一
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、ある年、ご自身で熊襲(くまそ)をお征伐(せいばつ)におくだりになり、筑前(ちくぜん)の香椎(かしい)の宮というお宮におとどまりになっていらっしゃいました。
そのとき天皇は、ある夜、戦(いくさ)のお手だてについて、神さまのお告げをいただこうとおぼしめして、大臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)をお祭場(まつりば)へお坐(すわ)らせになり、御自分はお琴(こと)をおひきになりながら、お二人でお祈(いの)りをなさいました。そうすると、どなたか一人の神さまが、皇后の息長帯媛(おきながたらしひめ)のおからだにお乗りうつりになり、皇后のお口をお借りになって、
「これから西の方にあるひとつの国がある、そこには金銀をはじめ、目もまぶしいばかりの、さまざまの珍(めずら)しい宝(たから)がどっさりある。つまらぬ熊襲(くまそ)の土地よりも、まずその国をあなたのものにしてあげよう」とおっしゃいました。
「しかし、高いところへ登って西の方を見ましても、そちらの方はどこまでも大海(おおうみ)ばかりで、国などはちっとも見えないではありませんか」と、天皇はお答えになりました。そしてお心のうちでは、
「これはほんとうの神さまではあるまい。きっといつわりを言う神が乗りうつったにちがいない」とおぼしめして、それなりお琴(こと)をおしのけて、だまっておすわりになっていました。
すると神さまはたいそうお怒(いか)りになって、
「そんな、わしの言葉(ことば)をうたぐったりするものには、この国も任(まか)せてはおかれない。あなたはもう、さっさと死んでおしまいなさるがよい」と、おおせになりました。
宿禰(すくね)はその言葉を聞くと、びっくりして、
「これはたいへんでございます。陛下よ、どうぞもっとお琴をおひきあそばしませ」と、あわててご注意申しあげました。
天皇は仕方なしに、しぶしぶお琴をおひき寄せになって、しばらくの間、申しわけばかりにぽつぽつひいておいでになりましたが、そのうちにまもなく、ふッつりとお琴の音(ね)がとだえてしまいました。
宿禰(すくね)はへんだと思って、灯(ひ)をさし上げて見ますと、天皇はもはやいつのまにかお息が絶えて、その場にお倒(たお)れになっていらっしゃいました。
皇后も宿禰(すくね)も、神さまのお罰(ばつ)に驚(おどろ)き怖(おそ)れて、急いでそのお空骸(なきがら)を仮のお宮へお移し申しました。そしてまず第一番に、神さまのお怒りをおなだめ申すために、そのあたりの国じゅうで生きた獣(けもの)の皮を剥(は)いだり、獣を逆(さか)はぎにしたものをはじめとして、田の畔(くろ)をこわしたもの、溝(みぞ)をうめたもの、汚(きた)ないものをひりちらしたもの、そのほか言うも穢(けが)らわしいような、さまざまの汚ない罪を犯したものたちをいちいちさがし出させて、御幣(ごへい)をとって、はらい清めて、国じゅうのけがれをすっかりなくしておしまいになりました。そして、宿禰(すくね)が再(ふたた)びお祭場に坐(すわ)って、改めて神さまのお告げをお祈り申しました。
すると神さまからは、この前おっしゃった西の国のことについて、同じようなおおせがありました。
「それからこの日本の国は、今、皇后のお腹(なか)にいらっしゃるお子がお治めになるべきものだ」とおっしゃいました。
皇后は、そのときちょうどお身重(みおも)でいらっしゃいました。宿禰(すくね)はそのおおせを聞いて、
「では、恐(おそ)れながら、今、皇后のお腹においでになりますお子さまは、男のお子さまと女のお子さまと、どちらでいらっしゃりましょう」とうかがいますと、
「お子はご男子(なんし)である」とお告げになりました。
宿禰(すくね)はなお、すべてのことをうかがっておこうと思いまして、
「まことにおそれいりますが、かようにいちいちお告げを下さいますあなたさまは、どなたさまでいらっしゃいますか。どうぞお名まえをおあかしくださいまし」と申しあげました。神さまは、やはり皇后のお口を通して、
「これはすべて天照大神(あまてらすおおかみ)のおぼしめしである。また、底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、上筒男命(うわつつおのみこと)の三人の神も、いっしょに申し下(くだ)しているのだ」と、そこではじめてお名まえをお告げになりました。
神さまはなお改めて、
「もしそなたたちが、ほんとうにあの西の国を得ようと思うならば、まず大空の神々、地上の神々、また、山の神、海と河(かわ)との神々にことごとくお供えを奉(たてまつ)り、それから私たち三人の神の御魂(みたま)を船のうえに祀(まつ)ったうえ、まき[#「まき」に傍点]の灰(はい)を瓠(ひさご)に入れ、また箸(はし)と盆(ぼん)とをたくさんこしらえてそれらのものを、みんな海の上に散らし浮かべて、その中を渡(わた)って行くがよい」とおっしゃって、くわしく征伐(せいばつ)の手順(てじゅん)をおしえてくださいました。
それで、皇后はすぐ軍勢をお集めになり、神々のお言葉(ことば)のとおりに、すべてご用意をお整(ととの)えになって、仰山(ぎょうさん)なお船をめしつらねて、勇ましく大海のまん中へお乗り出でになりました.
