泣菫随筆 |
冨山房百科文庫43、冨山房 |
1993(平成5)年4月24日 |
1994(平成5)年7月20日第2刷 |
「奥さん、謝れなら謝りまんが、それぢやお宅の飼猫だすかいな、これ」
荷車曳きの爺さんは、薄ぎたない手拭で、額の汗を拭き拭き、かう言つて、前に立つた婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。二人の間には、荷車の轍に轢き倒された真つ黒な小猫が、雑巾のやうに平べつたくなつて横たはつてゐました。
六月のむしむしする日の午後でした。私は大阪のある場末の、小学校裏の寂しい裏町を通りかかつて、ふとこんな光景を見つけました。
「いいえ、宅の猫ぢやありません。うちの猫だつたら、こんなとこに独り歩きなぞさせるもんですか。可哀さうに」
婦人のそばかすだらけの顔は、憎しみでいくらか曲つてゐるやうに見えました。小さな鼻の上には、脂汗が粒々になつて溜つてゐました。間違ヘやうもない、新聞の婦人欄でよく見覚えのある関西婦人――協会の幹事で、こちらの婦人界では顔利きの一人でした。婦人――協会といふのは、鮨万の板場から聞いた東京鮨の拵へ方と、京都大学教授から受売りのアインシユタインの相対性原理の講釈とを、一緒くたにして取り扱ふことのできる所謂有識婦人の集まりでした。
「へえ、お宅の飼猫やないもんを、なんでまたわてがあんさんに謝らんなりまへんのだすか」
爺さんは、小猫が婦人のものでなかつたのを聞くと、急に気強くなつて、反抗的に唇を尖らせました。
「私にあやまれと誰が言ひました」
婦人は強ひて気を落ちつけようとして、袂から手巾を取り出して鼻先の汗を拭きました。
「そんなら誰にあやまるんだす。あやまる相手がないやおまへんか」
爺さんは口論に言ひ勝つたもののやうに、白い歯を見せてせせら笑ひをしました。通りかかつた近所の悪戯つ児が三、四人立ち停つて、二人の顔を見較べてゐました。
「いや、あります」婦人はきつぱりと言ひました。「この小猫にあやまらなくちやなりません」
「猫に」爺さんは思はず声を立てて眼を円くしました。「猫にあやまれなんて、阿呆らしいこと言ひなんな。わてかう見えても人間だつせ」
このとき、死にかかつた小猫は痙攣るやうに後脚をびくびく顫はせて、真つ黒な頭を持ち上げようとしましたが、雑文ばかり流行つて、一向秀れた創作が出ないと言ふ批評家の言葉が耳に入つたものか、それとも小猫にあやまらさうとする婦人の言葉を洩れ聞いて、もしかそんなことにでもなつたなら、一番挨拶に困るのは自分だと思ふにつけて、急に世の中が厭になつたかして、そのままぐつたりとなつて息が絶えてしまひました。
そんなことに頓着のない二人は、哀れな小猫の死骸の上で元気よく喧嘩を続けました。婦人は言ひました。
「さうです。あなたは人間です。だからあやまらなくちやなりません。あなたが過失にしろ小猫を轢き殺したのは悪いことです。自分のした悪いことを後悔してそれをあやまるのは、人間だけにしかできないことなんですからね」
荷車曳きの爺さんは、冷やかに答へました。
「さよか。そないお談義やつたら、また今度の折にしてもらひまつさ。わてらその日稼ぎだすよつて、忙しおますからな」
「それぢや、猫の子があまり可哀さうだとはおもひませんか」
婦人は疳の高い、きいきいした声を立てました。
「まるで猫狂ひや」爺さんは独語のやうに言ひました。「わてがあやまつたら、あんさんは満足だつしやろが、それ聞いたかて、死んだ猫は生きかへらしまへんぜ、奥さん」爺さんは投げ出すやうに言つて、路の真ん中に曳き捨てておいた自分の荷車のはうにそろそろ帰りかけようとして、その蔭に立聴きをしてゐる私の姿が目に入ると、ちよつと笑顔を見せて、「なあ、旦那はん」とつけ加へました。
その瞬間、私は婦人の敵意ある眼をちらと顔に感じました。婦人はやがて腰を屈めて、取り出した手巾のなかに小さな黒猫の死骸を包みました。そして側に立つて不思議さうにそれに見とれてゐる三、四人の子供たちに呼びかけました。
「いい児だから、あなた方、この猫の子をどこかに埋めてくれない。お駄賃にこれをあげますから」
婦人の指の間には、五十銭銀貨が光つてゐました。子供たちは黙つて互ひに顔を見合せましたが、誰ひとり手を出さうとはしませんでした。
それを見た荷車曳きの爺さんは、また後がへりをしてきて、子供たちの前に立ちはだかりました。そして前とは打つて変つて丁寧に、
「そんなだしたら、奥さん、わてに始末さしてもらひまつさ。もともとわての粗相から起きたことだすよつてな」
「お前さんにはお頼みしませんよ」婦人の顔はまた険しくなりました。「お前さんは、自分のした粗相をあやまらうとしなかつたぢやありませんか」
「あやまりまんがな。そない言はんかてあやまりまんがな」爺さんは捩ぢ曲げるやうにして強ひて笑顔を作りました。そして手巾の結び目から小猫の死骸を覗き込みながら言ひました。「えらい済まなんだなあ、堪忍しとくれや。これでよろしおまつしやろ、奥さん」
爺さんの手は、掻き払ふやうにして婦人の指さきから銀貨をもぎとりました。そして小猫の包を受け取るなり、それをがらくたの荷物の上に投げ込んで、梶棒を取るが早いか、がたびしと荷車を曳き出しました。
私は後を追ふともなしに車についてゆきました。路が横堀に出ると、爺さんは後に手を伸ばして手巾の包を取り上げるなり、堀の水を目がけてぽいとそれを投げおろしました。
白い猫の包は、碧い堀割の水に浮きつ沈みつ、しばらく流れてゐました。
〔昭和2年刊『猫の微笑』〕
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