二十一
其の時お菊は驚いて容を正し、 菊「何をする」 と云いながら、側に在りました烟管にて林藏の頭を打ちました。 林「あゝ痛え、何で打った、呆れて物が云われねえ」 菊「早くお前の部屋へおいで何ぼ私が年が往かないと云って、余り人を馬鹿にして、さ、出て行っておくれよ、本当に呆れてしまうよ」 林「出て往くも往かねえも要らねえ、否なら否で訳は分ってる、突然頭部にやして、本当に呆れてしまう、何だって打ったよ」 菊「打たなくてさ、旦那様のお留守に冗談も程がある、よく考えて御覧、私は旦那さまに別段御贔屓になることも知っていながら、気違じみた真似をして、直に出て往っておくれ、お前のような薄穢い者の女房に誰がなるものか」 林「薄穢けりアそれで宜えよ、本当に呆れて物が云われねえ、忌なら何も無理に女房になれとは云わねえ、私の身代が立派になれば、お前さんよりもっと立派な女房を貰うから、否なら否で分ってるのに、突然烟管で殴すてえことがあるか、頭へ傷が附いたぞ」 菊「打ったって当然だ、さっさと部屋へおいで、旦那さまがお帰りになったら申上げるから」 林「旦那様がお帰りになりア此方で云うて暇ア出させるぞ」 菊「おや、何で私が……」 林「何も屎も要らねえ、さっさと暇ア出させるように私が云うから、然う思って居るが宜え」 と云い放って立上る袖を捕えて引止め、 菊「何ういう理由で、まお待よ」 林「何だね袂を押えて何うするだ」 菊「私が何でお暇が出るんだえ、お暇が出るといえば其の理由を聞きましょう」 林「エヽイ、聞くも聞かねえも要らねえ、放さねえかよ、これ放さねえかてえにあれ着物が裂けてしまうじゃアねえか、裂けるよ、放さねえか、放しやがれ」 と林藏はプップと腹を立って庭の方へ出る途端に、チョン/\チョン/\、 ○「四ツでござアい」 と云う廻りの声を合図に、松蔭大藏は裏手の花壇の方から密と抜足をいたし、此方へまいるに出会いました。 大「林藏じゃアねえか」 林「おや旦那様」 大「林藏出て来ちゃアいかんなア」 林「いかんたって私には居られませんよ、旦那様、頭へ疵が出来ました、こんなに殴して何うにも斯うにも、其様な薄穢い田舎者は否だよッて、突然烟管で殴しました」 大「ウフヽヽヽ菊が……菊が立腹して、ウフヽヽヽ打ったか、それで手前腹を立てゝ出て来たのか」 林「ヒエ左様でござえます」 大「ウム至極尤もだ、少しの間己が呼ぶまで来るな、併し菊もまだ年がいかないから、死んでも否だと一度断るは女子の情だ、ま部屋に往って寝ていろ」 林「部屋へ往っても寝られませんよ」 大「ま、兎も角彼方へ往け/\、悪いようにはしないから」 林「ヒエ左様なら御機嫌宜しゅう」 と林藏が己の部屋へ往く後姿を見送って、 大「えゝーい」 と大藏は態と酔った真似をして、雪駄をチャラ/\鳴らして、井筒の謡を唄いながら玄関へかゝる。お菊は其の足音を存じていますから、直に駈出して両手を突き、 菊「お帰り遊ばせ」 大「あい、あゝーどうも誠に酔った」 菊「大層お帰りがお遅うございますから、また神原様でお引留で、御迷惑を遊ばしていらっしゃることゝ存じて、先程からお帰りをお待ち申して居りました」 大「いや、どうも無理に酒を強られ、神原も中々の酒家で、飲まんというのを肯かずに勧めるには実に困ったが、飯も喫べずに帰って来たが、嘸待遠であったろう」 菊「さ、此方へ入らしってお召換を遊ばしまし[#「遊ばしまし」は底本では「遊ぱしまし」]」 大「あい、衣類を着替ようかの」 菊「はい」 とお菊は直に乱箱の中に入って居ります黄八丈の袷小袖を出して着換させる、褥が出る、烟草盆が出ます。松蔭大藏は自分の居間へ坐りました。 菊「御酒は召上っていらっしゃいましたろうが、御飯を召上りますか」 大「いや勧めの酒はの幾許飲んでも甘くないので、宅へ帰ると矢張また飲みたくなる、一寸一盃燗けんか」 菊「はい、お湯も沸いて居りますし、支度もして置きました」 大「じゃア此処へ持って来てくれ」 菊「はい畏まりました」 と勝手を存じていますから、嗜みの物を並べて膳立をいたし、大藏の前へ盃盤が出ました。お菊は側へまいりまして酌をいたす。大藏は盃を執って飲んでお菊に差す。お菊は合に半分ぐらいずつ忌でも飲まなければなりません。 大「はあー……お菊先程林藏が先へ帰ったろう」 菊「はい、何だかも大層飲酔ってまいりまして、大変な機嫌でございましたが、も漸く欺して部屋へ遣りましたが、彼には余り酒を遣されますといけませんから、加減をしてお遣し下さいまし」 大「ウム左様か、何か肴の土産を持って参ったか」 菊「はい、種々頂戴致しましたが、私は宜いからお前持って往くが宜い、折角下すったのだからと申して皆彼に遣しました」 大「あゝ然うか、あゝー好い心持だ、何処で酒を飲むより宅へ帰って気儘に座を崩して、菊の酌で一盃飲むのが一番旨いのう」 菊「貴方また其様な御容子の好いことばかり御意遊ばします、私のような此様なはしたない者がお酌をしては、御酒もお旨くなかろうかと存じます」 大「いや/\どうも実に旨い、はアー……だがの、菊、酔って云うのではないが表向、ま手前は小間使の奉公に来た時から、器量と云い、物の云い様裾捌き、他々の奉公人と違い、自然に備わる品というものは別だ、実に物堅い屋敷にいながら、仮令己が昇進して、身に余る大禄を頂戴するようなことになれば、尚更慎まねばならん、所がどうも慎み難く、己が酔った紛れに無理を頼んだ時は、手前は否であったろう、否だろうけれども性来怜悧の生れ付ゆえ、否だと云ったらば奉公も出来難い、辛く当られるだろうと云うので、ま手前も否々ながら己の云うことを聞いてくれた処は、夫りア己も嬉しゅう思うて居るぞよ」 菊「貴方また其様な事を御意遊ばしまして、あのお話だけは……」 大「いゝえさ誰にも聞かする話ではない、表向でないから、もう一つ役替でも致したら、内々は若竹の方でも己が手前に手を付けた事も知っているが、己が若竹へ恩を着せた事が有るから、彼も承知して居り、織江の方でも知って居ながら聊かでも申した事はない、手前と己だけの話だが手前は嘸厭だろうと思って可愛相だ」 菊「あなた、何ぞと云うと其様な厭味なことばかり御意遊ばします、これが貴方身を切られる程厭で其様なことが出来ますものではございません」 大「だが手前は己に物を隠すの」 菊「なに私は何も隠した事はございません」 大「いんにゃ隠す、物を隠すというのも畢竟主従という隔てがあって、己は旦那様と云われる身分だから、手前の方でも己を主人と思えば、軽卒[#「軽卒」は「軽率」の誤記か]の取扱いも出来ず、斯う云ったら悪かろうかと己に物を隠す処が見えると云うのは、船上忠平は手前の兄だ、それが渡邊織江の家に奉公をしている、其処に云うに云われん処があろう」 菊「何を御意遊ばすんだか私には少しも分りません、是迄私は何でも貴方にお隠し申した事はございません」 