二
えゝ引続(ひきつゞき)のお梅粂之助のお話。何ういう理由(わけ)か女子(おんな)の名を先に云って男子(おとこ)の名を後(あと)で呼ぶ。お花半七とか、お染久松とか、夕霧伊左衞門とかいうような訳で、実に可笑(おか)しいものでござります。さて日本も嘉永(かえい)の五年あたりは、まだ世の中が開(ひら)けませぬから、神信心(かみしんじん)に凝(こ)るとか、易占(うらない)に見て貰うとかいうような人が多かったものでござります。丁度嘉永の六年に亜米利加船(あめりかぶね)が日本へ渡来をいたしてから、諸藩共に鎖国攘夷などという事を称え出し、そろ/\ごたつきはじめましたが、町家(ちょうか)では些(ちっ)とも気が附かずに居ったことでござります。
彼(か)の浅草三筋町の甲州屋の娘お梅が、粂之助の後(あと)を慕って家出をいたす。何程(なんぼ)年が行かぬとは申しながら、実に無分別極まった訳でござります。左様な事とは毫(すこ)しも知らぬ粂之助が、丁度お梅が家出をした其の翌朝(よくあさ)のこと、兄の玄道(げんどう)が谷中の青雲寺まで法要があって出かけた留守、竹箒を持って頻(しき)りに庭を掃いていると、表からずっと這入って来た男は年頃三十二三ぐらいで、色の浅黒い鼻筋の通ったちょっと青髯(あおひげ)の生えた、口許(くちもと)の締った、利口そうな顔附をして居ますけれども、形姿(なり)を見ると極(ごく)不粋(ぶすい)な拵(こしら)えで、艾草縞(もぐさじま)の単衣(ひとえ)に紺の一本独鈷(いっぽんどっこ)の帯を締め、にこ/\笑いながら、
男「え、御免なさいまし」
粂「はい、お出でなさい」
男「えゝ、長安寺というのは此方(こちら)ですか」
粂「ヘエ、左様でございます」
男「あの此方に粂之助さんというお方がおいででござりますか」
粂「ヘエ、粂之助は私(わたくし)でございますが…」
男「ア左様でげすか、是は何うも…左様ならちょいと表まで顔を貸してお貰い申したいもので」
粂「ヘエ………あの生憎(あいにく)兄が居ませぬで、何うも家(うち)を空(から)にして出る訳には参りませぬから、若(も)し何(なん)ぞ御用がおあんなさるなら庫裏(くり)の方へお上(あが)んなすって」
男「左様でげすか、じゃア御免なせえまし」
粂「さ、何卒(どうぞ)此方(こちら)へ」
男「へい」
紺足袋の塵埃(ほこり)を払って上へ昇(あが)る。粂之助は渋茶と共に有合(ありあい)の乾菓子(ひがし)か何かをそれへ出す。
男「いえ、もうお構いなせえますな、へい有難う、え、貴方(あなた)にはお初にお目にかゝりますが、私(わっち)は千駄木(せんだぎ)の植木屋九兵衞(くへえ)という者でございまして」
粂「へえへえ」
九「実ア其の、昨夜(ゆうべ)、お嬢様(さん)が突然(だしぬけ)に私(わっち)ん処へおいでなすったんで」
粂「え、嬢さんと仰しゃるのは……………」
九「へえ鳥越桟町(とりこえさんまち)の甲州屋のお嬢さんで」
粂「へえー、何ういう理由(わけ)で貴方の処へお嬢様(さん)が……」
