四
その晩イワンは何ともたとへやうもないほど悲しい、いやな気もちにおさへられて、眠らうとしても寝つかれません。これまでわすれようとしてゐた、いろ/\のことが、一晩中入りかはり目のまへに浮んで来ました。あのニズニイの市へ出かけるときに、門口へおくつて出た、そのときのおかみさんのすがたも目についてはなれません。おかみさんの目の色、笑ひ声、話し声までが、まざまざと目のまへに見えます。それから二人の子どもたちの顔もまざ/\と浮んで来ました。二人とも、あのときのまゝの小さな子で、一人はぐわいとうを着て立つてをり、一人は母親の胸の上にだかれてゐます。それからつゞいて、年もわかく、ゆかいにくらしてゐたじぶんのことも思ひかへされました。あのとき捕縛されるぢきまへに、あの村の宿屋の戸口に坐つてギターをひいてゐたすがたも目に見るやうです。それ以来、ずゐぶんながい間、世の中の苦労といふものからはなれてゐるといふことをも、つく/″\考へました。と、こんどは、あのときむちでうたれつゞけたあの監獄の光景、執行官、まはりに立つてゐた人々、くさり、すべての罪人たち、こゝへ来てから二十六年の間のすつかりの出来ごとを考へかへし、それからじぶんが年のわりよりもずつと老いぼけてしまつたことも考へました。
イワンは、いら/\するほどかなしく苦しくて、いつそのこと、もう、ひと思ひに自殺してしまはうかとまで思ひつめました。
「あゝ、これもみんなあの悪いやつのおかげだ。」とイワンは心の中で言ひました。イワンはさう思ふと、もえ上るやうに腹立たしくなつて来ました。
「あいつを殺してやらうか。さかさに、こつちが殺されたつてかまはない、どうかして、ふくしうしてやらなければ虫がをさまらない。」
イワンは、かう思ひつゞけた後、とう/\夜があけるまで祈りつゞけにお祈りを上げました。しかしそれでも胸一ぱいのくやしみは取れませんでした。
昼の間は、イワンはわざとマカールのそばへは近づかず、マカールの方を見ることさへしませんでした。
こんなにして二週間といふものが過ぎました。イワンはその間、夜もちつとも眠れないし、のちには身のおき方もないくらゐにもだえなやみました。
或晩、イワンは牢屋の中をぐる/\歩いてゐました。囚人たちは、みんな、壁ぎはにつけてある棚の上に一人づゝ寝るのですが、ふと見ると、さういふ或一つのたなの下から、土のかたまりがころころところがり出ました。へんだなと思つて立ちどまつて見ると、れいのマカールが、そのたなの下からはひ出して来ました。イワンは、マカールだと知ると、見ないふりをしてとほりすぎようとしました。ところが、マカールは、いきなりイワンの手をつかんで、
「おい、おれは、この壁の下へ穴をほつてるんだよ。毎晩、長靴へ一ぱいづゝ土を入れて、昼間みんなが仕事に出たすきまに、外の往来へあけるんだ。おい、おぢいさん、だまつてゝくれ。穴さへあければおまいもにげられるんだから。おまいがしやべつてしまへばおれはなぐり殺されてしまふんだ。だが、さうなれや、そのまへに先づ第一ばんにおまいをころしてやるから、そのつもりでゐろ。」とおどかしました。イワンは、怒りにふるへながら、マカールの顔を見ました。
「わしはにげ出す気はないよ。また、おまいもおれを殺す必要はない。おまいはもう、とくのむかしにわしを殺してしまつたぢやないか。わしがその穴のことをしやべるか、しやべらないか、それは神さまのおさしづ一つだ。」
イワンはかう言つて、マカールの手をふりはなしてにげました。
そのあくる日、囚人たちが仕事につれ出されるときに、つき番の兵隊たちは、だれかゞ、部屋の中から長靴をつき出して、土をあけるところをひよいと見つけました。兵隊たちは、おや、と言ひ言ひはいつていつて、部屋中をすつかりしらべてまはりました。すると或寝だいだなの下のところに穴がほりかけてあるのが見つかりました。
だれがやつたのかと、典獄は、みんなを一々せめしらべましたが、だれもかれも私ではないと言ひはりました。中にはマカールのしわざだと知つてゐるものもゐましたが、うつかり口に出せば、たちまちマカールがなぐり殺されるので、だまつてゐました。
典獄は困つたあげく、イワンに向つて聞きました。
「お前は正直な老人だ。神さまのまへで、おれに言つてくれ。一たいだれがあの穴をほつたのか。」
マカールはそのときも何くはぬ顔をしてゐましたが、イワンが何と答へるかとその顔をじいつと見てゐました。イワンはくちびると両手をふるはせてゐるきりで、しばらくの間一ことも言葉を出すことが出来ませんでした。イワンは心の中で思ひました。