大「そんなら己から頼みがある、併し笑ってくれるな、己が斯くまで手前に迷ったと云うのは真実惚れたからじゃ、己も新役でお抱になって間のない身の上で、内妾を手許へ置いては同役の聞えもあるから、慎まなければならんのだが、其の慎みが出来んという程惚れた切なる情を話すのだが、己は何も御新造のある身の上でないから、行々は話をして表向手前を女房にしたいと思っている」 菊「どうも誠にお嬉しゅうございます」 大「なに嬉しくはあるまい……なに……真に手前嬉しいと思うなら、己に起請を書いてくれ」 菊「貴方、御冗談ばかり御意遊ばします、起請なんてえ物を私は書いた事はございませんから、何う書くものか存じません」 大「いやさ己の気休めと思って書いてくれ、否でもあろうが其れを持っておれば、菊は斯ういう心である、末々まで己のものと安心をするような姿で、それが情だの、迷ったの、笑ってくれるな」 菊「いゝえ、笑うどころではございませんが、起請などはお止し遊ばせ」 大「ウヽム書けんと云うのか、それじゃア手前の心が疑われるの」 菊「だって私は何もお隠し申すことはありませんし、起請などを書かんでも……」 大「いや反古になっても心嬉しいから書いてくれ、硯箱をこれへ……それ書いてくれ、文面は教えてやる……書かんというと手前の心が疑られる、何か手前の心に隠している事が有ろう、然うでなければ早く書いてくれ」 菊「はい……」 とお菊は最前大藏が飴屋の亭主を呼んで、神原四郎治との密談を立聞をしたが、其の事でこれを書かせるのだな、今こゝで書かなければ尚疑われる、兄の勤めている主人方へお屋敷の一大事を内通をする事も出来ん、先方の心の休まるように書いた方が宜かろうと、羞かしそうに筆を執りまして、大藏が教ゆる通りの文面をすら/\書いてやりました。 大「まア待て、待て/\、名を書くのに松蔭と書かれちゃア主人のようだ、何処までも恋の情でいかんければならん、矢張ぷっつけに[#「ぷっつけに」は「ぶっつけに」の誤記か]大藏殿と書け」 菊「貴方のお名を……」 大「ま書け/\、字配りは此処から書け」 と指を差された処へ筆を当てゝ、ちゃんと書いた後、自分の名を羞かしそうにきくと書き終り、 菊「あの、起請は神に誓いまして書きますもので、血か何か附けますのですか」 大「なに血は宜しい、手前の自筆なれば別に疑うところもない、あゝ有難い」 押戴いて巻納めもう一盃。と酒を飲みながら如何なることをか工むらん、続けて三盃ばかり飲みました。 大「あゝ酔った」 菊「大層お色に出ました」 大「殺して居た酒が一時に出ましたが、あの花壇の菊は余程咲いたかの」 菊「余程咲きました、咲乱れて居ります」 大「一寸見たいもんだの」 菊「じゃアお雪洞を点けましょう」 大「然うしてくれ」 菊「お路地のお草履は此処にあります、飛石へお躓き遊ばすと危うございますよ」 大「おゝ宜い/\/\」 と蹌けながらぶらり/\行くのを、危いからお菊も後から雪洞を提げて外の方へ出ると花壇があります。此の裏手はずっと崖になって、下ると谷中新幡随院の墓場此方はお馬場口になって居りますから、人の往来は有りません。 大「菊々」 菊「はい」 大「其処へ雪洞を置けよ」 菊「はい置きます」 大「灯火があっては間が悪いのう」 菊「何を御意あそばします」 大「これ菊、少し蹲んでくれ」 菊「はい」 左の手を出して……お母が二歳三歳の子供を愛するようにお菊の肩の処へ手をかけて、お菊の顔を視詰めて居りますから、 菊「あなた、何を遊ばしますの、私は間が悪うございますもの……」 大藏は四辺を見て油断を見透し、片足挙げてポーンと雪洞を蹴上げましたから転がって、灯火の消えるのを合図にお菊の胸倉を捉って懐に匿し持ったる合口を抜く手も見せず、喉笛へプツリーと力に任せて突込む。 菊「キャー」 と叫びながら合口の柄を右の手で押え片手で大藏の左の手を押えに掛りまするのを、力に任せて捻倒し、乗掛って、 大「ウヽー」 と抉ったから、 菊「ウーン」 パタリとそれなり息は絶えてしまい、大藏は血だらけになりました手をお菊の衣類で拭きながら、密と庭伝いに来まして、三尺の締のある所を開けて、密っと廻って林藏という若党のいる部屋へまいりました。
二十二
大「林藏や、林藏寝たか林藏……」 林「誰だえ」 大「己だ、一寸開けてくれ」 林「誰だ」 大「己だ、開けてくれ、己だ」 林「いやー旦那さまア」 大「これ/\」 林「何うして此様な処へ」 大「静かに/\」 林「ど何ういう事で」 大「静かに……」 林「はい、只今開けます、灯火が消えて居りますから、只今……先刻から種々考えて居て一寸も眠られません、へえ開けます」 がら/\/\。 林「先刻の事が気になって眠られませんよ」 大「一緒に来い/\」 林「ひえ/\」 大「手前の手許に小短い脇差で少し切れるのがあるか」 林「ひえ、ござえます」 大「それを差して来い、静かに/\」 と是れから林藏の手を引いて、足音のしないように花壇の許まで連れて来まして、 大「これ」 林「ひえ/\」 大「菊は此の通りにして仕舞った」 林「おゝ……これは……どうもお菊さん」 大「これさ、しッ/\……主人の言葉を背く奴だから捨置き難い、どうか始終は林藏と添わしてやりたいから、段々話をしても肯入れんから、已むを得ず斯の通り致した」 林「ひえゝ、したがまア、殺すと云うはえれえことになりました、可愛相な事をしましたな」 大「いや可愛相てえ事はない、手前は菊の肩を持って未練があるの」 林「未練はありませんが」 大「なアに未練がある」 と云いながら、やっと突然林藏の胸倉を捉えますから、 林「何をなさいます」 と云う所を、押倒しざま林藏が差して居ました小脇差を引抜いて咽笛へプツーリ突通す。 林「ウワー」 と悶掻く所を乗掛って、 大「ウヽーン」 と突貫く、林藏は苦紛れに柄元へ手を掛けたなり、 林「ウヽーン」 と息が止りました。是から大藏は伸上って庭外を見ましたが人も来ない様子ゆえ、 大「しめた」 と大藏は跡へ帰って硯箱を取出して手紙を認め、是から菊が書いた起請文を取出して、大藏とある大の字の中央へ(ー)を通して跳ね、右方へ木の字を加えて、大藏を林藏と改書して、血をべっとりと塗附けて之を懐中し、又々庭へ出て、お菊の懐中を探して見たが、別に掛守もない、帯止を解いて見ますと中に守が入って居ますから、其の中へ右の起請を納れ、元の様に致して置き、夜が明けると直に之を頭へ届けました。又た有助と云う男に手紙を持たせて、本郷春木町三丁目の指物屋岩吉方へ遣わしましたが、中々大騒で、其の内に検使が到来致しまして、段々死人を検めますと、自ら死んだように、匕首を握り詰めたなりで死んで居ります。