。ライオンのような風貌をしているそうだ。留学生たちも、この人のいう事なら何でも聴く。絶対の信頼だ。そのおそるべき英傑の顧問が、その宮崎なんとかいう人をはじめ日本の民間の義士だ。ここが間一髪のところさ。日本政府が見て見ぬ振りをしていたところで、この革命思想が日本の首都の東京において強力な打清運動を展開するようになったら、清国政府が日本に対してどのような感情を抱くか。平時だったら、かまわないさ。支那というすぐれた文明の伝統を有する大国を、列国の侵略から救うためにはどうしても革命の手段が必要だというのなら、何も清国政府に遠慮なんかしている場合じゃない。僕だって、その孫文という英雄の許に馳せ参じて、大いに激励してやるさ。日本人は、みんなそれくらいの義気は持っている。大和魂の本質は、義気だからね。しかし、君、日本はいま国運を賭して、北方の強大国と戦争のまっさいちゅうだ。もし、清国政府が日本政府に対して悪感情を抱き、現在の好意的な中立の態度を放擲して逆に露西亜に傾いて行ったら、どうなるか。この戦争も、或いは日本にとって非常に困難なものになりはせぬか。ここだ。いいかい、ここが外交の妙訣さ。一面戦争、一面外交さ。何が、おかしい。真面目に聞けよ。国家の、実に重大な問題なんだぜ。君は、さっきからばかにひとりで酒をがぶがぶ飲んでいるが、お勘定の方は、大丈夫かね。僕にはそんなにお金は無いよ。君は、いったい、いくら持っているんだい。まず自国の財政の見とおしをつけて置かなければ、戦争は不安だ。早く調べて、報告してくれ。」
私は自分の財布を取出し、嚢中の金額を調べて外務大臣に報告した。
「よし、大丈夫だ。それだけあるなら大丈夫だ。僕にも、五、六十銭ある。も少し飲もう。たたきは僕はもう、ごめんだ。あっさり、湯豆腐といこう。田舎料理では、まあ、無難なところだろうじゃないか。」しかし、私にはそれもまた彼の義歯となんらかの関係があるのではなかろうかと思われた。
鍋がかわって、さらにお酒が持ち運ばれた。
「よく食い、よく飲むねえ。」と彼は私が豆腐をふうふう吹いて食べながら、また片手ではしきりに独酌で飲むさまを、いまいましそうな眼つきで見て、「君たちは、松島でも、随分飲んだそうじゃないか。こまかい事を聞くようだがね、その勘定は誰が払った。だいじな事だ。」語調を改めてそう言った。私は箸を置いて答えた。
「半分ずつにしました。僕が全部払うつもりだったのですが、周さんが、どうしてもそうさせませんでした。」
「いけない。君は、それだからいけない。一事は万事だ。君は、もう周さんと附き合うのは、やめたほうがいい。国家の方針を、あやまる。周さんが何と言ったって、君が全部支払うべきところだ。外国人とつき合う時には、自分も一個の外交官になったつもりでいなければいけない。第一には、日本の人はみんな親切だという印象を彼等に与えなければいけない。僕の叔父貴など、そのへんの苦心は、たいへんなものだ。何せ、いま戦争中なのだからね。中立諸国の者たちには、実に複雑微妙な外交的術策を用いなければいけない。殊に、清国留学生は難物だ。これは清国から派遣された学生でありながら、清国政府の打倒をもくろんでいる。これをただ矢鱈にあまやかしても、日本の現政府の外交方針に、もとるような結果になりはせぬか。ただの親切だけでは駄目だ。一面親切、一面指導という優先者の態度を以て臨むのが、いまの外交官として妙訣ではないかと僕は睨んでいる。ここだよ、君。相手に弱味を見せちゃいけない。一緒に遊んだ時には、必ず勘定はこちらで全部引受ける。つねに一歩先んじなければいかん。僕だって、それはずいぶん苦労しているのだぜ。こないだのクラス会の時に、君は出なかったようだが、これからは出なければいかんね、そのクラス会の時にも、藤野先生が、幹事の僕に向って、留学生との交際には気をつけるように、とおっしゃった。」
それは私には聞き捨てならぬ事であった。何か藤野先生に裏切られたような気がした。
