二十七
段々訳を聞いても岩吉はまだ腑に落ちんので、
岩「主従はそれで宜かろうが、己を何うする」
忠「屋敷奉公をすりゃア斯ういう場合にはお供をするが
当然さ、お前さんには済まないが忠義と孝行と両方は出来ません、忠孝
全からずというは此の事さ」
岩吉にはまだ言葉の意味が分りませんから、
怪訝な顔をして、
岩「
何だア、
忌に理窟を云やアがって、
手前近え処じゃアなし、えおう五十里も百里もある処へ行くものを、まったからずって待たずに
居られるか」
忠「
然うじゃアありません、忠義をすれば孝行が出来ないという事です」
岩「それは親に孝行主人に忠義をしろてえ事は己も知っている、講釈や何かで聞いたよ」
忠「それですから孝行と忠義と両方は出来ませんよ」
岩「出来ねえって……骨を折ってやんなよ」
忠「うふゝゝ骨を折ってやれと云ったって出来ませんよ」
岩「
手前は生意気に変なことを云って人を困らせるが、己は他に子供が無し、手前たった一人だ、年を
老った親父を置いて一緒に行けと旦那様が仰しゃりアしめえし、跡へ残れ、可愛相だからと仰しゃるのに、手前の了簡で己を棄てゝ行く気になったんだ、親不孝な野郎め」
忠「なに親不孝ではありませんがね、私は御当家様へ奉公に来て、
一文不通の木具屋の
忰が、今では何うやら斯うやら手紙の一本も書け、
十露盤も覚え、少しは剣術も覚えたのは、皆大旦那のお蔭、
今日の場合にのぞんで年のいかない若旦那様やお嬢様のお供をして行かないと、忠義の道が立ちませんよ」
岩「それは分っているよ」
忠「分っているなら
遣って下さいな」
岩「分ってはいるが、己を何うするよ」
忠「
其様な分らないことを云っては困りますな、何うするたって私が帰るまで待って下さい」
岩「待てねえ、
己ア待てねえ(さめ/″\と泣きながら)婆さんが死んでから己ア職人の事で、思うように育てることが出来ねえからってんで、御当家様へ願ったんだ、それは御恩にはなったけれども、旦那様が何も
手前を連れてって下さる事アねえ、何う
考えても」
忠「分らん事をいうね、自分の御恩になった御主人様が斯ういう訳になったからだよ」
岩「何ういう訳に」
忠「
他人に殺されてお
暇になったんだよ」
岩「お暇……てえのは……お屋敷を出るんだろう」
忠「
然うさ」
岩「出て……」
忠「分らんね、
零落てしまうんだよ、御浪人になるんだよ、それだから私が
従いて行かなければならない、
仮令私が御免を
蒙ると云ってもお前が己が若ければお供をして
行くとこだが、
手前何処までもお供申して
御先途を見届けなければならんと
云うのが
[#「云うのが」は底本では「云のが」]当然な話だ、其のくらいな覚悟が無ければ、
頭で武家奉公をさせんければ
宜いや、
然うじゃアありませんか、お前さんは
屹度野暮に止めるに違いないと思ったから、手紙を上げたんだ、分りませんかえ」
岩「むゝ……分った、むゝう成程
侍てえものは
其様なものか……だから
最初武家奉公は止そうと思った」
祖「忠平、親父が来たのじゃアないか」
忠「へい、親父がまいりました」
祖「おや/\宜くおいでだ、岩吉
入んな」
岩「御免なせえまし、誠にお力落しさまで……今度急に忰を連れてお出でなさる事になったんで、まゝ是はどうも武家奉公をすれば
当然のことで、へえ
私も五十八で」
祖「貴様も
老る年で親父も困ろうから跡へ残っているが
宜いにと云っても、
彼が真実に何処までも
随いて行ってくれるという、その志を止められもせず、貴様には誠に気の毒でね」
岩「どうも是もまア武家奉公で、へゝゝゝ
私は五十八でげす」
忠「お
父さん、一つ事ばかり云ってゝ困るね
其様な事を云うものではない、
明日お立だからお
餞別をしなければなりませんよ」
岩「え」
忠「お
餞別をしなさいよ」
岩「なんだ……お花……は
供げて来たよ」
忠「分らないよ、お
餞別」
岩「え……
煎餅を……なんだ」
忠「旅へ入らっしゃるお
土産をよ」
岩「うん/\……
何ぞ上げましょう、烟草盆の
誂えがありますから
彼品を」
忠「
其様な大きなものはいけない」
岩「じゃア火鉢を一つ」
忠「いけないよ」
岩「それでは何か途中で
喰る
金米糖でも上げましょう、じゃア
明日私が板橋までお送り申しましょう」
祖「そんな事をしないでも宜しい、忙がしい身体だから構わずに」
岩「へえ、忰を
何卒何分お頼み申します、へゝゝ誠にもう
私は五十八でごぜえます」
と一つ事ばかり云って、人の
善い、
理由の分りません人だから仕方がない。
翌朝板橋まで送る。下役の
銘々も
多勢ぞろ/\と渡邊織江の世話になった者が、祖五郎お竹を送り立派な侍も
愛別離苦で別れを
惜んで、互に袖を絞り、
縁切榎の手前から別れて岩吉は帰りました。祖五郎お竹等は先ず信州上田の在で中の条村という処へ尋ねて
行かんければなりません。こゝで話二つに分れまして、
彼の春部梅三郎は、奥の六畳の座敷に
小匿れをいたして居り、お屋敷の方へは若江病気に
就て急にお
暇を戴きたいという
願を出し、老女の
計いで事なく若江はお暇の事になりましたは
御慈悲でござります。さて此の若江の
家へ
宗桂という
極感の悪い
旅按摩がまいりまして、
私は中年で眼が
潰れ、誠に難渋いたしますから、どうぞ、御当家様はお客さまが多いことゆえ、療治をさせて戴きたいと頼みますと、
慈悲深い母だから、
母「療治は下手だが、
家にいたら追々得意も
殖えるだろう、清藏丹誠をしてやれ」
清「へえ」
と清藏も根が情深い男だから丹誠をしてやります所から、療治は下手だが、
廉いのを
売物に客へ頼んで療治をさせるような事になりました。其の歳の十一月二十二日の晩に、母が娘のお若を連れまして、少々用事があって
本庄宿まで参りました。春部梅三郎は
件の
隠家に一人で寝て居り、
行灯を側へ引寄せて、いつぞや
邸を出る時に
引裂いた
文は、何事が書いてあったか、事に取紛れて碌々読まなかったが、と取出して
慰み半分に
繰披き、なに/\「
予て申合せ候一儀大半成就致し候え共、絹と木綿の綾は
取悪き物ゆえ今晩の内に引裂き、其の代りに此の文を取落し
置候えば、此の花は
忽ち
散果可申茎は
其許さまへ
蕾のまゝ
差送候」はて…分らん…「差送候間
御安意之為め申上候、
好文木は遠からず枯れ秋の芽出しに相成候事、
殊に安心
仕り候、余は拝面之上
々已上[#「已上」は底本では「己上」]、別して申上候は」…という所から破れて分らんが、これは何の手紙だろう、少しも訳が分らん……どうも此の程から重役の者の内、殊に神原五郎治、四郎治の
両人の者は、どうも心良からん奴だ、御舎弟様のお為にもならん事が毎度ある、伯父秋月は容易に油断をしないから、神原の方へ引込まれるような事もあるまいが、何の文だろう、何者の
