十
粂野紋之丞前次と仰しゃる方は、未だお部屋住では有りますが、勇気の優れた方で、活溌なり学問もあり、実に文武兼備と講釈師なら
誉る立派な殿様でございますなれども、そこはお大名の疳癪で、
甚く逆らって参ると、
直に
抜打に御家来の首がコロリなどゝいう事が有るもので、只今の華族さまは
開けて
在っしゃいますから、
其様な野蛮な
刄物三昧などはございませんが、前次様は御勇気のお方だけあって、九尺柄の大身の槍をすっと繰出した時に、權六は不意を打たれ、受くるものが有りませんから左の
掌で、
權「むゝ」
と受けましたが
剛い奴で、中指と
無名指の間をすっと貫かれたが、其の掌で槍の柄を捕まえて、ぐッと全身の力で引きました。前次公は
蹌めいて前へ膝を突く処を、權六が血だらけの手で
捕え付け、
權「其の時は斯う捻り倒して敵を
酷え目に
遇わして、
尊公を助けるより他はねえ、何うだ、敵も
魂消るか」
と
大力でグックと
圧すから前次公も
堪えかねまして、
殿「權六
宥せ、宥せ」
と云うは余程苦しかったと見えます。これを見るとお側に居りました川添富彌、山田金吾も驚きましたが、御側小姓の外村惣江が次の間に至り、一刀を
執って立上り、
惣「棄置かれん奴」
とバラ/\/\と二人
来って權六へ組付こうとするを
睨み付け、
權「寄付くと
打殺すぞ」
惣「斬ってしまえ、無礼至極な奴だ、御前を何と心得る、
如何に物を心得んとは申しながら、余りと申せば乱暴狼藉」
と立ちかゝるを、殿様は押されながら、
殿「いやなに惣江、手出しをする事は必ずならんぞ、權六放してくれ、あ痛い、放せ、予が悪かった、宥せ/\」
權「宥せと云って敵じゃア許せねえけれども、
先ず仕方話だから許します、さ何うだね」
殿「ハッ/\」
と殿様は
稍く起上りましたが、血だらけでございます。是は權六の血だらけの手で押付けられたから、顔から胸から血だらけで、これを見ると御家来が驚きまして、呆れて口が利けません。
殿「ハッ/\、至極
道理だ」
權「道理だって、
私が何も手出し仕たじゃアねえのに、
押えるの斬るのと此処にいる人が云うなア分んねえ、
咎も報いも
無えものを殿様が手出しいして、槍で
突殺すと云うだから、敵が然うしたら斯うだと仕方話いしてお目に掛けたゞ、敵なら捻り殺すだが、仕方話で、ちょっくら此の
位なものさ」
殿「至極
正道潔白な奴じゃ、勇気なものじゃ、何と申しても宜しい、予に悪い事があったら一々諫言をしてくれ、
今日より意見番じゃ、予が側を放さんぞ」
と有難い御意で、それからいよ/\医者を呼び、疵の手当を致して
遣わせと、殿様も急に血だらけですからお召替になる。大騒ぎでござります。御褒美として其の時の槍を戴きましたから、是ばかりでも槍一筋の侍で、五十石に取立てられ、
頭取下役という事に成りましたが、更に

いを致しませんが、堅い気象ゆえ、毎夜人知れず刀を差し、棒を提げて
密っと殿様のお居間の
周囲を三度ずつ
不寝に廻るという忠実なる事は、他の者に真似は出来ません立派な行いでございます。又お供の時は駕籠に附いてまいりません。
權「
私ア
突張ったものを着て、お駕籠の側へ付いてまいっても無駄でごぜえます、お側には剣術を知ってる立派なお役人が附いているだから、狼藉者がまいっても脇差を引抜いて防ぎましょうが、私ア其の
警衛の方々に狼藉者が斬付けるとなんねえから、
若し怪しい奴が来るといかねえから私ア他の人の
振で先へめえりましょう、
袴などア
穿くのは
廃して