「まさか、藤野先生が、そんなばからしい外交的術策なんか。」
「ばからしいとは何だ。失敬な事を言ってはいけない。君は非国民だ。戦争中は、第三国人は皆、スパイになり得る可能性があるのだ。殊に清国留学生は、ひとり残らず革命派だ。革命の遂行のためには、露西亜に助力を乞う場合だってあり得るだろう。監視の必要があるんだ。一面親切、一面監視だ。僕はそのためにあの留学生を、僕の下宿にひっぱり込んで、何かと面倒を見てあげていると同時に、また、いろいろ日本の外交方針に添った努力もしているのだ。」
「何ですか、そのいろいろの努力というのは。けちくさいじゃないですか。」私も、かなり酔っていた。
「や、けちくさいとは、よくも言った。君は、まさしく非国民だ。不良少年だ。」顔色をかえている。「ふとい野郎だ。田舎にもこんな不良少年がいるからなあ。叔父貴の名前も知らないなんて、なってないじゃないか。も少し勉強しろ。お前はいまに落第するぞ。もう帰れ。お前の飲んだり食ったりした分を払って、早く帰れ。たたきも湯豆腐も、お前がひとりで食べたようなものだ。」
私は財布の中の金を全部、畳の上にぶちまけて黙って立った。
「やるか、おい。」と津田氏は大あぐらに両肘を突張ってわめいた。
私は苦笑した。
さようなら、とだけ言って外に出たが、さすがに面白くなかった。よし、あした藤野先生に直接逢って事の真偽をたしかめて見ようと思った。周さんがスパイになる可能性があって、そうして私が非国民の不良少年だなどと言われては黙って居られないような気がした。私は県庁裏の下宿している家に帰って、井戸端で顔を洗い、手を洗い、足を洗った。すこしさっぱりした気持になって、その夜は、ぐっすり眠れた。翌朝、私は意気込んで登校し、授業のはじまる前に、藤野先生の研究室に行き、ドアをたたいた。おはいり、という先生の声がする。躊躇せず、ドアをあけると、部屋には朝日が一ぱいに射し込んでいて、先生は、上肢骨やら下肢骨やら頭蓋骨やら、頗る不気味な人骨の標本どもに取巻かれ、泰然と新聞を読んで居られた。廻転椅子を少し私のほうにねじ向け、新聞を卓上に置き、
「なんですか。」研究室に於ける先生は、教室の先生よりもずっと優しい。
「あの、第三国人と交際してはいけないのですか。」
「え、なんです?」先生は、関西なまりを丸出しにして問いかえした。
「周さんの事なんです。」私は先生の関西なまりに接して、思わず微笑した。こんどは落ちついて言うことが出来た。「周樹人君と交際してはいけないって、きのう或る人から言われたのですけど。」
「誰ですか。」
「名前は申しません。僕はその人の事を告げ口しに来たのではないんです。ただ、先生がそのようにお言いつけになったという話を聞いたものですから、本当かどうかお伺いにあがっただけなんです。」
藤野先生に対しても私は、周さんに対した時と同じ様に、思っている事が割にすらすら言えた。その理由らしきものに就いては、前に幾度も、くどいくらいに書いたが、しかし、結局は藤野先生や周さんのお人柄のせいかも知れない。私はあの人たちに対した時には、何か安心なのである。
「変ですね。」先生は、不満そうに口髭を強くこすりながら言った。「私がそんなばかな事を言うはずが無いやないか?」
「でも、」私は口をとがらせ、「クラス会の時に先生が、」と言いかけたら、
「あ、津田君やな? あいつ、おっちょこちょいや。」と言って笑い出した。
「では、あれは、嘘なんですか。」
「いや、言った。私は、言いました。」と急に講義の時のようなまじめな口調になって、「こんど私たちの学校に、はじめて、清国留学生がひとり来た。この者と共に医学を勉強する事は、小にしては、支那に新しい医学を誕生せしむるためであり、大にしては、両者助け合って西洋医学をいち早く東洋に吸収し、もって世界全体の学術を更に進展せしむるところの好刺戟を作ってやるため、というくらいの意気込みをクラスの幹事たる者は持っていて欲しい、と私はあの時、津田君に言いました。その他の事は、何も言いません。」