「わしを生き殺しにしたあいつだ。あいつをかばつてやる必要はさらにない。あいつも私を苦しめた代価をはらふのがあたりまへだ。……しかし私がしやべつてしまへばあいつはそくざになぐり殺されてしまふにきまつてゐる。わしはあいつを商人殺しの悪ものだときめてゐるものゝ、まん一それが私のかんちがひであつたとしたら、よけいな告げ口をして、あいつを殺させるのも罪なわけである。ともかくしやべつたところで、けつきよく、わしに何の得が来るわけもない。」
「おい、おぢいさん、どうだ。ほんとうのところを言へよ。あの穴をほつたのはだれだ。」
イワンはじろりとマカールの顔を見て答へました。
「それは私には言へません。私がそれをしやべるといふことは神さまがお許しになりません。私が申し上げないのが悪ければ、私をどうにでもなすつて下さい。私の生命はあなたにさし出します。」
典獄はそんなばかな話があるものかと言つて、しつッこく問ひつめましたが、イワンは、どうしてもうちあけませんでした。それでとう/\犯人もわからずじまひになつてしまひました。
五
その晩イワンがやうやく眠りかけようとしますと、だれだか、こつそりしのんで来て、イワンの寝だいだなにそつと腰をかけました。やみの中をすかして見ますとマカールです。
「おい、何しに来た。この上わしに何を要求しようといふのだ。」とイワンは、むつとして言ひました。
「いけ。いかないと守衛をよぶぞ。」
かう言ひますと、マカールは、イワンのからだの上へこゞまるやうにして、
「おい、どうぞゆるしてくれよ。」と小さな声で言ひました。
「おまいに何を許すのだ。」
「おれはほんとうに悪ものだ。あの商人を殺して、ナイフをおまいの袋の中へ入れこんだのは、このおれだよ。あのとき、おれはおまいをも殺さうとしたのだ。ところが外で物音がし出したので、ナイフをおまいの袋の中へつッこんで窓からにげ出したんだよ。」
イワンは頭をぐわんとなぐられでもしたやうに、ぼうとなつて言葉も出ませんでした。するとマカールはたなからすべり下りて、床板の下に両ひざをつきながら、
「このとほりあやまる。どうぞ許してくれ。神さまのためだと思つて、おれの罪を許してくれ。おれは、あの商人を殺したことを名乗つて出るつもりだよ。さうすればおまいも許されて故郷へかへれる。そのかはりどうか、これまでおまいを苦しめたことだけは許してくれ。おいイワン、ほんとうに許しておくれ。」
「ふゝん、口だけであやまるのはぞうさもないことだ。だけれど、まあ考へて見ろ。わしはおまいのおかげで、今日まで二十六年の間苦しい目を見て来たんだよ。今になつてかへると言つてどこへかへるのだ。わしのにようぼはもう死んでしまつた。小さいときに分れた子ども二人は、もうわしの顔もおぼえてはゐない。わしはかへらうつたつて、かへるところはないよ。」
イワンは、やつと気をおちつけてかう言ひました。マカールは、そのまゝひざをついたきり、いつまでも立ち上らうともしません。しまひには、とう/\床板へ頭をすりつけて、
「まつたくすまないことをした。許してくれ。おれは牢屋へはいつてびし/\ぶたれたときでもこれほど苦しくは思はなかつた。かうしておまいのまへにすわつたこの心もちは、むちでぶたれるよりもまだつらいのだ。おれはつく/″\恥ぢ入つてゐる。おまいはおれをあはれんで、穴のことを言はないでくれた。イワンよ、おれはわるものだつた。どうぞ許してくれ。神さまのおためだと思つて許してくれ。」
マカールはかう言ひ/\、とう/\しやくり上げて泣き出しました。イワンは、マカールの泣く声を聞くと、じぶんもひとりでに、しく/\と泣けて来ました。
「マカールよ、もう神さまも許して下さるよ。神さまのまへへ出れば、わしだつて、おまいより何十倍罪がひどいかもわからない。」
イワンはかう言ふと同時に、これまでながい間おもたかつた心が、急にはれ/″\して来たやうな気がしました。
その晩からイワンは、もう故郷へかへりたいといら/\する心もちもとれてしまひました。もう牢屋から出たいとも思ひません。たゞどうかして早く死にたいと思ふだけでした。
イワンは、マカールに、自首なぞをするにおよばないとかたくとめておいたのですが、マカールは聞かないで、とう/\自白してしまひました。しかし、ロシアの裁判所から、イワンを放免するといふ指令が来たときには、イワンはもう死んで、この世の中にはゐませんでした。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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