十五
御書院の正面には家老寺嶋兵庫、お留守居渡邊織江其の外お目附列座で新規お抱えのことを言渡し、拾俵五人扶持を
下し置かるゝ旨のお書付を渡されました。其のお書付には
高拾俵五人扶持と筆太に書いて、宛名は隅の方へ小さく記してござります。織江から
来る十五日御登城の節お通り掛けお目見え
仰付けらるゝ旨、
且上屋敷に於てお
長家を下し置かるゝ旨をも
併せて達しましたので、大藏は有難きよしのお
受をして拝領の長家へ
下りました。織江が飛鳥山で世話になった恩返しの心で、御不自由だろうから是もお持ちなさい、
彼もお持ちなさいと
種々な品物を送ってくれたので、大藏は有難く心得て居りました。其の
中十五日がまいると、朝五つ時の御登城で、其の日大藏は
麻上下でお廊下に控えていると、
軈てごそり/\と申す麻上下と足の音がいたす、平伏をする、というのでお目見えというから読んで字の如く目で見るのかと存じますと、足音を聞くばかり、
寧ろお足音拝聴と申す方が適当であるかと存じます。
併し
当時では是すら容易に出来ませんことで、先ず
滞りなくお目見えも済み、是から重役の宅を
廻勤いたすことで、
是等は
総て渡邊織江の指図でございますが、羽振の
宜い渡邊織江の引力でございますから、
自から人の用いも宜しゅうございますが、新参のことで、谷中のお
下屋敷詰を申付けられました。
始りはお屋敷
外を槍持六尺棒持を連れて見廻らんければなりません、槍持は
仲間部屋から出ます、棒持の方は足軽部屋から
出て
[#「出て」は底本では「出で」]、
甃石の処をとん/\とん/\
敲いて
歩るく、余り
宜い役ではありません、芝居で演じましても上等役者は致しません所の役で、それでも拾俵の
高持になりました。所が大藏如才ない人で、品格があって弁舌愛敬がありまして、
一寸いう
一言に人を感心させるのが得意でございますから、
家中一般の評判が宜しく、
甲「
流石は渡邊
氏の
見立だ、あれは拾俵では安い、百石がものはあるよ」
乙「いゝえ
何でげす、家老や用人よりは中々腕前が良いそうだが、全体
彼を家老にしたら宜かろう」
などと
種々なことを云います。大藏は
素より気が利いて居りますから、雨でも降るとか雪でも降ります時には、部屋へ来まして
大「
一盃飲むが
宜い、
今日は雪が降って寒いから
巡検は
私一人で廻ろう、なに槍持ばかりで宜しい、此の雪では誰も通るまいから咎める者も無かろう、私一人で宜しい、これで一盃飲んでくれ」
と
金びらを切りまして、誠に手当が届くから、寄ると触ると大藏の評判で、
甲「
野上イ」
乙「えゝ」
甲「今度新規お抱えになった松蔭様はえらいお方だね」
乙「
彼は別だね
一寸来ても寒かろう、一盃飲んだら宜かろうと、
仮令二百でも三百でも銭を投出して目鼻の明く処は、どうも苦労した人は違うな、一体御当家様よりは立派な大名の御家来で立派なお方が貧乏して困って苦労した人だから、物が届いている、感心な事だ、
夜は寒いから止せ/\と御自分ばかりで見廻りをして勤めに怠りはない、それから見ると
此方等は寝たがってばかりいて
扨て仕様がないの」
甲「本当にどうも……おゝ噂をすれば影とやらで、おいでなすった」
と
仲間共は大藏を見まして、
「えゝどうもお寒うございます」
大「あゝ大きに御苦労だが、又廻りの刻限が来たから往ってもらわなければならん、昼間お
客来で
又た
遺失物でもあるといかんから、
仁助私が一人で見廻ろう、雪がちらちらと来たようだから」
仁「成程降って来ましたね」
大「よほど降って来たな、
提灯も別に
要るまい、廻りさえすれば
宜いのだ、
私は新役だからこれが
務めで、貴様達は私に連れられる身の上だ、
殊に一人や二人狼藉者が出ても取って押えるだけの力はある、といって何も誇るわけではないが、此の雪の降るに、連れて
往かれるのも迷惑だろうから」
仁「面目次第もありませんが、
此方等は狼藉者でも出ると、
真先に逃出し、悪くすると石へ蹴つまずいて膝ア
毀すたちでありますよ、恐入りますな」
大「
御家中で万事に
心附のある方は渡邊殿と秋月殿である、寒かろうから寒さ
凌ぎに酒を用いたら宜かろうと云って、
御酒を下すったが、斯様な結構な酒はお下屋敷にはないから、此の通り
徳利を提げて来た、一升ばかり分けてやろう別に
下物はないから、
此銭で何ぞ
嗜な物を買って、
夜蕎麦売が来たら窓から買え」
仁「恐れ入りましたな、何ともお礼の申そうようはございません、
毎もお噂ばかり申しております実に余り十分過ぎまして……」
大「雪が
甚く降るので手前達も難儀だろう、
私一人で宜しい提灯と赤合羽を貸せ/\」
と竹の饅頭笠を
被り、提灯を提げ、一人で
窃かに廻りましたが
却ってどか/\
多勢で廻ると盗賊は逃げますが、窃かに廻ると盗賊も油断して居りますから、却って取押えることがあります。無提灯でのそ/\一人で歩くのは結句用心になります。或日お客来で御殿の方は混雑致しています時、大藏が
長局の塀の外を一人で窃かに廻ってまいりますと、沢山ではありませんが、ちら/\と雪が顔へ当り、なか/\寒うござります、雪も降止みそうで、風がフッと吹込む途端、提灯の火が消えましたから、
大「あゝ困ったもの」
と
後へ
退ると、長局の板塀の外に立って居る人があります。無地の
頭巾を
目深に被りまして、塀に身を寄せて、小長い刀を一本差し、
小刀は付けているかいないか
判然分りませんが、鞘の光りが見えます。
大「はてな」
と大藏は
後へ
退って様子を見ていました。すると三尺の
開口がギイーと
開き、内から出て来ました女はお小姓姿、
文金の
高髷、模様は
確と分りませんが、
華美な振袖で、
大和錦の帯を締め、はこせこと云うものを帯へ挟んで居ります。器量も
判然分りませんが、只色の
真白いだけは分ります。大藏は心の
中で、ヤア女が出たな、お客来の時分に芸人を呼ぶと、
毎も下屋敷のお女中方が附いて来るが、是は上屋敷の女中かしらん、はてな何うして出たろう、此の掟の厳しいのに、
今日のお客来で
御蔵から道具を
出入れするお掃除番が、
粗忽で此の締りを開けて置いたかしらん、何にしろ
怪しからん事だと、段々側へ来て見ますと、
