生活小觀
三年ばかり東京に居なかったので、此頃人に逢ふと「どちらにお住ひです」と聞かれる。「どこにも住んでゐません」と答へたいが、それでは氣の知れない人に心ない感じを與へさうで、「まだきまりません」と答へる。どうせ私どもは下駄を造るやうに幾つも一時に建てた貸家へ入るのだから住むといふ心持なんぞする筈はないのだ。私の中學時代では、スヰートホームという言葉が今のデモクラシーのやうに若い心を動かすほど、まだ世間が穩かであつた、つまり生活に對する實感が異つてゐたのだつた。しかし、私は此頃はしみじみとあの頃とは別な内容からスヰートホームを望むことが切になった。自分の家がない爲であらうか、妻がない爲であらうか、いや/\それはもっと深いところから來てゐる要求のやうに思はれる。
東京から遠い温泉の旅籠で、偶然東京地圖など披いて見る事がある。十數年間の東京生活が恰度外國の遊戲にある Who,When,Where,What のやうに思ひ出される。だが何時として何處として、心地よく住んだ日とて所とてないのが思はれる。でも、東京の市内ではどんな大厦高樓を見てもついぞ好ましいと思つた事はないが、田舍で北に山を持ち、南に果樹園、菜園、田畑を持つた白壁の家を見ると、今は人手に渡つて住むべくもない生れ故郷の家屋敷がなつかしまれる、「業もし成らずんば死すとも歸らず」と言つて郷關を出たのだが、そも/\業とは何であつたらう。
ある科學者は、幾千年の後には人類が跡を絶ち、バチルスが代つて地球を支配することを豫言してゐる。ある社會學者は浮世を住みよくするために、命をかけて生活組織を改造しようとしてゐる。住宅の改良といふことも、つまりはそこまで押つめて行かねばなるまい。さてそうなれば、わけもなく住心地よき住宅は自ら造られる時なのだが、それまで待つてゐなくてはならないだろうか。
子供の自由畫という事が事新しく言出されたが、一時やかましかつた自由[#「自由」は底本では「自田」]戀愛、自由結婚とおなじやうに、もつと深いところまで問題にしないで是非曲直をきめてしまつたせゐか、昔ながらに戀は曲者で、結婚は家庭行事だ。必ずしも庭園を公開するだけの意味でなく、自由住宅の時代は來ないものだらうか。ある時代に空想したやうに一輛の馬車に、バイブル一卷、バラライカ一挺、愛人と共に荒野を漂ふジプシーの旅に任しゆく氣輕さは、いまはあまりに寂しい空想である。けれど、煉瓦塀の上にガラスの刄を植ゑた邸宅の如きが凡てなくならない限り、自由住宅の時代は來ないであらう。
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私が歩いて來た道
――及び、その頃の仲間――
旅に出て宿帳を書かされる時、いつも私はちよつとした迷惑を感ずるのが常だ。第一、住所に困る。生地とか生家とかならいつも明確に分つてゐるが、私には住所が東京にも宿屋しかない場合もあるし、日が暮れて宿る所が私にとつてその夜の住所である場合もあるし、「住所なんかないんだよ」と番頭に言つても「ごじようだんでせう」と言つて本當にしない。
姓名も今では生みの親がつけてくれた名より用ひ馴れた方が自分にも人にも通りが好いし、本當らしいから、今では好きでないが使つてゐる。
ところが一番困るのは職業だ。よく日本畫の大家なんか、「美術家」とか「畫伯」とかいつてゐるが、これを自分でかいたのかと思ふと少しをかしい。「ゑかき」も變だし「アーテイスト」「ペインター」もいけない。此頃では「ゑをかくこと」と餘儀なくかいておく。
しかし實を言へば、私は自分で單に「ゑかき」だとも思つてゐない。「ゑかき」といふ商ばいはどうも好きでない。しかし、畫をかくことは好きだし、世の中で爲る事の中では、やはり一番眞劍で深くなつてゆけるし、この道はどの外の道よりも自分に適してもゐるし、幸福だと思つてはゐる。何かしら自分の技能で生活してゆくことも好いし、狹い人間生活のうはつらでうようよしないですむことも愉快だ。
