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古事記物語(こじきものがたり)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-12 9:38:27  点击:  切换到繁體中文

 

八咫烏(やたがらす)


       一

 鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)は、ご成人の後、玉依媛(たまよりひめ)を改めてお妃(きさき)にお立てになって、四人の男のお子をおもうけになりました。
 この四人のごきょうだいのうち、二番めの稲氷命(いなひのみこと)は、海をこえてはるばると、常世国(とこよのくに)という遠い国へお渡りになりました。ついで三番めの若御毛沼命(わかみけぬのみこと)も、お母上のお国の、海の国へ行っておしまいになり、いちばん末の弟さまの神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと)が、高千穂(たかちほ)の宮にいらしって、天下をお治めになりました。しかし、日向(ひゅうが)はたいへんにへんぴで、政(まつりごと)をお聞きめすのにひどくご不便でしたので、命(みこと)はいちばん上のおあにいさまの五瀬命(いつせのみこと)とお二人でご相談のうえ、
「これは、もっと東の方へ移ったほうがよいであろう」とおっしゃって、軍勢を残らずめしつれて、まず筑前国(ちくぜんのくに)に向かっておたちになりました。その途中、豊前(ぶぜん)の宇佐(うさ)にお着きになりますと、その土地の宇佐都比古(うさつひこ)、宇佐都比売(うさつひめ)という二人の者が、御殿(ごてん)をつくってお迎え申し、てあつくおもてなしをしました。
 命はそこから筑前(ちくぜん)へおはいりになりました。そして岡田宮(おかだのみや)というお宮に一年の間ご滞在になった後、さらに安芸(あき)の国へおのぼりになって、多家理宮(たけりのみや)に七年間おとどまりになり、ついで備前(びぜん)へお進みになって、八年の間高島宮(たかしまのみや)にお住まいになりました。そしてそこからお船をつらねて、波の上を東に向かっておのぼりになりました。
 そのうちに速吸門(はやすいのと)というところまでおいでになりますと、向こうから一人の者が、かめの背なかに乗って、魚(さかな)をつりながら出て来まして、命(みこと)のお船を見るなり、両手をあげてしきりに手招(てまね)きをいたしました。命はその者を呼(よ)びよせて、
「おまえは何者か」とお聞きになりますと、
「私はこの地方の神で宇豆彦(うずひこ)と申します」とお答えいたしました。
「そちはこのへんの海路を存じているか」とおたずねになりますと、
「よく存じております」と申しました。
「それではおれのお供につくか」とおっしゃいますと、
「かしこまりました。ご奉公申しあげます」とお答え申しましたので、命はすぐにおそばの者に命じて、さおをさし出させてお船へ引きあげておやりになりました。
 みんなは、そこから、なお東へ東へとかじを取って、やがて摂津(せっつ)の浪速(なみはや)の海を乗り切って、河内国(かわちのくに)の、青雲(あをぐも)の白肩津(しらかたのつ)という浜へ着きました。
 するとそこには、大和(やまと)の鳥見(とみ)というところの長髄彦(ながすねひこ)という者が、兵をひきつれて待ちかまえておりました。命は、いざ船からおおりになろうとしますと、かれらが急にどっと矢を射(い)向けて来ましたので、お船の中から盾(たて)を取り出して、ひゅうひゅう飛んで来る矢の中をくぐりながらご上陸なさいました。そしてすぐにどんどん戦(いくさ)をなさいました。
 そのうちに五瀬命(いつせのみこと)が、長髄彦(ながすねひこ)の鋭い矢のために大きずをお受けになりました。命(みこと)はその傷をおおさえになりながら、
「おれたちは日の神の子孫でありながら、お日さまの方に向かって攻めかかったのがまちがいである。だからかれらの矢にあたったのだ。これから東の方へ遠まわりをして、お日さまを背なかに受けて戦おう」とおっしゃって、みんなをめし集めて、弟さまの命といっしょにもう一度お船におめしになり、大急ぎで海のまん中へお出ましになりました。
 その途中で、命はお手についた傷の血をお洗いになりました。
 しかしそこから南の方へまわって、紀伊国(きいのくに)の男(お)の水門(みなと)までおいでになりますと、お傷の痛(いた)みがいよいよ激しくなりました。命は、
「ああ、くやしい。かれらから負わされた手傷で死ぬるのか」と残念そうなお声でお叫びになりながら、とうとうそれなりおかくれになりました。

