明治文學全集 58 土井晩翠 薄田泣菫 蒲原有明 集 |
筑摩書房 |
1967(昭和42)年4月15日 |
1967(昭和42)年4月15日 |
1967(昭和42)年4月15日 |
泣菫詩集 |
大阪朝日新聞社 |
1925(大正14)年2月 |
私が第一詩集暮笛集を出版したのは、明治三十二年でしたが、初めて自分の作品を世間に公表しましたのは、確か明治二十九年か三十年の春で、丁酉文社から出してゐた『新著月刊』といふ文藝雜誌に投稿したのだつたと思ひます。丁酉文社といふのは、島村抱月、後藤宙外その他二三氏の結社で、事務所は東京牛込神樂坂を少し揚塲町の方につた後藤宙外氏の家においてあつたやうに記憶して居ります。私の作が雜誌に出ると、丁酉文社から使の人が謝禮にまゐりました。その頃私は麹町區中六番町のある漢學先生の家に部屋借をして居りましたが、その使の人が來て私に會ひたいといふので、玄關に出て行きますと、叮重な挨拶で、是非先生にお目にかゝりたいといふのです。私はこれまでつひぞ先生と云はれたことが無かつたので、
『先生ですか?、先生は只今お留守のやうです。』
とはにかみながら返事をいたしました。すると使の人は殘念さうに、それでは、これをお歸りになりましたらお禮にといつて差上げて呉れといつて大きなビスケツトの箱を置いて歸りました。すると恰度そこへ來合せたのが、私の親友で、後に辯護士になつて大阪の市政界に活躍した中井隼太氏でした。私が詩の謝禮にビスケツトをもらつたといふことを話しますと、氏は非常に憤慨して、あんな長い詩の謝禮にビスケツトとは怪しからぬ、是非突つ返せといふのです。私は折角使の方が持つて來たものを返すといふのは變だなといふと、中井氏は何も變なことはない、詩の謝禮にビスケツトを持つて來るといふのが變なのだ。すべて藝術家は初のお目見得が大事なのに、それにビスケツトをもらつたといふのは恥ぢやないか、是非突つ返せといふので、なるほどそんなものかなあ、それでは返へさうといふことになつて氣がつくと、中井氏はもうそのビスケツトの鑵をあけて、なかのお菓子を喰べかけてゐるのでした。
この雜誌に出ました私の詩は、杜甫の『花密藏難見』といふ句を題に、長短各種の作を取り交ぜた十頁ほどの長さのものでした。その多くは七五調で、なかで八六調十四行を一つに取纏めた絶句といふのが五六篇ありました。この絶句は私が前からキイツや、ロゼチや、ワーヅワースや、古くはペトラルカなどの試みたソネツトの眞珠のやうな美しい光に耽醉して居りまして、どうかしてこの詩形をわが詩壇にも移してみたいものだと思つて試みたものでした。なぜ八六調を選んだかといふことについては、どう考へても、今思ひ當りません。詩は仕合せと好評でした。私の門出は、多くの詩人に較べて寧ろ幸先のよい方でした。私はどういふ性分か、今でも惡口を云はれるよりは、譽められる方が好きですが、この性分はその頃からあつたものと見えて、すつかりいゝ氣持になりました。そして引續きぐんぐん詩を作つて、殆んど毎號のやうに『新著月刊』に寄せました。その多くは暮笛集に輯めてあります。
私は明治三十年の春、徴兵檢査を受けるために、東京を發つて故郷の備中に歸りましたが、暮笛集に輯められた『木曾川』『琵琶湖畔にたちて』『加古河をすぎて』『楫保川にて』『關山曲』などは、その途中の作でした。
私は郷里に歸つてから、病氣で三年ほどぶら/\してゐました。三十二年の夏頃、大阪の書肆文淵堂の主人で、俳名春草といふ金尾種次郎氏が、その頃大阪で『造士新聞』といふ文藝新聞を編輯發行してゐた私の友人平尾不孤氏を通じて、私の詩集を發行させてくれといつて來ました。で、承諾して、その秋出版したのが暮笛集で、畫は赤松麟作、丹羽默仙二氏が描いてくれました。二氏は文淵堂主人の友人で、その當時畫界の流行であつた中村不折氏の畫風の影響をうけたやうな畫でしたから、俳畫めいてゐて、私の詩の畫としては呼吸が合はぬ憾があつたやうでした。集の體裁は、四六を横に綴ぢた、何となく尺八の譜でも見るやうな氣分が無いでもありませんでしたが、それでも中味は凝つた二度刷で、從來安物の講談本しか見られなかつた大阪の出版界では、どちらかといへば、出來のいい出版物でした。