塀外に今の男が立って居りますからハヽア、さてはお側近く勤むる侍と奥を勤めるお女中と密通をいたして
居るのではないかと存じましたから、
後へ
退って息を
屏して、
密と見て居りますと、
彼の女は
四辺をきょろ/\見廻しまして声を潜め、
女「
春部さま、春部さま」
春「シッ/\、声を出してはなりません」
と制しました。
十六
お小姓姿の美しい者が眼に涙を
浮めまして、
女「貴方まア
私から
幾許お
文を上げましても一度もお返辞のないのはあんまりだと存じます、貴方はもう
亀井戸の事をお忘れ遊ばしたか、私はそればっかり存じて居りますけれども、掟が厳しいのでお目通りを致すことも出来ませんでしたが、今晩は
宜い
間にお目に懸れました」
春「
他に知れてはならんが、今夜は雪が降って来たので、廻りの者も自然役目を怠って、余りちょん/\叩いて廻らんようだが、
先刻ちょいと合図をしたから、ひょっと出て来ようと存じてまいったが、此の事が伯父に知れた日にア実に困るから、
他に知れんようにして
私も会いたいと思うから、来年三月
宿下りの折に、又例の亀井戸の
巴屋で
緩くり話を致しましょう」
女「
宿下の時と仰しゃっても、本当に七夕様のようでございますね、一年に一度しきゃアお目通りが出来ないのかと思いますと、此の頃では貴方の夢ばかり見て居りますよ、
私は思いの儘なことを書いて置きましたから、これを
篤くり見て下されば分りましょう、私の身にかゝる事がございますからお持ち遊ばせ」
と渡す途端に
後から
突然に大声で、
大「火の廻り」
という。二人は
恟り致しまして、
後へ
退き、女は
慌てゝ開き戸を締めて奥へ
行く。
彼の春部という若侍も同じく慌てゝお馬場口の方へ
遁げて行く。大藏は
密と
後へ廻って、三尺の
開戸を見ますと、慌てゝ締めずにまいったから、戸がばた/\
煽るが、外から締りは附けられませんから石を
支って置きまして、
独言に、
大「困ったな、女が手紙を出したようだが、男の方で取ろうという処を、己が大きな声で
呶鳴ったから、驚いたものか文を落して行った、これは
宜い物が手に
入った」
と懐へ入れて詰所へ帰り、是から同役と交代になります。
大「此の手紙をいつぞは用に立てよう」
と待ちに待って居りました。
彼の春部というものは、お小姓頭を勤め十五石三人扶持を領し、秋月の
甥で、
梅三郎という者でございます。お目附の甥だけに羽振が宜しく、お
父さまは
平馬という。梅三郎は評判の
美男で、
婀娜な、ひんなりとした、芝居でいたせば
家橘か
上りの菊の助でも致しそうな
好男で、丁度其の月の二十八日、春部梅三郎は非番のことだから、
用達し
旁々というので、根津の下屋敷を出まして、上野の広小路で買物をいたし、今山下の
袴腰の方へ掛ろうとする
後から、松蔭大藏が声をかけ
大「もし/\春部さま/\」
梅「あい、これは大藏殿かえ」
大「へえ、
今日は
好いお天気になりました、お非番でげすか」
梅「あゝ幸い非番ゆえ浅草へでもまいろうかと思う」
大「へえ
私も
今日は非番で、ま別に
知己もありませんし、
未だ当地の様子も
不慣でございますから、道を覚えて置かなければなりません、
切めて小梅のお中屋敷へまいる道だけでも覚えようと存じて、浅草から小梅の方へまいろうと存じまして、実は
頼合せてまいりました」
梅「
然うかえ、
三作はお前の
相役だね」
大「へえ左様でござります、えゝ春部さま、貴方少々伺いたい儀がござりますが、決してお手間は取らせませんから、あの
無極庵(有名の
蕎麦店)まで、えへ貴方少々御馳走に差上げるというは
甚だ御無礼な儀でござりますが、
一寸伺いたい儀がござりますから、お急ぎでなければ無極の二階までおいでを願います」
梅「別に急ぎも致さんが、何か馳走をされては困ります、お前は
大分下役の者へ馳走をして振舞うという噂があるが余り新役中に
華美な事をせんが
宜いと伯父も心配しています」
大「へえ、毎度秋月さま渡邊さまのお引立に
因りまして、不肖の
私が身に余る重役を仰付けられ、誠に有難いことで決してお手間は取らせませんから」
梅「いや又にいたそう」
大「どうか甚だ
御無礼でございますが
何卒願います、少々お屋敷の御家風の事に
就て伺いたい儀がございます」
梅「左様か」
と
素より温厚の人でございますから、
強ってと云うので、是から無極の二階へ通りました。追々
誂物の肴が出てまいりましたから、
大「女中今少しお話し申す事があるから、誰も
此処へ参らんようにしてくれ、用があれば手を
拍って呼ぶから」
女中「はい、左様なれば此処を閉めましょうか」
大「いや、それは宜しい……えゝお急ぎの処をお引留め申して何とも恐入りました」
梅「あい何だえ、
私に聞きたい事というのは」
大「えゝ、外でもござりませんが、お屋敷の御家風に就て伺いたい儀がござる、それと申すも拙者は何事も御家風を心得ません
不慣の身の上にて、斯様な
役向を仰付けられ、身に余りて
辱けない事と存じながら、慾には限りのないもので、
何の様にも拙者身体の続くだけは御奉公致します了簡なれども、上役のお引立が無ければ
迚も
新参者などは出世が出来ません、渡邊殿は別段御贔屓を下さいますが、貴方の伯父御さまの秋月さまは未だ
染々お言葉を戴きました事もないゆえ、大藏
疾より心懸けて居りますが、手蔓はなし、
拠なく
今日迄打過ぎましたが、春部様からお声がゝりを願い、秋月様へお目通りを願いまして、お
上へ宜しくお
執成を願いますれば拙者も慾ばかりではござらん、先祖へ対して此の上ない孝道かと存じますで、どうぞ伯父上へ貴方様から宜しく御推挙を願いたい」
梅「いや、それはお前無理だ、よく考えて見なさいお前は何か腕前が
善いとか
文道にも達して
居るとか、又品格といい応対といい、立派な侍の
胤だけあって
流石だと家中の評も宜しいが、何ぞ功がなければ出世は出来ん、其の功と云うは
他に
勝れた事があるとか、
或は屋敷に狼藉でも
忍入った時に取押えたとか何かなければ
迚もいかんが、如何に伯父甥の間柄でも、伯父に頼んで無理にあゝしてくれ、斯うしてくれと云っては
依怙の沙汰になって、それでは伯父も済まん訳だから、
然ういう事で
私を
此処へ呼び寄せて、お前が馳走をして
