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思ひ出(おもいで)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-16 7:02:40  点击:  切换到繁體中文


 まづ、晩の八時ごろ女中が私を寢かして呉れて、私の眠るまではその女中も私の傍に寢ながら附いてゐなければならなかつたのだが、私は女中を氣の毒に思ひ、床につくとすぐ眠つたふりをするのである。女中がこつそり私の床から脱け出るのを覺えつつ、私は睡眠できるやうひたすら念じるのである。十時頃まで床のなかで轉輾してから、私はめそめそ泣き出して起き上る。その時分になると、うちの人は皆寢てしまつてゐて、祖母だけが起きてゐるのだ。祖母は夜番の爺と、臺所の大きい圍爐裏を挾んで話をしてゐる。私はたんぜんを着たままその間にはひつて、むつつりしながら彼等の話を聞いてゐるのである。彼等はきまつて村の人々の噂話をしてゐた。或る秋の夜更に、私は彼等のぼそぼそと語り合ふ話に耳傾けてゐると、遠くから蟲おくり祭の太鼓の音がどんどんと響いて來たが、それを聞いて、ああ、まだ起きてゐる人がたくさんあるのだ、とずゐぶん氣強く思つたことだけは忘れずにゐる。
 音に就いて思ひ出す。私の長兄は、そのころ東京の大學にゐたが、暑中休暇になつて歸郷する度毎に、音樂や文學などのあたらしい趣味を田舍へひろめた。長兄は劇を勉強してゐた。或る郷土の雜誌に發表した「奪ひ合ひ」といふ一幕物は、村の若い人たちの間で評判だつた。それを仕上げたとき、長兄は數多くの弟や妹たちにも讀んで聞かせた。皆、判らない判らない、と言つて聞いてゐたが、私には判つた。幕切の、くらい晩だなあ、といふ一言に含まれた詩をさへ理解できた。私はそれに「奪ひ合ひ」でなく「あざみ草」と言ふ題をつけるべきだと考へたので、あとで、兄の書き損じた原稿用紙の隅へ、その私の意見を小さく書いて置いた。兄は多分それに氣が附かなかつたのであらう、題名をかへることなくその儘發表して了つた。レコオドもかなり集めてゐた。私の父は、うちで何か饗應があると必ず、遠い大きなまちからはるばる藝者を呼んで、私も五つ六つの頃から、そんな藝者たちに抱かれたりした記憶があつて、「むかしむかしそのむかし」だの「あれは紀のくにみかんぶね」だのの唄や踊りを覺えてゐるのである。さういふことから、私は兄のレコオドの洋樂よりも邦樂の方に早くなじんだ。ある夜、私が寢てゐると、兄の部屋からいいが漏れて來たので、枕から頭をもたげて耳をすました。あくる日、私は朝早く起き兄の部屋へ行つて手當り次第あれこれとレコオドを掛けて見た。そしてたうとう私は見つけた。前夜、私を眠らせぬほど興奮させたそのレコオドは、蘭蝶だつた。
 私はけれども長兄より次兄に多く親しんだ。次兄は東京の商業學校を優等で出て、そのまま歸郷し、うちの銀行に勤めてゐたのである。次兄も亦うちの人たちに冷く取扱はれてゐた。私は、母や祖母が、いちばん惡いをとこは私で、そのつぎに惡いのは次兄だ、と言つてゐるのを聞いた事があるので、次兄の不人氣もその容貌がもとであらうと思つてゐた。なんにも要らない、をとこ振りばかりでもよく生れたかつた、なあ治、と半分は私をからかふやうに呟いた次兄の冗談口を私は記憶してゐる。しかし私は次兄の顏をよくないと本心から感じたことが一度もないのだ。あたまも兄弟のうちではいいはうだと信じてゐる。次兄は毎日のやうに酒を呑んで祖母と喧嘩した。私はそのたんびひそかに祖母を憎んだ。
 末の兄と私とはお互ひに反目してゐた。私は色々な祕密を此の兄に握られてゐたので、いつもけむつたかつた。それに、末の兄と私の弟とは、顏のつくりが似て皆から美しいとほめられてゐたし、私は此のふたりに上下から壓迫されるやうな氣がしてたまらなかつたのである。その兄が東京の中學に行つて、私はやうやくほつとした。弟は、末子で優しい顏をしてゐたから父にも母にも愛された。私は絶えず弟を嫉妬してゐて、ときどきなぐつては母に叱られ、母をうらんだ。私がとをか十一のころのことと思ふ。私のシヤツや襦袢の縫目へ胡麻をふり撒いたやうにしらみがたかつた時など、弟がそれを鳥渡笑つたといふので、文字通り弟を毆り倒した。けれども私は矢張り心配になつて、弟の頭に出來たいくつかの瘤へ不可飮ふかいんといふ藥をつけてやつた。
 私は姉たちには可愛がられた。いちばん上の姉は死に、次の姉は嫁ぎ、あとの二人の姉はそれぞれ違ふまちの女學校へ行つてゐた。私の村には汽車がなかつたので、三里ほど離れた汽車のあるまちと往き來するのに、夏は馬車、冬は橇、春の雪解けの頃や秋のみぞれの頃は歩くより他なかつたのである。姉たちは橇に醉ふので、冬やすみの時も歩いて歸つた。私はそのつどつど村端れの材木が積まれてあるところまで迎へに出たのである。日がとつぷり暮れても道は雪あかりで明るいのだ。やがて隣村の森のかげから姉たちの提燈ちやうちんがちらちら現れると、私は、おう、と大聲あげて兩手を振つた。