この詩集の出版元文淵堂は、その後東京に店を移しましたが、その頃は大阪心齋橋南本町の東北にあつた角店で、店の主人種次郎氏は當時二十一二才の美しい若者でした。四十二三才まで獨身でゐて、たゞもう出版事業に專念してゐた風變りの男で、先年與謝野晶子夫人が、
『何が悲しいといつて、戀もしないで、紅顏徒らに褪せてゆく文淵堂さんの姿を見るほど悲しいことはございませんね。』
と、私に話されたことがありましたが、それは與謝野さんが事情をよく御存じなかつたから、かうした嘆息を洩らされましたので、文淵堂主人が四十を過ぎるまで獨身で、童貞を守つてゐましたのは、その初戀の人が、縁なくして他家へ嫁づかなければならなくなつた當時、同主人に對つて、『私の頼みですから、あなたは精出して立派に出版業に成功して下さい』と言ひ殘した、その一言を守袋に入れて、半生の間童貞を守つて、その事業に專念してゐたのでした。
若い船塲商人の戀の一念の結晶である、その出版事業の第一着手として私の詩集が選ばれたのは、私を一方ならず喜ばせました。
この集を出版するについては、文淵堂は無論損をするつもりで取懸つたのでしたが、書物は思つたよりはよく出て、瞬く間に版を重ねました。讀書界の評判も、私の豫期してゐた以上によく、中に二三の批評家が、作者に辛らかつたのがある位でした。
その頃詩人として、私達の前に新しい道をきり拓いて進んでいつた人の中では、島崎藤村氏と土井晩翠氏とが最も光つて居りました。島崎氏は、その詩魂の持ち方において、情緒の動き方において、私達の脈搏に相通ずるものがあつて、氏の作品からは暗示を得る機會がたんとありました。實際若菜集を出した頃の島崎氏の感情の姿は、どんなにか華やかな踴躍に滿ちたものでありましたでせう。
私が後年同氏にお目にかゝつた折は、氏は夫人を亡くせられて、幼い子供さん達と一緒に不自由な下宿住ひをしてゐられる頃でしたが、はじめて見る氏の頭髮は殆んど半白で、永い間の氏の勞作と、悲哀とをまざ/\と見るやうで、これが幾年前の若菜集の詩人だらうかと思はれる程でした。その折、島崎氏は几帳面に膝の上に手を置いて、
『その後暫くお目にかゝりませんでしたね。』
といつて、私の顏をしげ/\と瞠められました。私はちよつと驚きました。氏にお目にかゝるのは、その日が初めてでしたのに、『その後暫く………』は何だか少し氣味が惡いやうな氣持がしない事もありませんでした。
『その後………といつて、お目にかゝるのは今日が初めてでせう。』
と、私はいひました。
『いゝえ、二度目ですよ。この前、國木田君が生きてゐた頃、どこかでお目にかかつたぢやありませんか。』
島崎氏は私が物忘れしてゐるのを訝しがるやうな口吻で云はれました。
『そんな筈はありません。こんどが初めてです。』
『なに、二度目ですよ。』
と、私達は暫く言ひあらそひました。
實際島崎氏が何といはれたつて、私達が會つたのは、その日が初めてゞした。氏は國木田氏が在世の頃といはれましたが、私が國木田氏に會つたのは、たつた二度で、それも二度とも大阪の土地ででありました。
その日、島崎氏と何くれとなく話をしてゐますと、
『お父さん只今。』
と、いつて氏の子供さんが二人連で學校から歸つて來られました。すると島崎氏は、ぶきつちよな手附で、本箱の抽斗から蜜柑を二つ取出して、
『さあ、これを上げますから、おとなしくしていらつしやいよ。今、お客さまですから。』
と、いつて居られました。
『なか/\おたいていぢやありませんね。』
『なに、男の子はいゝんですが、女の子には弱らされます。この頃は髮結の稽古までさせられてゐるんですからね。』
私は、そんな話を聞いて、暗然としたことがありました。
