日本の名随筆 別巻69 秘密 |
作品社 |
1996(平成8)年11月25日 |
春のおくりもの |
ノーベル書房 |
1975(昭和50)年8月 |
一体世の中に、何故? ときかれて、何となればと答の出来る様なことは、ごくつまらない事に違ひない。
机にも脚が四本ある、犬にも足が四本ある。何故、犬には歩けて、机には歩けないか?
こんなことに答が出来たとて、おもしろくもなんともない。
けれど、私は何故に生れたらう? とさうきいて御覧なさい。知つてゐる人は言はないし、知らない人は答はしない。それゆゑにおもしろいのです。富士山が一万三千尺あらうとも、ないやがら瀑布が世界第一であらうとも、そんなことは少しもおもしろくない。私達の知らぬことが世の中には、まだどんなに沢山あることだらう。それからまだこの宇宙には世界の人達が今迄に知つた事よりももつともつと沢山の知らない事があるに違ない、けれどそれは土の世界のことである。
うら若い少女達の夢の国では、すべてが心から心へ話されるのである。何故? ときかれて答へられる様なつまらない事は一つもないのである。
「須美さん。あなたはまあどうしたといふのだらうねえ、これを御覧なさい、お正月の晴衣の袖をこんなに汚点だらけにしてさ」
母様はお須美の小袖を畳みながら言ふのでした。母様はおつ母様である。おつ母様はお須美の様な若い娘ではないのである。母様も曾ては若い娘であつた。しかし若い娘の頃の事は忘れてしまつてゐらつしやる。それだもの若い娘の心持がおわかりになる筈はなかつた。ましてお須美が人知れぬ泪を袖にこぼした事を御存じの筈がない。泪とさへいへば悲しく流れるとばかり、世間では思つてゐらつしやらうが、少女達の夢の国では、嬉しいにつけ、かなしいにつけ、くやしいにつけ、なつかしいにつけ、わけもなくこぼれるのです。
どうしたといふの? といふ母様の問に、何故ならば、と答へられることはない。お須美は、黙つて微笑んでゐた。
「何がをかしいの」
何がをかしいのでもない。そんな時に、黙つて微笑んでゐることが夢の国を、より美しく、より楽しいものにする掟であつた。微笑ほど安全な答がどこにあらう。さうする事によつて、夢の国は少しも犯されず、知らずにただうら若い少女だけが、永遠に占領することが出来るのであつた。
「あなたは幾歳だと御思ひだえ?」
御立腹なさつて母様はさうおききになる。
あたしお正月がきたらこれだけよ、と言つて指を折つて見せるのは、わけもないことでした。しかしそれは少女の夢の国の生活を美しくするにはあまりにつまらない方法でした。あまつさへ老いやすい青春の日を数へるといふことは夢の国ではせぬことなのでした。
「今年からもう十六なんだよ」
母様の方がよくしつていらした。
お須美は黙つて微笑んでゐた。
夢の国では、すべてを秘密にする事であつた。秘密、秘密、秘密ほど美しいものが何処にあらうぞ。いつであつたかお須美は、学校の庭の鈴懸の木の根もとに穴をほつて、そこへSさんとAさんと三人で、思ひ思ひの物をお互に秘密にして小箱へ入れて誰にも知れぬ様に埋めておいた。小箱の中には、Sさんが何を入れておいたかAさんが何を秘したかお須美も知らねば、またお須美が何を埋めたか、AさんもSさんも知らない。毎日その木の根もとへ行つては、三人で微笑んでゐた。
「何を笑つてるの」
先生がさうおたづねになった。
夢の国の掟は、先生さへも犯されぬ、三人は、ただ微笑んでゐた。答をせぬ生徒を先生はぷんぷんお怒りになつて往つておしまひなすつた。三人は、それを見てまた笑つてゐた。
ある時、体操の先生がこの鈴懸の木の下で南極探検の話をなすつた。世界の秘密は南極にあり、つて先生は仰言るけれど、つい先生の脚の下にも夢の国の秘密があることを先生はご存じなかつた。
少女の秘密は、そればかりではありませんでした。赤い帯の間にも手帖の中にも、黒い眸の中にも、指環の中にも、または視線の間にさへも「世間」の人にはよむことの出来ぬ秘密があるのです。
また夢の国の少女達は、花の散るのにも、小鳥の啼くのにも、水の流れるのにも、人間が馬の様に笑ふのにも、先生が猿の様にお怒り遊ばすのにも、それぞれ秘密を見出すことが出来るのです。
また、雨の日に笠を被つて釣りをする人が茸に見えたり、桜の花が蝶に見え、障子の影が鳥に見え。柳を引けば世が悲しく、子安貝を耳にすれば竜宮の唄もきこえまする。
それを何故ときく人は、山門に入るを許さず。封度の道を犯すと言ふもの、夢の国には縁もゆかりもない人です。
強ひても夢の国の少女をお知りになりたいならば、くれぐれも「何故」とはきかないで、林檎は木の実ですか? とおたづねくださいまし。さうすれば、ええ、と答へるかもしれませぬ。いいえ、と答へるかも知れません。そのどちらを答へられてもあなたは失望なすつてはいけないのです。
しからばこの王は何界に属するや? とおたづねになつたアルフレツド王に、
「神の界に属します」と答へた少女は賢いのです。それは学校の生徒であつたからです。夢の国の少女は、ただうれしくて泣いたことでしよう。或は、黙つて微笑んだことでしよう。たとへばあの山彦です。
こちらからたづねたことを答へるばかりで、曾て自分から言つた事はないのです。
ぎりしやから以来、美しい乙女には、言ふ事は禁ぜられてゐるのです。あのにむふの娘ゑこをも夢の国の少女の一人だつたのです。
ある日のこと、じゆのの夫がゑこをの許へいつてゐるのを知つて行つて見ると、ゑこをは用もないいろいろのことをお饒舌りして、じゆのの夫を引止めてゐたのです。じゆのは大そう怒つて、それからといふものはゑこをに答へることだけしか、ものを言ふことを許さなかつた。それから後のある日のことゑこをの好きな少年がゑこをの許を訪ねてくれた。ゑこをは嬉しいことを禁ぜられてゐる今は、一言も言ふことは出来なかつた。それで黙つてほほゑんでゐた。
哀れな少年は、怒つて往つてしまつた。ゑこをは泣いてゐた。
この物語は誰でも知つてゐる話だが、少女の夢の国はかうして昔から誰にも知られず来たのです。
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