手跡だか頓と分らん、はてな。と何う考えても分りませんから、又巻納めて紙入の間へ挟んで寝ましたが、寝付かれません。其の内に離れて居りますけれども、
宿泊人の
鼾がぐう/\、往来も
大分静かになりますと、ボンボーン、ばら/\/\と
簷へ当るのは
霙でも降って来たように寒くなり、襟元から風が入りますので、
仰臥に寝て居りますと、廊下をみしり/\
抜足をして来る者があります。廊下伝いになっては居るが、締りが附いていて、別に人の来られないようになって居りますから、
梅「誰が来たろう、清藏ではあるまいか、何だろう」
と
態と
睡った振で、ぐう/\と
空鼾をかいて居りますと、廊下の障子を
密と音のしないように開けて
這込む者を梅三郎が細目を
開いて見ますると、面部を深く包んで、
尻ッ
端折を致しまして、廊下を這って来て、だん/″\
行灯の
許へ近づき、下からふっと
灯を消しました。
漸々探り寄って春部が
仰臥けざまに寝ている鼻の上へ斯う手を当てゝ寝息を伺いました。
梅「す……はてな……何だろうか知ら、気味の悪い奴だ、どうして賊が入ったか、
盗るものもない訳だが……己を殺しにでも来た奴か知らん」
とそこは若いけれども
武家のことだから頓と油断はしません。眼を細目に
開いて様子を見て居りますと、
布団の間に挟んであった梅三郎の紙入を取出し、中から引出した一封の破れた手紙を
透して、
披げて見て
押戴き
懐中へ入れて、仕すましたり…と
行きにかゝる
裾を、梅三郎うゝんと押えました。
二十八
姿は優しゅうございますが、
柔術に達した梅三郎に押えられたから
堪りません。
曲者「御免なさい」
梅「黙れ……賊だな、さ
何処から忍び込んだ」
曲者「
何卒御免なすって」
梅「相成らん……何だ逃げようとして」
と逆に手を取って
押付け。
梅「怪しい奴だ、清藏どん、泥坊が入りました。清藏どん/\聞えんか、困ったものだ、清藏どん」
少し離れた処に寝て居りました清藏が此の声を聞付け、
清「あい、はアー……あい/\……何だとえ、泥坊が
入ったとえあれま何うもはア油断のなんねえ、庭伝えに
入ったか、
何にしろ暗くって仕様がねえ、店の方へ
往って
灯を
点けて来るから、逃してはなんねえ」
梅「何だ
此奴……動かすものか、これ……灯を早く持って来んかえ」
清藏は店から
雪洞を点けて参り。
清「泥坊は
何処に/\」
梅「清藏どん、取押えた、なか/\勝手を知った奴と見えて、廊下伝いに入った、力のある奴だが、
柔術の手で押えたら動けん、今暴れそうにしたからうんと
一当あてたから縛って下さい」
清「よし、
此奴細っこい紐じゃア駄目だ、なに
麻縄が
宜い」
とぐる/\巻に縛ってしまいました。
曲者「
何卒御免なすって……実は
何でございます、へえ全く
貧の盗みでございますから、何卒御免なすって」
清「貧の盗みなんてえ横着野郎め」
此の
中下女などが泥坊と聞いて
裸蝋燭などを持ってまいりました。
清「これもっと
此方へ
灯を出せ、あゝ熱いな、頭の上へ裸蝋燭を出す奴があるかえ、
行灯を
其方へ
片附ちめえ、此の野郎
頬被りいしやアがって、
何処から
入った」
と手拭をとって曲者の顔を見て驚き、
清「おや、此の按摩ア……
汝は先月から
己ア
家へ来て、
俄盲で感が悪くって療治が出来ねえと云うから、可愛相だと思って己ア家へ置いてやった宗桂だ、よく見りゃア
虚盲で眼が明いてるだ、此の狸按摩
汝、よく人を盲だって
欺しアがった、感が悪くって泥坊が出来るかえ、此の
磔めえ」
と二つばかり続けて
撲ちました。
曲「御免なさい、誠にどうも
番頭さん、実ア盲じゃアごぜえません、けれども旅で災難に遭いまして、
後へは帰れず、先へも
行かれず、仕様が有りませんから、実は
喰方に困って
此方はお客が多いから、按摩になってと思いまして入ったんでございますが、
漸々銭が無くなっちまいましたから、江戸へ帰っても借金はあり、と云って
故郷忘じ
難く、何うかして帰りてえが、借金方の附くようにと思いまして、ついふら/\と出来心で、へえ、
沢山金え
盗るという了簡じゃアごぜえません、貧の盗みでございますから、お
見遁しを願います」
清「此の野郎……
此奴のいう事ア
迂濶本当にア出来ねえ、嘘を
吐く奴は泥坊のはじまり、
最う泥坊に成ってるだ此の野郎」
曲「どうか御免なすって」
梅「いや/\手前は貧の盗みと云わせん事がある、貧の盗みなれば
何故紙入れの中の金入れか銭入れを持って
行かぬ、何で其の方は書付ばかり盗んだ」
曲「え……これはその
何でございます、あゝ
慌てましたから、貧の盗みで
一途にその
私は、へえ慌てまして」
梅「黙れ、手前はどうも見たような奴だ、
此奴を
確り縛って置き、
殴っ
挫いても其の訳を白状させなければならん、さ何ういう
理由で此の文を
盗った、手前は屋敷奉公をした奴だろう、谷中の屋敷にいた時分、どうも見掛けたような顔だ……手前は三崎の屋敷にいた事があったろうな」
曲「いえ……どう致しまして、
私は麻布十番の者でごぜえます、
古河に伯父がごぜえまして、道具屋に奉公して居りましたが、つい道楽だもんでげすから、お
母が死ぬとぐれ出し、伯父の金え持逃げをしたのが始まりで、信州
小室の
在に友達が行って居りますから無心を云おうと思いまして参ったのでごぜえますが、途中で災難に遭い、
金子を……」
梅「いや/\幾ら手前が陳じても、書付を取るというは何か仔細があるに相違ない、清藏どん
打って御覧、云わなければ了簡がある、真実に貧の盗みなれば金を取らなければならん、書付を取るというはどうも
理由が分らんから、責めなければならん」
清「さ云えよ、云わねえと
痛えめをさせるぞ、誰か太っけえ棒を持って来い、
角のそれ六角に削った棒があったっけ、なに
長え…切って
来う……うむ
宜し…さ野郎、これで
打つが何うだ」
と続け
打ちに打ちますと、曲者は泣声を致しまして、
曲「御免なすって、貧の盗みで」
清「貧の盗みなんて
生虚ア
吐きやアがって、
家へ来た時に
汝何と云った、
少せえ時に親父が死んで、お
母の手にかゝっている内に、眼が潰れたって、言うことが
皆な
[#「皆な」は底本では「皆な」]出たらめばかりだ、此の野郎(
打つ)」
曲「あ
痛/\/\
痛うごぜえやす、どうか御勘弁を…悪い事はふッつり
止めますから」
清「
止るたって止めねえたって、何で手紙を盗んだ(又
打つ)」
曲「あ痛うごぜえやす、何う云う訳だって、全く覚えが
無んでごぜえやす、只慌てゝ
私が……」
梅「黙れ、何処までも云わんといえば殺してしまうぞ、
此方が先程から此の手紙が分らんと、幾度も読んで考えていたところだ、これは何か
隠し
文で、お屋敷の大事と思えば棄置かれん、
五分試しにしても云わせるから左様心得ろ…」
と
「脇差を取って来る間逃げるとならんから」
清「なに縛ってあるから大丈夫だよ」