「そうですか。」私は、拍子抜けしたみたいな感じで、「戦争中は、第三国人がスパイになる可能性があるとか何とか言って、――」
「何を言っているのです。これを御覧。」と先生は卓上の新聞を私の方に押してよこした。見ると、その新聞の上段に大きく、
観菊会行幸啓
赤坂離宮に
内外人四千九十二名
などという見出しが掲げられてある。本文を読んでみるまでもなく、私にはわかった。
「国の光の、悠遠靉靆たる事に確信を持とうやないか。」先生は伏目になって、しんみりと言った。「国体の盛徳、とでも申したらよいか、私は戦争の時にひとしお深くそれを感じます。」ふいと語調をかえて、「君は周君の親友か?」
「いいえ、決して、そんな、親友ではないのですけれど、でも、僕はこれから周さんと仲良くしようと思っていたのです。周さんは、僕なんかより、ずっと高い理想をもって、この仙台にやって来たのです。周さんは、お父さんの病気のため、十三の時から三年間、毎日毎日、質屋と薬屋の間を走りまわって暮したのです。そうして、臨終のお父さんを喉が破れるほど呼びつづけて、それでも、お父さんは、死んじゃったんです。その時の、自分の叫びつづけた声が、いまでも耳について、離れないと言っているんです。だから、周さんは、支那の杉田玄白になって、支那の不仕合せな病人を救ってやりたいと言っているのです。それを、それだのに、周さんたちは革命思想の急先鋒だから、一面親切、一面監視だの、複雑微妙な外交手腕だの、そんな事、あんまりだと思うんです。あんまりです。周さんは、本当に青年らしい高い理想を持っているんです。青年は、理想を持っていなければ、いけないと思います。そうして、だから、青年は、理想を、理想というものだけを、――」言いかけて、立ったまま泣いてしまった。
「革命思想。」と先生は、ひとりごとのように低く言って、しばらく黙って居られた。やがて窓の方を見ながら、「私の知っている家で、兄は百姓、次男は司法官、末弟は、これは変り者で、役者をしている、そんな家があるのです。はじめは、どうも、やはり兄弟喧嘩なんかしていたようですが、しかし、いまでは、お互い非常に尊敬し合っているようです。理窟でないんです。何と言ったらいいのかなあ、各人各様にぱっとひらいたつもりでも、それが一つの大きい花なんですね。家、というものは不思議なものです。その家は、地方の名門、と言えば大袈裟だが、まあ、その地方で古くから続いている家です。そうして、いまでも、やっぱりその地方の人たちから、相変らず信頼されているようです。私は東洋全部が一つの家だと思っている。各人各様にひらいてよい。支那の革命思想に就いては、私も深くは知らないが、あの三民主義というのも、民族の自決、いや、民族の自発、とでもいうようなところに根柢を置いているのではないかと思う。民族の自決というと他人行儀でよそよそしい感じもするが、自発は家の興隆のために最もよろこぶべき現象です。各民族の歴史の開化、と私は考えたい。何も私たちのこまかいおせっかいなど要らぬ事です。数年前、東亜同文会の発会式が、東京の万世倶楽部で挙げられて、これは私も人から聞いた話ですが、その時、近衛篤麿公が座長に推され、会の目的綱領を審議する段になって、革命派の支持者と清朝の支持者との間にはげしい議論が持ち上った。両々相対峙して譲らず、一時はこのために会が決裂するかとも思われたが、その時、座長の近衛篤麿公が、やおら立ち上って、支那の革命を主張せられる御意見も、また、清朝を支持し列国の分割を防止せむとせられる御意見も、つまるところは他国に対する内政干渉であって、会の目的としては甚だ面白くない。しかし、両説の目標とするところは、共に支那の保全にあるのだから、本会は『支那の保全』を以てその目的としては如何であろう、という厳粛な発言を行って満座を抑え、両派共これには異議無く、満場一致大喝采裡に会の目的が可決され、この『支那の保全』は、爾来、わが国の対支国是となっているという事です。