 上の姉の學校は下の姉の學校よりも小さいまちにあつたので、お土産も下の姉のそれに較べていつも貧しげだつた。いつか上の姉が、なにもなくてえ、と顏を赤くして言ひつつ線香花火を五束いつたば六束むたばバスケツトから出して私に與へたが、私はそのとき胸をしめつけられる思ひがした。此の姉も亦きりやうがわるいとうちの人たちからいはれいはれしてゐたのである。
 上の姉は女學校へはひるまでは、曾祖母とふたりで離座敷に寢起してゐたものだから、曾祖母の娘だとばかり私は思つてゐたほどであつた。曾祖母は私が小學校を卒業する頃なくなつたが、白い着物を着せられ小さくかじかんだ曾祖母の姿を納棺の際ちらと見た私は、この姿がこののちながく私の眼にこびりついたらどうしようと心配した。
 私は程なく小學校を卒業したが、からだが弱いからと言ふので、うちの人たちは私を高等小學校に一年間だけ通はせることにした。からだが丈夫になつたら中學へいれてやる、それも兄たちのやうに東京の學校では健康に惡いから、もつと田舍の中學へいれてやる、と父が言つてゐた。私は中學校へなどそれほど入りたくなかつたのだけれどそれでも、からだが弱くて殘念に思ふ、と綴方へ書いて先生たちの同情を強ひたりしてゐた。
 この時分には、私の村にも町制が敷かれてゐたが、その高等小學校は私の町と附近の五六ヶ村と共同で出資して作られたものであつて、まちから半里も離れた松林の中に在つた。私は病氣のためにしじゆう學校をやすんでゐたのだけれどその小學校の代表者だつたので、他村からの優等生がたくさん集る高等小學校でも一番になるやう努めなければいけなかつたのである。しかし私はそこでも相變らず勉強をしなかつた。いまに中學生に成るのだ、といふ私の自矜が、その高等小學校を汚く不愉快に感じさせてゐたのだ。私は授業中おもに連續の漫畫をかいた。休憩時間になると、聲色こわいろをつかつてそれを生徒たちへ説明してやつた。そんな漫畫をかいた手帖が四五册もたまつた。机に頬杖ついて教室の外の景色をぼんやり眺めて一時間を過すこともあつた。私は硝子窓の傍に座席をもつてゐたが、その窓の硝子板には蠅がいつぴき押しつぶされてながいことねばりついたままでゐて、それが私の視野の片隅にぼんやりと大きくはひつて來ると、私には雉か山鳩かのやうに思はれ、幾たびとなく驚かされたものであつた。私を愛してゐる五六人の生徒たちと一緒に授業を逃げて、松林の裏にある沼の岸邊に寢ころびつつ、女生徒の話をしたり、皆で着物をまくつてそこにうつすり生えそめた毛を較べ合つたりして遊んだのである。
 その學校は男と女の共學であつたが、それでも私は自分から女生徒に近づいたことなどなかつた。私は欲情がはげしいから、懸命にそれをおさへ、女にもたいへん臆病になつてゐた。私はそれまで、二人三人の女の子から思はれたが、いつでも知らない振りをして來たのだつた。帝展の入選畫帳を父の本棚から持ち出しては、その中にひそめられた白い畫に頬をほてらせて眺めいつたり、私の飼つてゐたひとつがひの兎にしばしば交尾させ、その雄兎の脊中をこんもりと丸くする容姿に胸をときめかせたり、そんなことで私はこらへてゐた。私は見え坊であつたから、あの、あんまをさへ誰にも打ちあけなかつた。その害を本で讀んで、それをやめようとさまざまな苦心をしたが、駄目であつた。そのうちに私はそんな遠い學校へ毎日あるいてかよつたお陰で、からだも太つて來た。額の邊にあはつぶのやうな小さい吹出物がでてきた。之も恥かしく思つた。私はそれへ寶丹膏はうたんかうといふ藥を眞赤に塗つた。長兄はそのとし結婚して、祝言の晩に私と弟とはその新しい嫂の部屋へ忍んで行つたが、嫂は部屋の入口を脊にして坐つて髮を結はせてゐた。私は鏡に映つた花嫁のほのじろい笑顏をちらと見るなり、弟をひきずつて逃げ歸つた。そして私は、たいしたもんでねえでば! と力こめて強がりを言つた。藥で赤い私の額のためによけい氣もひけて、尚のことこんな反撥をしたのであつた。
