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思ひ出(おもいで)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-16 7:02:40  点击:  切换到繁體中文


 學校の勉強はいよいよ面白くなかつた。白地圖に山脈や港灣や河川を水繪具で記入する宿題などは、なによりも呪はしかつた。私は物事に凝るはうであつたから、この地圖の彩色には三四時間も費やした。歴史なんかも、教師はわざわざノオトを作らせてそれへ講義の要點を書き込めと言ひつけたが、教師の講義は教科書を讀むやうなものであつたから、自然とそのノオトへも教科書の文章をそのまま書き寫すよりほかなかつたのである。私はそれでも成績にみれんがあつたので、そんな宿題を毎日せい出してやつたのである。秋になると、そのまちの中等學校どうしの色色なスポオツの試合が始つた。田舍から出て來た私は、野球の試合など見たことさへなかつた。小説本で、滿壘フルベエスとか、アタツクシヨオトとか、中堅センタアとか、そんな用語を覺えてゐただけであつて、やがて其の試合の觀方をおぼえたけれど餘り熱狂できなかつた。野球ばかりでなく、庭球でも、柔道でも、なにか他校と試合のある度に私も應援團の一人として、選手たちに聲援を與へなければならなかつたのであるが、そのことが尚さら中學生生活をいやなものにして了つた。應援團長といふのがあつて、わざと汚い恰好で日の丸の扇子などを持ち、校庭の隅の小高い岡にのぼつて演説をすれば、生徒たちはその團長の姿を、むさい、むさい、と言つて喜ぶのである。試合のときは、ひとゲエムのあひまあひまに團長が扇子をひらひらさせて、オオル・スタンド・アツプと叫んだ。私たちは立ち上つて、紫の小さい三角旗を一齊にゆらゆら振りながら、よい敵よい敵けなげなれども、といふ應援歌をうたふのである。そのことは私にとつて恥しかつた。私は、すきを見ては、その應援から逃げて家へ歸つた。
 しかし、私にもスポオツの經驗がない譯ではなかつたのである。私の顏が蒼黒くて、私はそれを例のあんまの故であると信じてゐたので、人から私の顏色を言はれると、私のその祕密を指摘されたやうにどぎまぎした。私は、どんなにかして血色をよくしたく思ひ、スポオツをはじめたのである。
 私はよほど前からこの血色を苦にしてゐたものであつた。小學校四五年のころ、末の兄からデモクラシイといふ思想を聞き、母までデモクラシイのため税金がめつきり高くなつて作米の殆どみんなを税金に取られる、と客たちにこぼしてゐるのを耳にして、私はその思想に心弱くうろたへた。そして、夏は下男たちの庭の草刈に手つだひしたり、冬は屋根の雪おろしに手を貸したりなどしながら、下男たちにデモクラシイの思想を教へた。さうして、下男たちは私の手助けを餘りよろこばなかつたのをやがて知つた。私の刈つた草などは後からまた彼等が刈り直さなければいけなかつたらしいのである。私は下男たちを助ける名の陰で、私の顏色をよくする事をも計つてゐたのであつたが、それほど勞働してさへ私の顏色はよくならなかつたのである。
 中學校にはひるやうになつてから、私はスポオツに依つていい顏色を得ようと思ひたつて、暑いじぶんには、學校の歸りしなに必ず海へはひつて泳いだ。私は胸泳といつて雨蛙のやうに兩脚をひらいて泳ぐ方法を好んだ。頭を水から眞直に出して泳ぐのだから、波の起伏のこまかい縞目も、岸の青葉も、流れる雲も、みんな泳ぎながらに眺められるのだ。私は龜のやうに頭をすつとできるだけ高くのばして泳いだ。すこしでも顏を太陽に近寄せて、早く日燒がしたいからであつた。
 また、私のゐたうちの裏がひろい墓地だつたので、私はそこへ百米の直線コオスを作り、ひとりでまじめに走つた。その墓地はたかいポプラの繁みで圍まれてゐて、はしり疲れると私はそこの卒堵婆の文字などを讀み讀みしながらぶらついた。月穿潭底とか、三界唯一心とかの句をいまでも忘れずにゐる。ある日私は、錢苔ぜにごけのいつぱい生えてゐる黒くしめつた墓石に、寂性清寥居士といふ名前を見つけてかなり心を騷がせ、その墓のまへに新しく飾られてあつた紙の蓮華の白い葉に、おれはいま土のしたで蛆蟲とあそんでゐる、と或る佛蘭西の詩人から暗示された言葉を、泥を含ませた私の人指ゆびでもつて、さも幽靈が記したかのやうにほそぼそとなすり書いて置いた。そのあくる日の夕方、私は運動にとりかかる前に、先づきのふの墓標へお參りしたら、朝の驟雨で亡魂の文字はその近親の誰をも泣かせぬうちに跡かたもなく洗ひさらはれて、蓮華の白い葉もところどころ破れてゐた。