貰えましょう、刀は差せと云わば仕方がねえから差しますが、私だけはお駕籠の先へぶら/\
往きます」
と我儘を云うてなりませんが、左様な我儘なお供はござりませんから、權六も袴を付け、大小を差し、
紺足袋福草履でお
前駆で見廻って歩きます、お中屋敷は小梅で、
此処へお出でのおりも、未だお部屋住ゆえ大したお供ではございませんが、權六がお供をして上野の
袴腰を通りかゝりました時に、明和三年正月も過ぎて二月になり、追々梅も咲きました頃ですから、人もちら/\出掛けます。只今權六が殿様のお供をして山下の浜田と申す料理屋(今の山城屋)の前を通りかゝり、山の
方の
観物小屋に引張る者が出て居りますが、
其方へ顔も向けず
四辺に気を附けてまいると、向うから来ました男は、年頃二十七八にて、かっきりと色の白い、眼のきょろ/\大きい、
鼻梁の通った口元の締った、眉毛の濃い
好い男で、無地の羽織を
着し、一本短い刀を差し、紺足袋
雪駄穿でチャラ/\やって参りました。
不図出会うと中国もので、矢張
素と松平越後様の
好い役柄を勤めました
松蔭大之進の忰、
同苗大藏というもので、浪々中互いに知って居りますから、
權「大藏さん/\」
と呼びますから大藏は振向いて、
大「いや是れは誠に暫らく、一別
已来[#「已来」は底本では「己来」]……」
權「うっかり会ったって知んねえ、むお変りがなくって……
此処で逢おうとは思いませんだったが、何うして出て来たえ」
と立止って話をして居りますから、他の若侍が、
若「これ/\權六殿/\」
權「えゝ」
若「お供先だから、余り知る人に会ったって無闇に声などを掛けてはなりませんよ」
權「はい、だがね
国者に逢って懐かしいからね、少し先へ往っておくんなせえ、直ぐに往くと殿様に然う申しておくんなせえ、まお
前達者で
宜い、
何処にいるだ」
大「お前も達者で何処に
居らるゝか、実に立派な事で、お抱えになったことは聞いたが、立派な
姿で、此の上もない事で、拙者に於ても悦ばしい
[#「悦ばしい」は底本では「悦しばい」]」
權「ま悦んでくんろ、今じゃア奉公大切に勤めているだが、お
前さんは何処にいるだ」
大「拙者は根岸の
日暮ヶ岡に
居る、あの
芋坂を下りた処に」
權「
私の処へは
近えから
些と遊びに来なよ、其の内私も往くから」
若「これ/\
其様なことを云っては成りません」
權「今日は大将がいるから此処で別れるとしよう、泣く子と地頭にゃア
勝れねえ」
と他の家来衆も心配して彼是云いますので、其の日は別れ、翌日大藏は權六の
家へまいりましたから、權六悦びました。此の大藏はもと越後守様の御家来で、遠山龜右衞門とは同じ屋敷にいた者ゆえ、母もお千代も見知りの事なれば、
「お互いに是は思い掛けない、縁と云うものは妙だ、国を出たのは昨年の秋で、貴方も国にお
在のないという事は人の噂で聞きました」
大「お前も御無事で、
殊に御夫婦仲も宜し、結構で」
權「まアね、お
母も誠に安心したし、殿様も贔屓にしてくれるだが、扶持も
沢山は
要らない、親子三人喰うだけ有れば
宜いてえに、其様な事を云わずに取って置くが宜いって、
種々な物をくれるだ、貰わねえと悪いと云うから、仕方なしに貰うけれども、何でも山盛り呉れるだ、
喰物などは
切溜を持ってって
脊負って
来ねえばなんねえだ、誠にはア
有難え事になって、勿体ねえが、他に
恩返しの仕様がねえから、旦那様を
大切に思って、
不寝に奉公する心得だが、
貴方は今の若さで遊んでいずに、何処かへ奉公でもしたら宜かろう」
大「拙者も
然う思ってる、