引立を願うと云って、酒などを飲ましてくれちゃ誠に困る、斯様な事が伯父に知れると叱られますから御免……」
と云い棄てゝ立上る袖を押えて、
大「暫くお待ちを……此の身の出世ばかりでなく、
斯く申す大藏も
聊かお屋敷へ対して功がござる、それゆえ
強いて願いますわけで」
梅「功が有れば宜しい、何ういう功だ」
大「
愚昧の者にて何事も分りませんが、お屋敷の御家風は何ういう事でござろうか、罪の
軽重を心得ませんが、先ず御家中内に罪あるものがござります時に、重き罪を軽く計らう方が宜しいか、罪は罪だから其の悪事だけの罪に罰するが宜しいか、
私心得のために承知をして置きとうござる」
梅「それは罪を犯したる者の次第にも
因りましょうけれども、
上たる者は
下の者の罪は減じ得られるだけ軽くして、命を助けんければならん」
大「それは
然うあるべき事で、
若し貴方の御家来が貴方に対して不忠な事を致しまして、手討に致すべき奴を手討にせんければならん時、手討に致した方が宜しいか、但しお助けなすって門前払いにいたし、
永のお
暇を出された方がお宜しいか」
梅「
其様な事は云わんでも知れて居る、斬る程の罪を犯し、斬るべきところを助け、永の暇と云って
聊か手当をいたして暇を
遣わす、是が
主従の情というもので、云うに云われん処が有るのじゃ」
十七
大藏は感心した
風をして聞き
了り、
大「成程甚だ恐入りますが、殿様も誠に
御仁慈厚く、また御重役方も皆
真に
智仁のお方々だという事を承わって居りますが、拙者はな、お屋敷
内に罪あるもので、既にお手討にもなるべき者を助けました事が
一廉ございます、此の廉を以てお
執成を願います」
梅「むゝ、何ういう
理由で、人は誰だね」
大「えゝ
疾より此の密書が拙者の手に入って居りますが、
余人に見せては相成らんと、貴方の御心中を
看破って申し上げます、どうか罪に陥らんようにお取計いを願いとうござる」
梅「何だ、密書と云えば容易ならん事だ」
と手に取って見て驚きましたも道理で、いつぞや若江から自分へ贈った艶書であるから、かっと赤面致しましたが、色の白い人が
赧くなったので、そりアどうも
牡丹へ電灯を
映けたように、どうも美しい
好い男で、暫く下を向いて何も云えません。大藏少し膝を進ませまして、
大「是は
私の功かと存じます、此の功によってお引立を願いとう存じます、只出世を致したいばかりではないが、拙者
前に津山に
於て親父は二百四十石
領りました、松蔭大之進の家に生れた侍の
胤、唯今ではお目見得
已上と申しても、お通り掛けお目見えで、拙者
方では尊顔を見上ぐる事も出来ませんから、折々お側へ
罷出でお目通りをし尊顔を見覚えるように相成りたいで」
梅「いや伯父に
宜く
然う云いましょう、秋月に宜く云えば心配有りません、
屹度伯父に話をします、貴公の心掛けを誠に感心したから」
大「それは千万
辱けない、其のお言葉は決して
反故には相成りますまい」
梅「武士に二言はありません」
大「へえ辱けない」
春部梅三郎は真っ赤に成って、
彼の文を懐に入れ其の儘表へ駈出すを送り出し、広小路の方へ
行く
後姿を見送って、にやりと苦笑いをしたは、松蔭大藏という奴、余程横着者でございます。
扨其の歳の暮に春部梅三郎が何ういう
執成しを致しましたか、伯父秋月へ話し込むと、秋月が渡邊織江の処へまいりまして相談致すと、
素より推挙致したのは渡邊でございますが、自分は飛鳥山で大藏に恩になって居りますから、
片贔屓になるようで
却って当人のためにならんからと云って、
扣え目にして居りますと、秋月の引立で
御前体へ
執成しを致しましたから、急に其の暮松蔭大藏は五十石取になり、
御近習お
小納戸兼勤を仰付けられました。
御部屋住の前次様のお附き元締兼勤を仰付けられました。此の前次様は
前申し述べました通り、武張ったお方で武芸に達した者を手許に置きたいというので、御当主へお願い
立でお貰い受けになりましたので、お
上邸と違ってお
長家も広いのを頂戴致す事になり、重役の気受けも宜しく、男が
好って程が
善いから老女や中老までも
誉めそやし、
○「本当にえらいお人で、手も
能く書く、力も強く、
他は
否に
諂うなどと申すが、
然うでない、真実愛敬のある人で、
私が此の間会った時にこれ/\云って、彼は誠の侍でどうも忠義
一途の人であります」
と勤務が堅いから
忽ち評判が高くなりました。
乃で有助という、根岸にいた時分に使った者を下男に致しまして、新規に
林藏という男を置きました。これは屋敷奉公に慣れた者を若党に致しましたので、また男ばかりでは不自由だから、何ぞ
手許使や
勝手許を働く者がなければなりませんから、方々へ周旋を頼んで置きますと、渡邊織江の家来
船上忠助という者の妹お
菊というて、もと
駒込片町に居り、当時
本郷春木町にいる
木具屋岩吉の娘がありました。今年十八で器量はよし柔和ではあり、恩人織江の
口入でありますから、早速其の者を召抱えて使いました。大藏は物事が
行届き、優しくって言葉の内に愛敬があって、家来の
麁相などは知っても
咎めませんから、家来になった者は誠に幸いで、屋敷中の評判が段々高くなって来ました。折しも殿様が御病気で、次第に重くなりました。只今で申しますと心臓病とでも申しますか、どうも宜しくない事がございます。只今ならば空気の
好い処とか、樹木の沢山あります処を御覧なすったら宜かろうというので、大磯とか箱根とかへお
出でが出来ますが、其の頃では
然うはまいりません。
然るに奥様は
松平和泉守さまからお
輿入れになりましたが、四五年
前にお
逝去になり、其の
前から居りましたのはお
秋という
側室で、これは駒込
白山に住む
山路宗庵と申す町医の娘を奥方から勧めて進ぜられたので、其の頃諸侯の
側室は奥様から進ぜらるゝ事でございますが、今は
然ういう事はないことで、旦那様が妾を抱えようと仰しゃると、少しつんと遊ばしまして、
私は箱根へ湯治に
往きますとか何とか仰しゃいますが其の頃は固いもので、奥様の方から無理に勧めて置いたお秋様が
挙けました若様が、お
三歳という時に奥様がお
逝去れになりましたから、お秋様はお
上通りと成り、お秋の方という。