そうすると海じゅうの、あらゆる大小の魚が、のこらず駈(か)けよって来て、すっかりのお船をみんなで背中(せなか)にお担(かつ)ぎ申しあげて、わッしょいわッしょいと、威勢(いせい)よく押(お)しはこんで行きました。そこへ、ちょうどつごうよく、追い手の風がどんどん吹き募(つの)って来ました。ですから、それだけのお船がみんな、かけ飛ぶように走って行きました。
そのうちに、そのたいそうな大船に押しまくられた大浪(おおなみ)が、しまいには大きな、すさまじい大海嘯(おおつなみ)となって、これから皇后がご征伐になろうとする、今の朝鮮(ちょうせん)の一部分の新羅(しらぎ)の国へ、ふいにどどんと打(う)ち上げました。そして、あっという間(ま)に、国じゅうを半分までも巻(ま)き込(こ)んでしまいました。
皇后の軍勢は、その大海嘯と入れちがいに、息もつかせずうわあッと攻(せ)めこみました。すると新羅(しらぎ)の王はすっかり怖(おそ)れちぢこまって、すぐに降参(こうさん)してしまいました。
国王は、
「私どもはこれからいついつまでも、天皇のおおせのままに、おうま飼(かい)の下郎(げろう)となりまして、いっしょうけんめいにご奉公申しあげます。そして毎年(まいとし)船をどっさり仕立てまして、その船底(ふなぞこ)の乾(かわ)くときもなく、棹(さお)や櫂(かい)の乾くまもなもないほどおうかがわせ申しまして、絶えず貢物(みつぎもの)を奉(たてまつ)り天地が亡(ほろ)びますまで無窮(むきゅう)にお仕え申しあげます」と、平蜘蛛(ひらぐも)のようになっておちかいをいたしました。
それで皇后はさっそくお聞き届(とど)けになりまして、新羅(しらぎ)の王をおうま飼(かい)ということにおきめになり、その隣(となり)の百済(くだら)をもご領地(りょうち)にお定めになりました。そしてそのお印(しるし)に、お杖(つえ)を、新羅(しらぎ)の王宮(おうきゅう)の門のところに突(つ)き刺(さ)してお置(お)きになりました。
それから最後に、お社(やしろ)をお作りになって、今度のご征伐(せいばつ)についていちいちお指図(さしず)をしてくださった、底筒男命(そこつつおのみこと)以下三人の神さまを、この国の氏神(うじがみ)さまにお祀(まつ)りになった後、ご威風(いふう)堂々と新羅(しらぎ)をおひき上げになりました。
二
おん母上の皇后はその前に、まだご征伐のお途中でお腹(なか)のお子さまがお生まれになろうとしました。それで、どうぞ今しばらくの間はご出産にならないようにとお祈りになって、そのお呪(まじな)いに、お下着のお腰(こし)のところへ石ころをおつるしになり、それでもって当分お腹をしずめておおきになりました。
するとお子さまは、ちゃんと筑紫(つくし)へお凱旋(がいせん)になってからご無事にお生まれになりました。それはかねて神さまのお告げのとおりりっぱな男のお子さまでいらっしゃいました。この小さな天皇には、ご誕生(たんじょう)のときに、ちょうど、鞆(とも)といって弓(ゆみ)を射(い)るときに左の臂(ひじ)につける革具(かわぐ)のとおりの形をしたお盛肉(もりにく)が、お腕(うで)に盛りあがっておりました。皇后はこれをお名まえにお取りになって、大鞆命(おおとものみこと)とお名づけになりました。すなわち後にお呼(よ)び申す応神天皇(おうじんてんのう)さまです。その鞆(とも)のお肉のことをうけたまわったものたちは、天皇がお母上のお腹(なか)のうちから、すでに天下をお治めになっていたということは、これでもわかると言って、みんな畏(おそ)れ入りました。
また、皇后はご出征のまえに、肥前(ひぜん)の玉島(たましま)というところにおいでになって、そこの川のほとりでお食事をなさったことがありました。
それがちょうど四月で、あゆが取れるころでした。皇后はためしにその川中の石の上にお下りになって、お下袴(したばかま)の糸をぬいて釣糸(つりいと)になされ、お食事のおあとのご飯(はん)粒(つぶ)を餌(えさ)にして、ただでも決して釣(つ)ることができないあゆをちゃんとおつり上げになりました。