       二

 神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと)は、そこからぐるりとおまわりになり、同じ紀伊(きい)の熊野(くまの)という村にお着きになりました。するとふいに大きな大ぐまが現われて、あっというまにまたすぐ消えさってしまいました。ところが、命(みこと)もお供の軍勢もこの大ぐまの毒気にあたって、たちまちぐらぐらと目がくらみ、一人のこらず、その場に気絶してしまいました。
 そうすると、そこへ熊野(くまの)の高倉下(たかくらじ)という者が、一ふりの太刀(たち)を持って出て来まして、伏(ふ)し倒(たお)れておいでになる伊波礼毘古命(いわれひこのみこと)に、その太刀をさしだしました。命はそれといっしょに、ふと正気(しょうき)におかえりになって、
「おや、おれはずいぶん長寝(ながね)をしたね」とおっしゃりながら、高倉下(たかくらじ)がささげた太刀(たち)をお受けとりになりますと、その太刀に備わっている威光でもって、さっきのくまをさし向けた熊野の山の荒くれた悪神(わるがみ)どもは、ひとりでにばたばたと倒(たお)れて死にました。それといっしょに命の軍勢は、まわった毒から一度にさめて、むくむくと元気よく起きあがりました。
 命はふしぎにおぼしめして、高倉下(たかくらじ)に向かって、この貴(とうと)い剣(つるぎ)のいわれをおたずねになりました。
 高倉下(たかくらじ)は、うやうやしく、
「実はゆうべふと夢を見ましたのでございます。その夢の中で、天照大神(あまてらすおおかみ)と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)のお二方(ふたかた)が、建御雷神(たけみかずちのかみ)をおめしになりまして、葦原中国(あしはらのなかつくに)は、今しきりに乱(みだ)れ騒(さわ)いでいる。われわれの子孫たちはそれを平らげようとして、悪神(わるがみ)どもから苦しめられている。あの国は、いちばんはじめそちが従えて来た国だから、おまえもう一度くだって平らげてまいれとおっしゃいますと、建御雷神(たけみかずちのかみ)は、それならば、私がまいりませんでも、ここにこの前あすこを平らげてまいりましたときの太刀(たち)がございますから、この太刀をくだしましょう。それには、高倉下(たかくらじ)の倉(くら)のむねを突きやぶって落としましょうと、こうお答えになりました。
 それからその建御雷神(たけみかずちのかみ)は、私に向かって、おまえの倉(くら)のむねを突きとおしてこの刀を落とすから、あすの朝すぐに、大空の神のご子孫にさしあげよとお教えくださいました。目がさめまして、倉へまいって見ますと、おおせのとおりに、ちゃんとただいまのその太刀(たち)がございましたので、急いでさしあげにまいりましたのでございます」
 こう言って、わけをお話し申しました。
 そのうちに、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は、雲の上から伊波礼毘古命(いわれひこのみこと)に向かって、
「大空の神のお子よ、ここから奥(おく)へはけっしてはいってはいけませんよ。この向こうには荒(あ)らくれた神たちがどっさりいます。今これから私が八咫烏(やたがらす)をさしくだすから、そのからすの飛んで行く方へついておいでなさい」とおさとしになりました。
 まもなくおおせのとおり、そのからすがおりて来ました。命(みこと)はそのからすがつれて行くとおりに、あとについてお進みになりますと、やがて大和(やまと)の吉野河(よしのがわ)の河口(かわぐち)へお着きになりました。そうするとそこにやなをかけて魚(さかな)をとっているものがおりました。
「おまえはだれだ」とおたずねになりますと、
「私はこの国の神で、名は贄持(にえもち)の子と申します」とお答え申しました。
 それから、なお進んでおいでになりますと、今度はおしりにしっぽのついている人間が、井戸(いど)の中から出て来ました。そしてその井戸がぴかぴか光りました。
「おまえは何者か」とおたずねになりますと、
「私はこの国の神で井冰鹿(いひか)と申すものでございます」とお答えいたしました。
 命(みこと)はそれらの者を、いちいちお供(とも)におつれになって、そこから山の中を分けていらっしゃいますと、またしっぽのある人にお会いになりました。この者は岩をおし分けて出て来たのでした。
「おまえはだれか」とお聞きになりますと、
「わたしはこの国の神で、名は石押分(いわおしわけ)の子と申します。ただいま、大空の神のご子孫がおいでになると承りまして、お供に加えていただきにあがりましたのでございます」と申しあげました。命は、そこから、いよいよ険(けわ)しい深い山を踏(ふ)み分けて、大和(やまと)の宇陀(うだ)というところへおでましになりました。
 この宇陀には、兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)というきょうだいの荒(あら)くれ者がおりました。命はその二人のところへ八咫烏(やたがらす)を使いにお出しになって、
「今、大空の神のご子孫がおこしになった。おまえたちはご奉公申しあげるか」とお聞かせになりました。
