幕末維新懐古談 |
岩波文庫、岩波書店 |
1995(昭和30)年1月17日 |
1995(平成7)年1月17日第1刷 |
1995(平成7)年1月17日第1刷 |
師匠東雲師の家が諏訪町へ引っ越して、三、四年も経つ中に、珍しかった硝子戸のようなものも、一般ではないが流行って来る。師匠の家でもそれが出来たりしました。障子の時は障子へ「大仏師高村東雲」など書いてあったもの。
仕事は店でやったものです。店には兄弟子、弟弟子と幾人かの弟子がいますが、その人々はただ腕次第、勉強次第でコツコツとやっている。別に現今のよう、その製作が展覧会などで公開され、特選とか推薦とかいって品評されるわけでもなく、特にまた師匠が明らさまに優劣を保障するわけでもないが、何時となく、誰いうとなく、腕の好いものと、拙いものとはチャンと分っている。それは自然自他ともにそれを感ずるのであって、自分がいかにお天狗でも人はそれを許さず、人の評判ばかり高くて虚名がよしあるにしても、楽屋内では、それを許さない。だから自然と公平な優劣判断のようなものが、仲間のなかに分っていたものです。
たとえば、或る仏師の弟子の製作があるとして、それが塗師屋の手に渡る。塗師屋の主人は、それを手に取って、「オヤこれは旨いもんだ。素晴らしい出来だ。何処から来たんだ。誰の作だ」と訊くと、「それは、何さんの所の弟子の何さんという人の作だ」という。それで、その作をした人の名が一人に分り、二人に記憶され、今度、たとえば、その作人がその塗師屋へ使いに行くとして、親方の挨拶が、ガラリ違って、丁寧になるという塩梅、それはおかしなものであります。
右の如く、弟子たちは、仕事のことに掛けては、一心不乱、互いに劣るまい、負けまいと、少しの遠慮会釈もなく、仕事本位の競争をしますが、内面の交わりとなると、それはまた親密なものでありました。
たとえば、今夜はお鳥様だから、一緒に出掛けようという時に一人の弟子は、懐工合が悪いので、行きしぶっているとして、工面の好い連中が、「何を考えてるんだ。出掛けろ出掛けろ」と、一切飲食のことをも負担したもので、なかなかうつくしいところがあったものです。
と、いって、またなかなか仕事の事になると許さない処がある。田舎から用事のある人が訪問て来て、或る仏師の店を覗き、「もし、お尋ねしますが、此店に仏師の松さんはいますか」
と聞いたものです。すると、誰かが、
「仏師の松さんね。そんな人はいないよ」と返事をしたもの。
実は其所に松さんは隅の方で小さくなって仕事をしているが、それはまだ「仕上げ師」の方で、仏師と呼ばれる資格はないから、こんな皮肉な返事をしたもので、田舎の人は、仏師屋の職人だから、仏師かと思って何んの気なしにいったのですが、松さん当人は顔が紅くなるようなわけ。なかなか許さなかったものです。仕上げをするのを、ケズリ師といって、これはまだ未熟の職人の仕事で「刻り」をするようにならなければ、仏師の資格はないのです。けれども、当時は、各人その職に甘んじ、決して不平なんぞをいいはしませんでした。それは自分の腕を各自が知っていたからでありましょう、すべて、一尺以内の小者を彫るのを小仏師、一尺以上を大仏師といったもの、大仏師になれば大小を通じてやる腕のあることはもちろんのことでした。
それで、腕は優れていながら、操行のおさまらぬ職人の中などに、どうかすると、鑿と小刀を風呂敷に包み、「彫り物の武者修業に出るんだ」といって他流試合に出掛けるものがいたもんです。仏師の店へ飛び込んで、
「師匠と腕の比べっこをしよう。何んでも題を出せ。大黒でも弁天でも、同じものを同じ時間で始めよう。どっちが旨く、どっちが早く出来上がるか、勝負を決しよう……」などと、力んだもの。それで、面倒であったり、または、腕のにぶい師匠は、そっと草鞋銭を出して出て行ってもらったなど、これらもその当時の職人気質の一例でありました。
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