側室が出世をいたしますと、お上通りと成り、
方名が附きます。よく殿方が腹は
借物だ良い
胤を
下す、只胤を取るためだと
軍鶏じゃア有るまいし、胤を取るという事はありません
造化機論を拝見しても解って居りますが、お秋の方は羽振が宜しいから、御家来の
内二派に分れ、若様の方を
贔屓いたすものと、御舎弟前次様を贔屓いたす者とが出来て、お屋敷に騒動の起ることは本にもあれば義太夫にも作って有ります。前次様は通称を紋之丞さまと仰せられ、武張った方で、少しも色気などは無く、
疳癖が起るとつか/\/\と物を仰しゃいます。お秋の方も時としては
甚く何か云われる事があり、御家来衆も
苛く云われるところから、
甲「紋之丞様を御相続としては御勇気に過ぎて実に困る、あの疳癖では
迚も治らん、勇ばかりで治まるわけのものではない、殿様は御病身なれば、万一お
逝去になったらお秋殿のお胤の若様を御相続とすればお屋敷は安泰な事である」
とこそ/\若様附の御家来は相談をいたすとは悪いことでございますが、紋之丞様を無い者に仕ようという、ない者というのは殺してしまうと云うので、昔はよく毒薬を盛るという事がありました。随分お大名にありました話で、只今なればモルヒネなどという劇剤もありますが、其の時分には何か
鴆毒とか、
或は舶来の
石ぐらいのところが、毒の
劇しいところです。
彼の松蔭大藏は智慧が有って、一家中の羽振が宜くって、物の決断は
良し、彼を抱込めば
宜いと寺島兵庫と申す重役が、松蔭大藏を抱込むと、松蔭は得たりと請合って、
大「十分事を
仕遂せました時には、どうか拙者にこれ/\の
望がございますが、お
叶え下さいますか」
寺「委細承知致した、
然らば血判を」
大「宜しい」
と是から血を出し、
我姓名の下へ
捺すとは
痛い事をしたもので、ちょいと切って、えゝと
捺るので、
忌な事であります。只今は血を見る事をお嫌いなさるが、其の頃は
動ともすれば血判だの、
迚も
立行が出来んから切腹致すの、武士道が相立たん自殺致すなどと申したもので、寺島松蔭
等の反逆も
悉皆下組の相談が出来て、明和の四年に相成りました。其の年の秋までに
謀策を
仕遂せるのに一番むずかしいものは、
浮舟という老女で年は五十四で、
男優りの
尋常ならんものが
属いて居ります。
此者を手に入れんければなりません。此者と物堅い渡邊織江の両人を何うかして手に入れんけりゃアならんが、これ/\と渡邊に打明けていう訳にはいかずと、云えば
直に殺されるか、刺違えて
死兼ぬ忠義
無類の
極頑固な
老爺でございますから、これを
亡いものにせんけりアなりません。
十八
老女も中々の才物ではございますが、女だけに遂に大藏の弁舌に
説附けられました。此の説附けました事は
猥褻に
渉りますから、唯説附けたと致して
置ましょう。
扨て此の一味の者がいよ/\毒殺という事に決しまして、毒薬調合の工夫は有るまいかと考えて居りますと御案内の通り明和の三年は関東洪水でございまして、四年には山陽道に大水が出て、二年洪水が続き、
何処となく湿気ますので、季候が不順のところから、
流行感冐インフルエンザと申すような悪い病が
流行って、人が大層死にましたところが、お
扣の前次様も矢張流行感冐に
罹られました処、段々重くなるので、お医者方が
種々心配して居りますが、勇気のお方ゆえ我慢をなすって押しておいでので
[#「おいでなので」の誤記か]いけません、風邪を
押損なったら仕方がない、九段坂を昇ろうとする荷車見たように
後へも
前へも
往けません。とうとう藤本の寄席へ材木を押込むような事が出来ます。こゝで大藏がお秋の方の実父山路宗庵は町医でこそあれ、
古方家の上手でありますから、手に手を尽して山路をお抱えになすったら
如何と申す評議になりますと、秋月は忠義な人でございますから、それは
怪しからん事、他から医を入れる事は容易ならん事にて、お薬を一々毒味をして差上げる故に、医は従来のお医者か
然も無くば
匙でも願うが宜いと申して承知致しませんから、
如何致したら宜かろうと思っていました。すると九月十日に、駒込白山前に
小金屋源兵衞という飴屋があります、若様のお
少さい時分お咳が出ますと水飴を上げ、又はお風邪でこん/\お咳が出ると水飴を上ります。こゝで
神原五郎治と
神原四郎治兄弟の者と大藏と三人打寄り、
額を集め
鼎足で
談を致しました時に、人を遠ざけ、立聞きを致さんように襖障子を
開広げて、向うから来る人の見えるようにして、飴屋の亭主を呼出しました。
源「えゝ
今日お召によって
取敢ず
罷り出ました、御殿へ出ます心得でありましたが、御当家さまへ出ました」
大「いや/\御殿では
却って話が出来ん、其の方
例の係り役人に
遇っても、必らず当家へ来たことを云わんように」
源「へえ
畏まりました、此の
度は悪い
疫が
流行り、殿様には続いてお加減がお悪いとか申すことを承わりましたが、
如何で」
大「うん、どうもお咳が出てならん」
源「へえ、へい/\、それははや何とも御心配な儀で……今日召しましたのは何ういう事ですか、何うか飴の御用向でも仰付けられますのでございますか
[#「ございますか」は底本では「こざいますか」]」
大「神原
氏貴公から
発言されたら宜しゅうござろう」
神「いや拙者は斯ういう事を云い出すは
甚だいかん、どうか貴公から願いたい、斯う云う事は松蔭氏に限るね」
大「拙者は誠に困る、えゝ源兵衞、其の方は御当家へ長らく
出入をするが、御当家さまを大切に心得ますかえ」
源「へえ決して粗略には心得ません、大切に心得て居ります」
大「ムヽウ、御当家のためを深く其の方が思うなら、江戸表の御家老さま、又此の神原五郎治さま、渡邊さま、此の四郎治さま、拙者は新役の事ではあるが此の事に
就てはお家のためじゃからと云うので、
種々御相談があった、始めは拙者にも分りません所があったが、だん/\重役衆の意見を承わって成程と
合点がゆき、是はお家のためという事を承知いたしたのだ」
源「へえ、どうも
然ういう事は町人などは何も
弁えのありません事でございまして、へえ何ういう事が御当家さまのお為になりますので」
大「他でもないが
上が長らく御不例でな、お医者も
種々手を尽されたが、遠からずと云う程の御重症である」