梅「五分だめしにするが何うだ、云わんければ斯うだ」
とすっと曲者の眼の先へ
短刀いのを突付ける。
曲「あゝ
危うごぜえやす、鼻の先へ刀を突付けちゃア……どうぞ御勘弁を」
梅「これ、手前が幾ら隠してもいかん事がある、手前は谷中三崎の屋敷で松蔭の宅に居た奴であろうな」
曲「へえ」
梅「もういけん、
此書は松蔭から何者へ送るところの手紙か、又
他から送った手紙か、手前は心得て
居るか」
曲「へえ」
梅「いやさ、云わんければ手前は
嬲り
殺しにしても云わせなければならん、其の代り云いさえすれば
小遣の少しぐらいは持たして
免してやる」
清「そうだ、早く正直に云って、小遣を貰え、云わなければ殺されるぞ、さ云えてえば(又
打つ)」
曲「あゝ痛うごぜえます、あ
危うございます、鼻の先へ……えゝ仕方がないから申上げますが、実はなんでごぜえます、
私が主人に頼まれて
他へ持っていく手紙でごぜえます」
梅「むゝ
何処へ持って
行く」
曲「へえ
先方は分りませんけれども持って
行くので」
梅「これ/\
先方の分らんということがあるか、何処へ……なに、先方が分っている、
種々な事を云い
居るの、先方が分ってれば云え」
曲「へえ、その
何でごぜえます、王子の在にお
寮があるので、その
庵室見たような所の
側の、
些とばかりの地面へ
家を建てゝ、楽に暮していた風流の隠居さんが有りまして、王子の在へ行って聞きゃア
直に分るてえますから、実は
其処は
池の
端仲町の
光明堂という筆屋の隠居所だそうで、
其家においでなさる方へ上げれば
宜いと
云付かって、
私が状箱を持ってお馬場口から出ようとすると、今考えれば旦那様で、貴方に
捕まったので、状箱を
奪られちゃアならんと思いやして一生懸命に
引張る途端、落ちた手紙を取ろうとする、奪られちゃア大変と争う
機みに
引裂かれたから、屋敷へ帰ることも出来ず、貴方の跡を
尾けて
此方へ入った
限り影も形も見えず、だん/\聞けば、あのお小姓のお
家だとの事ですから、
俄盲だと云って入り込んだのも只其の手紙せえ持って
行けば
宜いんで、是を落すと
私が殺されたかも知れねえんで」
梅「うん、わかった、いや
大略分りました」
清「
大略ってお前さんの心に大概分ったかえ」
梅「少し屋敷に心当りの者もある、此の書面は其の方の主人松蔭が書いたのか」
曲「いえ……誰が書いたか存じませんが、大切に持って
行けよ、落したり
失したりする事があると斬っちまうと云われて
恟りしたんで、其の代り首尾好く持って
行けば、金を二十両貰う約束で」
梅「むゝう……清藏どん、今に
夜が明けてから
一詮議しましょうから、
冷飯でも喰わして物置へ棒縛りにして入れて置いて下さい」
二十九
清藏は曲者を
引立てまして、
清「これ野郎立たねえか、今
冷飯喰わしてやる、棒縛り程楽なものはねえぞ」
と是から到頭棒縛りにして物置へ入れて置きました。翌日梅三郎は曲者から取返した書面を出して見ると、再び今一つの
裂端も一緒になっていたので、これ幸いと曲者の持っていた書面と
継合せて見まして、
梅「
中田千早様へ
常磐よりと……常磐の二字は松蔭の
匿名に相違ないが、千早と云うが分らん、
彼の下男を縛ってお上屋敷へ連れて
往こう、それにしても八州の手に掛け、縛って連れて
行かなければならん」
と是から物置へまいり、曲者を
曳出そうと思いますと、
何時か
縄脱をして、
彼の曲者は逐電致してしまいました。そこで八州の手を頼み、
手分をいたして調べましたが、何うしても知れません、なか/\な奴でございます。さて明和の五年のお話で……此の年は余り良い年ではないと見えまして、三月十四
日に大阪
曾根崎新地の大火で、山城は洪水でございました。続いて鳥羽辺が五月
朔日からの大洪水であった、などという事で、其の年の六月十一日にはお
竹橋へ
雷が落ちて火事が出ました、などと云う余り良い事はございません。二月
五日、粂野のお下屋敷では
午祭の
宵祭で大層
賑かでございます。なれども御舎弟様御不例に
就きまして、小梅のお中屋敷にいらしって、お下屋敷はひっそり致して居りますが、例年の事で、大して賑かな祭と申す方ではないが、ちら/\町人どもがお庭拝見にまいります。松蔭大藏の家来有助は姿を変え、谷中あたりの職人
体に
扮え、
印半纏を着まして、日の
暮々に屋敷へ
入込んで、
灯火の
点かん前にお稲荷様の
傍に設けた
囃子屋台の下に隠れている内に、段々日が暮れましたから、町の者は
亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]になると屋敷内へ入れんように致します。
灯火も
忽ち消しまして静かになりました。是から人の
引込むまでと有助は身を
潜めて居りますと、上野の
丑刻の鐘がボーン/\と聞える、そっと
脱出して
四辺を見廻すと、
仲間衆の歩いている様子も無いから、
有「
占めた」
と
呟きながらお馬場口へかゝって、裏手へ廻り、勝手は宜く存じている有助、主人松蔭大藏方へ忍び込んで、縁側の方へ廻って来ると、烟草盆を
烟管でぽん/\と叩く音。
有「占めた」
と云うので有助が雨戸の所を指先でとん/\とん/\と叩きますと、大藏が、
大「今開けるぞ、誰も居らんから心配せんでも
宜い、有助今開けるぞ」
と云われて有助は驚きました。
有「去年の九月屋敷を出てしまい、それっきり帰らない此の有助が戸を叩いた
計りで、有助とは実に旦那は
智慧者だなア…これだから悪い事も善い事も出来るんだ」
松蔭大藏は
寐衣姿で縁側へまいり、音をさせんように雨戸を開け、
雪洞を差出して
透し見まして、
大「
此方へ入れ」
有「へえ、旦那様其の
中は、面も
被らずのめ/\
上られた義理じゃアごぜえませんが、何うにも斯うにも仕方なしに又お屋敷へ
帰ってまいりました、誠に面目次第もありません」
大「さ、誰も居らんから此方へ入れ/\」
有「へえ/\」
大「構わず入れ」
有「へえ、足が泥ぼっけえで」
大「手拭をやろう、さ、これで拭け」
有「
此様な綺麗な手拭で足を拭いては勿体ねえようで……さて
私も、ぬっと
帰られた義理じゃアごぜえませんが、
帰らずにも
居られませんから、一通りお話をして、貴方に斬られるとも追出されるとも、何うでも御了簡に任せようと、斯う思いやして帰ってまいりましたので」
大「
彼限りで音沙汰が無いから、何うしたかと実は心配致していた、手前は
彼の手紙を何者かに
奪られたな」
有「へえ、春部に奪られたので、春部の
彼奴が若江という小姓と
不義をして逃げたんで、其の逃げる時にお馬場口から
柵矢来の隙間の巾の広い処から、身体を横にして
私が出ようと思います途端に
出会して、実にどうも困りました」
大「手紙を何うした奪られたか」
有「それがお前さん、鼻を
摘まれるのも知れねえ
深更で、