林藏も刀の柄元を握詰め喉を貫いて居ますから、如何いう事かと調べになると、大藏の申立に、平素から訝しいように思って居りましたが、予て密通を致し居り、痴情のやる方なく情死を致したのかも知れん、何か証拠が有ろうと云うので、懐中から守袋を取出して見ると、起請文が有りましたから、大藏は小膝を礑と打まして、 大「訝しいと存じて、咎めた時に、露顕したと心得情死を致しましたと見ゆる、不憫な事を致した、なに死なんでも宜いものを、彼までに目を懸けて使うてやったものを」 などゝ、真しやかに陳べて、検使の方は済みましたが、今年五十八になります、指物屋の岩吉が飛んでまいり、船上忠平という二十三になる若党も、織江方から飛んでまいりました。 大「これ/\此処へ通せ、老爺此処へ入れ」 岩「はい、急にお使でございましたから飛んで参りました、どうも飛んだことで」 大「誠に何ともはやお気の毒な事で、斯ういう始末じゃ」 岩「はい、どうも此の度の事ばかりは何ういう事だか私には一向訳が分りません、貴方様へ御奉公に上げましてから、旦那様がお目をかけて下さり、斯ういう着物を、やれ斯ういう帯をと拵えて戴き、其の上お小遣いまで下さり、それから櫛簪から足の爪先まで貴方が御心配下さるてえますから、彼様な結構な旦那さまをしくじっちゃアならんよ、己は職人の我雑者で、人の前で碌に口もきかれない人間だが、行々お前を宜い処へ嫁付けてやると仰しゃったというから、私はそれを楽んで居りましたが、何ういうわけで林藏殿と悪い事をすると云うは……のう忠平、一つ屋敷にいるから手前は他の仲間衆の噂でも聞いていそうなものだったのう」 忠「噂にも聞いた事がございません、そんなれば林藏という男が美男という訳でもなし、彼の通りの醜男子、それと斯ういう訳になろうとは合点がまいりません、お父さん、ねえ少さいうちから妹は其様な了簡の女ではないのです、何か是には深い訳があるだろうと思います」 と互に顔を見合せましたが、親父の岩吉には尚お理由が分りませんから、 岩「訳だって私にはどうも分らん、林藏さんと斯ういう事になろう筈がないと申すは、旦那さま、此の間菊へ一寸お暇を下さいました時に、宅へまいりましたから、早く帰んなよ、然うしないと旦那様に済まねえよ、親元に何時までもぐず/\して居てはならないと申したら、お父さん、私はと何か云い難い事がある様子で、ぐず/\して居ましたが、何方もいらっしゃいませんからお話を致しますが、お父さん、私は浮気じゃアないが、私のような者でも旦那様が別段お目をかけて下さいますよと云いますから、お前を奉公人の内で一番目をかけて下さるのか、然うじゃアないよ、別段に目をかけて下さるの、何ういう事でと聞きましたら、私ア旦那さまのお手が附いたけれども、此の事が知れては旦那様のお身の上に障るから、お前一人得心で居てくれろと申しますから手前は冥加至極な奴だ、彼様な好い男の殿様のお手が附いて……道理でお屋敷へ上る時から、やれこれ目を掛けて下さると思った、併し他の奉公人の妬みを受けやアしないかと申しましたが、結構な事だ有難いことだと実は悦んで安心していました、菊も悦んで親へ吹聴致すくらいで、何うして林藏さんと……」 大「こら/\大きな声をしては困りますな、併し岩や恋は思案の外という諺もあって、是ばかりは解りませんよ、そんならば宅にいて気振でも有りそうなものだったが、少しも気振を見せない、尤も主家来だから気を詰るところもあり、同じ朋輩同志人目を忍んで密会をする方が又楽みと見えて、林藏という者が来た時から、菊が彼に優しくいたす様子、林藏の方でもお菊さん/\と親む工合だから、結構な事だと思って居たが、起請まで取交して心中を仕ようとは思いません、実に憎い奴とは思いながら、誠に不憫な事をして、お前の心になって見れば、立腹する廉はない、お前には誠に気の毒で、忠平どんも未だ年若ではあるし、他に兄弟もなく、嘸と察する、斯うして一つ屋敷内に居るから、恥入ることだろうと思う、実に気の毒だが、斯の道ばかりは別だからのう」 忠「へえ、(泣声にて)お父さん何たる事になりましたろう、私は旦那様の処へ奉公をして居りましても、他の足軽や仲間共に対して誠に顔向けが出来ません、一人の妹が此様な不始末を致し、御当家様へ申訳がありません」 大「いや、仕方がないから、屍体のところは直に引取ってくれるように」 岩「へえ畏りました」 と岩吉も忠平も本当らしいから、仕方がない、お菊の屍骸を引取って、木具屋の岩吉方から野辺の送りをいたしました。九月十三夜に、渡邊織江は小梅の御中屋敷にて、お客来がござりまして、お召によって出張いたし、お饗応をいたしましたので、余程夜も更けましたが、お客の帰った跡の取片付けを下役に申付けまして、自分は御前を下り、小梅のお屋敷を出ますと、浅草寺の亥刻の鐘が聞えます。全体此の日は船上忠平も供をして参っておったところが、急に渡邊の宅から手紙で、嬢様が少しお癪気だと申してまいりました。嬢様の御病気を看病致すには、慣れたものが居らんければ不都合ゆえ、織江が忠平に其の手紙を見せまして、先へ忠平を帰しましたから、米藏という老僕に提灯を持たして小梅の御中屋敷を立出で、吾妻橋を渡って田原町から東本願寺へ突当って右に曲り、それから裏手へまいり、反圃の海禅寺の前を通りまして山崎町へ出まして、上野の山内を抜け、谷中門へ出て、直ぐ左へ曲って是から只今角に石屋のあります処から又後へ少し戻って、細い横町を入ると、谷中の瑞林寺という法華寺があります、今三浦の屋敷へ程近い処まで来ると、突然に飛出した怪しげなる奴が、米藏の持った提灯をばっさり切って落す。 米「あっ」 と驚く、 織「何者だ、うぬ、狼藉……」 と後へ退るところを藪蔭からプツーリ繰出した槍先にて、渡邊の肋を深く突く 織「ムヽーン」 と倒れて起上ろうとする所を、早く大刀の柄に手をかけると見えましたが抜打に織江の肩先深く切付けたから堪りません。 織「ウヽーム」 と残念ながら大刀の柄へ手を掛けたまゝ息は絶えました。
二十三
渡邊織江が殺されましたのは、夜の子刻少々前で、丁度同じ時刻に彼の春部梅三郎が若江というお小姓の手を引て屋敷を駈落致しました。昔は不義はお家の御法度などと云ってお手打になるような事がございました。そんならと申して殿様がお堅いかと思いますと、殿様の方にはお召使が幾人もあって、何か月に六斎ずつ交る/″\お勤めがあるなどという権妻を置散かして居ながら、家来が不義を致しますと手打にいたさんければならんとは、ちと無理なお話でございますが、其の時分の君臣の権識は大して違って居ましたもので、若江が懐妊したようだというから、何うしても事露顕を致します、殊には春部梅三郎の父が御舎弟様から拝領いたしました小柄を紛失致しました。これも表向に届けては喧ましい事であります、此方も心配致している処へ、若江が懐妊したから連れて逃げて下さいというと、そんなら……、と是から両人共身支度をして、小包を抱え、若気の至りとは云いながら、高も家も捨てゝ、春部梅三郎は二十三歳で、其の時分の二十三は当今のお方のように智慧分別も進んでは居りませんから、落着く先の目途もなく、お馬場口から曲って来ると崖の縁に柵矢来が有りまして、此方は幡随院の崖になって居りまして、此方に細流があります。此処を川端と申します。