源「へえ何でげすか、余程お悪く
在っしゃいますんで」
大「大きな声をしては云えんが、来月
中旬までは保つまいと医者が申すのじゃ」
源「へえ、どうもそれはおいとしい事で、お目通りは致しませんが、誠に手前も長らく親の代からお出入りを致しまして居りますから、誠に残念な事で」
大「うむ、
就ては
上がお
逝去になれば、貴様も知っての通り奥方もお逝去で、
御順にまいれば若様をというのだが、まだ御幼年、取ってお
四歳である、余りお
稚さ過ぎる、
併しお
胤だから御家督御相続も仔細はないが、此の事に就て其の方に頼む事があるのだ、お家のため
且容易ならん事であるから、必ず他言をせん、
何の様な事でもお家のためには
御意を
背きますまい、という決心を承知せん
中は話も出来ん、此の事に就いては御家老を始め、こゝにござる神原氏我々に至るまで皆血判がしてある、其の方も何ういう事があっても他言はせん、御意に背くまいという
確とした証拠に、是へ血判をいたせ」
源「へえ血判と申しますは何ういたしますので」
大「血で判をするから血判だ」
源「えゝ、それは御免を
蒙ります、中々町人に腹などが切れるものではございません」
大「いや、腹を切ってくれろというのではない」
源「でも
私は見た事がございます、
早野勘平が血判をいたす時、臓腑を引出しましたが、あれは中々町人には」
大「いや/\腹を切る血判ではない、爪の間をちょいと切って、血が
染んだのを手前の
姓名の下へ
捺すだけで、痛くも
痒くもない」
源「へえ何うかしてさゝくれや何かを
剥くと血が染みますことが……ちょいと捺せば宜しいので、
私は驚きました、勘平の血判かと思いまして、
然ういう事がお家のおために成れば
何の様な事でもいたします」
大「手前は小金屋と申すが、苗字は何と申す」
源「へえ、矢張小金と申します」
と云うを神原四郎治が筆を執りて、料紙へ小金源兵衞と記し、
大「さア、これへ血判をするのだ、血判をした以上は御家老さま始め此の
方等と其の方とは親類の間柄じゃのう」
源「へえ恐入ります、誠に有難いことで」
大「のう、何事も打解けた話でなければならん、其の代り事成就なせば
向後御出入頭に取立てお扶持も下さる、
就てはあゝいう処へ置きたくないから、広小路あたりへ
五間々口ぐらいの立派な店を出し、奉公人を
多人数使って、立派な飴屋になるよう、御家老職に願って、
金子は多分に
下りよう、千両までは受合って宜しい」
源「へえ……有難いことで、夢のようでございますな、お家のためと申しても、
私風情が
何のお役にも立ちませんが、それでは恐入ります、いえ
何様な事でも致します、へえ手や指ぐらいは
幾許切っても薬さえ附ければ
直に
癒りますから宜しゅうございます、なんの指ぐらいを切りますのは」
とちょいと其の頃千両からの
金子を貰って、立派な飴屋になるというので嬉しいから、指の先を切って血判をいたし、
源「何ういう御用で」
大「さ、こゝに薬がある」
源「へえ/\/\」
大「貴様は、水飴を煮るのは余程手間のかゝったものかのう」
源「いえ、それは商売ですから
直に出来ますことで」
大「どうか職人の手に掛けず、貴様一人で
上の召上るものだから
練れようか」
源「いえ何ういたしまして、年を
老った職人などは
攪廻しながら
水涕を
垂すこともありますから、決して左様なことは致させません、
私が
如何ようにも工夫をいたします」
大「それでは此の薬を練込むことは出来るか」
源「へえ是は
何のお薬で」
大「最早血判致したから、何も遠慮をいたすには及ばんが、一大事で、お控えの前次様は御疳癖が強く、
動もすれば御家来をお手討になさるような事が
度々ある、斯様な方がお
世取に成れば、お家の
大害を
惹出すであろう、
然る処幸い前次様は御病気、
殊にお咳が出るから、水飴の中へ此の毒薬を入れて毒殺をするので」
源「え……それは御免を
蒙ります」
大「
何だ、御免を蒙るとは……」
源「何だって、お忍びで王子へ入らっしゃる時にお立寄がありまして、お十三の頃からお目通りを致しました前次様を、何かは存じませんが、
私の手からお毒を差上げますことは
迚も出来ません」
というと、神原四郎治がキリヽと
眦を
吊し上げて膝を進めました。
十九
神原「これ源兵衞、手前は何のために血判をいたした、容易ならんことだぞ、お家のためで、紋之丞
[#「紋之丞」は底本では「紋之亟」]様が御家督に成れば必らずお家の害になることを存じているから、一家中の者が心配して、此の通り役柄をいたす侍が頼むのに、今となって
否だなどと申しても、一大事を聞かせた上は手討にいたすから覚悟いたせ」
源「ど、
何卒御免を……お手討だけは御勘弁を……」
大「勘弁
罷りならん、神原殿がお頼みによって、其の方に
申聞けた、だが今になって
違背されては此の儘に
差置けんから、只今手討に致す」
源「へえ大変な事で、
私は斯様な事とは存じませんでしたが、大変な事になりましたな、一体水飴は私の処では致しませんへえ不得手なんで」
大「
其様な事を申してもいかん」
源「へえ宜しゅうございます」
と斬られるくらいならと思って、不承/\に承知致しました。
大「
一時遁れに
請合って、
若し此の事を御舎弟附の
方々へ内通でもいたすと、貴様の
宅へ踏込んで必ず
打斬るぞ」
源「へえ/\御念の
入った事で、是がお薬でございますか、へえ宜しゅうございます」
と
宅へ帰って
彼の毒薬を水飴の中へ入れて
煉って見たが、思うようにいけません、どうしても粉が浮きます、綺麗な処へ
石の粉が浮いて居りますので、
源「幾ら
煉てもいけません」
と此の事を松蔭大藏に申しますから、大藏もどうしたら宜かろうと云うので、大藏の
家へ山路という医者を呼び飴屋と三人打寄って相談をいたしますと、山路の申すには、是は
斑猫という毒を煮込んだら知れない、
併し是は
私のような町医の手には
入りません、なにより
効験の強いのは
和蘭陀でカンタリスという
脊中に縞のある虫で、是は豆の葉に得て居るが、田舎でエゾ虫と申し、斑猫のことで、効験が強いのは煎じ詰めるのがよかろうと申しましたので、なる程それが宜かろうと相談が一決いたし、飴屋の源兵衞と医者の山路を玄関まで送り出そうとする時