九「いや、これは解りますめえ、斯(こ)ういう理由なんでげす、あのお嬢さんが二歳(ふたつ)の時に、私(わっし)の母親(おふくろ)がお乳を上げたんで、まア外(ほか)に誰も相談相手が無いからって、訪ねておいでなすったから、母親もびっくりして、まアお嬢さん、今時分何ういう理由(わけ)で入らしったてえと、犬に吠えられたり何かして、命からがら漸(ようよ)うの事でお前の処(とこ)へ来た理由は、誠に乳母(ばあ)や面目ないが、長らく宅(うち)に勤めて居た手代の粂之助というものと、人知れず懇(ねんごろ)を通じて夫婦約束をした、処がお母(っか)さんが世間の口がうるさいから一時(いちじ)斯(こ)うはするものゝ、後(のち)には必ず添わせてやると仰しゃって、粂之助に暇(いとま)を出して了(しま)った後(あと)で、外(ほか)から聟を取れと仰しゃる、それじゃアどうも粂之助に義理が済まないから、私は斯うやって駈出したんだと仰しゃるんです、そうすると私(わっし)の母親は胆(きも)をつぶしてね、素(す)ッ堅気(かたぎ)だから、なか/\合点(がってん)しねえ、それはお嬢様(さん)飛んでもない事で、お店の奉公人や何かと私通(いたずら)をするようなお嬢様なら、私の処へは置きませぬ、只(た)った今出てお出(いで)なせえというから、私(わっし)が仲裁をして、まアお母(っか)ア待ちねえ、そうお前(めえ)のように頑固(かたくな)なことばかりいっちゃアしょうがねえ、折角頼りに思っておいでなすったお前まで、そんな邪険な事を云ったら娘心の一筋に思い詰め、此家(こゝ)から又駈出して途中散途(さんと)で、何様(どん)な軽はずみな心を出して、間違(まちげ)えがねえとも限らねえ、まア/\己のいう通りにして居ねえといって、それからお嬢様を此方(こっち)へ呼んでお母(ふくろ)はあんな事を云いますが、お前(まえ)さんは何処(どこ)までも粂之助様(さん)と添いたいという了簡があるなれば、私(わっし)がまア何うにでもしてお世話を致しましょう、貴方はお宅(うち)を勘当されても、粂之助様と添遂げるという程の御決心がありますかてえと、屹度(きっと)遂げます、一旦粂之助も私と夫婦約束をしたのですもの、確(たしか)に私を見捨てないという事もいいましたし、又そんな不実な人ではありませぬ、じゃア宜(よ)うがすが、何処か行(ゆ)く所がありますかと云うと、何処も目的(あて)がねえ、こう云うから私(わっち)も困って、兎も角粂さんに逢ってからの事に仕ましょうといって、今日(けさ)わざ/\お前(めえ)さんの所(とこ)へ訪ねて来たんですが、お前さんも矢っ張お嬢様と何処までも添い遂げるという御了簡があるんですか、ないんですか、一応貴方の胸を聴きに来たんでげす」
粂「それは何うも怪(け)しからぬ事です、あの時お内儀様(かみさん)が色々と御真実に仰しゃって下すったから、私(わたくし)は斯(こ)うやって何処へも行(ゆ)かずに辛抱をして居ますのに、お嬢様(さん)に聟を取れと仰しゃるような、そんな御了簡違いのお方なら、私は何処までもお嬢様を連れて逃げまして、何様(どん)な真似をしたって屹度添い遂げます」
九「それで私(わっち)も安心をしたが、お前さん何処(どっ)か知ってる所がありますか」
粂「私(わたくし)は別に懇意な家(うち)もありませぬ」
九「そりゃア困るね、何所(どこ)かありませぬか」
粂「ヘエ、何も」
九「何も無いたって困るねえ、じゃまア斯(こ)うしよう、下総(しもふさ)の都賀崎(つがざき)と云う所に金藏(きんぞう)という者がある、私(わっち)とは少し親類合(あい)の者だから、これへ手紙を附けて上げるから、当人に逢って、能(よ)く相談をして世帯(しょたい)を持たせて貰いなさるが宜(い)い、併(しか)し彼方(あっち)へ行(ゆ)くだけの路銀と世帯を持つだけの用意はありやすか」