お寺が幾らも並んで居ります。清元の浄瑠璃に、あの川端へ祖師さんへなどと申す文句のござりますのは、此の川端にある祖師堂で、此の境内には俳優岩井家代々の墓がございます。夜に入っては別に往来もない処で、人目にかゝる気遣いはないからというので、是から合図をして藪蔭へ潜り込み、 若「春部さま」 梅「あい、私は誠に心配で」 若「私も一生懸命に信心をいたしまして、貴方と御一緒に此の外へ出てしまえば、何様な事でも宜しゅうございますけれども、お屋敷にいる内に私が捕りますと、貴方のお身に及ぶと存じて、本当に私は心配いたしましたが、宜く入らしって下さいました」 梅「まだ廻りの来る刻限には些と早い、さ、これを下りると川端である、柵が古くなっているから、直に折れるよ、裾をもっと端折らにゃアいかん、危いよ」 若「はい、畏りました、貴方宜しゅうございますか」 梅「私は大丈夫だ、此方へお出でなさい」 と是から二人ともになだれの崖縁を下りにかゝると、手拭ですっぽり顔を包み、紺の看板に真鍮巻の木刀を差した仲間体の男が、手に何か持って立って居る様子、其所へ又一人顔を包んだ侍が出て来る。若江春部の両人は忍ぶ身の上ゆえ、怖い恐ろしいも忘れて檜の植込の一叢茂る藪の中へ身を縮め、息をこらして匿れて居りますと、顔を包んだ侍が大小を落差にいたして、尻からげに草履を穿いたなり、つか/\/\と参り、 大「これ有助」 有「へえ、これを彼の人に上げてくれと仰しゃるので、へい/\首尾は十分でございましたな」 大「うん、手前は之を持って、予ての通り道灌山へ往くのだ」 有「へい宜しゅうございます、文箱で」 大「うん、取落さんように致せ、此の柵を脱けて川を渡るのだ、水の中へ落してはならんぞ」 有「へえ/\大丈夫で」 大「仕損ずるといけんよ」 有「宜しゅうございます」 と低声でいうから判然は分りませんが、怪しい奴と思って居ります内に、彼の侍はすっと何れへか往ってしまいました。チョンチョン/\/\。 廻「丑刻でございます」 と云う廻りの声にて、先の仲間体の男は驚き慌てゝ柵を潜って出る。春部は浮気をして情婦を連れ逃げる身の上ではありますが、一体忠義の人でございますから、屋敷内に怪しい奴が忍び込むは盗賊か何だか分りませんから、 梅「曲者待て」 と云いながら領上を捕える。曲者は無理に振払おうとする機みに文箱の太い紐に手をかけ、此方は取ろうとする、彼の者は取られまいとする、引合うはずみにぶつりと封じは切れて、文箱の蓋もろともに落たる密書、曲者はこれを取られてはならんと一生懸命に取返しにかゝる、遣るまいと争う機みに、何ういう拍子か手紙の半を引裂いて、ずんと力足を踏むと、男はころ/\/\とーんと幡随院の崖縁へ転がり落ちました。其の時耳近く。 廻「八つでございまアす」 と云う廻りの声に驚き引裂いた手紙を懐中して、春部梅三郎は若江の手を取って柵を押分け、身体を横にいたし、漸うの事で此処を出て、川を渡り、一生懸命にとっとゝ団子坂の方へ逃げて、それから白山通りへ出まして、駕籠を雇い板橋へ一泊して、翌日出立を致そうと思いますと、秋雨が大降に降り出してまいって、出立をいたす事が出来ませんから、仕方なしに正午過まで待って居りまして、午飯を食ると忽ちに空が晴れて来ましたから、 梅「どうか此宿を出る所だけは駕籠に仕よう」 と駕籠で大宮までまいりますと、もう人に顔を見られても気遣いはないと、駕籠をよして互に手を引合い、漸々大宮の宿を離れて、桶川を通り過ぎ、鴻の巣の手前の左は桑畠で、右手の方は杉山の林になって居ります処までまいりました。御案内の通り大宮から鴻の巣までの道程は六里ばかりでございます。此処まで来ると若江は蹲んだまゝ立ちません。 梅「何うした、足を痛めたのか」 若「いえ痛めやア致しませんが、只一体に痛くなりました、一体に草臥れたので、股がすくんで些とも歩けません」 梅「歩けないと云われては誠に困るね、急いで往かんければなりません」 若「も往けません、漸う此処まで我慢して歩いて来ましたので、私は此様に歩いた事はないものですから、最う何うしても往けません」 梅「往けませんたって…誠に子供のようなことを云っているから困りますな、是から私の家来の家へでも往くならまだしも、お前の親の許へ往って、詫言をして、暫く置いて貰わなければなりません、それだのにお前が其処で草臥れたと云って屈んで、気楽な事を云ってる場合ではありません」 若「私も実に心配ですが、どうも歩けませんもの、もう少しお駕籠をお雇い遊ばすと宜しゅうございましたのに」 梅「其様なことを云ったって、今時分こゝらに駕籠はありませんよ、それでなくとも装はすっかり変えても、頭髪の風が悪いから、頭巾を被っても自然と知れます、誠に困りました」 若「困るたって、どうも歩けませんもの」 梅「歩けんと云って、そうして居ては……」 若「少し負って下さいませんか」 梅「何うして私も草臥れています」 先の方へぽく/\行く人が、後を振反って見るようだが、暗いので分らん。 梅「えゝもし……其処においでのお方」 男「はっ……あー恟りした、はあーえら魂消やした、あゝ怖かねえ……何かぽく/\黒え物が居ると思ったが、こけえらは能く貉の出る処だから」 若「あれまア、忌な、怖いこと……」 男「まだ誰か居るかの……」 梅「いえ決して心配な者ではありません、拙者は旅の者でござるが、足弱連で難儀致して居るので、駕籠を雇いたいと存ずるが、此の辺に駕籠はありますまいか、然うして鴻の巣まではまだ何の位ありましょう、それに其方は御近辺のお方か、但し御道中のお人か」 男「私は鴻の巣まで帰るものでござえますが、駕籠を雇って後へ帰っても、十四五丁入らねえばなんねえが、最う少し往けば鴻の巣だ、五丁半べえの処だアから、同伴でも殖えて、まアね少しは紛れるだ、私も怖ねえと思って、年い老ってるが臆病でありやすから、追剥でも出るか、狸でも出たら何うしべえかと考え/\来たから、実に魂消たね、飛上ったね、いまだにどう/\胸が鳴ってるだ……見れば大小を差しているようだ、お侍さんだな、どうか一緒に連れて歩いてくだせえ、私も鴻の巣まで参るもので」 梅「それは幸いな事で、然らば御同伴を願いたい」 男「えゝ…こゝで飯ア喰う訳にはまいりやせん、お飯を喰えって」 梅「いえ、御同道をしたいので」 男「アハヽヽヽ一緒に行くという事か、じゃア、御一緒にめえりますべえ……草臥れて歩けねえというのは此の姉さんかね、それは困ったんべえ、江戸者ちゅう者は歩きつけねえから旅へ出ると意気地はねえ、私も宿屋にいますが、時々客人が肉刺エ踏出して、吹売に糊付板を持って来うてえから、毎でも糊板を持って行くだが、足の皮がやっこいだからね、お待ちなせえ、私ア独り歩くと怖えから、提灯を点けねえで此の通り吊さげているだ。