迚も国へ往ったっていけんから、何処ぞへ取付こうと思うが、御当家でお羽振の
宜いお方は何というお方だね」
權「
私ア其様な事は知んねえ、お国家老の
福原數馬様、
寺島兵庫様、お側御用
神原五郎治様とかいう奴があるよ」
大「奴とは
酷いね」
權「それに
此間ちょっくら聞いたが、御当家には智仁勇の三人の家来があるとよ、
渡邊織江さんという方は慈悲深い人だから是が仁で、
秋月喜一郎かな是はえら
剛い人で勇よ、えゝ何とか云いッけ……
戸村主水とかいう人は智慧があると云いやした、
此者が羽振の
宜い処だ、其の人らの云う事は殿様も聴くだ、御家来に
失策が有っても、渡邊さんや秋月さんが
取做すと殿様も
赦すだ、秋月さんは槍奉行を勤めているが、成程
剛そうだ、
身丈が高くってよ」
と手真似をして物語る内、大藏は
掌の底に目を附けました。
十一
大「
足下掌を何うした、穴が開いているようだが」
權「これか、是は殿様が槍を
突掛けて
掌で受けるか何うだと云うから、受けなくってというので、掌で受けたゞ」
大「むゝ、そうか、そして御家来の
中仁は渡邊織江、勇は秋月、智は戸村、成程斯ういう事は珍らしいから書付けて
往きましょう」
と細かに書いて
暇乞を致し、帰る時に權六が門まで送り出してまいりますと、お役所から帰る渡邊に出会いましたから、權六も挨拶する事ぐらいのことは心得て居りますから、丁寧に挨拶する。渡邊も答礼して
行過ぎるを
見済して、
大「
彼は」
權「
彼が渡邊織江様よ、慈悲深い方で、家来に難儀いする者が有ると命懸で殿様に詫言をしてくれるだ、困るなら銭い持って行けと助けてくれると云うだ、どうも
彼の人には
敵わねえ」
大「成程
寛仁大度、見上げれば立派な人だね」
權「なにい、
韓信が股ア
潜りだと」
大「いえ中々お立派なお方だ、
最う五十五六にもなろうか……拙者も近い所にいるから、また
度々お尋ね下さい、拙者も
亦お尋ね申します」
權「お前辛抱しなよ、お女郎買におっ
溺ってはいかねえよ、国と違ってお女郎が方々に
在るから、随分身体を
大事にしねば成んねえ」
大「誠に
辱けない、左様なら」
と松蔭大藏は帰りました。其の
後渡邊織江が同年の三月五日に一人の娘を連れて、
喜六という
老僕に供をさせて、
飛鳥山へまいりました。
尤も花見ではない、
初桜故余り人は出ません、其の頃には
海老屋、
扇屋の他に
宜い料理茶屋がありまして、
柏屋というは可なり小綺麗にして居りました。織江殿は娘を連れて此の茶屋の二階へ
上り、
御酒は飲みませんから
御飯を上っていました。此の娘は年頃十八九になりましょうか、色のくっきり白い、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、眼のきょろりとした……と云うと大きな眼付で、少し眼に
怖味はありますが、
是も
巾着切のような眼付では有りません、堅いお屋敷でございますから
好い
服装は出来ません、小紋の変り裏ぐらいのことで、厚板の帯などを締めたもので、お
父さまは小紋の
野掛装束で、お供は看板を着て、
真鍮巻の木刀を差して
上端に腰をかけ、お膳に酒が一合附いたのを有難く頂戴して居ります。二階の梯子段の下に三人車座になって御酒を飲んでいる侍は、其の頃
流行った
玉紬の
藍の
小弁慶の袖口がぼつ/\いったのを着て、砂糖のすけない
切山椒で、焦茶色の
一本独鈷の帯を締め、木刀を差して居るものが有ります。火の燃え付きそうな
髪をして居るものも有り、大小を差した者も有り、