突然状箱へ手を掛けやアがッたから、奪られちゃアならねえと思いやして、引張ると紐が切れて、手紙が
落こちる、とうとう半分
引裂かれたから、だん/\春部の跡を
尾いて
行くと、鴻の巣の宿屋へ入りやしたから、感が悪い俄盲ッてんで、按摩に化けて宿屋に
入込み一度は旨く春部の持っていた手紙の
裂を
奪ったが、まんまと
遣り
損なって、物置へ棒縛りにして投込まれた、所で
漸く
縄脱けえして逃出しましたが、近辺にも
居られやせんから、久しく
下総の方へ隠れていやしたが、春部にあれを奪られて何う致すことも出来やせんので、へえ」
大「いや、それは宜しい、心配致すな、手前は己の家来ということを知るまい」
有「ところが知ってます/\、済まねえけれどもお前さん、ギラ/\するやつを
引こ抜いて
私の鼻っ先へ突付け云わねえけりゃア五分だめしにしちまう、松蔭の家来だろう、三崎の屋敷に居たろう、顔を知ってるぞ、さア何うだと責められて、つい左様でごぜえますと申しやした」
大「なにそれは云っても
宜い、
彼の晩には実ア神原も
酷い目に遭った、何事も是程の事になったら幾らも
失策はある、
丸切りしくじって、此の屋敷を出てしまったところが、有助貴様も己と根岸に
佗住居をしていた時を思えば、元々じゃアないか」
有「それは
然うでごぜえます」
大「
彼処に浪人している時分一つ鍋で
軍鶏を
突き合っていたんだからのう」
有「旦那のように然う小言を云わずにおくんなさるだけ、一倍
面目無うござえます」
大「だによって
行る処までやれ、今までの
失策も許し、何もかも許してやる、それに手前
此処に居ては都合が悪い、
就ては
金子が二十両有るからこれをやろう」
有「へえ、是は有難うごぜえます」
大「其の代り少し頼みがある、手前小梅のお中屋敷へ忍び込んで、お居間
近く踏込み……いや是は手前にア出来ん、
夜詰の者も多いが、何かに付けて邪魔になる奴は、
彼の遠山權六だ、
彼がどうも邪魔になるて」
有「へえー、あの国にいて
米搗をしてえた、
滅法界に力のある……」
大「うん、
彼奴が
終夜廻るというので、何うも邪魔だ」
有「へえー」
大「
彼を手前殺して、ふいと家出をしてしまえ、
何処へでも
宜いから身を隠してくれ」
有「
彼は殺せやせん、それはお前さん御無理で、からどうも
彼のくれえ無法に力のある奴ア
沢山有りません、植木屋が十人もよって動かせねえ石を、ころ/\動かします、天狗見たような奴で、それじゃアお前さん
私を見殺しにするようなもので」
大「いや、
通常じゃア
敵わない、
欺すに手なしだ、あゝいう
剛力な奴は智慧の足りないもので、それに一体
彼奴は
侠客気が有ってのう、人を助けることが好きだ、手前何うかして
田圃伝いに行って、田圃の中へ入らなければならんが、
彼所にも柵があるから、其の柵矢来の裏手から入って、藪の中にうん/\
呻っていろ」
有「
私がですかえ」
大「うん、藪の中に泥だらけになって呻っていろ」
有「へえ」
大「すると忍び廻りで權六がやって来て何だと
咎めるから、構わずうん/\呻れ」
有「気味の悪い、そいつア御免を
蒙りやす、お金は欲しいが、
彼奴の側へ無闇に行くのは
危険です、
汝は何だと押え付けられ、えゝと
打たれりゃア
一打で死にやすから」
大「そこが欺すに手なしだ、私は去年の九月松蔭を
暇になりまして、
行き
所がございません、何うかして詫にまいりたいが中々主人は一旦言出すと
肯きません、あなたはお国からのお馴染だそうでございますが、貴方が
詫言をして下すったら
否とは云いますまいから、何分お頼み申しますと、斯う手前泣付け」
有「
然うすりゃア殺しませんか」
大「うん、只手前が悪い事をしたと云って、うん/\呻っていろ、何うして
此処へ来たと聞いたら、実はお下屋敷の方へ参られませんから、
此方へ参ったのでございます、旅で
種々難行苦行をして、川を
渉り雪に
遇い、
霙に遭い風に
梳り、実に難儀を致しましたのが身体へ当って、
疝癪が起り、少しも歩けませんからお助け下さいましと云え、すると
彼奴は正直だから本当に思って自分の
家へ連れて行って、粥ぐらいは喰わしてくれるから、大きに有難う、お蔭さまで助かりましたと云うと、彼奴が
屹度己の処へ詫に来る、もし詫に来たら、
彼は使わん、
怪しからん奴だ、これ/\の奴だと手前の
悪作妄作を云ってぴったり断る」
有「へえ、それは
詰ねえ話で、
其様な奴なら
打殺してしまうってんで…」
大「いや/\大丈夫だ、まア聞け、とてもいかん/\という
中に、段々
味いを附けて手前の善い所を云うんだ」
有「成程」
大「正直の人間……とも云えないが、働くことは宜く働き、口も八丁手も八丁ぐらいな事は云う、手前を殺さないように、そんなら己の
家へ置くと云ったら幸い、
若し世話が出来ん出て行けと云ったら仕方が有りませんと泣く/\出れば、小遣いの一分や二分はくれる、それを貰って出てしまった所が元々じゃアないか、もし又首尾好く權六の方へ手前を置いてくれたら、
深更に權六の寝間へ踏込んで權六を殺してくれ、また其の前にも己の処へ詫びに来る時にも、
隙が有ったら、藪に倒れてゝ歩けない、
担いでやろうとか手を引いてやろうとか云った時にも隙があったら、懐から
合口を出して
殺ちまえ、首尾好く
仕遂せれば、神原に話をして手前を
士分に取立てゝやろう、首尾好く殺して、ポンと逃げてしまえ、十分に事成った時には手前を呼戻して三百石のものは有るのう。手前が三百石の侍になれる事だが、どうか工夫をして
行って見ろ、もし己のいう事を
胡乱と思うなら、書附をやって置いても宜しい、お互に一つ鍋の飯を食い、燗徳利が
一本限りで茶碗酒を半分ずつ飲んだ事もある仲だ、しくじらせる事も出来ずよ、旨く
行けば此の上なしだ、出来損ねたところが元々じゃアないか」
有「成程……
行って見ましょうが、
彼の野郎を
殺るのには何か刄物が無ければいけませんな」
大「待てよ、人の目に立たん証拠にならん手前の持ちそうな短刀がある、さ、これをやろう、見掛は悪くっても中々切れる、
関の
兼吉だ、やりそくなってはいかんぞ」
有「へえ宜しゅうごぜえます」
大「闇の晩が
宜いの」
有「闇の晩、へえ/\」
大「小遣をやるから手前今晩の
中屋敷を出てしまえ」
有「へえ」
と金と短刀を受取って、お馬場口から出て
行きました。
三十
さて二の
午も済みまして、二月の末になりまして、大きに暖気に相成りました。御舎弟紋之丞様は大した御病気ではないが、
如何にも癇が
昂ぶって居ります。
夜詰の御家来も
多勢附いて居ります、其の中には悪い家来が、
間が
宜くば毒殺をしようか、
或は縁の下から忍び込んで、殺してしまう
目論見があると知って、忠義な御家来の注意で、お畳の中へ
銅板を入れて置く事があります。是は将軍様のお居間には
能くあることで、これは間違いの無いようにというのと、今一つは