粂「金と云っては別にございませぬが、兄が此間(こないだ)私(わたくし)にしまって置けと預けた金がございます、それは本堂再建(さいこん)のため、世話人衆(しゅ)のお骨折で、八十両程集りましたのでございます」
九「イヤ八十両ありゃア結構だ、三十両一ト資本(もとで)と云うが、何様(どん)な事をしても五十両なければ十分てえ訳には往(ゆ)かねえが、其の上に尚(なお)三十両も余計な資金(もの)があれば、立派にそれで取附けますが、其の金をお前様(さん)取れますか」
粂「へえ、用箪笥(ようだんす)の抽斗(ひきだし)に這入っていますから直(すぐ)に取れます、そうして後(のち)にお宅へ出ますが何方(どちら)です」
九「あの千駄木へお出でなさると右側に下駄屋があります、それへ附いて広い横町を右へ曲ると棚村(たなむら)というお坊主の別荘がある、其のうしろへ往って植木屋の九兵衞といえば直(じき)に知れます」
粂「じゃア、今晩兄が帰ったら直(すぐ)に出ます」
九「今晩といってもなるたけ早い方が宜(よ)うがすよ」
粂「ヘエ日暮までにはどんな事をしても屹度(きっと)参ります」
九「じゃア其の積(つもり)で何分お頼み申します」
粂「ヘイ宜しゅうございます」
九「左様なら」
プイと表へ出て了(しま)う。其の跡で粂之助が、無分別にも不図(ふと)悪心を起し、己(おのれ)が預りの金子八十両を窃(ぬす)み出し、此方(こなた)へ出て見ると今の男が証拠に置いて行ったものか、予(かね)て見覚えあるお梅の金巾着(かねぎんちゃく)が其処(そこ)に抛(ほう)り出してあった、取上げて見ると中に金子が三両ばかり這入っている。
粂「はてな、是はあの人が置いて行ったのか知ら、ア、そう/\、これを置いて行(ゆ)くからは此(こ)ん中へ八十両の金子(かね)を入れて来いという謎かも知れない」
と右の女夫巾着(めおとぎんちゃく)[#「女夫巾着」に欄外に校注、「せなかあわせにくッついている巾著」]の中へ金子(かね)を入れ、確(しっ)かり懐に仕舞って、そろ/\出かけようかと思っている処へ兄の玄道が帰って参り、それより入替り立代り客が来るので、何分出る事が出来ませぬ。
お話は二つに分れまして鳥越桟町の甲州屋方では大騒ぎ、昨夜(ゆうべ)娘のお梅が家出をいたした切りかいくれ行方が解りませぬから、家内中(うちじゅう)の心配大方ならず、お鬮(みくじ)を取るやら、卜筮(うらない)に占(み)てもらうやら、大変な騒ぎをして居る処へ、不忍弁天の池に、十六七の娘の死体が打込んであるという噂を聞込んで来て、知らせた者があるから、母親(おふくろ)は仰天して取るものも取(とり)あえず来て見ると、お梅に相違ないから早々人を以(もっ)て御検視を願い、段々死体を調べて見ると、縊(くび)り殺して池の中へ投込んだものらしく、殊(こと)には持出した五十両の金子(きんす)が懐にないから、おおかた物取(ものどり)であろうと、事が極って検視済の上死骸を引取り、漸(ようや)く日暮方に死骸を棺桶へ収めることになった。処へ鳶頭(かしら)が来まして、
鳶「ヘエ唯今、あの何(なん)でげす、八丁堀さんと、それから一番遠いのが麻布(あざぶ)の御親類でげすが、それ/″\皆(みんな)子分を出してお知らせ申しました」
番頭「あ、それはどうも大きに御苦労/\」
鳶「何だなア、定さん、男の癖におい/\泣くのは止しねえ、お内儀様(かみさん)は女でこそあれ、あゝいう御気象だから、涙一滴澪(こぼ)さぬで我慢をしていらっしゃるのだ、それだのにお前が早桶の側へ行って、おい/\泣くもんだから不可(いけね)えよ」