ですからこの地方では、その後いつも四月のはじめになりますと、女たちがみんな下袴(したばかま)の糸をぬいて、飯粒(めしつぶ)を餌にしてあゆを釣り、ながく皇后のお徳をかたりつたえる印(しるし)にしておりました。
三
おん母上の皇后は、ついで熊襲(くまそ)をも難なくご平定になって、いよいよ大和(やまと)におかえりになることになりました。
しかし、大和には、香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)とおっしゃる、お二人のお腹(はら)ちがいの皇子などがおいでになるので、うっかりしていると、天皇がお小さいのにつけ入ってどんな悪い事をお企(たくら)みになるかわからないとお気づかいになりました。
それで皇后は、ちゃんとお策略(さくりゃく)をお立てになって、喪船(もふね)を一そうお仕立てになり、お小さな天皇をその中へお乗せになりました。
そして天皇はもはやとくにお亡(な)くなりになったとお言いふらしになり、そのお空骸(なきがら)を奉じておかえりになるていにして、筑紫(つくし)をお立ちになりました。
こちらは香坂(かごさか)、忍熊(おしくま)の二皇子は、それをお聞きになりますと、案のとおり、ご自分たちがあとを取ろうとおかかりになりました。それでまず第一番に皇后の軍勢を待ちうけて討(う)ち亡(ほろ)ぼそうとおぼしめして、にわかに兵を集めて、摂津(せっつ)の斗賀野(とがの)というところまでご進軍になりました。
皇子たちは、その野原でためしに猟(りょう)をして、その獲物(えもの)によって、さいさきを占(うらな)ってみようとなさいました。
香坂皇子(かごさかのおうじ)は、くぬぎの木に上って、その猟の有様(ありさま)を見ていらっしゃいました。すると、ふいにそこへ、手傷(てきず)を負(お)った大きないのししがあらわれて、そのくぬぎの木の根もとをどんどん掘(ほ)りにかかりました。そしてまもなくすとんと掘り倒(たお)したと思いますと、いきなり香坂皇子(かごさかのおうじ)に飛びかかって、がつがつ皇子を食べてしまいました。
しかし、弟さまの忍熊皇子(おしくまのおうじ)は、そんな悪い前兆(ぜんちょう)にもとんじゃくなしに、そのまま軍勢をおひきつれになり、海ばたまで押しかけて、待ちかまえていらっしゃいました。
そのうちに、皇后がたのお船が見えて来ました。忍熊王(おしくまのみこ)は、その中の喪船(もふね)には、兵たいたちが乗っていないはずなので、まずまっ先にその船を目がけてお討(う)ちかからせになりました。
ところがその船の中には、前もってちゃんとよりすぐりの兵が忍(しの)ばせてありました。その兵士たちは船がつくなり、ふいに、うわッと飛び下りて、たちまち、はげしい戦(いくさ)をはじめました。
そのとき忍熊王(おしくまのみこ)の軍勢(ぐんぜい)には、伊佐比宿禰(いさひのすくね)というものが総大将(そうたいしょう)になっていました。それに対して皇后方からは建振熊命(たけふるくまのみこと)という強い人が将軍となって攻(せ)めかけました。
建振熊命(たけふるくまのみこと)は見る見るうちに宿禰(すくね)の軍勢を負かし崩(くず)して、ぐんぐんと、どこまでも追っかけて行きました。すると敵は山城(やましろ)でふみ止(とど)まって、頑固(がんこ)に防(ふせ)ぎ戦(いくさ)をしだしました。
建振熊命(たけふるくまのみこと)は、何をと言いながら、死にもの狂(ぐる)いで攻めかけ攻めかけしました。しかし、どんなにあせっても敵はそれなりひと足も退(ひ)こうとはしませんでした。
建振熊命(たけふるくまのみこと)は、しまいには、これでは果(は)てしがないと思い直して、急に味方の兵をひきまとめるといっしょに、向こうの軍勢に向かって、
「実は皇后が急におなくなりになったので、われわれはもう戦(いくさ)をする気はない」と申し入れながら、その目の前で全軍(ぜんぐん)の兵士(へいし)たちに弓(ゆみ)の弦(つる)をことごとく断(た)ち切(き)らせて、さもほんとうのように、伊佐比宿禰(いさひのすくね)に降参(こうさん)をしました。
すると伊佐比宿禰(いさひのすくね)はそれですっかり気をゆるして、自分のほうもひとまずみんなに弓の弦(つる)をはずさせ、いっさいの戦(いくさ)道具をも片(かた)づけさせてしまいました。