衝立の蔭に立っていましたのは召使の菊という女中で、これは松蔭が
平生目を掛けて、
行々は貴様の力になって
遣わし、親父も年を
老っているから、
何時までも箱屋(
芸妓の箱屋じゃアありません、木具屋と申して
指物を致します)をさせて置きたくない、貴様にはこれ/\手当をして
遣ろうという真実に
絆されて、表向ではないが、
内々大藏に身を任して居ります。是は本当に惚れた訳でもなし、金ずくでもなし、変な義理になったので、大藏も
好男子でありますが、此の菊は至って堅い性質ゆえ、常々神原や山路が来ては何か大藏と話をしては帰るのを、案じられたものだと苦にしていたのが顔に出ます。今大藏が衝立の蔭に菊のいたのを認めて
恟り致したが、さあらぬ
体にて、
大「源兵衞、少し待ちな」
と連戻って、庭口から飴屋を送り出そうとすると、林藏という若党が同じく立って聞いていましたので、再び驚いたが、仕方がないと思い、飴屋を帰してしまったが、大藏は腹の
中で菊は船上忠助の
妹だから、此の事を渡邊に内通をされてはならん、船上は古く渡邊に仕えた家来で、
彼奴の妹だから、こりゃア油断がならん、なれども林藏は
愚者だから、林藏から先へ当って調べてみよう。と是から支度を仕替えて、羽織大小で
彼の林藏という若党を連れ、買物に出ると云って屋敷を
立出で、根津の或る料理茶屋へ
昇りましたが、其の頃は
主家来のけじめが正しく、中々若党が旦那さまの側などへはまいられませんのを、大藏は
己の側へ来いと呼び附けました。
大「林藏、大きに御苦労/\」
林「へえ、何か御用で」
大「いや
独酌で飲んでもうまくないから、貴様と打解けて話をしようと思って」
林「恐入りましてございます、何ともはや御同席では……」
大「いや、席を
隔てゝは酒が旨くない」
林「こゝでは
却って気が詰りますから、
階下で戴きとう存じます」
大「いや、酒を飲んだり遊ぶ時には
主も家来も共々にせんければいかん、己の苦労する時には手前にも共々に苦労して貰う、これを主従苦楽を
倶にするというのだ」
林「へえ、恐入ります、手前などは誠に仕合せで、御当家さまへ
上りまして、旦那さまは誠に何から何までお慈悲深く、
何様な不調法が有りましても、お小言も
仰ゃらず、斯ういう旦那さまは又とは有りません、手前が
仕合で、此の間も吉村さまの
仁介もお
羨ましがっていましたが、
私のような
不行届の者を
目え懸けて下さり何ともはや恐入りやす」
大「いや、
然うでない、貴様ア感心な事には正直律義なり、誠に
主思いだのう」
林「いえ、旦那様が
目え懸けて下せえますから、お互に思えば思わろゝで、そりゃア
尊公当然の
事て」
大「いや/\然うでない、一体貴様の気象を感服している、これ女中、
下物を
此処へ、又
後で酌をして貰うが、早く家来共の膳を持って来んければならん」
と林藏の前へも同じような御馳走が出ました。
大「のう林藏、是迄しみ/″\話も出来んであったが、
今日は差向いで
緩くり飲もう、まア
一盃酌いでやろう」
林「へえ恐入りました、誠ね有難い事で、旦那さまのお
酌で
恐入ります」
大「今日は遠慮せずにやれよ」
林「へえ
恐入りました、ヒエ/\
溢れます/\……有難い事で、お左様なれば頂戴いたします、
折角の事だアから誠にはや有難い事で」
大「今日は
宜いよ、打解けて飲んでくれ、何かの事に遠慮はあっちゃアいかん、心の儘に飲めよ」
林「ヒエ/\有難い事で」
大「さ己が
一盃合をする」
とグーと
一盃飲み、又向うへ差し、林藏を酔わせないと話が出来ません。
尤も
愚だから
欺すには造作もない、お菊は船上忠助の妹ゆえ、渡邊織江へ内通を致しはせんかと、松蔭大藏も実に心配な事でございますから、林藏から先へ
欺く趣向でござります。林藏は段々
宜い心持に酔って来ましたので仮名違いの
言語で喋ります。
大「遠慮なしに沢山
飲れ」
林「ヒエ有難い事で、大層
酩酊致しやした」
大「いや/\まだ
酩酊という程飲みやアせん、貴様は国にも余り
親戚頼りのないという事を聞いたが、全く左様かえ」
林「ヒエ一人
従弟がありやすが、是は死んでしまエたか、生きているか
分きやたゝんので、今迄何とも音ずれのない処を見ると、死んでしもうたかと思いやす、
実にはや
樹から落ちた何とか同様で、心細い身の上でがす」
大「左様か、何うだ別に国に帰りたくもないかえ、御府内へ
住って生涯果てたいという志なら、また其の様に目を懸けてやるがのう」
林「ヒエ
実に
国というたところで、
今になって帰りましたところが、
親戚もなし、
別に何う仕ようという
目途もないものですから願わくば此の
繁盛る御府内でまア生涯
朽果れば、
甘え物を
喰べ、
面白え物を見て暮しますだけ
人間の徳だと思えやす、
実に旦那さまア
御当地で
朽果てたい心は
充分あります」
大「それは宜しい、それじゃア何うだえ己は
親戚頼り兄弟も何も無い、誠に心細い身の上だが、まア幸い重役の引立を以て、不相応な大禄を取るようになって、誠に
辱けないが、人は出世をして歓楽の
極まる時は憂いの
端緒で、何か間違いのあった時には、それ/″\力になる者がなければならない、己が増長をして何か心得違いのあった時には異見を云ってくれる者が無ければならん、
乃で中々家来という者は主従の隔てがあって、どうも主人の
意に背いて意見をする勇気のないものだが、貴様は何でもずか/\云ってくれる所の気象を
看抜いているから、己は貴様と親類になりたいと思うが、何うだ」
林「ヒエ/\
恐入ります、勿体至極も……」
大「いや、
然うでない、只
主家来で居ちゃアいかん、己は百石頂戴致す身の上だから、己が
生家になって貴様を一人前の侍に取立ってやろう、
仮令当家の内でなくとも、
他の藩中でも
或は御家人
旗下のような処へでも養子に
遣って、
一廉の武士に成れば、貴様も己に向って
前々御高恩を得たから申上ぐるが、それはお宜しくない、斯うなすったら宜かろうと云えるような武士に取立って、多分の持参は附けられんが、相当の支度をしてやるが、何うだ侍になる気はないか」
林「いや、是はどうも勿体ない事でござえます、是はどうもはや、
私の様な者は
迚もはや