定「泣くなってそれは無理でございます、何だか此の早桶の側へ来ると哀しくなるんですもの、お嬢様(さん)は別段に可愛がって呉れましたから、私は哀しくなるのです」
鳶「まア泣いちゃア不可ねえ、えゝお内儀様唯今」
内儀「あい、鳶頭大きに色々お骨折(ほねおり)で、何も彼(か)もお前のお蔭で行届(ゆきとゞ)きました」
鳶「どう致しまして、就(つ)きまして麻布様(さん)の方へお嬢様(さん)が家出をなすった事を知らせにやりまして、金太(きんた)がようやく先方(むこう)へ着いたくらいの時に、又斯(こ)ういう変事が出来ましたから、追(おっ)かけて人を出し、これ/\でおなくなりになったてえ事をお知らせ申しましたら、大層にお驚きなすったそうでげす」
内儀「そうであったろう、もう麻布のが一番彼(あれ)を可愛がってくれたから、誠に有難う、万事お前のお蔭で行届きました、が斯うなるのも皆(みん)な因縁事と諦めて居ますから、私は哀しくも何ともありませぬよ」
鳶「いえ、何(ど)うも御気象な事で、まアどうもお嬢様(さま)がお小さい時分、確か七歳(なゝつ)のお祝の時、私(わっし)がお供を致しまして、鎮守様から浅草の観音様へ参(めえ)りましたが、いまだに能く覚えております、往来の者が皆(みんな)振返って見て、まアどうも玉子を剥(む)いたような綺麗なお嬢様(さん)だ、可愛らしいお児(こ)だって誰でも誉めねえものは無(ね)えくれえでげしたが、幼少(ちい)せい時分からのお馴染ゆえ、此の頃になってお嬢様(さん)が高慢なことを仰しゃいましても、あなた其様(そん)な事をいったッていけませぬ、わたしの膝の上で小便をした事がありますぜてえと、あら鳶頭幼少せい時分の事をいっちゃア厭だよなんて、真紅(まっか)におなりでしたが、何とも申そうようはござえませぬ」
内儀「はい、お前も久しい馴染ゆえお線香でも上げてやっておくれ」
鳶「へえ、有難う………えゝ番頭さん、誠に何うも飛んでもねえ事で」
番頭「いや鳶頭大きに御苦労であった、まア此方(こっち)へ来なさい、何うもお内儀さんの思召(おぼしめし)を考えて見るとお気の毒で何うもならぬ、ならぬが当家(うち)のお嬢様(さん)を殺したのは誰じゃという事は大概お前も感付いておるじゃろうな」
鳶「いゝえ、些(ちっ)とも知りやせぬよ、何だか物取だろうってえ評判なんで」
番「いゝや物取ではない、何でも是は粂之助の仕業(しわざ)に相違ないという私(わたい)の考(かんがえ)だ」
鳶「ハ、飛んでもねえ事をいいますね、其様(そん)なお前(めえ)さん……ナなんぼ粂どんが憎いたって、無暗(むやみ)に人殺(ひとごろし)に落したりなんかして、どうしてお前(まえ)さん粂どんは其様な悪い事をするような人じゃアねえ」
番「いやそれはいかぬ、お内儀(いえ)はん斯(こ)ういう最中で争論(いさかい)をしては済みまへんが、一寸(ちょっと)これに就(つ)いておはなしがあるんでおす、一昨夜(おとつい)私(わたい)が一寸用場へ参りまして用を達(た)してから、手を洗うていると、ほんのりと星光(ほしあかり)で人影が見えるで、はてナと思うて斯う透(すか)して見ておると、垣根の外へ廻って来たのが粂之助でおす、するとお嬢様(さま)がこっちゃから声を掛けて粂之助やないかというと、はい私(わたくし)でございますと低声(こゞえ)でいいましたわい、まア粂之助よう来ておくれた、はい漸(ようよ)うの事で忍んで参りました、お前に逢いとうて逢いとうてどうもならぬであった、私(わたい)も逢いとうてならぬから、漸うの思いで参りました、私(わたい)もそう長う寺に辛抱しては居られまへぬ、あんたはんも私(わたい)のような者でも本当に思うて下(くだ)はるなら、寧(いっ)そ手に手を取って此所(こゝ)を逃げまひょう、そうしてあんたと二人で夫婦になって、深山(みやま)の奥なりと行(い)んで暮したいが、それに就いても切(せめ)て金子(かね)の五六十両も持ってお出でやというと、おゝ左様(さよ)か、そんなら屹度(きっと)明日(あす)の晩持って行(い)ぬという事を確かに聞いた」
鳶「へえ、それから」
番「どうも変やと思うていると、あんたお嬢様(さん)が莫大のお金を持(と)って逃げやはった、それ故何うも私(わたい)の思うには粂之助がお嬢様(さま)を殺して金子(かね)を取って、其の死骸を池ン中へ投(ほう)り込んだに違いないと斯(こ)う考えるのでおす」
鳶「おう、おう番頭さん、詰らねえ事を云っちゃアいけねえぜ、お前(めえ)は全体(ぜんてえ)粂どんを憎むから然(そ)う思うんだが、まアよく考えて見ねえ、粂どんが人殺をするような人だか何だか、ソヽ其様(そん)な解らねえ事をいったって仕様がねえじゃアねえか」
番「イヤ真実(まったく)の事だ、証拠があるぜ」
鳶「証(しょう)、な何が証拠だ」
番「定吉い、ちょっと此処(こゝ)へ来い、えゝめろ/\泣くな」
定「何です番頭(ばんつ)さん、泣くなたってお嬢様が死んで哀しくって堪(たま)らないから、泣くんです」
番「えゝい、汝(おのれ)がお嬢様を殺したもおんなじ事(こっ)た」
定「あゝいう無理な事ばかりいうんだもの、どういう理由(わけ)で」
番「汝(おのれ)は一昨日(おととい)の夜(よ)この店で帯を締め直す時に落した手紙は、お嬢様(さん)に頼まれて粂之助の処へ届けようとしたのじゃないか」
定「あら………仕様がないな、彼所(あすこ)に持っているのだもの、道理で無いと思った」
番「此様(こん)なものをお嬢様から頼まれるのが悪いのだ」
定「頼まれるのが悪いたって………仕様がないナ………その頼まれたのはなんでございます………仕様がないな………あの……それはお嬢様(さん)が、定や、ちょいとお出でてえから、はいてってお居間へ行ったんです、然(そ)うするとお前何所(どこ)へ行(ゆ)くんだと仰しゃるから、私(わたくし)は谷中の方へ参るんですといったら、そんならお前これを粂どんに届けてお呉れって、お手紙を私の懐へ入れたから持って行ったんです」
番「ウム、持って行って何うした」
定「何うしたって……しようがないな」
番「汝(おのれ)は度々(たび/\)粂之助の処(とこ)へ寄るから悪いのじゃ」
定「ナニ寄る気でもないんですが、近いから、あのお寺の前を通ると曲角(まがりかど)のお寺だもんですから、よく門の所(とこ)なんぞを箒(は)いてゝ、久振(ひさしぶり)だ、お寄りなてえから、ヘイてんで旧(もと)は朋輩(ほうばい)だから寄りますね」
番「道理で毎(いつ)も使(つかい)が長いのや」
定「ナニ別に長い訳もないんですが、今お葬式(とむらい)が来てお饅頭を貰った、それをお前に上げるから、お待ちてえから待ってたんです」
番「えゝい、喰(くら)い物の事ばかり云うて居(お)る。汝(おのれ)が取次をするから此の様な間違が出来(でけ)たのや、サ是を御覧、此の手紙が何よりの証拠や、私(わたい)はお前に逢いとうて逢いとうてならぬから、家出をしてお前の処(とこ)へ行(ゆ)く、何卒(どうぞ)末長く見捨てずに置いておくれと書いてあるやないか、是が何よりの証拠や」