大髷の
連中がそろ/\花見に出る者もあるが、金がないので
往かれないのを残念に思いまして、少しばかり
散財を仕ようと、
味噌吸物に菜のひたし物
香物沢山という酷い
誂えもので、グビーリ/\と
大盃で酒を飲んで居ります。二階では渡邊織江が娘お竹と
御飯が済んで、
織「これ/\女中」
下婢「はい」
織「下に
従者が
居るから小包を持って来いと云えば分るから、
然う云ってくれ」
下婢「はい
畏まりました」
とん/\/\と
階下へ下りまして、
下婢「あの、お供さん、旦那があの小さい風呂敷包を持って二階へ
昇れと仰しゃいましたよ」
喜「はい畏まりました」
と喜六と云う六十四才になる爺さんが、よぼ/\して片手に小包を提げ、正直な人ゆえ下足番が有るのに、
傍に置いた主人の
雪踏とお嬢様の雪踏と自分の福草履三足一緒に
懐中へ入れたから、飴細工の狸見たようになって、梯子を
上ろうとする時、
微酔機嫌で少し身体が
斜になる途端に、懐の雪踏が
辷って
落ると、間の悪い時には悪いもので、
彼の喧嘩でも
吹掛けて、此の勘定を持たせようと思っている
悪浪人の一人が、手に持っていた吸物椀の中へ雪踏がぼちゃりと入ったから驚いて顔を上げ、
甲「これ
怪しからん奴だ、やい
下ろ、二階へ
上る奴下ろ」
と云いながら喜六の裾を取ってぐいと引いたから、ドヽトンと落ち、
喜「あ痛いやい……」
甲「
不礼至極な奴だ、人が酒を飲んでいる所へ、
屎草履を投込むとは何の事だ」
と云いながら二つ
三つ喜六の頭を打つ喜六は頭を押えながら、
喜「あ痛い……誠に済みませんが、懐から落ちたゞから御勘弁を
願えます」
甲「これ
彼処に下足を
預る番人があって、銘々下足を預けて
上るのに、懐へ入れて上る奴があるものか、是には何か此の方に意趣遺恨があるに相違ない」
喜「いえ意趣も遺恨もある訳じゃねえ、お
前様には始めてお目に懸って意趣遺恨のある
理由がござえません、
私は
何にも知んねえ
田舎漢で、年も取ってるし、御馳走の酒を戴き、酔払いになったもんだから、身体が横になる
機みに懐から雪踏が落ちただから、どうか御勘弁を」
と詫びましたが、浪人は肩を怒らせまして、
甲「勘弁
罷りならん、能く考えて見ろ、人の吸物の中へ斯様に屎草履を投込んで、泥だらけにして、これを何うして喰うのだ」
喜「誠に
御道理……
併し屎草履と仰しゃるが、米でも麦でも
大概土から出来ねえものはねえ、それには
肥料いしねえものは有りますめえ、あ痛い、又打ったね」
甲「なに
肥料をしないものはないが、
直接に肥料を
喰物に
打かけて喰う奴があるか、
怪しからん
理由の分らん奴じゃアないか」
乙「これ/\
其様な者に何を云ったって、痛いも
痒いも分るものじゃアない、家来の不調法は主人の粗相だから、主人が
此処へ来て詫るならば勘弁して
遣ろう、それまで其の小包を
此方へ取上げて置け、なに娘を連れて年を
老っている奴だと、それ/\今も云う通り家来の不調法は主人の不調法だから、主人が此処へ来て、手前に成り代って詫るなれば勘弁を仕まいものでもないが、それ迄包を
此方へ預かる、一体家来の不調法を主人が詫んという事は無い」
喜「詫ん事は無いたって、
私が不調法をして、旦那様を詫に出しては済みません、それに包を取上げられてしまっては旦那様に申訳がないから、どうか堪忍しておくんなせえましな、私が不調法を
為たんだから、二つも三つも
打叩かれても黙って居やすんだ、人間の頭には神様が附いて居ますぞ、
其処を叩くてえ事はねえ」
甲「なに……」