武士には成れません」
大「そりゃア何ういう訳か」
林「
第一剣術を知りませんから
武士にはなれましねえ」
大「
剣術を知らんでも、文字を心得んでも立派な身分に成れば、それだけの家来を使って、それだけの者に手紙を書かせなどしたら、何も仔細はなかろう」
林「でござえますが、
武士は窮屈ではありませんか、
実は
私は町人になって商いをして見たいので」
大「町人になりたい、それは造作もない、二三百両もかければ立派に店が出せるだろう」
林「なに、
其様には
要りませんよ、三拾両
一資本で、三拾両も有れば立派に店が出せますからな」
大「それは造作ない事じゃ、手前が一軒の主人になって、己が時々往って、林藏
一盃飲ませろよ、雨が降って来たから傘ア貸せよと我儘を云いたい訳ではないが、年来使った家来が出世をして、其の者から僅かな物でも馳走になるは嬉しいものだ、
甘く
喰べられるものだ」
林「誠に有難い事で」
大「ま、もう一盃飲め/\」
林「ヒエ大層嬉しいお話で、
大分酔いました、へえ頂戴いたします、これははや有難いことで……」
大「そこでな、どうも手前と己は主家来の間柄だから別に遠慮はないが、心懸けの悪い女房でも持たれて、
忌な顔でもされると己も
往きにくゝなる、
然うすると
遂には
主従の隔てが出来、
不和になるから、女房の良いのを貴様に持たせたいのう」
林「へえ、女房の良いのは少ねえものでござえます、あの通り立派なお方様でござえますが、森山様でも秋月様でも、お品格といい御器量といい、悪い事はねえが、
私ら
目下の者がめえりますとつんとして馬鹿にする訳もありやしねえが、届かねえ、お茶も下さらんで」
大「それだから云うのだ、此の間から打明けて云おうと思っていたが、
家にいる菊な」
林「ヒエ」
大「
彼は手前も知っているだろうが、
内々己が手を附けて、妾同様にして置く者だ」
林「えへゝゝゝ、それは旦那さまア、
私も知らん振でいやすけれども、
実は心得てます」
大「そうだろう、
彼はそれ渡邊の
家に勤めている船上の
妹で、己とは年も違っているから、とても己の
御新造にする訳にはいかん、
不器量でも同役の娘を貰わなければならん、
就ては
彼の菊を手前の女房に
遣ろうと思うが、気に入りませんかえ、随分器量も
好く、
心立も至極宜しく、髪も結い、
裁縫も
能くするよ」
林「ヒエ……冗談ばっかり仰しゃいますな、旦那さまアおからかいなすっちゃア困ります、お
菊さんなら
好いの
好くないのって、から理窟は有りましねえ、
彼様な優しげな
こっぽりとした方は少ねえもんでごぜえますな」
大「あはゝゝ、何だえ、
こっぽりと云うのは」
林「頬の処や手や何かの処が
こっぽりとして、尻なぞは
ちま/\としてなあ」
大「ちま/\というのは小さいのか」
林「ヒエ誠にいらいお方さまでごぜえますよ」
大「手前が嫌いなれば仕方がない、気に入ったら手前の女房に遣りたいのう」
林「ひへゝゝゝ御冗談ばかし」
大「冗談ではない、菊が手前を
誉めているよ」
林「
尤も旦那様のお声がゝりで、林藏に
世帯を持たせるが、女房がなくって不自由だから往ってやれと仰しゃって下さればなア……」
大「己が云やア
否というのに極っている何故ならば
衾を
倶にする妾だから、義理にも
彼様な人は
厭でございますと云わなければならん、是は当然だ、手前の処へ幾ら
往きたいと思っても
然ういうに極って
居るわ」
二十
林藏はにこ/\いたしまして、
林「成程むゝう」
大「だから、手前さえ
宜いと
極れば、
直接に掛合って見ろい、菊に」
林「是は云えません、
間が悪うてとてもはや冗談は云えませんな
然うして中々
ちま/\としてえて、
堅え気性でござえますから、冗談は云えましねえよ、旦那様がお
留主の時などは、とっともう
苦え顔をして居なせえまして、うっかり冗談も云えませんよ」
大「云えない事があるものか、じゃア云える工夫をしてやろう、こゝで余った肴を折へ詰めて先へ帰れ、己は神原の小屋に用があるから、手前先へ帰って、旦那さまは神原さまのお小屋で
御酒が始まって、
私だけ先へ帰りました、これはお
土産でございますと云って、折を出して、菊と二人で
一盃飲めと旦那さまが仰しゃったから、一盃頂戴と斯う云え」
林「成程どうも…
併しお
菊さんは
私二人で
差向いでは酒を飲まねえと思いやすよ」
大「それは飲むまい、
私は酒を飲まんからお部屋へ往って飲めというだろうから、もし
然う云ったら、旦那様が
此処で飲めと仰しゃったのを戴きませんでは、折角のお志を無にするようなものだから、
私は頂戴いたしますと云って、茶の間の菊がいる側の戸棚の下の方を開けると、酒の道具が入っているから、出して小さな
徳利へ酒を入れて燗を附け、戸棚に
種々な
食物がある、

又は
雲丹のようなものもあるから、
悉皆出してずん/\と飲んで、菊が止めても
肯くな、然うして無理に菊に
合をしてくれろと云えば、
仮令否でも一盃ぐらいは合をするだろう、飲んだら手前酔った
紛れに、
私は身を固める事がある、
私は近日の内
商人に成るが、
独身では不自由だから、女房になってくれるかと手か何か押えて見ろ」
林「ひえへゝゝ是はどうも
面白え、やりたいようだが、何分間が悪うて側へ
寄附かれません」
大「寄附けようが寄附けまいが、菊が何と云うとも構ったことはない、己は四つの廻りを合図に、庭口から
窃と忍び込んで、裏手に待っているから、四つの廻りの拍子木を聞いたら、構わず菊の
首玉へかじり附け、己が
突然にがらりと障子を開けて、
不義者見附けた、
不義をいたした者は手討に致さねばならぬのが御家法だ、さ
両人とも手討にいたす」
林「いや、それは御免を……」
大「いやさ本当に斬るのじゃアない、斬るべき奴だが、今迄真実に
事えてくれたから、
内聞にして
遣わし、表向にすれば面倒だによって、
永の
暇を遣わす、また菊もそれ程までに思っているなら、町人になれ、侍になることはならんと三十両の他に二十両菊に手当をして、頭の
飾身の廻り残らず
遣る」
林「成程、有難い、どうも是ははや……
併しそれでもいけませんよ、お
菊さんが貴方飛んでもない事を仰しゃる、何うしても林藏と
私と不義をした覚えはありません、神かけてありません、夫婦に成れと仰しゃっても私は