土井晩翠氏はその頃、高山樗牛氏はじめ、赤門出の批評家から頻りに推讚の聲を寄せられてゐましたが、私は土井氏の詩風とはどうも呼吸がぴつたりと合はないものですから、失禮ですが、あまり注意して居りませんでした。その後、氏が世界漫遊の途に上られて、羅馬にキーツの墓を訪はれた時、私がこの詩人を好いてゐたことを思ひ出されて、その墓畔に咲いてゐた紫と紅の花を二三輪摘んで、それを手紙に封じ込めて、遙かに伊太利の旅先から寄越された時には、その友誼をしみじみ嬉しく思ふとともに、もつとよく氏の作を讀んでゐた方がよかつたのだと思ひました。
私の第二の詩集『ゆく春』は、明治三十四年十月に、前のと同じ金尾文淵堂から出版しました。その頃私は大阪に出て、角田浩々歌客、平尾不孤氏達と一緒に、雜誌『小天地』の編輯をやつてゐました。この詩集は、その頃の出版界に流行した袖珍型の絹表紙で、本文はやはり二度刷でした。中味の二度刷といふことは、その頃の出版界では可なり贅澤と思はれてゐたと見えて、その後尾崎紅葉山人を訪ねました時、尾崎氏は書肆からお送りしたこの本を取出して、二度刷は贅澤だと二度ばかりも言つてゐられたのを聞きました。その癖内容の詩については何一つ言つてゐられなかつたのを思ふと、多分尾崎氏は、中の詩は一行も讀まれなかつたものと見えます。恰度その頃、私の親友高安月郊氏が、小説『金字塔』を出版されたことがありました。菊版で、ワツトマンの純白な紙に、富岡鐵齋翁の金字塔といふ字を金箔で捺した清雅な裝幀でしたが、高安氏に會ふと、尾崎氏は同じやうにこの本の裝幀をほめ、
『私もこんなにして本を出してみたい。』
と、まで云つて居られたさうですが、その折も、肝腎な小説の出來榮えについては、何一つ批評がましい事を云はれなかつたので、よく見ると、『金字塔』のふちは少しも切つてなかつたさうです。私達はその當時、それを話し合つて、『多分紅葉山人には詩は解らないのだらう。』といつて笑つたことがありました。
『ゆく春』の畫には、滿谷國四郎氏の作が四枚はいつてゐて、どれだけ本の美觀を添へたか知れません。滿谷氏は同じ中學の先輩で、代數の教科書の餘白といふ餘白を、すつかり受持教師の百面相で埋めてゐたほどの人でした。私が十八歳の春上京して暫く厄介になつてゐましたのは、牛込宮比町の聞鷄書院といつた漢學の私塾で、塾の先生は山田方谷の門弟宮内鹿川といつた王學の老先生でした。私は鹿子木孟郎氏などと一緒に、そこにおいて貰つて、夜は傳習録の講義などを聞いてゐましたが、その頃は漢學が一向振はなかつたものですから、聞鷄書院の門をくゞる若い學生はたまにしかありません。それには清雅な氣品を備へた宮内先生も、流石に弱られて、ある日のこと、
『どうも學生の足が遠くて困るから、一つ英漢數教授といふことに、看板を塗り替へようと思ふ。ついては英語と數學を教はりに來る學生があつたら、そこを君一つうまくやつてはくれまいか。』
と、私に相談がありましたので、私も
『先生のお役に立つことなら、どうにかしてみませう。』
とお引請して、その日からあわてゝ肩揚を下したことがありました。
英漢數教授の利目は覿面で、その看板が揚がると、三四名の學生がどやどやとはいつて來ました。私はそれに英語と數學とを教へました。ある日のこと、その學生の一人が『若先生………』といつて、改まつて私を呼ぶのです。さうして『先生に訊いたら判るだらうが、今日神樂坂を通つたら、蒲生氏郷の「蒲」といふ字の下に「燒」といふ字を書いた家があつたが、あれは何をする家ですか』と訊くのです。この問題は英語でも數學でもありませんでしたが、私は『それを蒲燒とよむので、鰻の料理のことだ、それはうまいものだよ』と叮嚀に教へたことがありました。その當時蒲燒を知らなかつた若い學生は、その後役人になつて、鰻のぼりにだん/\出世して、そこらを泳ぎまはつてゐるのも思ひ出の一つです。
その頃の或る夏の夕方、私が一人で塾の留守番をしてゐますと、そこへひよつこりはいつて來た男がありました。その男は、
『私は日暮里にゐるもので、毎日こちらに通ふわけには參りませんから、一週一日でも二日でも、參つた折にたて續けに三四時間、本の講義が聞かしていたゞけないでせうか。』
といつて頼むのです。その顏をよく見ますと、忘れもしない、代數の教科書に教師の似顏を書き散らしてゐた滿谷國四郎氏でありました。
[1] [2] 下一页 尾页