 私はそんな事をして遊んでゐたのであつたが、走る事も大變巧くなつたのである。兩脚の筋肉もくりくりと丸くふくれて來た。けれども顏色は、やつぱりよくならなかつたのだ。黒い表皮の底には、濁つた蒼い色が氣持惡くよどんでゐた。
 私は顏に興味を持つてゐたのである。讀書にあきると手鏡をとり出し、微笑んだり眉をひそめたり頬杖ついて思案にくれたりして、その表情をあかず眺めた。私は必ずひとを笑はせることの出來る表情を會得した。目を細くして鼻を皺め、口を小さく尖らすと、兒熊のやうで可愛かつたのである。私は不滿なときや當惑したときにその顏をした。私のすぐの姉はそのじぶん、まちの縣立病院の内科へ入院してゐたが、私は姉を見舞ひに行つてその顏をして見せると、姉は腹をおさへて寢臺の上をころげ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた。姉はうちから連れて來た中年の女中とふたりきりで病院に暮してゐたものだから、ずゐぶん淋しがつて、病院の長い廊下をのしのし歩いて來る私の足音を聞くと、もうはしやいでゐた。私の足音は並はづれて高いのだ。私が若し一週間でも姉のところを訪れないと、姉は女中を使つて私を迎ひによこした。私が行かないと、姉の熱は不思議にあがつて容態がよくない、とその女中が眞顏で言つてゐた。
 その頃はもう私も十五六になつてゐたし、手の甲には靜脈の青い血管がうつすりと透いて見えて、からだも異樣におもおもしく感じられてゐた。私は同じクラスのいろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合つた。學校からの歸りにはきつと二人してならんで歩いた。お互ひの小指がすれあつてさへも、私たちは顏を赤くした。いつぞや、二人で學校の裏道の方を歩いて歸つたら、芹やはこべの青々と伸びてゐる田溝の中にゐもりがいつぴき浮いてゐるのをその生徒が見つけ、默つてそれを掬つて私に呉れた。私は、ゐもりは嫌ひであつたけれど、嬉しさうにはしやぎながらそれを手巾へくるんだ。うちへ持つて歸つて、中庭の小さな池に放した。ゐもりは短い首をふりふり泳ぎ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐたが、次の朝みたら逃げて了つてゐなかつた。
 私はたかい自矜の心を持つてゐたから、私の思ひを相手に打ち明けるなど考へもつかぬことであつた。その生徒へは普段から口もあんまり利かなかつたし、また同じころ隣の家の痩せた女學生をも私は意識してゐたのだが、此の女學生とは道で逢つても、ほとんどその人を莫迦にしてゐるやうにぐつと顏をそむけてやるのである。秋のじぶん、夜中に火事があつて、私も起きて外へ出て見たら、つい近くのやしろの陰あたりが火の粉をちらして燃えてゐた。やしろの杉林がその焔を圍ふやうにまつくろく立つて、そのうへを小鳥がたくさん落葉のやうに狂ひ飛んでゐた。私は、隣のうちの門口から白い寢卷の女の子が私の方を見てゐるのを、ちやんと知つてゐながら、横顏だけをそつちにむけてじつと火事を眺めた。焔の赤い光を浴びた私の横顏は、きつときらきら美しく見えるだらうと思つてゐたのである。こんな案配であつたから、私はまへの生徒とでも、また此の女學生とでも、もつと進んだ交渉を持つことができなかつた。けれどもひとりでゐるときには、私はもつと大膽だつた筈である。鏡の私の顏へ、片眼をつぶつて笑ひかけたり、机の上に小刀で薄い唇をほりつけて、それへ私の唇をのせたりした。この唇には、あとで赤いインクを塗つてみたが、妙にどすぐろくなつていやな感じがして來たから、私は小刀ですつかり削りとつて了つた。
 私が三年生になつて、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかつて、私はしばらくぼんやりしてゐた。橋の下には隅田川に似た廣い川がゆるゆると流れてゐた。全くぼんやりしてゐる經驗など、それまでの私にはなかつたのである。うしろで誰か見てゐるやうな氣がして、私はいつでも何かの態度をつくつてゐたのである。私のいちいちのこまかい仕草にも、彼は當惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけてゐたのであるから、私にとつて、ふと、とか、われしらず、とかいふ動作はあり得なかつたのである。橋の上での放心から覺めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな氣持のときには、私もまた、自分の來しかた行末を考へた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思ひ出し、また夢想した。