湿けて宜しくないから、二重に遊ばした方が宜しいと二重畳にして
御寝なる事になる。屏風を
建廻して、武張ったお方ゆえ近臣に勇ましい話をさせ昔の
太閤とか、又
眞田は斯う云う
計略を致しました、
楠は斯うだというようなお話をすると、少しは
紛れておいでゞございます。悪い奴が多いから、
庭前の忍び廻りは遠山權六で、雨が降っても風が吹いても、嵐でも
巡廻るのでございます。天気の
好い時にも
草鞋を
穿いて、お馬場口や藪の中を歩きます。
袴の
裾を
端折って
脊割羽織を
着し、短かいのを差して手頃の棒を持って
無提灯で、だん/\御花壇の方から廻りまして、
畠岸の方へついて参りますと、森の
一叢ある
一方は
業平竹が一杯生えて居ります処で、
男「ウーン、ウーン」
と
呻る声がしますから、權六は怪しんで
透して見て、
權「
何だ……呻ってるのは誰だ」
男「へえ、御免下さい、どうかお助けなすって下さいまし」
權「誰だ……暗い藪の中で……」
男「へえ、
疝癪が起りまして歩くことが出来ません者で…」
權「誰だ……誰だ」
男「へえ、あなたは遠山様でございますか」
權「何うして己を……
汝は屋敷の者か」
男「へえ、お屋敷の者でごぜえます」
權「誰だ、
判然分らん、待て/\」
と懐から
手丸提灯を取出し、
懐中附木へ火を移して、蝋燭へ火を
点して前へ差出し、
權「誰だ」
男「誠に暫く、御機嫌宜しゅう……だん/″\御出世でお目出度うござえます」
權「誰だ」
有「えゝ、お下屋敷の松蔭大藏様の所に奉公して居りました、有助と申す
中間でござえます」
權「ウン
然うか、碌に会った事もない、それとも一度か二度会った事があるかも知れんが、忘れた、それにしても何うしたんだ」
有「へえ、あなたは
委しい事を御存じありますめえが、去年の九月少し不首尾な事がありまして、
家へは置かねえとって追出され、中々詫言をしても
肯かねえと存じまして、友達を頼って田舎へめえりましたところが、間の悪い時にはいけねえもんで、其の友達が災難で牢へ行くことになり、留守居をしながら家内を
種々世話をしてやりましたが、借金もある
家ですから
漸々行立たなくなって、居候どころじゃアごぜえませんから、出てくれろと云われるのは
道理と思って出ましたが、
他に親類身寄もありませんから、詫言をして帰りてえと思いましても、主人は
彼の気象だから、詫びたところが置く
気遣いは有りません、種々考えましたが、あなたは確か美作のお国からのお馴染でいらっしゃいますな」
權「
然うよ」
有「あなたに詫言をして戴こうと斯う思いやして、旅から考えて参りましたところが、中々入れませんで、此の田の中をずぶ/\入って
此処へ
這込みやしたが、久しく喰わずにいたんで腹が
空いて
堪りません、雪に当ったり雨に遭ったりしたのが打って出て、疝癪が起って、つい呻りました、何分にも恐入りますが何うか主人に詫言をお願い申します」
權「むう、余程悪い事をしたな、
免すめえ、困ったなア、なに物を喰わねえ」
有「へえ、実は
昨日の
正午から喰いません」
權「じゃア、ま
肯くか肯かねえか分らんけれど、話しても見ようし、お
飯は喰わしてやろう」
有「有難うござえます」
權「屋敷へつか/\
無沙汰に入って呻ったりしないで、門から入れば
宜いに……何しろ
然う泥だらけじゃア仕方がねえから小屋へ来い」
有「有難うごぜえます」
權「さ行け」
有「貴方ね、疝癪で腰が
攣って歩けません」
權「困った奴だ、何うかして歩け、此の棒を
杖け」
有「へえ、有難うごぜえます」
權「それ
確かりしろ」
有「へえ」
權「提灯を持て」
有「へえ」
と提灯の光ですかし見ると、去年見たよりも
尚お
肥りまして立派になり、肩幅が張ってゝ何うも
凛々しい男で、怖いから、
有「へえ参ります」
權「さ
行け」
有「旦那さま、誠に恐入りますが、
片方に杖を突いても、
此方の腰が何分
起ちませんから、左の手をお持ちなすって」
權「世話アやかす奴だな、それ
捉まれ」
と右の手を出して、
有「へえ有難う」
とひょろ/\
蹌けながら肩へ
捉まる。
權「
確かりしろい」
有「へえ」
と云いながら懐よりすらりと短刀を抜いて權六の
肋を目懸けてプツーり突掛けると、早くも身を
躱して、
權「此の野郎」
と其の手を押えました。手首を押えられて有助は身体が
痺れて動けません力のある人はひどいもので。
併し
直に役所へ引いて
行かずに、權六が自分の
宅へ引いて来たは、何か深い了簡あってのことゝ見えます。此のお話は
暫く
措きまして、是から
信濃国の上田
在中の条に居ります、渡邊祖五郎と姉の娘お竹で、お竹は
大病で、田舎へ来ては勝手が変り、何かにつけて心配勝ち、
左なきだに病身のお竹、遂に癪の病を引出しました。大した病気ではないが、キヤキヤと始終痛みます。祖五郎も心配致しています所へ手紙が届きました。
披いて見ますと、神原四郎治からの書状でございます。渡邊祖五郎殿という
表書、只今のように二日目に来るなどという訳にはまいりません。飛脚屋へ出しても
十日二十日ぐらいずつかゝります。
読下して見ると、
と
読了り、飛立つ程の悦び、年若でありますから忠平や姉とも相談して出立する事になりましたが、姉は病気で立つことが出来ません。
祖「もし逃げられてはならん、あなたは
後から続いて、
私一人でまいります」
と忠平にも姉の事を
呉々頼んで、鴻の巣を指して出立致しました。五日目に鴻の巣の岡本に着きましたが、一人旅ではございますが、お武家のことだから宿屋でも大切にして、床の間のある座敷へ通しました。段々様子を見たが、手掛りもありません、宿屋の
下婢に聞いたが頓と分りません、
祖「はてな……こゝに隠れていると云うが、まさか
人出入の多い座敷に隠れている気遣いはあるまい、
此処にいるに相違ない」
と便所へ行って様子を見廻したが、更に訳が分りません。
三十一
渡邊祖五郎は
頻りに様子を探りますが、少しも分りません、
夜半に客が
寝静ってから廊下で
小用を
達しながら
唯見ますと、垣根の向うに
小家が一軒ありました。
祖「はてな……一つ庭のようだが」
と
折戸を開けて、
祖「
彼の家に隠れて居りはしないか」
と
手水場の
上草履を
履いて庭へ
下り、
開戸を開け、折戸の
許へ
佇んで様子を見ますと、本を読んでいる声が聞える。
何処から手を出して掛金を外すのか、
但し
栓張を取って
宜いか訳が分りません、
脊伸びをして上から
捜って見ると、
閂があるようだが、手が届きません。やがて庭石を
他から持ってまいりまして、手を伸べて閂を右の方へ寄せて、ぐいと開けて中へ入り、まるで泥坊の始末でございます。縁側から
密と
覗いて見ますると、障子に人の影が映って居ります。
祖「はてな、
此方にいるのは女のような
声柄がいたす」