建振熊命(たけふるくまのみこと)はそれを見すまして、
「それッ」と合い図をしますと、部下の兵たちは、髪(かみ)の中に隠(かく)していた、かけがえの弦を取り出して瞬(またた)くまに弓を張って、
「うわッ」と、哄(とき)を上げて攻めかかりました。
敵はまんまと不意を討(う)たれて、総くずれになってにげ出しました。建振熊命(たけふるくまのみこと)は勝に乗じてどんどんと追いまくって行きました。
すると敵勢(てきぜい)は近江(おうみ)の逢坂(おうさか)というところまでにげのびて、そこでいったん踏(ふ)み止(とど)まって戦いましたが、また攻めくずされて、ちりぢりににげて行きました。
建振熊命(たけふるくまのみこと)は、とうとうそれを同じ近江(おうみ)の篠波(ささなみ)というところで追いつめて、敵の兵たいという兵たいを一人ものこさず斬(き)り殺してしまいました。
そのとき忍熊王(おしくまのみこ)と伊佐比宿禰(いさひのすくね)とは、危(あやう)く船に飛び乗って、湖水の中へにげ出しました。
しかしぐずぐずしていると今につかまってしまうのが目に見えていましたので、皇子(おうじ)は宿禰(すくね)に向かって、
さあ、おまえ、
振熊(ふるくま)に殺されるよりも、
鳰鳥(かいつぶり)のように、
この湖水にもぐってしまおうよ。
とお歌いになり、二人でざんぶと飛び込(こ)んで、それなり溺(おぼ)れ死にに死んでおしまいになりました。
四
皇后はそれでいよいよめでたく大和(やまと)へおかえりになりました。
しかし武内宿禰(たけのうちのすくね)だけは、お小さな天皇をおつれ申して、穢(けが)れ払(はら)いの禊(みそぎ)ということをしに、近江(おうみ)や若狹(わかさ)をまわって、越前(えちぜん)の鹿角(つぬが)というところに仮のお宮を作り、しばらくの間そこに滞在(たいざい)しておりました。
するとその土地に祀(まつ)られておいでになる伊奢沙和気大神(いささわけのおおかみ)という神さまが、あるばん宿禰(すくね)の夢に現われていらしって、
「わしの名を、お小さい天皇のお名と取りかえてくれぬか」とおっしゃいました。
宿禰(すくね)は、
「それはもったいないおおせでございます。どうもありがとう存じます」とお答え申しました。大神(おおかみ)は、「それでは、明日(あす)お供をして海ばたへ来るがよい。名を取りかえてくださったお礼を上げようから」とおっしゃいました。
それであくる朝早く、天皇をおつれ申して海岸へ出て見ますと、みんな鼻の先に傷(きず)をうけた、それはそれはたいそうな海豚(いるか)が、浜じゅうへいっぱいうち上げられておりました。
宿禰(すくね)はさっそくお社(やしろ)へお使いをたてて、
「食べ料のお魚(さかな)をどっさりありがとう存じます」とお礼を申しあげました。
天皇はそれから大和(やまと)へおかえりになりました。
お待ち受けになっていたお母上の皇后は、それはそれは大喜びをなすって、さっそくご用意のお酒を出させて、お祝いのおさかもりをなさいました。
皇后は、
このお酒は、私(わたし)がかもした酒ではない。
薬の神の少名彦名神(すくなひこなのかみ)があなたのご運をお祝いして、
喜びさわいでつくってくだされたお酒だから、
のこさず、すっかりめし上がってください。
さあさあどうぞ。
という意味をお歌いになりました。
宿禰(すくね)は天皇に代わって、
このお酒をつくった人は、
鼓(つづみ)を臼(うす)の上に立てて、
歌いながら、舞(ま)いながら、
喜び喜びつくったせいでございますか、
それはそれはたいそうよいお酒で、
いただきますとひとりでに歌いたく、
舞いたくなってまいります。
ああ楽しや。
とお答えの歌を歌いながら、ともどもお喜び申しました。
後の世の人は、この母上の皇后の、いろんな雄々(おお)しい大きなお手柄(てがら)をおほめ申しあげて、お名まえを特に神功皇后(じんぐうこうごう)とおよび申しております。
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