 すると、兄の兄宇迦斯(えうかし)はいきなりかぶら矢を射(い)かけて、お使いのからすを追いかえしてしまいました。兄宇迦斯(えうかし)は命がおいでになるのを待ち受けて討(う)ってかかろうと思いまして、急いで兵たいを集めにかかりましたが、とうとう人数(にんずう)がそろわなかったものですから、いっそのこと、命をだまし討ちにしようと思いまして、うわべではご奉公申しあげますと言いこしらえて、命をお迎え申すために、大きな御殿(ごてん)をたてました。そして、その中に、つり天じょうをしかけて、待ち受けておりました。
 すると弟の弟宇迦斯(おとうかし)が、こっそりと命(みこと)のところへ出て来まして、命を伏(ふ)し拝みながら、
「私の兄の兄宇迦斯(えうかし)は、あなたさまを攻(せ)め亡(ほろ)ぼそうとたくらみまして、兵を集めにかかりましたが、思うように集まらないものですから、とうとう御殿の中につり天じょうをこしらえて待ち受けております。それで急いでおしらせ申しにあがりました」と申しました。そこで道臣命(みちおみのみこと)と大久米命(おおくめのみこと)の二人の大将が、兄宇迦斯(えうかし)を呼(よ)びよせて、
「こりゃ兄宇迦斯(えうかし)、おのれの作った御殿にはおのれがまずはいって、こちらの命(みこと)をおもてなしする、そのもてなしのしかたを見せろ」とどなりつけながら、太刀(たち)のえをつかみ、矢をつがえて、無理やりにその御殿の中へ追いこみました。兄宇迦斯(えうかし)は追いまくられて逃げこむはずみに、自分のしかけたつり天じょうがどしんと落ちて、たちまち押(お)し殺されてしまいました。
 二人の大将は、その死がいを引き出して、ずたずたに切り刻(きざ)んで投げ捨(す)てました。
 命は弟宇迦斯(おとうかし)が献上(けんじょう)したごちそうを、けらい一同におくだしになって、お祝いの大宴会(えんかい)をお開きになりました。命はそのとき、
宇陀(うだ)の城(しろ)にしぎなわをかけて待っていたら、しぎはかからないで大くじらがかかり、わなはめちゃめちゃにこわれた。ははは、おかしや」という意味を、歌にお歌いになって、兄宇迦斯(えうかし)のはかりごとの破れたことを、喜びお笑(わら)いになりました。
 それからまたその宇陀(うだ)をおたちになって、忍坂(おさか)というところにお着きになりますと、そこには八十建(やそたける)といって、穴(あな)の中に住んでいる、しっぽのはえた、おおぜいの荒(あら)くれた悪者どもが、命(みこと)の軍勢を討(う)ち破ろうとして、大きな岩屋の中に待ち受けておりました。
 命はごちそうをして、その悪者たちをお呼びになりました。そして前もって、相手の一人に一人ずつ、お給仕につくものをきめておき、その一人一人に太刀(たち)を隠(かく)しもたせて、合い図の歌を聞いたら一度に切ってかかれと言い含(ふく)めておおきになりました。
 みんなは、命が、
「さあ、今だ、うて」とお歌いになると、たちまち一度に太刀を抜(ぬ)き放って、建(たける)どもをひとり残さず切り殺してしまいました。
 しかし命は、それらの賊たちよりも、もっともっとにくいのはおあにいさまの命(みこと)のお命を奪(うば)った、あの鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)でした。命はかれらに対しては、ちょうどしょうがを食べたあと、口がひりひりするように、いつまでも恨(うら)みをお忘(わす)れになることができませんでした。命は、畑のにらを、根も芽(め)もいっしょに引き抜くように、かれらを根こそぎに討ち亡ぼしてしまいたい、海の中の大きな石に、きしゃごがまっくろに取りついているように、かれらをひしひしと取りまいて、一人残さず討ち取らなければおかないという意味を、勇ましい歌にしてお歌いになりました。そして、とうとうかれらを攻め亡ぼしておしまいになりました。
 そのとき、長髄彦(ながすねひこ)の方に、やはり大空の神のお血すじの、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)という神がいました。
 その神が命(みこと)のほうへまいって、
「私は大空の神の御子がおいでになったと承りまして、ご奉公に出ましてございます」と申しあげました。そして大空の神の血筋(ちすじ)だという印(しるし)の宝物を、命に献上(けんじょう)しました。
 命はそれから兄師木(えしき)、弟師木(おとしき)というきょうだいのものをご征伐になりました。その戦(いくさ)で、命の軍勢は伊那佐(いなさ)という山の林の中に盾(たて)を並(なら)べて戦っているうちに、中途でひょうろうがなくなって、少し弱りかけて来ました。命はそのとき、
「おお、私(わし)も飢(う)え疲(つか)れた。このあたりのうを使う者たちよ。早くたべ物を持って助けに来い」という意味のお歌をお歌いになりました。
 命(みこと)はなおひきつづいて、そのほかさまざまの荒(あら)びる神どもをなつけて従わせ、刃(は)向かうものをどんどん攻(せ)め亡(ほろ)ぼして、とうとう天下をお平らげになりました。それでいよいよ大和(やまと)の橿原宮(かしはらのみや)で、われわれの一番最初の天皇のお位におつきになりました。神武天皇(じんむてんのう)とはすなわち、この貴(とうと)い伊波礼毘古命(いわれひこのみこと)のことを申しあげるのです。