 冬ちかくなつて、私も中學校への受驗勉強を始めなければいけなくなつた。私は雜誌の廣告を見て、東京へ色々の參考書を注文した。けれども、それを本箱に並べただけで、ちつとも讀まなかつた。私の受驗することになつてゐた中學校は、縣でだいいちのまちに在つて、志願者も二三倍は必ずあつたのである。私はときどき落第の懸念に襲はれた。そんな時には私も勉強をした。そして一週間もつづけて勉強すると、すぐ及第の確信がついて來るのだ。勉強するとなると、夜十二時ちかくまで床につかないで、朝はたいてい四時に起きた。勉強中は、たみといふ女中を傍に置いて、火をおこさせたり茶をわかさせたりした。たみは、どんなにおそくまで宵つぱりしても翌る朝は、四時になると必ず私を起しに來た。私が算術の鼠が子を産む應用問題などに困らされてゐる傍で、たみはおとなしく小説本を讀んでゐた。あとになつて、たみの代りに年とつた肥えた女中が私へつくやうになつたが、それが母のさしがねである事を知つた私は、母のその底意を考へて顏をしかめた。
 その翌春、雪のまだ深く積つてゐた頃、私の父は東京の病院で血を吐いて死んだ。ちかくの新聞社は父の訃を號外で報じた。私は父の死よりも、かういふセンセイシヨンの方に興奮を感じた。遺族の名にまじつて私の名も新聞に出てゐた。父の死骸は大きい寢棺に横たはり橇に乘つて故郷へ歸つて來た。私は大勢のまちの人たちと一緒に隣村近くまで迎へに行つた。やがて森の蔭から幾臺となく續いた橇の幌が月光を受けつつ滑つて出て來たのを眺めて私は美しいと思つた。
 つぎの日、私のうちの人たちは父の寢棺の置かれてある佛間に集つた。棺の蓋が取りはらはれるとみんな聲をたてて泣いた。父は眠つてゐるやうであつた。高い鼻筋がすつと青白くなつてゐた。私は皆の泣聲を聞き、さそはれて涙を流した。
 私の家はそのひとつきもの間、火事のやうな騷ぎであつた。私はその混雜にまぎれて、受驗勉強を全く怠つたのである。高等小學校の學年試驗にも殆ど出鱈目な答案を作つて出した。私の成績は全體の三番かそれくらゐであつたが、これは明らかに受持訓導の私のうちに對する遠慮からであつた。私はそのころ既に記憶力の減退を感じてゐて、したしらべでもして行かないと試驗には何も書けなかつたのである。私にとつてそんな經驗は始めてであつた。

       二章

 いい成績ではなかつたが、私はその春、中學校へ受驗して合格をした。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織つて、その海のある小都會へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅裝を解いた。入口にちぎれた古いのれんをさげてあるその家へ、私はずつと世話になることになつてゐたのである。
 私は何ごとにも有頂天になり易い性質を持つてゐるが、入學當時は錢湯へ行くのにも學校の制帽を被り、袴をつけた。そんな私の姿が往來の窓硝子にでも映ると、私は笑ひながらそれへ輕く會釋をしたものである。
 それなのに、學校はちつとも面白くなかつた。校舍は、まちの端れにあつて、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峽に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて來て、廊下も廣く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにゐる教師たちは私をひどく迫害したのである。
 私は入學式の日から、或る體操の教師にぶたれた。私が生意氣だといふのであつた。この教師は入學試驗のとき私の口答試問の係りであつたが、お父さんがなくなつてよく勉強もできなかつたらう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であつただけに、私のこころはいつそう傷けられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしてゐるとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびが大きいので職員室で評判である、とも言はれた。私はそんな莫迦げたことを話し合つてゐる職員室を、をかしく思つた。
 私と同じ町から來てゐる一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじつさい生意氣さうに見える、あんなに毆られてばかりゐると落第するにちがひない、と忠告して呉れた。私は愕然とした。その日の放課後、私は海岸づたひにひとり家路を急いだ。靴底を浪になめられつつ溜息ついて歩いた。洋服の袖で額の汗を拭いてゐたら、鼠色のびつくりするほど大きい帆がすぐ眼の前をよろよろととほつて行つた。