否でござえます、
斯んな
忌な人の女房にはなりませんと
云切ったら何う致します」
大「
然うは云わせん、深夜に及んで
男女差向いで
居れば、不義でないと云わせん
強って強情を張れば表向にいたすが何うだ、それとも内聞に致せば命は助けて遣るといえば、命が欲しいから女房になりますと云うだろう」
林「成程、これは
恐入りましたな、成程承知しなければ斬ってしまうか、
命が惜しいから、そんなればか、どうも是は面白い」
大「これ/\
浮れて手を叩くな、下から
下婢が来る」
林「ヒエ有難い事で、成程やります」
大「
宜いか、其の積りでいろ」
林「ヒエ、そろ/\帰りましょうか」
大「そんなに
急なくっても
宜い」
林「ヒエ有難い事で」
と是からそこ/\に致して、余った
下物を折に入れて、松蔭大藏は神原の小屋へ参り、
此方は
宜い心持に折を
吊さげて自分の部屋へ帰ってまいりまして、にこ/\しながら、
林「えゝい、
人間は
何処で何う
運が
来るか分らねえもんだな、畜生
彼方へ
往け、己が折を下げてるもんだから跡を
尾いて
来やアがる、
もこ彼方へ
往け、
もこ/\あはゝゝゝ
尻尾を振って来やアがる」
下男「いや
林藏何処へ
往く、なに旦那と
一緒に、
然うかえ、
一盃飲ったなア」
林「然うよ」
下男「それははや、左様なら」
林「あはゝゝゝ何だか
田舎漢のいう事は
些とも解らねえものだなア、えゝお菊さん只今帰りました」
菊「おや、お帰りかえ、大層お遅いからお案じ申したが、旦那さまは」
林「旦那さまは神原様のお小屋で
御酒が始まって、手前は先へ帰れと云いましたから、
私だけ帰ってめえりました」
菊「大きに御苦労よ」
林「えゝ、此のお折の中のお肴は旦那様が手前に遣る、
菊も不断骨を折ってるから、
菊と二人で茶の間で
一盃飲めよと云うて、此のお肴を
下せえました、どうか
此処で旦那さまが
毎も召上る御酒を
戴きてえもんで」
菊「神原さまのお小屋で御酒が始まったら、またお帰りは遅かろうねえ」
林「えゝ、どうもそれは
子刻になりますか
丑刻になりますか、様子が分らねえと斯ういう訳で、へえ」
菊「其の折のお肴はお前に上げるから、部屋へ
持て往って、お酒も
適い程出して
緩くりおたべ」
林「ヒエ……それが
然うでねえ訳なので」
菊「何をえ」
林「旦那さまの云うにア、手前は茶の間で酒を飲んだ事はあるめえ、料理茶屋で飲ませるのは
当然の話だが、茶の間で飲ませろのは別段の馳走じゃ、へえ有難い事でござえますと、斯う礼を云ったような
理由で」
菊「
如何に旦那さまが然う仰しゃっても、お前がそれを
真に受けて、お茶の間でお酒を戴いては悪いよ、私は悪いことは云わないからお部屋でお
飲べよ」
林「然うでござえますか、お
前さん
此処で飲まねえと
折角の旦那のお心を無にするようなものだ、此の戸棚に何か有りやしょう、お膳や
徳利も……」
菊「お前、そんな物を出してはいけないよ」
林「こゝに

と
雲丹があるだ」
菊「何だよ、
其様なものを出してはいけないよ、あらまア困るよ、お鉄瓶へお燗徳利を入れてはいけないよ」
林「
心配しねえでも
宜え、大丈夫だよ、少し
理由があるだ、お
菊さん、ま
一盃飲めなせえ、お
前今日は
平日より別段に
美しいように思われるだね」
菊「何だよ、詰らんお世辞なんぞを云って、早くお部屋へ往って寝ておくれ、お願いだから、跡を片附けて置かなければならないから」
林「ま
一盃飲めなアよ」
菊「私は飲みたくはないよ」
林「じゃア
酌だけして下せえ」
菊
[#「菊」は底本では「林」]「お
酌かえ、私にかえ、困るねえ、それじゃア
一盃切りだよ、さ……」
林「へえ
有難え是れは……ひえ頂戴
致しやす……有難え、まアまるで夢見たような話だという事さ、お
菊さん本当にお前さん、私が
此処へ奉公に来た時から、
真に思って居るよ」
菊「
其様なことを云わずに早く
彼方へお
出でよ」
林「
然う邪魔にせなえでも
宜えが、是でちゃんと
縁附は
極っているからね、知らず/\して縁は
異な物味な物といって、ちゃんと
極っているからね」
菊「
何が縁だよ」
林「何でも
宜い、本当ね
私が
此方へ奉公に来た時始めてお
前さんのお姿を見て、あゝ
美しい女中
衆だと思えました、斯ういう
美しい人は
何家え
嫁付いて
往くか、何ういう人を亭主に持ちおると思ってる内に、旦那さまのお妾さまだと聞きやしたから、
拠ねえと諦らめてるようなものゝ、
寐ても
覚てもお
前さんの事を忘れたことアないよ」
菊「冗談をお云いでない、
忌らしい、
彼方へ往ってお寝よ」
林「
往きアしない、
亥刻までは
往かないよ」
菊「困るよ、
其様なに
何時までもいちゃア、後生だからよ、
明日又旨い物を上げるから」
林「何うしてお前さんの
喰欠けを半分
喰うて見てえと思ってゝも、
喰欠けを残した事がねえから、
密と
台所にお膳が洗わずにある時は、洗った振りをして
甜めて、拭いてしまって置くだよ」
菊「
穢いね、私ア嫌だよ」
林「それからね、何うかしてお前さんの肌を見てえと思っても見る事が出来ねえ、すると
先達て
前町の
風呂屋が休みで、行水を
浴った事がありましたろう、此の時ばかり白い肌が見られると思ってると、
悉皆戸で囲って
覗く事が
出来ねえ、何うかしてと思ってると、節穴が有ったから覗くと、
意地の悪い穴よ、
斜に上の方へ向いて、戸に大きな釘が出ていて
頬辺を
掻裂きイした」
菊「オホヽヽ
忌だよ」
林「其の時使った
糠を
貯って置きたいと思って
糠袋をあけて、ちゃんと
天日にかけて、乾かして
紙袋に入れて貯っておいて、
炊立の飯の上へかけて
喰うだ」
菊「忌だよ、穢い」
林「それから
浴った湯を飲もうと思ったが、飲切れなくなって、どうも勿体ねえと思ったが、半分程飲めねえ、三日目から腹ア
下した」
菊「冗談を云うにも程がある、
彼方へお出でよ、忌らしい」
林「お
菊さん、もう
亥刻[#「亥刻」は底本では「戌刻」]かな」
菊「もう
直に亥刻
[#「亥刻」は底本では「戌刻」]だよ」
林「亥刻
[#「亥刻」は底本では「戌刻」]ならそろ/\始めねえばなんねえ」
とだん/\お菊の側へ
摺寄りました。