私たちは、もうこの上、何も言う事が無いやないか。支那にだって偉い人がたくさんいますよ。私たちの考えている事くらい、支那の先覚者たちも、ちゃんと考えているでしょう。まあ、民族自発ですね。私はそれを期待しています。支那の国情は、また日本とちがっているところもあるのです。支那の革命は、その伝統を破壊するからよろしくないと言っている人もあるようですが、しかし、支那にいい伝統が残っていたから、その伝統の継承者に、革命の気概などが生れたのだとも考えられます。たち切られるのは、形式だけです。家風あるいは国風、その伝統は決して中断されるものではありません。東洋本来の道義、とでも言うべき底流は、いつでも、どこかで生きているはずです。そうしてその根柢の道において、私たち東洋人全部がつながっているのです。共通の運命を背負っていると言っていいのでしょう。さっき話した家族みたいに、どんなに各人各様に咲いたつもりでも、やっぱり一つの大きい花になるのだから、それを信じて周君とも大いに活溌に交際する事ですね。何もむずかしく考える事はない。」先生は笑いながら立ち上り、「一口で言えるやないか? 支那の人を、ばかにせぬ事。それだけや。」
始業のベルが、さっきから鳴っているのである。
「教育勅語に、何と仰せられています? 朋友相信じ、とありましたね。交友とは、信じ合う事です。他には何も要りません。」
私は駈寄って先生と握手したい衝動にかられたが、怺えて、ていねいにお辞儀をしたとたんに、
「君の顔は、あまり見かけないようだが、私の講義に出た事がありますか。」
「はあ、」と私は泣き笑いの表情で、「あの、これから。」
「新入生ですね。まあ、みんな、はげまし合ってやってくれ給え。津田君には、私からもよく言っておきます。私も、どうもクラス会で、不要の出しゃばりの事を言った。これからは、不言実行、という事にしましょう。」
私は廊下に走り出て、ほっと一息つき、なるほど、あれでは、周さんが褒めるわけだ、先生も偉いが、周さんも眼が高い、と先生と周さんに半分ずつ感心した。自分もこれから周さんに負けずに先生の崇拝者になろう、先生の講義の時には、必ず最前列の席に陣取ってノオトをとろう、周さんはきょう学校に出ているかしら。私は一刻も早く周さんと逢いたくなって、いそいで教室に行ってみたが、その日も、周さんの姿は見えなくて、そうして、津田氏のいやな眼が、ぎろりと光っていた。けれども私は、何だかもう寛大な気持になっていたので、少し笑って会釈してやった。津田氏もそんなに悪い人ではないらしい。ちょっとまごついて、それから、にやりと笑って会釈をかえした。でも、その日は一日、互いに避けるようにして、すすんで話合おうとはしなかった。放課後、周さんの病気というのはどの程度のものなのか、見舞いに行ってみたかったが、周さんの下宿が、はっきりわからなかったし、それに、同じ下宿にいる津田氏にまたたいへんな説教をされてもつまらないと思ってまっすぐに私の下宿にかえり、夕食後、ぶらりと宿を出て、東一番丁に行き、松島座で中村雀三郎一座が先代萩をやっていたので、仙台の先代萩はどんなものかしらという興味もあり、ちょっと覗いてみたくなって立見席にはいった。先代萩というのは、ご存知の如く仙台の伊達藩のお家騒動らしいものを扱った芝居で、榴ヶ岡の近くに政岡の墓と称せられるものさえある程だから、この芝居も昔から仙台ではさだめし大受けであったろうと思っていたが、あとで人から聞いたところに依ると、それは反対で、この芝居は、旧藩時代にはこの地方では御法度物だったそうで、維新後になって、その禁制もおのずから解けて自由に演じて差支え無くなったとはいうものの、それでも、仙台市内では永くこの芝居は興行せられず、時たま題をかえて演ぜられる事があっても、その都度、旧藩士と称する者が太夫元に面会を申し込み、たとえ政岡という烈婦が実在していたとしても、この芝居全体の仕組みは、どうも伊達家の名誉を毀損するように出来ている、撤回せよ、と厳重な抗議を申し込んだものだそうであるが、さすがに明治の中ごろになったらそんな事はなくなり、同時に、仙台の観衆もまた、この芝居を、自分たちの旧藩の事件を取扱った芝居だからと特別の好奇心で見に来るという事もなくなって、もうそのころから、どこの国の事件だかまるで無関心、ふつうのあわれなお芝居として、みんな静かに見物しているだけというような有様になったらしい。