と密と障子の腰へ手をかけて細目に明けて、横手から覗いて見ますると、見違える気遣いはない春部梅三郎なれば、
祖「あゝ有難い、
神仏のお引合せで、
図らず親の
仇に
廻り逢った」
と心得ましたから、飛上って障子を引開け、中へ踏込んで身構えに及び、声を
暴らげ、
祖「実父の
仇覚悟をしろ」
と叫びましたが、梅三郎の方では祖五郎が来ようとは思いませんから驚きました。
梅「いやこれは/\思い掛ない……
斯様な処でお目にかゝり面目次第もない、まア何ういう事で
此方へ」
祖「
汝も立派な
武士だから
逃隠れはいたすまい、
何の遺恨あって父織江を
殺害して屋敷を出た、
殊に当家の娘と不義をいたせしは確かに証拠あって知る、汝の
許へ若江から送った艶書が其の場に取落してあったが、よもや汝は人を殺すような人間でないと心得て居ったる処、屋敷から通知によって、確かに汝が父織江を討って
立退いたる事を承知致した、
斯くなる上は逃隠れはいたすまいから、届ける処へ届けて尋常に勝負を致せ」
と
詰かけました。
梅「
御尤もでござる、まア/\お心を静められよ、決して拙者逃隠れはいたしません、何も拙者が織江殿に意趣遺恨のある
理由もなし、何で
殺害をいたしましょうか、其の辺の処をお考え下さい、何者が左様な事を申したか、実に貴方へお目にかゝるのは面目次第もない心得違い、
此処へ逃げてまいりまして、当家の世話になって居ります程の
身上の宜しくない拙者ゆえ、何と仰せられても、斯様な事もいたすであろうと、さ人をも殺すかと
思召しましょうが、何者が……」
祖「エーイ黙れ、確かの証拠あって知る事だ、天命
れ難い、さ
直にまいれ」
梅「と何ういう事の……」
祖「何ういう事も何もない、父の
屍骸の
傍に汝の
艶書を
遺してあったのが、汝の天命である」
梅「左様なれば拙者打明けて恥を申上げなければ成りませんが、お笑い下さるな、小姓若江と若気の至りとは申しながら、二人ともに家出を致しましたは、昨年の九月十一日の
夜で、あゝ済まん事、旧来御恩を受けながら其のお屋敷を出るとは、誠に不忠不義のことゝ存じたなれども、御拝領の品を失い、
殊に若江も妊娠いたし奉公が出来んと申すので、心得違いの至りではあるが、拙者若江を連出し、当家へまいって隠れて居りましたなれども、不義
淫奔をして
主家を
立退くくらいの
不埓者では有りますけれども、お屋敷に対しては忠義を尽したい心得、拙者がお屋敷を
逃去る時に……手に
入りました一封の密書、それを御覧に入れますから、少々お控えを願います、決して逃隠れは致しません、拙者も
厄介人のこと、当家を騒がしては母が心配いたしますから、
何卒お静かに此の密書を……
如何にも若江から拙者へ
遣わしましたところの
文を其の場所に落して置き、此の梅三郎に其の罪を負わする
企みの密書、織江殿を
殺害いたした者はお屋敷
内他にある考えであります」
祖「ムヽー証拠とあらば見せろ」
梅「御覧下さい」
と例の手紙を出して祖五郎に渡しました。祖五郎はこれを受取り、
披いて見ましたところ、頓と文意が分りませんから、祖五郎は
威丈高になって、
祖「黙れ、何だ
斯様のものを以て何の
云訳になる、これは何たることだ、綾が
取悪いとか絹を破るとか、
或は綿を何うとかすると
些とも分らん」
梅「いえ、拙者にも
匿名書で其の意味が更に分りませんが、拙者の判断いたしまする所では、お屋敷の一大事と心得ます」
祖「それは何ういう訳」
梅「左様、絹木綿は
綾操にくきものゆえ、今晩の
中に
引裂くという事は、御尊父様のお名を
匿したのかと心得ます、渡邊織江の
織というところの縁によって、
斯様な事を
認いたのでも有りましょうか、此の花と申すは拙者を差した事で、今を
春辺と咲くや此の花、という古歌に
引掛けて、梅三郎の名を匿したので、拙者の文を
其処へ取落して置けば、春部に罪を負わして
後は、若江に心を懸ける者がお屋敷
内にあると見えます、それを
青茎の
蕾の
儘貴殿の
許へ送るというのは若江を
取持いたす約束をいたした事か、
好文木とは若殿様を指した言葉ではないかと存じますと申すは、お下屋敷を梅の御殿と申しますからの事で、梅の
異名を好文木と申せば、若殿紋之丞様の事ではないかと存じます、お秋の方のお腹の菊之助様をお
世嗣に仕ようと申す
計策ではないかと存ずる、其の際此の
密書を中ば
引裂いて逃げましたところの松蔭大藏の
下人有助と申す者が、此の密書を
奪られてはと先頃按摩に姿を
窶し、当家へ
入込み、
一夜拙者の
寝室へ忍び込み、此の密書を盗まんと致しましたところを取押えて棒縛りになし
翌朝取調ぶる所存にて、物置へ打込んで置きましたら、いつか
縄脱けをして逃去りましたから、
確と調べようもござらんが、
常磐というのは全く松蔭の
匿名で大藏の家来有助が頼まれて
尾久在へ持ってまいるとまでは調べました、またそれに千早殿と
認めてあるのは、頓と分りませんが、多分神原の事ではござらんかと拙者考えます、お屋敷の内に斯様な悪人があって御舎弟紋之丞様を
亡い、
妾腹の菊之助様を世に出そうという
企みと知っては
棄置かれん事、是は拙者の考えで容易に
他人に話すべき事ではござらんが、御再考下さるよう……拙者は決して逃隠れはいたしませんが、お互に年来御高恩を
蒙った
主家の大事、証拠にもならんような事なれども、お国家老へ是からまいって相談をして見とう存じます、是は貴方一人でも拙者一人でもならんから、両人でまいり、御城代へお話をして御意見を伺おうと存じますが
如何でござる」
と段々云われると、
予て神原や松蔭はお
妾腹附で、どうも
心懸が
善くない奴と、父も
頻りに心配いたしていたが、成程
然うかも知れぬ、それでは棄置かれんと、それから二人が手紙を志す
方へ送りました。祖五郎は又信州上田在中の条にいる姉の
許へも手紙を送る。一度お
国表へ行って来るとのみ
認め、別段細かい事は書きません。さて両人は美作の国を指して
発足いたしました。
此方は
入違って祖五郎の跡を
追掛けて、姉のお竹が忠平を連れてまいるという、
行違いに相成り、お竹が
大難に出合いまするお話に移ります。
三十二
祖五郎は
前席に述べました通り、春部梅三郎を親の
敵と思い詰めた疑いが晴れたのみならず、
悪者の密書の意味で、
略ぼお家を
押領するものが有るに相違ないと分り、
私の遺恨どころでない、実に
主家の大事だから、早くお国表へまいろうと云うので、急に
二人梅三郎と共にお国へ出立いたしましたが、其の時姉のお竹の方へは、これ/\で梅三郎は全く父を
殺害いたしたものではない、お屋敷の一大事があって、細かい事は申上げられんが、一度お国表へまいり、家老に面会して、どうかお
家の
安堵になるようと、梅三郎も同道してお国表へ出立致しますが、事さえ