       三

 天皇は、はじめ日向(ひゅうが)においでになりますときに、阿比良媛(あひらひめ)という方をお妃(きさき)に召(め)して、多芸志耳命(たぎしみみのみこと)と、もう一方(ひとかた)男のお子をおもうけになっていましたが、お位におつきになってから、改めて、皇后としてお立てになる、美しい方をおもとめになりました。
 すると大久米命(おおくめのみこと)が、
「それには、やはり、大空の神のお血をお分けになった、伊須気依媛(いすけよりひめ)と申す美しい方がおいでになります。これは三輪(みわ)の社(やしろ)の大物主神(おおものぬしのかみ)が、勢夜陀多良媛(せやだたらひめ)という女の方のおそばへ、朱塗(しゅぬ)りの矢に化けておいでになり、媛(ひめ)がその矢を持っておへやにおはいりになりますと、矢はたちまちもとのりっぱな男の神さまになって、媛のお婿(むこ)さまにおなりになりました。伊須気依媛(いすけよりひめ)はそのお二人の中にお生まれになったお媛さまでございます」と申しあげました。
 そこで天皇は、大久米命をおつれになって、その伊須気依媛(いすけよりひめ)を見においでになりました。すると同じ大和(やまと)の、高佐士野(たかさじの)という野で、七人の若い女の人が野遊びをしているのにお出会いになりました。するとちょうど伊須気依媛(いすけよりひめ)がその七人の中にいらっしゃいました。
 大久米命はそれを見つけて、天皇に、このなかのどの方をおもらいになりますかということを、歌に歌ってお聞き申しますと、天皇はいちばん前にいる方を伊須気依媛(いすけよりひめ)だとすぐにおさとりになりまして、
「あのいちばん前にいる人をもらおう」と、やはり歌でお答えになりました。大久米命は、その方のおそばへ行って、天皇のおおせをお伝えしようとしますと、媛は、大久米命が大きな目をぎろぎろさせながら来たので、変だとおぼしめして、