鳶「証拠だッて、そんな事は私(わっし)ア知りやアしねえ」
番「知りやせぬと云うてまアよく考えて見なはれ、当家(うち)のお内儀様(いえはん)はこないに諦めの宜(え)えお方やから、涙一滴澪(こぼ)さぬが、鳶頭が仲へ這入って口を利き、もう甲州屋の家(うち)へは足踏をさせぬと云い切って引取ったのやないか、それじゃのに、又此処(こゝ)へ粂之助が忍んで来て、お嬢様(さん)を誘い出すような事になったのは、大方鳶頭も内々(ない/\)知って居(お)るのではないか、粂之助と共謀(ぐる)になってお嬢様を誘い出し、金額(かね)を半分ぐらい取ったのではないかアと思われても是非がないやないか」
云うと怒(おこ)ったの怒らないの、もと正直な人だから、額へ青筋を出して、
鳶「何を吐(ぬか)しやアがるんでえ、撲(なぐ)り付けるぞ、コレ頭を禿(はげ)らかしやアがって馬鹿も休み休み云え、粂どんが人を殺して金を取る様な人か人でねえか大概(てえげえ)解りそうなもんだ、手前(てめえ)の心に識別ウするから其様(そんな)事を吐(ぬか)すんだ、己が半分取ったたア何だ、撲り付けるぞ」
番「打(ぶ)たいでも宜(え)え、私(あたい)は理の当然をいうのや、お嬢様(さま)を殺して金子(かね)を取ったという訳じゃないが、然(そ)う思われても是非がないと云うのや」
鳶「何が是非がないんだ、撲倒(はりたお)すぞ」
清「まア/\少し待っておくれ」
と云いながら台所より出て来たは清助というお飯炊(まんまたき)。
清「鳶頭まア/\貴方(あんた)は正直な方だから、こんな事を云われたら、嘸(さぞ)はア胆(きも)が焦(い)れて堪(たま)るめえが、己が一と通りいわねばなんねえ事があるだアから、少し待ったが宜(え)え――コレ番頭さん、此処(こゝ)へ出ろ」
番「何じゃ、汝(おのれ)が出る幕じゃアない、汝は飯炊(めしたき)だから台所に引込(ひっこ)んで、飯の焦(こげ)ぬように気を附けて居(お)れ、此様(こない)な事に口出しをせぬでも宜(え)いわ」
清「成程己は僅(わずか)なお給金を戴いて飯炊をしてえるからッて、飯せえ焦がさねえようにしていれば宜(え)えというもんじゃアあんめえ、当家(うち)へ泥坊が這入(へい)ってお内儀様(かみさん)を斬殺(きりころ)しても、己が飯炊だからって、何(なん)にも構わずに竈(へっつい)の前(めえ)にぶっ坐(つわ)ってゝ宜えと思わしゃるか、汝(われ)が曲った心に識別するから然(そ)ういう間違った事をいうだ、コレよく考(かんげ)えて見ろよ、汝は粂どんを憎むから、少しのことを廉(かど)に取って粂どんが嬢様(じょうさま)を殺したなんてえが、何処(どこ)までも汝がそんな事を頑張って殺したといわば、己(おら)ア合点(がってん)しねえだ、粂どんが庭へ来てお嬢様と相談して、明日(あした)の晩連れて逃げようてえ約束をしたのを見たと云わば、何故早く其の事をお内儀様へ知らせねえだ、粂どんがコソ/\でお嬢様を誘い出しに来やしたから、油断をしねえが宜(よ)うがすとちょっと知らせればそれで宜(え)えだ、然うすれば直(す)ぐにお嬢様を他家(わき)へ預けるとか、左(さ)もなければお内儀様が気イ附けて奉公人も皆起きて居(お)らば、何うしたって嬢様が逃げ出す気遣(きづけえ)はねえだ、逃げなけりゃア殺されることもねえだ、それを知って居ながら黙ってゝ、嬢様が逃出してから殺されゝば、汝が殺したも同じ事(こん)だぞ、まだぐず/\何か云やアがると打(ぶ)っ殺して己(おれ)も死んじまうだ」