と又
打つ。
喜「あ痛い、又
打ったな」
甲「なにを云う、其様な小理窟ばかり云っても仕様がねえ、もっと分る奴を出せ」
喜「あ痛い……だからま一つ堪忍しておくんなせえましよ」
甲「勘弁罷りならん」
喜「勘弁ならんて、此の包を取られゝば
私がしくじるだ」
甲「手前が不調法をしてしくじるのは
当然だ、手前が門前払いになったて己の知った事かえ、さ
此方へ出さんか」
喜「あ……あれ……取っちまった、其の包を取られちゃア
私が済まねえと云うに、あのまア慈悲知らずの野郎め」
甲「なに野郎だ……」
と
尚お事が大きくなって、見ちゃア居られませんから茶屋の女中が、
下婢「
鎌どんを
遣っておくれな」
鎌「なに斯ういう事は
矢張り女が
宜いよ」
下婢「其様なことを云わずに往っておくれよ」
鎌「
客種が悪い筋だ、
何かごたつこうとして居る
機みだから、どうも仕様がない」
下婢どもがそれへ参り、
下婢「ね、あなた方」
甲「何だ、何だ手前は」
下婢「
貴方申しお供さん、お気を附けなさらないといけませんよ、貴方ね、
此方は下足番の有るのを御存じないものですから、
履物を懐へ入れて梯子段を
昇ろうとした処を、つい酔っていらっしゃるもんですから、不調法で落ちたのでしょう、実にお気の毒さま、
何卒ね、ま斯ういうお花見時分で、お客さまが立込んで居りますから、御機嫌を直していらっしゃいよ、何ですよう、ちょいと貴方ア」
甲「なんだ不礼至極な奴め、愛敬が有るとか器量が
好いとか云うならまだしも、手前の面を見ろい、手前じゃア分らんから分る人間を出せ」
下婢「誠にどうも、あのちょいと
清次どん」
清「そら、己の方へ来た」
下婢「取っても附けないよ、変な奴だよ」
清「女でも
宜いのに、仕様がないね」
と若い者が
悪浪人の前へ来て、額へ手を当て、
若「えへゝゝ」
甲「変な奴が出て来た、手前は何だ」
若「
今日は
生憎主人が下町までまいって居りませんから、手前は帳場に坐っている番頭で、御立腹の処は重々
御尤さまでございますが、何分にもへえ、全体お前さんが逆らっては悪い、
此方で御立腹なさるのは御尤もで仕方がない謝まんなさい、えへ……誠に此の通り何も御存じないお方で相済みませんが…」
甲「只相済まん/\と云って何う致すのだ」
若「どうか旦那さま」
甲「うん何だと、何が何うしたと、
此椀を何う致すよ、只勘弁しろたって、泥ぽっけにした物が喰えるかい」
清「左様なら旦那さま、斯様致しましょう、お料理を取換えましょう、ちょいとお
芳どん、是をずっと下げて、何か
乙な、ちょいとさっぱりとしたお刺身と云ったような
[#「ような」は底本では「なうな」]もので、えへゝゝ」
甲「
忌な奴だな、
空笑いをしやアがって」
清「ずっとお料理を取換え、お燗の
宜い処を召上り、お心持を直してお帰りを願います」
それより他に致し方がないので、
酒肴を出しまして、
清「是は手前の方の不調法から出来ました事でげすから、其のお代は戴きません、皆様へ御馳走の心得で」
乙「黙れ、不礼至極なことを云うな、御馳走なんて、
汝に
酒肴を振舞って貰いたいから立腹致したと心得て
居るか、振舞って貰いたい下心で
怒ってる次第じゃアなえぞ」
清「いえその
最初は上げて置いて、あとで代を戴きます」
甲「
汝では分らんもっと分る者を
遣せ」
二階では織江殿も心配して居りますところへ、喜六が泣きながら
昇ってまいりました。
十二
喜六は力無げに二階へ
上ってまいり、
喜「はい御免下せえまし」
織「おゝ喜六か、是へ来い/\」