 私は散りかけてゐる花瓣であつた。すこしの風にもふるへをののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。私は、自分を今にきつとえらくなるものと思つてゐたし、英雄としての名譽をまもつて、たとひ大人の侮りにでも容赦できなかつたのであるから、この落第といふ不名譽も、それだけ致命的であつたのである。その後の私は兢兢として授業を受けた。授業を受けながらも、この教室のなかには眼に見えぬ百人の敵がゐるのだと考へて、少しも油斷をしなかつた。朝、學校へ出掛けしなには、私の机の上へトランプを並べて、その日いちにちの運命を占つた。ハアトは大吉であつた。ダイヤは半吉、クラブは半凶、スペエドは大凶であつた。そしてその頃は、來る日も來る日もスペエドばかり出たのである。
 それから間もなく試驗が來たけれど、私は博物でも地理でも修身でも、教科書の一字一句をそのまま暗記して了ふやうに努めた。これは私のいちかばちかの潔癖から來てゐるのであらうが、この勉強法は私の爲によくない結果を呼んだ。私は勉強が窮屈でならなかつたし、試驗の際も、融通がきかなくて、殆ど完璧に近いよい答案を作ることもあれば、つまらぬ一字一句につまづいて、思索が亂れ、ただ意味もなしに答案用紙を汚してゐる場合もあつたのである。
 しかし私の第一學期の成績はクラスの三番であつた。操行も甲であつた。落第の懸念に苦しまされてゐた私は、その通告簿を片手に握つて、もう一方の手で靴を吊り下げたまま、裏の海岸まではだしで走つた。嬉しかつたのである。
 一學期ををへて、はじめての歸郷のときは、私は故郷の弟たちに私の中學生生活の短い經驗を出來るだけ輝かしく説明したく思つて、私がその三四ヶ月間身につけたすべてのもの、座蒲團のはてまで行李につめた。
 馬車にゆられながら隣村の森を拔けると、幾里四方もの青田の海が展開して、その青田の果てるあたりに私のうちの赤い大屋根が聳えてゐた。私はそれを眺めて十年も見ない氣がした。
 私はその休暇のひとつきほど得意な氣持でゐたことがない。私は弟たちへ中學校のことを誇張して夢のやうに物語つた。その小都會の有樣をも、つとめて幻妖に物語つたのである。
 私は風景をスケツチしたり昆蟲の採集をしたりして、野原や谷川をはしり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つた。水彩畫を五枚ゑがくのと珍らしい昆蟲の標本を十種あつめるのとが、教師に課された休暇中の宿題であつた。私は捕蟲網を肩にかついで、弟にはピンセツトだの毒壺だののはひつた採集鞄を持たせ、もんしろ蝶やばつたを追ひながら一日を夏の野原で過した。夜は庭園で焚火をめらめらと燃やして、飛んで來るたくさんの蟲を網や箒で片つぱしからたたき落した。末の兄は美術學校の塑像科へ入つてゐたが、まいにち中庭の大きい栗の木の下で粘土をいぢくつてゐた。もう女學校を卒へてゐた私のすぐの姉の胸像を作つてゐたのである。私も亦その傍で、姉の顏を幾枚もスケツチして、兄とお互ひの出來上り案配をけなし合つた。姉は眞面目に私たちのモデルになつてゐたが、そんな場合おもに私の水彩畫の方の肩を持つた。この兄は若いときはみんな天才だ、などと言つて、私のあらゆる才能を莫迦にしてゐた。私の文章をさへ、小學生の綴方、と言つて嘲つてゐた。私もその當時は、兄の藝術的な力をあからさまに輕蔑してゐたのである。
 ある晩、その兄が私の寢てゐるところへ來て、治、珍動物だよ、と聲を低くして言ひながら、しやがんで蚊帳の下から鼻紙に輕く包んだものをそつと入れて寄こした。兄は、私が珍らしい昆蟲を集めてゐるのを知つてゐたのだ。包の中では、かさかさと蟲のもがく足音がしてゐた。私は、そのかすかな音に、肉親の情を知らされた。私が手暴くその小さい紙包をほどくと、兄は、逃げるぜえ、そら、そら、と息をつめるやうにして言つた。見ると普通のくはがたむしであつた。私はその鞘翅類をも私の採集した珍昆蟲十種のうちにいれて教師へ出した。
 休暇が終りになると私は悲しくなつた。故郷をあとにし、その小都會へ來て、呉服商の二階で獨りして行李をあけた時には、私はもう少しで泣くところであつた。私は、そんな淋しい場合には、本屋へ行くことにしてゐた。そのときも私は近くの本屋へ走つた。そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見ただけでも、私の憂愁は不思議に消えるのだ。その本屋の隅の書棚には、私の欲しくても買へない本が五六册あつて、私はときどき、その前へ何氣なささうに立ち止つては膝をふるはせながらその本の頁を盜み見たものだけれど、しかし私が本屋へ行くのは、なにもそんな醫學じみた記事を讀むためばかりではなかつたのである。その當時私にとつて、どんな本でも休養と慰安であつたからである。

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