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幕末維新懐古談(ばくまついしんかいこだん)01 私の父祖のはなし

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-15 7:06:45  点击:  切换到繁體中文

底本: 幕末維新懐古談
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1995(昭和30)年1月17日第1刷
入力に使用: 1997(平成9)年5月15日第6刷
校正に使用: 1995(平成7)年1月17日第1刷


底本の親本: 光雲懐古談
出版社: 万里閣書房
初版発行日: 1929(昭和4)年1月

 

まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のことを概略あらまし話します。
 私の父は中島兼松なかじまかねまつといいました。その三代前は因州侯の藩中で中島重左じゅうざもんと名乗った男。せがれ同苗どうみょう長兵衛ちょうべえというものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層美事みごとひげをもっておった人物であったから、世間から「髯の長兵衛」と綽名あだなされていたという。その長兵衛の子の中島富五郎とみごろうになってわたしの家は全くの町人ちょうにんとなりました。

 富五郎の子が兼松、これが私の父であります。父の家は随分と貧乏でありました。これは父が道楽をしたためとか、心掛けが悪かったとかいうことからではありません。全く心柄こころがらではないので、父の兼松は九歳の時から身体からだの悪い父親の一家を背負せおって立って、扶養の義務を尽くさねばならない羽目はめになったので、そのためとうとうこれというまった職業を得ることも出来ずじまいになったのであります。父としては種々いろいろの希望もあったことでありましょうが、つまり幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取りまとまったものにならなかったことでありました。
 祖父に当る富五郎は八丁堀はっちょうぼり鰻屋うなぎやをしていたこともありました。そのころは遊芸が流行で、そのうちにも富本とみもと全盛時代で、江戸市中一般にこれが大流行で、富五郎もその道にはなかなか堪能たんのうでありましたが、わけて総領娘は大層上手じょうずでありました。父娘おやことも芸事が好き上手であったから自然その道の方へ熱心になり、娘は十か十一の時、もう諸方の御得意から招かれて、行く末は一廉ひとかどの富本の名人になろうと評判された位でありました。親の富五郎も鼻高々で楽しんでおりましたが、ふと、或る年悪性の疱瘡ほうそうかかってくなってしまいました。そのため富五郎は悉皆すっかり気を落としてしまい、気の狭い話だが、自暴やけを起して、商売の方は打っちゃらかして、諸方の部屋へやへ行って銀張りの博奕ばくちなどをして遊人あそびにんの仲間入りをするというような始末になって、家道は段々と衰えて行ったのでありました。
 しかし、この富五郎という人はごく気受けのい人で、大層世間からは可愛がられたといいます。やがて、家業を変えて肴屋さかなやを始め、神田かんだ大門だいもん通りのあたりを得意に如才なく働いたこともありますが、江戸の大火にって着のみ着のままになり、流れて浅草あさくさ花川戸はなかわどへ行き、其所そこでまた肴屋を初めたのでありました。
 花川戸の方も、所柄ところがら、なかなか富本が流行はやりまして、素人しろうと天狗連てんぐれんが申し合せ、高座をこしらえて富本を語って大勢の人に聞かせている(素人が集まって語り合うことをおさらいという。これに月さらい、大さらいとある)。根が好きでもあり、上手でもあった富五郎がこの連中へ仲間入りをしたことは道理もっともな話……ところが富五郎が高座に出ると、大層評判がよろしく、「肴屋の富さんが出るなら聞きに行こう」というようなわけでした。このおさらいは下手へたな者が先に語る。多少上手な者があとで語るのが通例である。そのため聴衆は先に語る人に悪口をいう。下手な人が高座に上がると、「貴様なぞは早く語って降りてしまえ、富さんの出るのが遅くなるぞ」など騒ぎました。すると、その連中の中に、この事を口惜くやしがり、富五郎の芸をそねむものがあって、ひそか湯呑ゆのみの中に水銀をれて富五郎に飲ませたものがあったのです。そこは素人の悲しさに、湯くみがない。湯くみは友達が替わり合ってしたのですから、意趣を持った男はそのひまに悪いことをしたのと見える(本職の太夫たゆうは、他人には湯はくませはしない。皆門人を使うことになっている)。富五郎はその晩から恐ろしく吃逆しゃっくりが出て、どうしてもまらない。身体からだも変な工合ぐあいになって行きました。
 すると、それを見たお華客とくい先の大門通りの薬種屋の主人が、「これあいけない、富五郎さん、お前さんは水銀みずがねにやられたのだ、早速手当てをしなければ……」というので、その主人は一通りの薬剤のことには詳しかったので、解剤げざいをもって手当てをしました。すると、ようやく吃逆は直りましたが、声は全く立たなくなる。身体はかなくなる。まるで中気ちゅうきのような工合になって、ヨイヨイになってしまいました。
 この時はちょうど私の父の兼松が九歳の時であります。九歳の時から一家扶養の任に当って立ち働かねばならない羽目になったというのはこれからで、その上弟が二人、妹が一人、九ツや十の子供には実に容易ならぬ負担でありました。

 こういう風の一家の事情ゆえ、そのしばらく前から奉公に出ていた袋物屋を暇取って兼松はうちへ帰って来ました。家へ帰って来はしたものの、どうしていか、十歳にも足らぬ子供の智慧ちえにはどうしようもない。けれど、小供こども心に考えて、父富五郎は体こそ利かぬようになったが、手先はまことに器用な人であったから、「おとうさん、何かこしらえておくれ、わたしが売って見るから」というので、子供ながら手伝い、或る玩具おもちゃこしらえ、それを小風呂敷こぶろしきに包んで縁日へ出て売り初めたのです。
 そのおもちゃというのは、今では見掛けもしませんが、薄い板を台にして、それに小さな梯子はしごが掛かり、梯子の上で、人形にんぎょうの火消しが鳶口とびぐちなどを振り上げたり、火の見をしていたりしている形であります。それがチョット思いつきで人目をき、子供が非常にほしがるので、相当商売になりました。で、細々ほそぼそながら、まずどうにかやって行く……その内、縁日の商いの道が分るにつけ、いろいろまた親子で工夫をして、一生懸命に働いては、大勢の一家を子供の腕一本でやって行きました。
 こういう有様であるから、とても普通なみの小供のように一通りの職業を習得するは思いも寄らず、糊口くちすぎをすることがせきやまでありました。そのうち、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが相更あいかわらず親をば大切にして、孝行息子むすこというので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負おぶって行く。頭をって上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。

 私の母は、埼玉県下高野しもたかの村の東大寺という修験しゅげんの家の出であります。その家の姓は菅原すがわら道補どうほという人の次女で、名をますといいました。こうした家柄に育てられた増は相当の教育を受け、和歌の道、書道のことなどにも暗からぬほどに仕附けられておりましたので、まず父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境遇に同情し、充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。兼松には先妻があり、それが不縁となって一人の男子もあった(これが私の兄で巳之助みのすけという大工で、今年ことし七十八歳、信心者しんじんもので毎日神仏へのおまいりを勤めのようにしております。今は日本橋にほんばし浜町はまちょうの娘の所で、達者で安楽にしている)。その中へ、自ら進んで来てくれて、夫のため、しゅうとのために一生を尽くした事は、私どもに取っても感謝に余ることである。
 祖父富五郎はちょうど私が十二歳で師匠の家に弟子でし入りした年、文久三年七十二歳の高齢で歿ぼっしました。
 また私の父兼松は明治三十二年八十二歳にて歿し、母は明治十七年七十歳にて亡くなりました。





底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:山田芳美
校正:土屋隆
2006年1月15日作成
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