中學を中途でよして、東京へ出たのは十八の夏だつた。内村鑑三氏と安部磯雄氏の演説をきいて、どうしたものかお金持になつて、天才の貧民教育の學校を建てるつもりで、朝鮮へいつてゐるうち、死んだ島村抱月氏に招かれて再度上京して小説家になるつもりで勉強してゐたが、どうも文字で詩をかくより形や色でかいた方が、私には近道のやうな氣がしだして、いつの間にか繪をかくやうになつてしまつた。
二十一の時だつた。私の下宿の近所に大下藤次郎という畫家が住んでゐた。今の新潮社の前身新聲社から「水彩畫の栞」という當時唯一のハイカラの畫の本をその人が書いたのを讀んでゐたのが縁で、描いた畫をもつて訪ねていつた。先生は私の畫を見て、
「私にはわからない、これは岡田君の許へいつたら參考になる話が聞かれるだらう」と言ふのだ。
畫というのは、關口の水車場を描いた「ブロークンミル・アンド・ブロークンハート」(破れた水車と破れた心)といふので、暴風雨の翌日、水車場の水車が壞れて、そこへ水車場の主人が悲しさうな顏をして、水車を見てゐる圖だつた。
岡田三郎助氏はやはり私の畫をわかつてくれられた。私はその時、美術學校へ入つて正則に勉強したい希望を述べると、先生は言はれる。
「美術學校という所は、畫のABCを教へる所だし、生徒をみんな一様に育て上げるのだから君には向かない。向かないばかりでなく、折角君の持つてゐる天分をこはすかも知れない」
「それでは私は勉強しないでもエラクなれませうか?」私はさう言つて訊ねた。
岡田先生は「いや學校の生徒よりもつと勉強しなくてはいけない。自分の傾向に一番ふさはしいデツサンをしつかりやつて自分を自分で育ててゆかなくちやいけない」
「ではどうして、そのデツサンをやりませう」
「どこか自由な研究所へでもゆくと良い」
そんな事で、それから一年後か二年後だつたか、その頃小石川の原町にあつた小林鐘吉氏の研究所へ通つたが、何でも三日ほど通つて、ゴムのかはりに使ふパンを三斤ほど食つただけでよしてしまつた。やはり多勢の人中で一所にわいわいやるのは私に性に合はなかつたらしい。
岡田先生は、その時にも仰有るのだつた。
「正規に學校を出て、世の中へ出てゆくのはやさしいが、君の道は苦しいからその覺悟で元氣を失つてはいけない」
果して私の道は苦しかつた。今でも苦しい。その苦しみの半面は、若い中學生諸君に話しても、つまらないし、また解つても呉れまいが、半面の苦しみは、つまり修業の苦しみ、製作の上の苦しみだから解つてもらへるかもしれない。
自分はこれから畫論をはじめるつもりはないから、修業の上の思ひ出話を一つ二つして見よう。
その頃、文展の第一回の展覽會であつたか、白馬會であつたか、利根川の上流をかいたべらぼうに大きな畫や、變な顏の赤白い女が花の前に立つてゐる畫が評判であつたが、あんな感覺も表情もない畫がどうして好いのかわからなかつた。それでも臆病な畫學生は誰にも言はないでゐた。しかし青木繁氏の「わだつみのいろこの宮」と藤島武二氏の「不忍池畔納涼圖」には感心した。今でも藤島氏は、尊敬もしてもゐるし、日本でほんたうの美人畫のかける人はあの人だとおもつてゐる。
ある時、銀座の夜店で、獨逸の「シンビリシズム」といふ雜誌を買つて、複寫のすばらしい繪を手に入れた、その山の畫はよかつた。今おもふとたしか、あれは、イタリアのセガンチニイだつたらしい。これにくらべると、その頃評判だつた「白馬山の雪景」や「曉の富士山」なんか影がうすくてとても見られないと思つたが、これもやつぱり誰にも言はないでゐた。
そんなことが獨學者には何かと不便が多かつた。セガンチニイは今でこそ日本のどんな畫學生でも知つてゐるが、その頃はたづねる友人もなかつた。その頃「ステユデイオ」なんて雜誌はどうもきらひで、獨逸の「ユーゲント」の古本を横濱から買つてきては、好きな畫をさがしてゐた。ヴエラスケスやチチアンやダ・ヴインチやミレーの畫集のシリーズが手に入るやうになつてから、非常に心強くなつてきた。といふのは日本のエライ人の中でも、ほんとうに尊敬出來る人と、エラクもなんともなくて、たゞ世間でエライ人があることがわかつたからだ。何故なら、外國のエライ人は、日本のエライ人よりも、ほんたうの畫をかいてゐることがわかつたからだ。
