現代日本紀行文学全集 西日本編 |
ほるぷ出版 |
1976(昭和51)年8月1日 |
1976(昭和51)年8月1日初版 |
薄田泣菫全集 第八巻 |
創元社 |
1939(昭和14)年 |
私がじめじめした雜木の下路を通りながら、久米寺の境内へ入つて來たのは、午後の四時頃であつた。
善無畏が留錫中初めて建てたといふ、恰好のいい多寶塔をちらと振仰ぎながら、私は仙人堂へ急いだ。久米仙人の木像を見ようといふのだ。仙人は埃だらけの堂のなかで、相變らず婦人でも抱かうとするやうな、妙な手つきをして龕のなかに納まつてゐた。
私は久米の仙人が好きだ。好きだといつて、何も交際ぶりが氣に入つたとか、酒の上の話が合つたとかいふのではない。不思議な仙術を得て、あちらこちらと空を駈けずりまはる途すがら、そこいらの河の縁で洗濯女の白い脛を見て、急に地面に落ちたといふ、あの言傳へが氣に入つたのだ。
世の中の人は――わけて兩性の關係を口喧しく言ひながら、家庭では十人の子供を産まうといふ道徳家などは、まるで自分が生殖不能者ででもあるやうに、なんぞといつてはこの話を引張り出して、笑ひ事の一つにしようとするらしいが、私はそんな輕い解釋で、これを見過してしまふ事は出來ない。もしか私が仙人のやうな羽目になつたとして、ああした白い女の足を見たのでは、どうしても落ちて來さうに思はれる。いや落ちて來さうなのではない、落ちて來た方がよいのだ。實際仙人が落ちて來たのは、何もあの人の道心が淺かつたとか、また今時の教育家のいふ性教育とやらを受けなかつたとかいふ譯ではない。――全く見逃す事の出來ない偉い心の變化なのだ。
久米の仙人は空を飛ぶものの用意として、雀のやうに質朴な考へを持たなければならない事も知つてゐた。鶲のやうに獨りぼつちで居なければならない事も知つてゐた。鷦鷯のやうに鹽斷ちをしなければならない事を知つてゐた。それからまた雲雀のやうに唯もう高いところに心を繋がなければならない事も知つてゐた。――かういふ事は何もかもそつくり知つてゐたには相違ないが、(といふのになんの不思議があらう、知つてゐたからこそ空も飛べたのだ。)その知つてゐたのは、空でも飛ばうといふものは、さうしなければならないといふ、これまでの言傳へをそのまま信じてゐたに過ぎなかつた。
で、仙人は空を飛んだ。砂漠のやうな乾いた空をあちこちと飛び歩いて、かうして高く揚る事の出來た心掛を、獨りで得意がつてゐると、ちやうどその足もとの久米の里では、小河の河つ縁で濯ぎ物をしてゐる女がある。女の著物の裾をやけにたくしあげてゐるので、ふつくりと肥えた脛がよく見える。
それが眼にとまると、これまで押へに押へた仙人の感覺は、蠍のやうに眠りから覺めて、持前の鋭い刺激を囘復した。そして新しい彈力で一杯になつたその肉體は、干葡萄のやうに萎びきつた靈の高慢くさいのを嘲笑つた。
靈は默つてその侮辱をうける他はなかつた…………と思ふと、久米の仙人はを打たれた鳥のやうに、もんどりうつて小河の河つ縁に落ちて來た。その刹那に新しい價値の世界の薄明が、かすかに動いたに相違ない。
ニイチエのツアラトウストラは The cow of many Colours といつた市街で、心の三段變りといふ事を説いた。心が重い荷物を背負つて駱駝となつて沙漠の旅に出た。寂しい旅の半程で、駱駝は急に獅子と化つて、これまで主人として事へた大きな龍と鬪つた。龍の名は“Thou shalt”獅子のは“I will”といふのだ。兩個は從來龍の持つてゐた『物の價値』について、ひどい取つ組合ひをした。實際獅子にはまだ『價値』を創り出すだけの力量は無かつたが、やがてそれを創らうといふ『自由』を産むだけの力は十分あつた。とかくする間に獅子はまた小兒に生れ變つた。小兒は價値の出發點で、立派な肯定だ。新しい世界はここから始まるといふのだ。
久米の仙人は女の脛を見た刹那、ニイチエの言つた新しい獅子と化つてゐたのだ。そして自分を乾いた空へ引張りあげた龍と爭つて、また地面に落ちて來た。私は次の刹那に、仙人がも一度第三の變化を遂げたかどうか知らないが、その胸に羽ぐくまれた自由の思想は、やがて新しい價値の世界を發見せずにはおかないのだ。
元亨釋書のいふところによると、釋理滿とかいつた河内産れの坊主は、わざわざ性慾を絶たうとして、陰痿の藥を飮んださうだ。なんといふ氣の毒な事だ。人間はどんな場合にも無駄な空想に驅られて、生活の力を自分で殺ぎ取つたり、別々に働かせたりしてはならない。身體のどの部分にも絶えず新しい力を波立たせ、それを生命の奧で引括めて、よい機を見はからつては、自己を擴大し、充實する生活へ飛躍を試みなければならないのだ。理滿はかうして性慾の煩ひを絶つてから、一心に法華を誦んだお蔭で、佛陀が涅槃の同じ日に息を引き取つたさうだが、そんなにまでして往生の素願を遂げようとも、折角内から燃えて來る焔を自分で塞いでしまつたのでは、その生活は何處かに空洞のやうな空所があつたに相違ない。それに比べると、久米の仙人の生活には充實があつた。彈力があつた。その生命は永久に若がへつて、私達の生活に脈搏つてゐる。
女の脛を見て空から落ちた人――私は久米の仙人を思ふと、沼水の底から、自分の莖を引切つてまで、水上の雌花に寄り添つて來る VALLISNERIA の花を思ひ出す。わが脚のちぎれるのも厭はないで、SPERMATOPHORE を雌の外套膜に投げこむ蛸舟の雄を思ひ出す。かういふ全人格の底の底から震ひ動く衝動には、どうかすると、自己を破滅に導かないではおかぬ飛躍がある。それがさうあらうと構ふ事はない。自己の破滅はやがて新しい價値の發見である。
私はこんな事を考へながら、氣がついてみると、冬枯の寂しい田圃路に突立つてゐた。
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