そして、おしまひに溜息ついてかう考へた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめてゐたのである。私は、すべてに就いて滿足し切れなかつたから、いつも空虚なあがきをしてゐた。私には十重二十重の假面がへばりついてゐたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかつたのである。そしてたうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であつた。ここにはたくさんの同類がゐて、みんな私と同じやうに此のわけのわからぬをののきを見つめてゐるやうに思はれたのである。作家にならう、作家にならう、と私はひそかに願望した。弟もそのとし中學校へはひつて、私とひとつ部屋に寢起してゐたが、私は弟と相談して、初夏のころに五六人の友人たちを集め同人雜誌をつくつた。私の居るうちの筋向ひに大きい印刷所があつたから、そこへ頼んだのである。表紙も石版でうつくしく刷らせた。クラスの人たちへその雜誌を配つてやつた。私はそれへ毎月ひとつづつ創作を發表したのである。はじめは道徳に就いての哲學者めいた小説を書いた。一行か二行の斷片的な隨筆をも得意としてゐた。この雜誌はそれから一年ほど續けたが、私はそのことで長兄と氣まづいことを起してしまつた。
 長兄は私の文學に熱狂してゐるらしいのを心配して、郷里から長い手紙をよこしたのである。化學には方程式あり幾何には定理があつて、それを解する完全な鍵が與へられてゐるが、文學にはそれがないのです、ゆるされた年齡、環境に達しなければ文學を正當に掴むことが不可能と存じます、と物堅い調子で書いてあつた。私もさうだと思つた。しかも私は、自分をその許された人間であると信じた。私はすぐ長兄へ返事した。兄上の言ふことは本當だと思ふ、立派な兄を持つことは幸福である、しかし、私は文學のために勉強を怠ることがない、その故にこそいつそう勉強してゐるほどである、と誇張した感情をさへところどころにまぜて長兄へ告げてやつたのである。
 なにはさてお前は衆にすぐれてゐなければいけないのだ、といふ脅迫めいた考へからであつたが、じじつ私は勉強してゐたのである。三年生になつてからは、いつもクラスの首席であつた。てんとりむしと言はれずに首席になることは困難であつたが、私はそのやうな嘲りを受けなかつた許りか、級友を手ならす術まで心得てゐた。蛸といふあだなの柔道の主將さへ私には從順であつた。教室の隅に紙屑入の大きな壺があつて、私はときたまそれを指さして、蛸もつぼへはひらないかと言へば、蛸はその壺へ頭をいれて笑ふのだ。笑ひ聲が壺に響いて異樣な音をたてた。クラスの美少年たちもたいてい私になついてゐた。私が顏の吹出物へ、三角形や六角形や花の形に切つた絆創膏をてんてんと貼り散らしても誰も可笑しがらなかつた程なのである。
 私はこの吹出物には心をなやまされた。そのじぶんにはいよいよ數も殖えて、毎朝、眼をさますたびに掌で顏を撫でまはしてその有樣をしらべた。いろいろな藥を買つてつけたが、ききめがないのである。私はそれを藥屋へ買ひに行くときには、紙きれへその藥の名を書いて、こんな藥がありますかつて、と他人から頼まれたふうにして言はなければいけなかつたのである。私はその吹出物を欲情の象徴と考へて眼の先が暗くなるほど恥しかつた。いつそ死んでやつたらと思ふことさへあつた。私の顏に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達してゐた。他家へとついでゐた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に來るひとがあるまい、とまで言つてゐたさうである。私はせつせと藥をつけた。
 弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに藥を買ひに行つて呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中學へ受驗する折にも、私は彼の失敗を願つてゐたほどであつたけれど、かうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい氣質がだんだん判つて來たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内氣になつてゐた。私たちの同人雜誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな氣の弱々した文章であつた。私にくらべて學校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不氣嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちに三角になつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに惡いのだと固く信じてゐたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と對するときには、みんな押し隱して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
 秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の棧橋へ出て、海峽を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い絲について話合つた。それはいつか學校の國語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い絲がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである、ふたりがどんなに離れてゐてもその絲は切れない、どんなに近づいても、たとひ往來で逢つても、その絲はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ歸つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの聲に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は棧橋のらんかんを二三度兩手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり惡げに言つた。大きい庭下駄をはいて、團扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は眞暗い海に眼をやつたまま、赤い帶しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峽を渡つて來る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。
 これだけは弟にもかくしてゐた。私がそのとしの夏休みに故郷へ歸つたら、浴衣に赤い帶をしめたあたらしい小柄な小間使が、亂暴な動作で私の洋服を脱がせて呉れたのだ。みよと言つた。
 私は寢しなに煙草を一本こつそりふかして、小説の書き出しなどを考へる癖があつたが、みよはいつの間にかそれを知つて了つて、ある晩私の床をのべてから枕元へ、きちんと煙草盆を置いたのである。私はその次の朝、部屋を掃除しに來たみよへ、煙草はかくれてのんでゐるのだから煙草盆なんか置いてはいけない、と言ひつけた。みよは、はあ、と言つてふくれたやうにしてゐた。同じ休暇中のことだつたが、まちに浪花節の興行物が來たとき、私のうちでは、使つてゐる人たち全部を芝居小屋へ聞きにやつた。私と弟も行けと言はれたが、私たちは田舍の興行物を莫迦にして、わざと螢をとりに田圃へ出かけたのである。隣村の森ちかくまで行つたが、あんまり夜露がひどかつたので、二十そこそこを、籠にためただけでうちへ歸つた。浪花節へ行つてゐた人たちもそろそろ歸つて來た。みよに床をひかせ、蚊帳をつらせてから、私たちは電燈を消してその螢を蚊帳のなかへ放した。螢は蚊帳のあちこちをすつすつと飛んだ。みよも暫く蚊帳のそとに佇んで螢を見てゐた。私は弟と並んで寢ころびながら、螢の青い火よりもみよのほのじろい姿をよけいに感じてゐた。浪花節は面白かつたらうか、と私はすこし堅くなつて聞いた。私はそれまで、女中には用事以外の口を決してきかなかつたのである。みよは靜かな口調で、いいえ、と言つた。私はふきだした。弟は、蚊帳の裾に吸ひついてゐる一匹の螢を團扇でばさばさ追ひたてながら默つてゐた。私はなにやら工合がわるかつた。
 そのころから私はみよを意識しだした。赤い絲と言へば、みよのすがたが胸に浮んだ。

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