喜「はい、誠に何ともはア申訳のねえ事をしました、悪い奴にお包を
奪られて」
織「困ったものじゃアないか、
何故草履を懐へ入れて二階へ上ったのだよ、草履を懐へ入れて上へ
昇るなどという事があるかえ」
喜「はい、田舎者で何も心得ませんから」
織「何も心得んとて、先方で立腹するところは
尤もじゃアないか、
喰物の中へ泥草履を投入れゝば、誰だって立腹致すのは
当然のことじゃ、それから何う致した」
喜「へえ、三人ながら意地の悪い奴が揃ってゝ、家来の不調法は主人の不調法だから、
余所目に見て二階に居ることはねえ、
此処へまいり、成り代って詫をしたら堪忍してくれると云いまして、お包を取上げましたから、渡すめえと
確かり押えると、あんた傍に居た奴が
私の頭を叩いて、無理やりに
引奪られましたから、大切な物でも
入って
居ろうかと心配して居ります」
織「何も入って居らん
空風呂敷ではあるが、不調法をして詫をせずに置く訳にもいかん、手前の事から己が出ると、拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者でござると、斯う姓名を明かさんければならん、己の名前は兎も角も御主人の名を
汚す事になっちゃア誠に済まん訳じゃアないか、手前は長く奉公しても山出しの
習慣が
脱けん男だ、誠に困ったもんだの」
喜「へえ、誠に困りました、
然うして
私が頭ア五つくらしました」
織「
打たれながら勘定などをする奴が有りますか」
喜「余り
口惜うございます、
中央にいた奴の叩くのが一番痛うござえました」
織「誠に困るの」
竹「お
父さま、斯う致しましょうか、
却って先方が
食酔って居りますところへ貴方が入らっしゃいますより、
私は女のことで取上げもいたすまいから、私が出て見ましょうか」
織「いや、己がいなければ
宜いが、己がいて其の方を出しては宜しくない」
竹
[#「竹」は底本では「喜」]「いゝえ、喜六と
私と二人で
此処へまいりました積りで、誠に不調法を致しましたと一言申したら宜かろうと存じます、のう喜六」
喜「はい、お嬢様が出れば
屹度勘弁します、
皆な助平そうなものばかりで」
織
[#「織」は底本では「竹」]「こら、
其様なことを云うから物の間違になるんだ」
竹「じゃア二人の積りで
宜いかえ、
私は手前を連れてお寺参りに来た積りで」
喜「どうか何分にも願います」
とお竹の
後に附いて
悄々と二階を下りる。
此方は益々
哮り立って、
甲「さア何時までべん/\と棄置くのだ、二階へ
折助が
昇った
限り下りて来んが、さ、これを何う致すのだ」
と申して
居るところへお竹がまいり、しとやかに、
竹「御免遊ばしませ」
甲「へえお出でなさい、
何方さまで」
竹「只今は家来共が不調法をいたして申訳もない事で、何も存じません田舎者ゆえ、
盗られるとわるいと存じまして、草履を懐へ入れて
居って、つい不調法をいたし、御立腹をかけて何とも恐入ります、少し遅く成りましたから早く帰りませんと両親が案じますから、
何卒御勘弁遊ばしまして、それは詰らん包ではございますが、これに成り代りまして
私からお詫を致します事で」
甲「どうも是は恐入りましたね、是はどうも御自身にお
出では恐入りましたね、誠にどうもお
麗わしい事でありますな、へゝゝ、なに腹の立つ訳ではないが、ちょっと三人で花見という訳でもなく、ふらりと
洗湯の帰り掛けに一口やっておる処で、へゝゝ」
竹「家来どもが不調法をいたし、
嘸御立腹ではございましょうが……」