極れば遠からず帰宅いたします、それまで落着いて中の条に待っていて下さい、必らずお案じ下さらぬようにとの手紙がまいりました。なれどもお竹は案じられる事で、
竹「
何卒して
弟に会いたい、
年歯もいかない事であるから、また梅三郎に
欺かれて、途中で不慮の事でも有ってはならん」
と
種々心配いたしても、病中でございますから立つことも出来ず、忠平に介抱されまして、段々と月日が
経つばかり、其の内に病気も全快いたしましたが其の
後国表から一度便りがござりまして、秋までには帰る事になるから、落着いて居てくれという文面ではありますが、其の内に六月も過ぎて七月になりました時に、身体も達者になり、こんな山の中に居たくもない、江戸へ帰って
出入町人の世話に成りたい、忠平の親父も案じているであろうから、岩吉の処へ行って厄介になりたいと、常々喜六という家来に云って居りました。
然るに此の喜六が
亡くなった跡は、
親戚ばかりで、別に恩を
被せた人ではないから、気詰りで中の条にも
居られませんので、忠平と相談して中の条を出立し、
追分沓掛軽井沢碓氷の峠も
漸く越して、
松枝の
宿に泊りました、其の頃お大名のお着きがございますと、いゝ宿屋は
充満でございます。お大名がお
一方もお泊りが有りますと、小さい宿屋まで
塞がるようなことで、お竹は
甲州屋という小さい宿屋へ泊りまして、
翌朝立とうと思いますと、大雨で立つことも出来ず、其の内追々山水が出たので、道も悪し、
板鼻の
渡船も止り、其の
他何処の渡船も止ったろうと云われ、仕方がなしに足を止めて居ります内に、心配致すのはいかんもので、船上忠平が風を引いたと云って寝たのが始りで、
終に病が重くなりまして、どっと寝るような事になりました。お医者と云っても良いのはございません、
開けん時分の事で、此の
宿では第一等の医者だというのを
宿の
主人が頼んでくれましたが、まるで
虚空蔵様の
化物見たようなお医者さまで、
脉を
診って薬と云っても、
漢家の事だから、草をむしったような誠に
効能の薄いようなものを呑ませる
中に、
終に息も絶え/″\になり、八月
上旬には声も
嗄れて思うように口も利けんようになりました。親の
仇でも討とうという志のお竹でありますから、家来にも
甚だ慈悲のあることで、
竹「あの忠平や」
忠「はい」
竹「お薬の二番が出来たから、お前我慢して嫌でもお
服べ、
確かりして居ておくれでないと困るよ」
忠「有難う存じますが、お嬢様
私の病気も此の
度は死病と自分も諦めました、とても御丹誠の甲斐はございませんから、どうぞもお薬も
服まして下さいますな、もう二三
日の内にむずかしいかと思います」
竹「お前そんなことを云っておくれじゃア私が困るじゃアないか、祖五郎はお国へ
行き、喜六は死に、お前より他に頼みに思う者はなし、
一人ではお屋敷へ帰ることも出来ず、江戸へ行ってもお屋敷
近い処へ落着けない身の上になって、お前を私は家来とは思わない、伯父とも親とも力に思う其のお前に死なれ、私一人
此処に残ってはお前何うする事も出来ませんよ」
忠「有難う……勿体ないお言葉でございます、
僅か御奉公致しまして、何程の勤めも致しませんのに、家来の
私を親とも伯父とも思うという其のお言葉は、唯今目を眠りまして冥土へ参るにも
好い土産でございます、
併し
以前とちがって御零落なすって、今斯う云うお身の上におなり遊ばしたかと存じますと、私は貴方のお身の上が案じられます、どうぞ私の
亡い
後は、他に
入っしゃる
所もございません故、
昨夜貴方が御看病疲れで
能く眠っていらっしゃる内に、私が
認いて置きました手紙が
此処にございます、親父は無筆でございますから、仮名で細かに書いて置きましたから、あなたが江戸へ入らっしゃいまして、春木町の私の
家へ行って、親父にお会いなさいましたら、親父が貴方だけの事はどうかまア年は
老っても達者な奴でございますから、お力になろうと存じます、此処から私が死ぬと云う手紙を出しますと、驚いて飛んで来ると云うような奴ゆえ、
却って親父に知らせない方が
宜いと存じますから、
何卒お嬢さん、はッはッ、私が死にましたら此処の寺へ投込みになすって道中も
物騒でございますから、お気をお付けなすって、あなたは江戸へ
入っしゃいまして親父の岩吉にお頼みなすって下さいまし」
竹「あい、それやア承知をしましたが、もし
其様なことでもあると私はまア何うしたら宜かろう、お前が死んでは何うする事も出来ませんよ、何うか
癒るようにね、病は気だというから、忠平
確かりしておくれよ」
忠「いえ何うも
此度はむずかしゅうございます」
と是が
主従の別れと思いましたからお竹の手を
執って、
忠「長らく御恩になりました」
と見上げる眼に
泪を
溜めて居りますから、
耐えかねてお竹も、
竹「わア」
と枕元へ泣伏しました。此の
家の息子が誠に親切に時々
諸方へ
往っちゃア、旨い物と云って田舎の事だから碌な物もありませんが、
喰物を見附けて来ては病人に
遣ります。宿屋の親父は
五平と云って、年五十九で、江戸を
喰詰め、甲州あたりへ行って
放蕩をやった人間でございます。
忰は此の地で
生立た者ゆえ質朴なところがあります。
忰「
父さま、今帰ったよ」
五「
何処へ行ってた」
忰「なに医者の処へ薬を取りに行って聞いたが、医者
殿が
彼の病人はむずかしいと云っただ」
五「困ったのう、二人旅だから泊めたけれども、男の方は亭主だか何だか分らねえが、
彼がお
前死んでしまえば、跡へ残るのは
彼の小娘だ、
長え間これ泊めて置いたから、病人の中へ宿賃の催促もされねえから、仕方なしに遠慮していたけんど、医者様の
薬礼から宿賃や何かまで、
彼の男が亡くなってしまった日にゃア、誠に困る、身ぐるみ
脱だって、碌な荷物も
無えようだから、宿賃の
出所があるめえと思って、誠に
心配だ、とんだ厄介者に泊られて、死なれちゃア困るなア」
忰「それに
就て
父に相談
打とうと思っていたが、
私だって今年二十五に成るで、
何日まで
早四郎独身で居ては宜くねえ
何様者でも
破鍋に
綴葢というから、早く女房を持てと友達が云ってくれるだ、
乃で女房を貰おうと思うが、
媒妁が入って
他家から
娘子を貰うというと、事が
臆劫になっていかねえから、段々話い聞けば、あの男が死んでしまうと、
私は年が行かないで頼る処もない身の上だ、浪人者で誠に心細いだと云っちゃア、
彼の娘子が泣くだね」
五「浪人者だと…うん」
早「どうせ
何処から貰うのも同じ事だから、
彼の男がおっ
死んだら、彼の娘を
私の女房に
貰えてえだ、裸じゃアあろうけれども、
他人頼みの世話がねえので、
直にずる/\べったりに嫁っ子に
来ようかと思う、
彼を貰ってくんねえか
父」
五「馬鹿野郎、だから仕様がねえと云うのだ、これ、
父はな、江戸の深川で生れて、
腹一杯悪い事をして