同伴が殖えたから点けやすべえ」 梅「お提灯は拙者が持ちましょう」 男「私ア此処に懐中附木を持ってる、江戸見物に行った時に山下で買ったゞが、赤い長太郎玉が彼と一緒に買っただが、附木だって紙っ切だよ、火絮があるから造作もねえ、松の蔭へ入らねえじゃア風がえら来るから」 と幾度もかち/\やったが付きません。 男「これは中々点かねえもんだね、燧が丸くなってしまって、それに火絮が湿ってるだから……漸の事で点いただ、これでこの紙の附木に付けるだ、それ能く点くべい、えら硫黄臭いが、硫黄で拵えた紙だと見える、南風でも北風でも消えねえって自慢して売るだ、点けてしまったあとは、手で押えて置けば何日でも御重宝だって」 梅「じゃア拙者が持ちましょう、誠にお提灯は幸いの事で、さ我慢して、五町ばかりだと云うから」 若「はい、有難う存じます」 男「お草臥れかね、えへゝゝゝゝ顔を其方へ向けねえでも宜い」 若江は頭巾を被って居りますから田舎者の方では分りませんが、若江の方で見ると、旧来我家に勤めている清藏という者ゆえ、嬉しさの余り草臥れも忘れて前へすさり出まして、 若「あれまア清爺や」 清「へえ……誰だ……誰だ」 若「誰だってまア本当に、頭巾を被っているから分るまいけれども私だよ」 と云いながらお高祖頭巾をとるを見て、 清「こりゃア何とまア魂消たね、何うして……やアこれ阿魔ア……」 梅「何だ阿魔とは怪しからん、知る人かえ」 若「はい、私の処の親父の存生中から奉公して居ります老僕ですが、こゝで逢いましたのは誠に幸いな事で」 清「ま、どうして来ただアね、宿下りの時にア私は高崎まで行ってゝ留守で逢わなかったが、大くなったね、今年で十八だって、今日も汝が噂アしてえた処だ、見違えるようになって、何とはア立派な姿だアな、何うして来た、宿下りか」 若「いゝえ、私はまたお前に叱られる事が出来たのだけれども、お母様に詫言をして、どうか此のお方と一緒に宅へ置いて戴くようにしておくれな」 清「此のお方様てえのは」 と梅三郎を見まして、 「此のお方様が……貴方は岡田さまか」 梅「えゝ拙者は春部梅三郎と申す者で、以後別懇に願います」 清「へえ、余り固く云っちゃア己がに分りやせん、ま何ういう訳で、あゝ是は失策でもして出て、貴方が随いて参ったか」 梅「いや別に上へ対して失策もござらんが、両人とも心得違いをいたし、昨夜屋敷を駈落いたしました」 清「え屋敷を出たア…」 若「此のお方様もお屋敷に居られず、私も矢張居られない理由になったが、お母さんは物堅い御気性だから、屹度置かないと仰しゃるだろうが、此のお方も、何処へも行き所のないお方で、後生だから何日までも宅に居られるようにしておくれな」 清「むゝう……此の人と汝がと二人ながら屋敷に居られねえ事を出来して仕様がなく、駈落をして来たな」 若「あゝ」 清「あ……それじゃア何か二人ともにまア不義アして居ただアな、いゝや隠さねえでも宜い、不義アしたって宜い、宜い/\/\能くした、大かくなるもんだアな、此間まで頭ア蝶々見たように結って、柾の嫩っこい葉でピイ/\を拵えて吹いてたのが、此様な大くなって、綺麗な情夫を連れて突走って来たか、自分の年い老ったのは分んねえが、汝が大くなったで知れらア、心配せねえでも宜い、お母さまが置くも置かねえもねえ、何うしても男と女はわるさアするわけのものだ、心配せねえでも宜い、どうせ聟養子をせねえばなんねえ、われが死んだ父さまの達者の時分からの馴染で、己が脊中で眠たり、脊中で小便垂れたりした娘子が、大くなったゞが、お前さんもまんざら忌ならば此様な処まで手を引張って逃げてめえる気遣えもねえが、宿屋の婿になったら何うだ、屎草履を直さねえでも宜いから」 梅「それは有難い事で、何の様な事でもいたしますが、拙者は屋敷育ちで頓と知己もござらず、前町に出入町人はございますが、前町の町人どもの方へも参られず、他人の娘を唆かしたとお腹立もございましょうが、お手前様から宜しくお詫びを願いたい、若し寺へまいるような子供でもあれば、四書五経ぐらいは教えましても好し、何うしても困る時には御厄介にならんよう、人家の門に立ち、謡を唄い、聊かの合力を受けましても自分の喰るだけの事は致す心得」 清「其様な事をしねえでも宜え、見っともねえ、聟になってお母の厄介になりたくねえたって、歌ア唄って表え歩いて合力てえ物を売って歩いて、飴屋見たような事はさせたくねえ、あの頭の上へ籠か何か乗けて売って歩くのだろう」 梅「いえ、左様な訳ではございません」 清「然うで無えにしても其様な事は仕ねえが宜い、そろ/\参りましょう、提灯を持っておくんなせえ、先へ立って」 若「お前ね、私は嬉しいと思ったら草臥れが脱けたから宜いよ」 清「まアぶっされよ」 若「宜いよ」 清「宜いたって大くなっていやらしく成ったもんだから、間ア悪がって……早く負っされよ、少さえうちは大概私が負ったんだ、情夫が居るもんだから見えして、われが友達の奥田の兼野郎なア立派な若え衆になったよ、汝がと同年だが、此の頃じゃア肥手桶も新しいんでなけりゃ担ぎやアがんねえ、其様に世話ア焼かさずに負されよ」
二十四
鴻の巣の宿屋では女主人が清藏の帰りの遅いのを心配いたして、 母「あの清藏はまだ帰りませんかな……何うしたか長え、他の者を使いにやれば、今までにゃア帰るだに……こら、清藏が帰ったようじゃアねえか、帰ったら直に此処へ来うといえ」 清「へえ、只今往って参りました……もし、此の人は何とか云っけ、名は……」 若「春部さま」 清「うん春部梅か成程……梅さん、そこな客座敷は六畳しかないが、客のえらある時にゃア此処へも入れるだが常にア誰も来ねえから、其処に入って居な、一旦詫をしねえ内は仕方がねえから……へえ往って参りました」 母「余り長えじゃアねえか」 清「長えって先方で引留めるだ、まア一盃飲んで往けと云って、どうか船の利かないところを、お前の馬に積んで二三帰り廻してくれと云っていたが、薪は百把に二十二三把安いよ」 主「それは宜かっけな」 清「何よ、それ何に逢いやした、それ…」 母「誰だ」 清「誰だって大くなって見違えたね、屋敷姿は又別だね、此処を斯ういう塩梅に曲げて、馬糞受見たように此処にぺら/\下げて来たっけね、今日の髪ア違って、着物も何だか知んねえ物を着て来たんだ、年い十八じゃア形い大えな、それ娘のおわかよ、父さまに似てえるだ」 母「あれまア何処え」 清「六畳に居るだ」 母「あれまア早くそう云えば宜いじゃアねえか」 清「遅く屋敷を出たゞよ」 母「何か塩梅でも悪くて下って来たんじゃアあんめえか、それとも朋輩同士揉めでも出来たか、宿下りか」 清「それがね、お屋敷内でね、一つ所で働く若え侍があって、好え男よ、其方を掃いてくんろ、私イ拭くべえていった様な事から手が触り足が触りして、ふと私通いたんだ、だん/\聞けば腹ア大くなって赤児が出来てみれば、奉公は出来ねえ、そんならばとって男を誘い出して、済みませんから老僕や詫言をしてくんろってよ、どうかまアね、本当に好いお侍だよ」 母「むゝう……じゃア何か情夫を連れやアがって駈落いして来たか」 