甲「いや貴方のおいでまでの事はないが、お
出で下されば千万有難いことで、何とも恐入りました、へゝゝ、ま
一盃召上れ」
と眼を細くしてお竹を見詰めて居りますから、一人が気をもみ、
乙「何だえ、仕方がないな、貴公ぐらい女を見ると
惚い人間はないよ、女を見ると勘弁なり難い事でも
直にでれ/\と許してしまう、それも
宜いが、
後の勘定を何うする、勘定をよ、前に
親娘連れで
昇った立派な侍が二階に
居るじゃアないか、
然るを女を詫によこすてえ次第があるかえ、其の
廉を押したら宜かろう、勘定を何うするよ」
甲「うん成程、気が付かんだったが、
前に
昇っていたか、至極どうも
御尤もだから
然う致そうじゃアないか」
丙「何だか分らんことを云ってる、兎に角御主人がお詫に来たから、それで
宜いじゃアないか、斯様な人ざかしい処で兎や斯う云えば貴公の恥お嬢様の
辱になるから、甚だ見苦しいが拙宅へお招ぎ申して、一口差上げ、にっこり笑ってお別れにしたら
宜かろう」
甲「これは至極
宜しい、
宅は手狭だが、是なる者は拙者の
朋友で、可なり
宅も広いから、ちょっと
一献飲直してお別れと致しましょう」
と
柔しい真白な手を真黒な
穢い手で
引張ったから、喜六は驚き、
喜「なにをする、お嬢様の手を引張って此の助平野郎」
甲「なに、此ん畜生」
と又騒動が大きくなりましたから、
流石の渡邊も弱って何うする事も出来ません。
打棄って
密と逃げるなどというは武家の法にないから、困却を致して居りました。すると次の間に居りました客が出て参りました。黒の羽織に
藍微塵の小袖を
着大小を差し、料理の入った折を提げて来まして、
浪人「えゝ
卒爾ながら手前は此の
隣席に食事を致して、只今帰ろうと存じて
居ると、何か御家来の少しの不調法を
廉に取りまして、
暴々しき事を申掛け、御迷惑の御様子、実は
彼処にて
聞兼て居りましたが、如何にも相手が悪いから、お嬢様をお連れ遊ばして
嘸かし御迷惑でござろうとお察し申します、入らざる事と
思召すかしらんが、尊公の代りに手前が出ましたら
如何で」
織「これは
何ともはや、折角の思召ではござるが、先方では
柄のない所へ柄をすげて申掛けを致すのだから、貴殿へ御迷惑が掛っては相済まん折角の御親切ではござるが、
平にお捨置きを願いたい」
浪人「いえ/\、手前は
無禄無住の者で、浪々の身の上、決して御心配には及びません、
御主名を
明すのを
甚く御心配の御様子、誠に御無礼な事を申すようでござるが、お嬢様を手前の妹の積りにして、手前は不加減で二階に寝ていたとして詫入れゝば宜しい」
織「何ともそれでは恐入ります事で、
併し御迷惑だ……」
浪「その御心配には及びませんから手前にお任せなされ」
と
提げ刀で下へ
下ると、三人の
悪浪人はいよ/\
哮り立って、吸物椀を投付けなど乱暴をして居ります所へ、
浪人「御免を……」
甲「何だ」
浪人「手前家来が不調法をいたしまして、妹がお詫に出ました
由怪しからん事で、女の身でお詫をいたし、
却って御立腹を増すばかり、手前少々腹痛が致しまして、横になって居りまする内に、妹が
罷り出て重々恐入りますが、
何卒御勘弁を願います」
甲「むゝ、尊公は
先刻此の方の吸物椀の中へ雪踏を投込んだ奴の御主人かえ」
浪「左様家来の粗相は主人が届かんゆえで有りますから、手前成り代ってお詫を致します、どうか御勘弁を願います、
此の如く両手を突いてお詫を……」
甲「
此奴かえ/\」
乙「
此者じゃアなえよ、
其奴は
前に
昇っていた奴だ、もっと年を