喰詰めっちまい、甲州へ行って、何うやら斯うやら金が出来る様になったが、詰り悪い足が有ったんで、
此処へ逃げて来た時に、縁があって
手前の死んだ
母親と夫婦になって、手前と云う子も出来て、甲州屋という、ま看板を掛けて
半旅籠木賃宿同様な事をして、何うやら斯うやら暮している事は
皆なも知っている、手前は
此方で
生立って何も世間の事は知らねえが、
家に
財産は無くとも、旅籠という看板で是だけの構えをしているから、それ程貧乏だと思う人はねえ
何処から嫁を貰っても
箪笥の
一個や長持の
一棹ぐらい
附属いて来る、器量の悪いのを貰えば
田地ぐらい持って来るのは
当然だ、
面がのっぺりくっぺりして居るったって、あんな
素性も分らねえ者を無闇に
引張込んでしまって何うするだ、医者様の薬礼まで己が
負わなければなんねえ」
早「それは
然うよ、それは然うだけれど、
他家から
嫁子を貰やア田地が附いて来る、金が附いて来るたって、ま
宅へ呼ばって、
後で己が気に
適らねえば仕様がねえ訳だ、だから己が気に
適ったのを貰やア
家も治まって行くと、夫婦仲せえ
宜くば
宜いじゃアねえか、貰ってくんろよ」
五「何を馬鹿アいう
手前が近頃
種々な物を買って詰らねえ
無駄銭を使うと思った、あんな者が貰えるか」
早「何もそんなに腹ア立てねえでも
宜い相談
打つだ」
五「相談だって
手前は二十四五にも成りやアがって、ぶら/\
遊んでて、親の
脛ばかり
咬っていやアがる、親の脛を咬っている内は親の自由だ、手前の勝手に気に
適った女が貰えるか」
早「何ぞというと脛え咬る/\てえが、
父の脛ばかりは咬っていねえ、是でもお客がえら有れば
種々な手伝をして、
洗足持ってこ、
草鞋を脱がして、
汚え物を手に受けて、湯う
沸して脊中を流してやったり、
皆家の為と思ってしているだ、脛咬りだ/\てえのは
止してくんろえ」
五「えゝい
喧しいやい」
と
流石に鶴の
一声で早四郎も黙ってしまいました。此の甲州屋には始終
極った奉公人と申す者は居りません、其の晩の都合によって、客が多ければ村の婆さんだの、
宿外れの女などを雇います。七十ばかりになる腰の曲った婆さんが
婆「はい、御免なせえまし」
五「おい婆さん大きに御苦労よ、お
前又晩に来てくんろよ、客の泊りも無いが、又晩には
遊んで居るだろうから、ま来なよ」
婆「はい、あの只今ね
彼処のそれ
二人連の病人の
処へめえりました」
五「おゝ、お
前が行ってくれねえと、
先方でも困るんだ」
婆「それが年のいかない
娘子一人で看病するだから、病人は男だし、
手水に行くたって大騒ぎで、誠に可愛想でがんすが、
只た今おっ
死にましたよ」
五「え、死んだと……困ったなアそれ見ろ、だから云わねえ事じゃアねえ、
何様な様子だ」
婆「
何様にも
何にも
娘子が声をあげて泣いてるだよ、あんた
余り泣きなすって身体へ
障るとなんねえから、泣かねえが
宜うがんすよ、諦めねえば仕様がねえと云うと、
私は
彼に死なれると、年もいかないで
往く処も
無え、誠に心細うがんす、あゝ何うすべいと泣くだね、誠に気の毒な訳で」
五「はアー困ったもんだな」
早「
私え、ちょっくら行って来よう」
五「なに
手前は行かなくっても
宜い」
早「行かなくっても
宜いたって、
悔みぐらいに行ったって
宜かんべい」
五「えゝい、何ぞというと
彼の娘の
処へ
計り
行きたがりやアがる、勝手にしろ」
と
大かすでございましたから早四郎は頬を
膨らせて
起って
行く。五平は
直にお竹の座敷へ参りまして。
五「はい、御免下せえ」
と破れ障子を開けて縁側から声を掛けます。
竹「
此方へお
入んなさいまし、おや/\
宿の御亭主さん」
五「はい、只今婆アから承わりまして、誠に
恟りいたしましたが、お
連さまは御丹誠甲斐もない事で、お
死去になりましたと申す事で」
竹「有難う、長い間
種々お世話になりました、
殊に御子息が朝晩見舞っておくれで、親切にして下さるから何ぞお礼をしたいと思って居ります、病人も誠に真実なお方だと悦んで居りました、
私も丹誠が届くならばと思いましたが、定まる
命数でございまする、只今亡くなりまして、誠に
不憫な事を致しました」
五「いやどうも、
嘸お力落しでございましょう、誠にお気の毒な事でございます、時に、あゝそれでもって伺いますが、お
死去りなすった此の死骸は、江戸へおいでなさるにしても、信州へお送りになるにしても、死骸を
脊負って行く訳にもいかないから此の村へ葬るより他に仕方はございますまいが、火葬にでもなすって、骨を持って入らっしゃいますか、其の辺の処を伺って置きたいもので」
竹「はい、
何処と云って
知己もございませんから、どうか火葬にして此の村へ葬り、
骨だけを持ってまいりとう存じますが、御覧の通り是からは
私一人でございますから、何かと世話のないように髪の毛だけでも江戸の親元へ参れば宜しゅうございますから、
殊に当人は火葬でも土葬でも
宜いと遺言をして
死去りましたから、どうぞ
御近処のお寺へお葬り下さるように願いたいもので」
五「左様でございますか、お泊り
掛のお方で、
何処の
何という
確かりとした何か
証がないと、お寺も中々
厳しくって
請取りませんが、
私どもの親類か
縁類の人が
此方へ来て、死んだような話にして、どうか頼んで見ましょう」
と此の話の
中にいつか忰の早四郎が
後へまいりまして、
早「なに
然うしねえでも
宜い、此の裏手の
洪願寺さまの和尚様は心安くするから頼んで上げよう、まことに手軽な和尚様で、中々道楽坊主だよ、
以前は
叩鉦を叩いて飴を売ってた道楽者さ、銭が無ければ
宜い、たゞ埋めて
遣んべえなどゝいう
捌けた坊様だ、其の代りお経なんどは読めねえ様子だが、
銭金の少しぐれえ
入るような事があって困るなら、沢山はねえが
些とべいなら己が出して遣るべえ」
五「何だ、これ、お客様に失礼な、お
前がお客さまに金を出して上げるとは何だ、そんな馬鹿な事をいうな」
早「
父は何ぞというと小言をいうが、無ければ出してくれべえと云うだから
宜かっぺえじゃアねえか」
五「
其様な事ア何うでも
宜いから、早く洪願寺へ行って願って来い」
是から息子がお寺へ行って和尚に頼みました。早速得心でございますから、急に人を頼んで、早四郎も手伝って穴を掘り、真実にくれ/\働いて居ります。丁度其の晩の事でございますが、宿屋の
主人が、
五「へえ
娘さん、えゝ今晩の内にお葬りになりますように」
竹「はい、少し早いようでございますが、何分宜しゅう……多分に手のかゝりませんように」
五「宜しゅうございます、其の積りに致しました、何も
多勢和尚様方を頼むじゃアなし、お手軽になすった方が、御道中ゆえ宜しゅうございましょう」
と親切らしく
主人が其の晩の
中に、自分も
随いて行って野辺送りを致してしまいました。