  あめ、つつ、
  ちどり、ましとと、
  など裂(さ)ける利目(とめ)。

とお歌いになりました。それは、
「あめ[#「あめ」に傍点]という鳥、つつ[#「つつに傍点」]という鳥、ましとと[#「ましとと」に傍点]という鳥やちどりの目のように、どうしてあんな大きな、鋭い目を光らせているのであろう」という意味でした。
 大久米命は、すぐに、
「それはあなたを見つけ出そうとして、さがしていた目でございます」と歌いました。
 媛(ひめ)のおうちは、狹井川(さいがわ)という川のそばにありました。そこの川原(かわら)には、やまゆりがどっさり咲いていました。天皇は、媛のおうちへいらしって、ひと晩とまってお帰りになりました。媛はまもなく宮中におあがりになって、貴(とうと)い皇后におなりになりました。お二人の中には、日子八井命(ひこやいのみこと)、神八井耳命(かんやいみみのみこと)、神沼河耳命(かんぬかわみみのみこと)と申す三人の男のお子がお生まれになりました。
 天皇は、後におん年百三十七でおかくれになりました。おなきがらは畝火山(うねびやま)にお葬(ほうむ)り申しあげました。
 するとまもなく、さきに日向(ひゅうが)でお生まれになった多芸志耳命(たぎしみみのみこと)が、お腹(はら)ちがいの弟さまの日子八井命(ひこやいのみこと)たち三人をお殺し申して、自分ひとりがかってなことをしようとお企(くわだ)てになりました。
 お母上の皇后はそのはかりごとをお見ぬきになって、
畝火山(うねびやま)に昼はただの雲らしく、静かに雲がかかっているけれど、夕方になれば荒(あ)れが来て、ひどい風が吹き出すらしい。木の葉がそのさきぶれのように、ざわざわさわいでいる」という意味の歌をお歌いになり、多芸志耳命(たぎしみみのみこと)が、いまに、おまえたちを殺しにかかるぞということを、それとなくおさとしになりました。
 三人のお子たちは、それを聞いてびっくりなさいまして、それでは、こっちから先に命(みこと)を殺してしまおうとご相談なさいました。
 そのときいちばん下の神沼河耳命(かんぬかわみみのみこと)は、中のおあにいさまの神八井耳命(かんやいみみのみこと)に向かって、
「では、あなた、命(みこと)のところへ押(お)しいって、お殺しなさい」とおっしゃいました。
 それで神八井耳命(かんやいみみのみこと)は刀(かたな)を持ってお出かけになりましたが、いざとなるとぶるぶるふるえ出して、どうしても手出しをなさることができませんでした。そこで弟さまの神沼河耳命(かんぬかわみみのみこと)がその刀をとってお進みになり、ひといきに命を殺しておしまいになりました。
 神八井耳命(かんやいみみのみこと)はあとで弟さまに向かって、
「私はあのかたきを殺せなかったけれど、そなたはみごとに殺してしまった。だから、私は兄だけれど、人のかみに立つことはできない。どうぞそなたが天皇の位について天下を治めてくれ、私は神々をまつる役目をひき受けて、そなたに奉公をしよう」とおっしゃいました。それで、弟の命はお二人のおあにいさまをおいてお位におつきになり、大和(やまと)の葛城宮(かつらぎのみや)にお移りになって、天下をお治めになりました。すなわち第二代、綏靖天皇(すいぜいてんのう)さまでいらっしゃいます。
 天皇はご短命で、おん年四十五でお隠(かく)れになりました。

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