日露戰爭がすんで四五年した頃だつたから、外國からも新しい畫本がどし/\舶來するやうになつて、先生の不自由はなかつた。その頃獨逸の本の中に日本の浮世繪のことをかいた本があつた。支那を研究したものも、はじめは珍らしかつたが、だんだん、支那や日本の昔のゑかきの中にも、外國人にまけないエライ――ほんたうのエライ人がゐる事がわかり出した。
さうして僕の畫の先生は、ますます殖えていつた。
・その頃の仲間・
その頃僕の畫室に集まつて一所にモデルを雇つて勉強してゐた人に、恩地孝四郎、久本信、小島小鳥、田中未知草、萬代恒志の諸氏がゐた。この中で田中と萬代は前後して死んでしまつた。二十代のもしくは三十歳前後の諸君の兄さんか姉さんは覺えておゐでだらうが、「萬代つねし」はその頃の雜誌に、美しいそしてすばらしくデリケートな「さしゑ」をかいてゐた。その頃やはり「さしゑ」をかいてゐて死んだ宮崎與平も、仲間で、よく一しよに寫生に出かけたものだつた。
その頃は電車の中がいつもがらあきで、寫生するには持つてこいだつた。寫生する畫學生も少なかつたから、誰にも氣づかれずに平氣でやつてゐた。淺草公園やその頃の新橋の停車場などは、人間をかくに最も好いスケツチ場になつてゐた。
姿の好い人の後をつけて、スケツチしながら歩くので、電信柱や人力車と衝突することは度々だつた。淺草へゆくと一日にスケツチ帖を五册位かいたものだ。カルトンを抱へこんで江川の玉乘の二階に、ドガ氣取りで構へ込んで、毎日やつてゐたこともあつた。その頃淺草に木下茂という可愛い少年畫家がゐた。太平洋畫會にゐて、實におもしろい畫をかいたものだつたが、此頃はすつかり日本畫に宗旨變へして未來派じみた畫をかいてゐる。淺草の女を描く事に於ては、木下君に自信もあつたし、みんなも囑望してゐたのだつたが。
漫畫家の山田實君の兄さんに山田清といふ男がゐた。その頃學校の生徒で、素晴しいカラリストで、すてきな美しい芝居の畫をかく天才だつた。生きてゐたら、ちよつと得がたい人だつたらう。
どうも「さしゑ」を描く人は夭逝するやうだ。それにはいろいろな理由もあるだらうが、挿畫家はどの畫家よりも神經を多量に疲勞させることも原因であらうし、この頃はまた殊に、ペンでかくので、白い堅い紙へ金屬をごしごし引かくのが神經系にがりがり響くのも好くないらしい。一面から言へば「さしゑ」は多くロマンテイシストがやるやうだし、また、自然に對し人間に對してすぐれた鋭い感覺と感激を持つたものが、多く「さしゑ」を描くから、得て、さういう人は病身だからとも言へる。
この外にもまだ「さしゑ」をかいて死んだ人が二三人あるが、必要でもないから書くまい。「さしゑ」に較べて油繪や屏風の繪は、遙かにらくだ。心持の使ひ方が全身的で創作の上のまた表現の上の苦しみはまた一倍だが、神經的でなく愉快だ。
私の油繪や水彩や草畫の個人展覽會をやつたのは、今からもう十數年前のことで、第一回は京都の圖書館の樓上だつた。その頃の個人展覽會で一日數千の入場者があつたことは未曾有だつたし、自分の作品を見に來てくれる人に感謝する心持で興奮して、事務室の窓のところから、蒼い秋の空を見ながら、一所にいつてゐた恩地君や田中君と手を握り合つて涙をこぼしたものだつた。あの頃のやうな純粹な心持はもう再び返つては來ないだらう。さう思うと、淋しくもなる。
その折、アメリカの學者で來朝してゐた、ボストンの博物館長キウリン氏が、展覽會を見にきて、畫を買つてくれたり、外國行のことや、博物館を展覽會のために貸してくれる好い條件で、すゝめてくれたが、何だか外國へゆきたくなかつたのでいまだに約束を果さないでゐる。今にしておもへばあの時が最も好い機會だつたのだ。今は、外國で展覽會をよしやつても、あの頃のやうな純粹な感激を持つことは出來ないだらう。
その後、フランスの後期印象派、未來派、三角派などが日本の畫学生に影響を與へた當時の仲間話はあるが、これだけにしておかう。
讀者諸君の中に、將來畫をやらうと思ふなら、私の通つたような道を歩いてはいけない。やはり正規に中學、美術學校にいつて、帝展でも何でも出品して、やはり世間的に表通りを歩いてエラクなる方が好い。裏道は、萬人に向かない。
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