清「うん突走って来ただ」 母「それから汝何処へ入れた」 清「何処だって別に入れ処がねえから、新家の六畳の方へ入れて飯ア喰わして置いただ」 母「馬鹿野郎、呆れた奴だよ、何故宅へ引入れた、何故敷居を跨がしたよ、屋敷奉公をしていながら、不義アして走って来るような心得違えな奴は、此処から勝手次第に何処へでも往くが宜えと小言を云って、何故追出してやらねえ、敷居を跨がして内へ入れる事はねえよ」 清「それは然う云ったって仕様がねえ、どうせ年頃の者に固くべえ云ったっていかねえ、お前だって此処え縁付いて来るのに見合から仕て、婚礼したじゃアねえ、彼を知ってるのは私ばかりだ、十七の時だね、十夜の帰りがけにそれ芋畠に二人立ってたろう」 母「止せ……汝まで其様ことをいうから娘がいう事を肯かねえ、宜く考えて見ろよ、熊ヶ谷石原の忰を家へよばる都合になって居るじゃアねえか、親父のいた時から決っているわけじゃアねえか、それが今情夫を連れて逃げて来やアがって、親が得心で匿まって置いたら、石原の舎弟や親達に済むかよ」 清「おゝ違えねえ、是は済まねえ」 母「済まねえだって、汝は何もかも知っていながら、彼の娘を連れて来て、足踏みをさせて済むかよ、只た今追出してしめえ、汝ア幾歳になる、頭ア禿らかしてよ、女親だけに子に甘く、義理人情を考えねえで入れたと、石原へ聞えて済むか、汝も一緒に出て往け」 清「私が色事をしやアしめえし、出される訳はねえ、実ア私も家へ入れめえとは考えたけれども、お侍さんが如何にも優しげな人で、色が白いたって彼様のはねえ、私ア白っ子かと思えやした、一体お侍なんてえ者は田舎へ来れば、こら百姓……なんて威張るだが、私のような者に手を下げて、心得違えをして屋敷を出ましたが、他に知って居る者もねえ、母さまア腹も立とうが、厄介にはなりません、稼ぎがあります、何だっけ、えゝ歌ア唄って合力とかいう菓子を売って歩いても世話にならねえから、置いてやって下せえな」 母「だめだよ、さっさと追出せよ」 清「そう怒ったって仕様がねえ、出せば往き所がねえが、娘子が情夫に己ア家へ来うって連れて来たものを追出すような事になれば、誠に義理も悪い、他に行き所はねえ、仕様がねえから男女で身い投げておっ死んでしまおうとか、林の中へ入って首でも縊るべえというような、途方もねえ考えを起して、とんでもねえ間違が出来るかも知んねえ、追出せなら追出しもするが、ひょっとお前らの娘が身い投げても、首を縊っても私を怨んではなんねえよ、只た今追出すから…」 母「まア、ちょっくら待てよ」 清「なに……」 母「己を連れてって若に逢わせろよ」 清「逢わねえでも宜かんべえ」 母「宜いよ、己ア只追出す心はねえから、彼奴に逢って頭の二つ三つ殴返して、小鬢でもむしゃぐって、云うだけの事を云って出すから、連れてって逢わせろよ」 清「それは宜くねえ、少せえ子供じゃアねえし、十七八にもなったものゝ横ぞっぽを打殴ったりしねえで、それより出すは造作もねえ」 母「まア待てよ…打叩きは兎も角も、娘は憎くて置かれねえ奴だが、附いて来たお侍さんに義理があるから、己が会って、云うだけの事を云って聞かした其の上で、其の人へ義理だ、娘には草鞋銭の少しもくれべえ」 清「うむ、それは沢山遣るが宜え、新家にいるだよ」 と清藏が先へ駈出してまいり、 清「今此処へお母が来るよ」 若「お母さんが怒って何とか仰しゃったかえ」 清「怒るたって怒らねえたって訳が分らねえ、彼様なはア堅え義理を立てる人はねえ、此の前彌次郎が家の鶏を喜八が縊めたっけ、あの時お母が義理が立たねえって其の通りの鶏を買って来ねえばなんねえと、幾ら探しても、あゝいう毛がねえで困ったよ、あゝいう気象だから、お前さまも其の積りで、田舎者が分らねえ事をいうと思って、肝を焦しちゃアいけねえよ、腹立紛れに何を云うか知んねえ、来た/\、さ此方へお母」 母「あゝ薄暗い座敷だな、行灯を持って来な……お若/\、此方へ出ろよ、此処へ出ろ、最う少し出てよ」 お若は間が悪いから、畳へぴったり手を突いて顔を上げ得ません。附いて来た侍は何様な人だか。と横目でじろりと見ながら、自分の方より段々前へ進み出まして 母「お若、今清藏に聞きまして魂消ましたぞ、汝は情夫を連れて此処へ走って来たではねえか、何ともはア云様のねえ親不孝なア奴だ、これ屋敷奉公に出すは何のためだよ、斯ういう田舎にいては行儀作法も覚えられねえ、なれども鴻の巣では家柄の岡本の娘だアから屋敷奉公に上げ、行儀作法も覚えさせたらで、金をかけて奉公に遣ったのに、良い事は覚えねえで不義アして、此処へ走って来ると云うは何たる心得違えなア親不孝の阿魔だか、呆れ果てた、最う汝の根性を見限って勘当してくれるから、何処へでも出て往け、石原の舎弟に合わす顔が無え、彼が汝の婿だ、去年宿下りに来た時、石原へ連れて往くのに、先方は田舎育ちの人ゆえ、汝が屋敷奉公をして立派な姿で往くが、先方が木綿ものでいても見下げるな、汝が亭主になる人だよと、何度も云って聞かせ、お父様が約束して固く極めた処を承知していながら、情夫を連れて参っちゃア石原へ済まねえ事を知っていながら来るとは、何ともはア魂消てしまった、汝より他に子はねえけれども、義理という二字があって何うしても汝を宅へ置く事は出来ねえ、見限って勘当をするから何処へでも出て往くが宜い、汝は此のお方様に見棄てられて乞食になるとも、首い縊って死ぬとも、身を投げるとも汝が心がらで、自業自得だ、子のない昔と諦めますから」 と両眼には一杯涙を浮めて泣いて居りました。
二十五
母は心の中では不憫でならんが、義理にからんで是非もなく/\故と声をあらゝげまして、 母「これ若、もう物を云わずさっさと出て往け」 と云いながら梅三郎に向いまして、 「お前様には始めてお目にかゝりましたが、お立派なお侍さんが斯んな汚え処へお出でなすったくれえだから、どうか此の娘を可愛がって下せえまし、折角此処まで連れて逃げて来たものを、若い内には有りうちの事だ、田舎気質とは云いながら、頑固な婆アだ、何の勘弁したって宜えにとお前様には思うか知んねえけれども、只今申します通り義理があって、どうも此の娘を宅へ置かれません只た今追出します、名主へも届け、九離断って勘当します、往処もなし、親戚頼りもねえ奴でごぜえますから、見棄てずに女房にして下せえまし、貴方が見棄てゝも私ゃア恨みとも思いませんが、どうかお頼み申します、何や清藏、あのお若を屋敷奉公させて家へ帰らば、柔けえ物も着られめえと思って、紬縞の手織がえらく出来ている、あんな物が家に残ってると後で見て肝が焦れて快くねえから、帯も櫛笄のようなものまで悉皆要らねえから汝え一風呂敷に引纒めて、表へ打棄っちまえ」 清「打棄らねえでも宜かんべい、のう腹ア立とうけれども打棄ったって仕様がねえ」 母「チョッ、分らねえ奴だな、石原の親達へ対しても此娘がに何一つ着せる事ア出来ねえ、そんならと云って家に置けば快くねえ、憎い親不孝なア娘の着物を見るのは忌だから、打棄ちまえと云うだ」 