内儀「コレ/\清助静かにしないか、番頭様(さん)に向ってそんな事をいっては済まないじゃないか、鳶頭、お前も嘸(さぞ)腹が立つだろうが、何卒(どうぞ)我慢をしておくれ、悉皆(みんな)私が呑込んでいるから、私は決して粂之助の仕業(しわざ)とは思わないけれども、大方粂之助も此の事を知らずに谷中に居るに違いない、お前が行って斯(こ)う/\と知らせたら、粂之助も定めて恟(びっく)りするだろうと思うから、お願いだが、お前ちょいと此の事を粂之助へ知らせてお呉れでないか」
鳶「え、往(い)きますとも、半分取ったろうなんて、飛んでもねえ濡衣(ぬれぎぬ)を着せられたんですもの、直(すぐ)に行って来ます、少し提灯(ちょうちん)をお貸しなすって」
ずうっと腹立紛(はらたちまぎれ)に飛びだして谷中の長安寺へやって来ました。
鳶「え、御免なせえ、御免なせえ」
粂「はい……おや/\鳶頭」
鳶「や、粂どん……まア宜(よ)かった、はあ…お前(めえ)に怪しい事があれば何所(どっ)かへ逃げちまうんだが、ちゃんと此処(こゝ)に居てくれたんでまア宜かった、あゝ有難(ありがて)え」
粂「あの兄(あに)さん、何だか鳥越の鳶頭がおいでなさいましたよ」
玄「いやア、鳶頭、まあ何卒(どうぞ)此方(こちら)へ誠に何(ど)うも御無沙汰をして済まぬ、ちょっとお礼かた/″\お訪ね申さんければならぬのじゃが、何分にも寺用(じよう)に取紛れて存じながら大きに御無沙汰を……」
鳶「そう長ったらしく云ってられちゃア困る、大騒動が出来たんだ、まア御挨拶は後(あと)にしておくんなせえ、おゝ粂どん、お嬢様が昨夜(ゆうべ)家出をした事を知ってるかい」
粂「いゝえ…………」
鳶「いゝえって震えたぜ、え、おい、お嬢様が殺されちまったんだよ」
粂「えっ、お嬢様が……」
鳶「死骸が弁天の池から今朝上がって、御検視を願うの何(なん)のって大騒ぎをしたんだ」
粂「へえー……じゃア千駄木の植木屋の九兵衞さんというのは何です、全体まア何ういう理由(わけ)なんです」
鳶「何ういう理由の何のって、大変な騒ぎなんで、まア和尚様(さん)お聴(きゝ)になって下せえまし、お嬢様は粂どんに逢いてえ一心から、莫大(ばくでえ)の金子(かね)を持(もっ)て家出をしたから、大方泥坊に躡(つ)けられて途中で遣(や)るの遣らねえのといったもんだから、殺されたに違(ちげ)えねえんで、それを店の番頭野郎がこう吐(ぬか)すんだ、何(な)んでも粂どんがお嬢様を誘い出して、途中で殺して金子を取ったに違えねえ、鳶頭も粂どんと共謀(ぐる)になって、其の金を二十五両ぐらい取ったろう、こう吐すんだ、私(わっし)は腹が立って堪らねえから、余程(よっぽど)殴りつけてやろうとは思ったけれども、お前(めえ)さん何うもね、お内儀様(かみさん)が御愁傷の中だから、そんな乱暴狼藉[#「狼藉」は底本では「狼籍」と誤記]の真似をしちゃア済まねえと思って、耐(こら)えていたが、粂どんが何(なん)にも知らずに斯(こ)うやっているから本当に宜かった、何卒(どうぞ)直(すぐ)に行っておくんなせえ」