けれども、当時、私はそんな事情はまだ知らなかったので、仙台の観客たちは、この先代萩を見てどんなに興奮しているだろう、とその熱狂振りを見たいという期待もあって小屋にはいったのであるが、観客は案外に冷静、しかもやっと五、六分の入りなので、おやおやと思う一方また、さすがは大仙台の市民だ、自分のお国の事件が演ぜられているのに平気な顔して見物している、これが大都会の襟度というものかも知れないなどと、山奥の田舎から出て来たばかりの赤毛布は、妙なところに感心したりして、そうして、雀三郎の政岡の「とは言うものの、かわいやな」という愁歎場を見て泣き、ふと傍を見ると、周さんが立っている。やっぱり涙を流している。それを見たら、なおさら私は泣きたくなって、廊下に飛び出し、思いきりひとりで泣いて、それから涙を拭いて立見席にかえり、周さんの肩をぽんと叩いた。
「ああ、」と周さんは私の顔を見て笑いながら手の甲で涙を拭き、「あなたは、さっきから?」
「ええ、この幕のはじめから見ていました。あなたは?」
「僕も、そうです。この芝居は、どうも、子供が出て来るので、つい泣いてしまいますね。」
「出ましょうか。」
「ええ。」
周さんは私と一緒に松島座を出た。
「風邪をひいたとか、津田さんから聞きましたけど。」
「もう、あなたにまで宣伝しているのですか。津田さんには、困ります。僕が少し咳をしたら無理矢理寝かせて、そうして、Lunge だと言うのです。僕があの人をお誘いしないで、ひとりで松島へ行ったので、それで怒っているのです。あの人こそ、Kranke です。Hysterie ですね。」
「そんならいいけど、でも、少しは、からだ工合を悪くしたんでしょう?」
「いいえ。Gar nicht です。寝ていよと言うので、きのうときょう寝ながら本を読んでいたのですが、退屈でたまらなくなって、こっそり逃げ出して来たのです。あしたから、学校へ出ます。」
「そうですね。津田さんの言う事なんかを、いちいちはいはいと聞いていたんじゃ、そのうち本当の肺病になってしまいますよ。いっそ、下宿をかえたらどうですか。」
「ええ、それも考えているのですが、そうすると、あの人が淋しがるでしょう。ちょっとうるさいけれども、しかし、正直なところもあって、僕は、そんなにきらいでないんです。」
私は赤面した。津田氏よりも私のほうが、もっとやきもちやきなのかも知れないと思ったからである。
「寒くありませんか?」と私は、話頭を転じた。「お蕎麦でも、たべましょうか。」
いつのまにか、東京庵の前まで来ていた。
「宮城野のほうがいいかしら。津田さんの説に拠ると、この東京庵の天ぷら蕎麦は、油くさくて食えないそうです。」
「いや、宮城野の天ぷらだって油くさいでしょう。油くさくない天ぷらは、にせものです。」周さんも僕と同様、あまり食通ではないようであった。
私たちは東京庵にはいった。
「その油くさい天ぷら蕎麦をたべてみましょう。」と周さんは、少からずその油くさい天ぷらに興味を感じている様子であった。
「ええ、そうしましょう。案外、おいしいような予感がしますね。」
天ぷら蕎麦とお酒を注文した。
「お国は、料理の国だそうですから、日本へ来ても、たべものがお粗末で困るでしょうね。」
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