清「打棄らずに取って置いたら宜かんべい」 母「雨も降りそうになって居るから、合羽に傘に下駄でも何でも、汝が心で附けて、此娘がに遣ることは出来ねえ、憎くって、併し家に置くことが出来ねえから打棄れというのだ、雨が降りそうになって居るから」 清「うーむ然うか、打棄るべえ、箪笥ごと打棄っても宜い、どっちり打棄るだから、誰でも拾って往くが宜い、はアーどうも義理という二字は仕様のねえものだ」 と立ちにかゝるを引止めて、 梅「ま暫く……清藏どんとやら暫くお待ち下さい、只今親御の仰せられるところ、重々御尤もの次第で、御尊父御存生の時分からお約束の許嫁の亭主あることを存ぜず、無理に拙者が若江を連れてまいりましたは、あなたに対しては何とも相済みません、若江は亡られた親御の恩命に背き、不孝の上の不孝の上塗をせんければならず、拙者は何処へも往き所はないが、男一人の身の上だから、何処の山の中へまいりましても喰うだけの事は出来ます、お前は此処に止まって聟を取り、家名相続をせんければならんから、拙者一人で往きます」 清「ま、お待ちなせえ……そんな義理立えして無闇に往ったっていけねえ、二人で出て来たものが、一人置いてお前さんが往ったら娘も快くねえ訳だア、宜く相談して往くが宜い、今草鞋銭をくれると云うから待てよ、えゝぐず/\云っちゃア分らねえ、判然云えよ、泣きながらでなく……彼の人ばかり追返しちゃア義理が済むめえ、色事だって親の方にも義理があるから追返す位なら首でも縊るか、身い投げておっ死ぬというだ」 母「篦棒……死ぬなんて威し言を云ったら、母親が魂消て置くべいかと思って、死ぬなんてえだ、死ぬと云った奴に是迄死んだ例はねえ、さ只た今死ね、己は義理さえ立てば宜い、汝より他に子はねえが、死ぬなんて逆らやアがって、死ぬなら死ね、さ此処に庖丁があるから」 清「止せよー、困ったなア……うむ何うした/\」 若江は身の過りでございますから、一言もないが、心底可愛い梅三郎と別れる気がない、女の狭い心から差込んでまいる癪気に閉じられ、 若「ウヽーン」 と仰向けさまに反返る。清藏は驚いて抱き起しまして、 清「お前さま帰るなんて云わねえが宜い、さゝ冷たくなって、歯を咬しばっておっ死んだ、お前様が余り小言を云うからだ……ア痛え、己の頭へ石頭を打附けて」 と若江を抱え起しながら、 清「お若やー……」 母「少しぐらい小言を云われて絶息るような根性で、何故斯んな訳になったんだかなア、痛え……此方へ顔を出すなよ」 清「お前だって邪魔だよ、何か薬でもあるか、なに、お前さま持ってる……むゝう是は巻いてあって仕様がねえ、何だ印籠か……可笑しなものだな、お前さん此の薬を娘の口ん中へ押っぺし込んで……半分噛んで飲ませろよ、なに間が悪い……横着野郎め」 梅三郎は間が悪そうに薬を含んで飲ませますと、若江は漸くうゝんと気が付きました。 清「気が付いたか」 母「しっかりしろ」 清「大丈夫だ、あゝゝ魂消た余り小言を云わねえが宜えよ、義理立をして見す/\子を殺すようなことが出来る、もう其様に心配しねえが宜えよ」 若「あの爺や、私は斯んなわるさをしたから、お母さまの御立腹は重々御道理だが、春部さまを一人でお帰し申しては済まないから、私も一緒に此のお方と出して下さるように、またほとぼりが冷めて、石原の方の片が附いたら、お母さまの処へお詫をする時節もあろうから、一旦御勘当の身となって、一度は私も出して下さるように願っておくれよ」 清「困ったね、往処のねえ人を、お若が家まで誘い出して来て置かないと云うなら、彼の人を何うかしてやらなければなんねえ、時節を待って詫言をするてえが、何うする」 母「汝と違ってお義理堅え殿さまで、往く処のねえ者を一人で出て往くと仰しゃるは、己がへの義理で仰しゃるだ、憎くて置かれねえ奴だが、此の旦那さまも斯なにお義理堅えから、此の旦那様に免じて当分家へ置いてくれるから、此処に隠れて[#「隠れて」は底本では「隠ねて」]いるが宜い」 清「そんなれば早く然う云えば宜いに、後でそんな事を云うだから駄目だ、石原の子息がぐず/\して居て困る事ができたら、私が殴殺しても構わねえ」 と是から二人は此の六畳の座敷へ足を止める事になりますと、お屋敷の方は打って変って、渡邊織江は非業に死し翌日になって其の旨を届けると、直ぐさま検視も下り、遂に屍骸を引取って野辺の送りも内証にて済ませ、是から悪人穿鑿になり、渡邊織江の長男渡邊祖五郎が伝記に移ります。
二十六
さて其の頃はお屋敷は堅いもので、当主が他人に殺された時には、不憫だから高を増してやろうという訳にはまいりません、不束だとか不覚悟だとか申して、お暇になります。彼の渡邊織江が切害されましたのは、明和の四年亥歳九月十三夜に、谷中瑞林寺の門前で非業な死を遂げました、屍骸を引取って、浅草の田島山誓願寺へ内葬を致しました。其の時検使に立ちました役人の評議にも、誰が殺したか、織江も手者だから容易な者に討たれる訳はないが、企んでした事か、どうも様子が分らん。死屍の傍に落ちてありましたのは、春部梅三郎がお小姓若江と密通をいたし、若江から梅三郎へ贈りました文と、小柄が落ちてありましたが、春部梅三郎は人を殺すような性質の者ではない、是も変な訳、何ういう訳で斯様な文が落ちてあったか頓と手掛りもなく、詰り分らず仕舞でござりました。織江には姉娘のお竹と祖五郎という今年十七になる忰があって、家督人でございます。此者が愁傷いたしまして、昼は流石に人もまいりますが、夜分は訪う者もござりませんから、位牌に向って泣いてばかり居りますと、同月二十五日の日に、お上屋敷からお呼出しでありますから、祖五郎は早速麻上下で役所へ出ますと、家老寺島兵庫差添の役人も控えて居り、祖五郎は恐入って平伏して居りますと、 寺島「祖五郎も少し進みますように」 祖「へえ」 寺島「此の度は織江儀不束の至りである」 祖「はっ」 寺島「仰せ渡されをそれ…」 差添のお役人が懐から仰せ渡され書を取出して読上げます。
一其の方父織江儀御用に付き小梅中屋敷へ罷り越し帰宅の途中何者とも不知切害被致候段不覚悟の至りに被思召無余儀永の御暇差出候上は向後江戸お屋敷は不及申御領分迄立廻り申さゞる旨被仰出候事
家老名判