玄「いや、それは重々御道理(ごもっとも)な訳じゃ、此方(こちら)にも不行跡(ふしだら)がある事(こっ)ちゃから然(そ)う云う御疑念が懸っても仕方がない、仕方がないが、然う云う場合になると、粂之助は頓(とん)と口の利けぬ奴じゃで、私(わし)も一緒に参りましょう」
鳶「そりゃア有難(ありがて)え、なるたけ大勢の方がようがす、じゃア直(すぐ)に行っておくんなせえ」
これから提灯を点(つ)けて寺を出かけ、三人揃って甲州屋の裏口から這入って来ました。
内儀「さア、何卒(どうぞ)此方(こちら)へ、/\」
鳶「え、お内儀様(かみさん)、谷中の長安寺の和尚様も入らっしゃいましたよ」
内儀「おや/\それは何うもまア何うぞ此方へ」
玄「はい、御免を……唯今鳶頭から不慮の事を承りまして、何とも御愁傷の段察し入ります」
鳶「まア、其様(そん)な長ったらしい悔(くやみ)は後(あと)にしておくんなせえ、さ、粂どん此方(こっち)へ這入んなよ」
粂「ヘエ……えゝ、お内儀様(かみさん)お嬢様が飛んだ事にお成りあそばしまして、嘸(さぞ)御愁傷でござりましょう」
是迄は涙一滴澪(こぼ)さぬでいたが、今しも粂之助の顔を見ると、堪(こら)えかねて袖を顔へ押宛(おしあて)て、わっとばかりにそれへ泣倒れました。
内儀「粂や、何うも飛んだ事になりましたよ、私はね、くれ/″\もそう云っていたのだよ、決して出ちゃアならない、今に私が宜(よ)いようにするから、お前心配おしでないよといって置くのに、親の言葉に背いて家出をしたものだから、忽(たちま)ち親の罰(ばち)があたって、あゝいう訳になったんだから、私はもう皆(みんな)これまでの約束ごとと諦めていたが、お前の顔を見たら何うにも我慢が出来なくなって声を出しましたが、もと/\お前の為に家出をしてこんな死様(しによう)をしたのだからお前何卒(どうぞ)お線香の一本も上げて回向をしてやっておくれ」
粂「ヘエ、何とも申そう様はございませぬ、誠に何うも重々私(わたくし)が悪いのでございます」
内儀「いゝえ、お前ばかりが悪い訳じゃアないよ」
鳶「おゝ番頭様(さん)ちょいと此処(こゝ)へ来ねえ」
番「あい、何じゃ」
鳶「おゝ粂どんはちゃんと此処にいるよ、え、おう、人を殺して金を取ったような訳なら、プイと何処(どこ)かへ逃げちまわア、己が寺へ知らせに行(ゆ)くまであっけらけん[#「あっけらけん」に傍点]と居られるか、さ、何うだ、これでもまだ手前(てめえ)は己を疑(うたぐ)ってやアがるか」
番「まアあんたは、粂之助を贔屓にしておるで、そう思いなはるのじゃ、これ粂之助ちょっと此処(これ)へ来い、汝(おのれ)はまだ年は十九で、虫も殺さぬような顔附をして居るが太い奴(やッ)ちゃ、体(てい)よくお嬢様を誘い出して、不忍弁天の池の縁(ふち)の淋しい処でお嬢様を殺して、金を取って、死骸を池の中へ投(ほう)り込んだに違いあるまい、さ、どうだ、真直(まっすぐ)に云うてしまえ」
斯(こ)う云われるともと人が善(よ)いから、余(あんま)り腹が立って口が利かれない、いきなり立って番頭の胸倉へ武者振りつこうとする途端に、ポンと堕(お)ちたのは九兵衞が置忘れて帰った女夫巾著(みょうとぎんちゃく)、番頭は早くも之(これ)を拾い取って高く差上げ、
番「こ、是じゃ、お内儀(いえ)はん、是はお嬢様(さん)が不断持って居やはりました巾着でがしょう」
云いながら振ると、中からドサリと落ちた塊(かたまり)は五十両ではなくて八十両。
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