祖五郎は 「はっ」 と頭を下げましたが、心の中では、父は殺され、其の上に又此のお屋敷をお暇になることかと思いますと、年が往きませんから、只畳へ額を摺付けまして、残念の余り耐えかねて男泣きにはら/\/\と泪を落す。御家老は膝を進めて言葉を和らげ、 寺「マヽ役目は是だけじゃが、祖五郎如何にもお気の毒なことで、お母さまには確か早く別れたから、大概織江殿の手一つで育てられた、其の父が何者かに討たれ剰え急にお暇になって見れば、差向何処と云って落着く先に困ろうとお察し申すが、まゝ又其の中に御帰参の叶う時節もあろうから、余りきな/\思っては宜しくない、心を大きく持って父の仇を報い、本意を遂げれば、其の廉によって再び帰参を取計らう時節もあろう、急いては事を仕損ずるという語を守らんければいかん、年来御懇意にもいたした間、お屋敷近い処にもいまいが、遠く離れた処にいても御不自由な事があったら、内々で書面をおよこしなさい」 祖「千万有難う存じます……志摩殿、幸五郎殿御苦労さまで」 志摩「誠にどうも此の度は何とも申そうようもない次第で、実にえゝ御尊父さまには一方ならぬ御懇命を受けました、志摩などは誠にあゝいうお方様がと存じましたくらいで、へえどうか又何ぞ御用に立つ事がありましたら御遠慮なく……此処は役所の事ですから、小屋へ帰りまして仰せ聞けられますように」 祖「千万有難う」 と仕方なく/\祖五郎は我小屋へ立帰って、急に諸道具を売払い、奉公人に暇を出して、弥々此処を立退かんければなりません。何処と云って便って往く目途もございませんが、彼の若江から春部の処へ送った文が残っていて、春部は家出をした廉はあるが、春部が父を殺す道理はない、はて分らん事で……確か梅三郎の乳母と云う者は信州の善光寺にいるという事を聞いたが、梅三郎に逢ったら少しは手掛りになる事もあろうと考えまして、前々勤めていた喜六という山出し男は、信州上田の在で、中の条村にいるというから、それを訪ねてまいろうと心を決しまして、忠平という名の如く忠実な若党を呼びまして、 祖「忠平手前は些とも寝ないのう、ちょいと寝なよ」 忠「いえ眠くも何ともございません」 祖「姉様と昨夜のう種々お話をしたが、屋敷に長くいる訳にもいかんから、此の通り諸道具を引払ってしまった、併し又再び帰る時節もあろうからと思い、大切な品は極別懇にいたす出入町人の家へ預けて置いたが、姉様と倶に喜六を便って信州へ立越る積りだ、手前も長く奉公してくれたが、親父も彼の通り追々老る年だし、菊はあゝ云う訳になったし、手前だけは別の事だから、こりゃア何の足しにもなるまいが、お父さまの御不断召だ、聊か心ばかりの品、受けて下さい、是まで段々手前にも宜く勤めて貰い、お父さまが亡い後も種々骨を折ってくれ、私は年が往かんのに、姉様は何事もお心得がないから何うして宜いかと誠に心配していたが、万事手前が取仕切ってしてくれ、誠に辱ない、此品はほんの志ばかりだ……また時が来て屋敷へ帰ることもあったら、相変らず屋敷へ来て貰いたい、此品だけを納めて下さい」 忠「へえ誠に有難う……」 竹「手前どうぞ岩吉にも会いたいけれども、立つ時はこっそりと立ちたいと思うから、よく親父にそう云っておくれよ」 と云われて、忠平は祖五郎とお竹の顔を視詰めて居りました。忠平は思い込んだ容子で、 忠「へえ……お嬢さま、私だけはどうかお供仰付け下さいますように願いたいもので、まア斯うやって私も五ヶ年御奉公をいたして居ります、成程親父は老る年ですが、まだ中々達者でございます、旦那様には別段に私も御贔屓を戴きましたから、忠平だけはお供をいたし、御道中と申しても若旦那様もお年若、又お嬢様だって旅慣れんでいらっしゃいますから、私がお供をしてまいりませんと、誠にお案じ申します、宅で案じて居りますくらいなら、却ってお供にまいった方が宜しいので、どうかお供を」 竹「それは私も手前に供をして貰えば安心だけれども、親父も得心しまいし、また跡でも困るだろう」 忠「いえ困ると申しても職人も居りますから、何うぞ斯うぞ致して居ります、なまじ親父に会いますと又右や左申しますから、立前に手紙で委しく云ってやります、どうか私だけはお邪魔でもお供を」 竹「誠に手前の心掛感心なことで……私も往って貰いたいというは、祖五郎も此の通りまだ年は往かず……併しそれも気の毒で」 忠「何う致しまして、私の方から願っても、此の度は是非お供を致そうと存じて居るので、どうか願います」 竹「そんなら岩吉を呼んで、宜く相談ずくの上にしましょう」 忠「いえ相談を致しますと、訳の分らんことを申してとても相談にはなりません、それより立つ前に書面を一本出して、ずっとお供をしてまいっても宜しゅうございます、心配ございません」 そんならばと申すので、是から段々旅支度をして、いよ/\翌日立つという前晩に、忠平が親父の許へ手紙を遣りました。親父の岩吉は碌に読めませんから、他人に読んで貰いましたが、驚いて渡邊の小屋へ飛んでまいりました。 岩「お頼ん申します」 忠「どうれ……おやお出でかえ」 岩「うん……手紙が来たから直に来た」 忠「ま此方へお出で」 岩「手前何かお嬢様方のお供をして信州とかへ行くてえが飛んだ話だ、え飛んだ話じゃアねえか、そんなら其の様にちゃんと己に斯ういう訳でお供を仕なければならぬがと、宜く己に得心させてから行くが宜い、ふいと黙って立っちまっては大変だと思ったから、遅くなりましてもと御門番へ断って来たんだ、えゝおい」 忠「お供してまいらなければならないんだよ、お嬢様は脾弱いお体、若旦那さまは未だお年がいかないから、信州までお送り申さなければなりません、お屋敷へ帰る時節があれば結構だが、容易に御帰参は叶うまいと思うが、長々留守になりますから、お前さんも身をお厭いなすって御大切に」 岩「其様なことを云ったって仕様がない、己は他に子供はない、お菊と手前ばかりだ、ところが菊は彼んな訳になっちまって、己アもう五十八だよ」 忠「それは知ってます」 岩「知ってるたって、己を置いて何処かへ行ってしまうと云うじゃアねえか、前の金太の野郎でも達者でいれば宜いが、己も此の頃じゃア眼が悪くなって、思うように難かしい物は指せなくなって居るから困る」 忠「困るって、是非お供をしなくっちゃアなりません」 岩「成らねえたって己を何うする」 忠「私が行って来るうち、お前は年を老ったって丈夫な身体だから死ぬ気遣いはありません」 岩「其様な事を云ったって人は老少不定だ、それも近え処ではなし、信州とか何とか五十里も百里もある処へ行くのだ、人間てえものは明日も知れねえ、其の己を置いて行くように宜く相談してから行け、手紙一本投込んで黙って行っちまっては親不孝じゃアねえか」 忠「それは重々私が悪うございましたが、相談をして又お前に止めたり何かされると困るから……これは武家奉公をすれば当然のことで」 岩「なに、武家奉公をすれば当然だと、旦那さまが教えたのか」 忠「お教えがなくっても当然だよ」 岩「然ういうことを手前は云うけれども、親父を棄てゝ田舎へ一緒に行けと若旦那やお嬢様は仰しゃる訳はあるめえ」 忠「それは送れとは仰しゃらんのさ、若旦那様や嬢様の仰しゃるには、老る年の親父もあるから、跡に残った方が宜かろう、と云って下すったが、多分にお手当も戴き、形見分けも頂戴し、殊に五ヶ年も奉公した御主人様が零落れて出るのを見棄てゝは居られません、何処までもお供をして、倶に苦労をするのが主従の間だから、悪く思って下さるな」 と説付けました。
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