老ってる奴だア、此奴は
彼の娘へ
諛に入って来たんだ、
其様な奴をなじらなくっちゃア仕様がねえ、えゝ始めて御意得ます、御尊名を承わりたいね……手前は
谷山藤十郎と申す至って武骨なのんだくれで、御家来の不調法にもせよ、主人が成代って詫をいたせば勘弁いたさんでもないが、
斯の如く泥だらけになった物が喰えますかよ、此の汁が吸えるかえ」
と半分残っていた吸物椀を
打掛けましたから、すっと味噌汁が流れました。
流石温和の仁も
忽ち疳癖が高ぶりましたが、じっと
耐え、
浪「どうか御勘弁を願います、それゆえ身不肖ながら主人たる手前が成代ってお詫をいたすので、幾重にも此の通り……手を突く」
甲「手を突いたって不礼を働いた家来を
此方へ申し受けよう、
然うして此方の存じ寄にいたそう」
浪「それは貴方御無理と申すもの、何も心得ん山出しの老人ゆえ、相手になすった処がお恥辱になればとて誉れにもなりますまい、斬ったところが
狗を斬るも同様、御勘弁下さる訳には相成りませんか」
乙「ならんければ何ういたした」
浪「ならんければ致し方がない」
甲「斯う致そう、
当家でも迷惑をいたそうから、表へ出て、広々した飛鳥山の上にて
果合いに及ぼう」
浪「何も果合いをする程の無礼を致した訳ではござらん」
甲「無いたって
食物の中へ泥草履を投込んで置きながら」
浪「手前は此の通り病身で
迚もお相手が出来ません」
甲「出来んなら尚宜しい、さ出ろ、病身結構だ、広々した飛鳥山へ出て華々しく果合いをしなせえ、
最う了簡
罷りならん、
篦棒め」
と侍の面部へ唾を
吐掛けました。
十三
斯うなると幾ら柔和でも腹が立ちます、唾を吐き掛けられた時には物も云わず
半手拭を出して顔を拭く内に、眼がきりゝと吊し上りました。相手の三人は酔っているから気が附きませんが、傍の人は
直気が附きまして、
○「
安さん出掛けよう、
斯んな処で酒を呑んでも身になりませんよ、
彼の位妹が出て謝って、御主人が
塩梅の悪いのに出て来て詫びているのに、
酷い事をするじゃアないか、汁を
打掛けたばかりで誰でも大概
怒っちまう、我慢してえるが今に始まるよ、怪我でも仕ねえ
中に出掛けよう、他に逃げ処がないから
往こう/\」
△「
折を
然う云ったっけが間に合わねえから、此の玉子焼に
鰆の照焼は紙を敷いて、手拭に包み、
猪口を二つばかり
瞞かして
往こう」
と皆
逃支度をいたします。
此方の浪人は
屹度身を構えまして、
浪「いよ/\御勘弁
相成んとあれば止むを得ざる事で、表へ出てお相手になろう」
とずいと
提げ
刀で立つと、他の者が之を見て。
○「泥棒ッ」
△「人殺しい/\」
と自分が斬られる訳ではないが、
遽てゝ逃出すから、煙草盆を
蹴散かす、土瓶を
踏毀すものがあり、料理代を払って
往く者は一人もありません、中に素早い者は料理番へ駈込んで鰆を三本
担ぎ出す奴があります。
彼の三人は真赤な顔をして、
甲「さ来い」
浪「
然らばお相手は致しますが、宜くお心を静めて
御覧じろ、さして御立腹のあるべき程の粗相でもないに、
果合いに及んでは双方の恥辱になるが宜しいか」
乙「えゝ、やれ/\」
と何うしても
肯きません、酒の上で気が立って居ります、一人が
握拳を振って打掛るを早くも身をかわし、
浪「えい」
と逆に
捻倒した
手練を見ると、
余の二人がばら/\/\と逃げました。前に倒れた奴が
口惜しいから又起上って組附いて来る処を、
拳を固めて脇腹の三枚目(芝居でいたす
当身をくわせるので)余り食ったって旨いものでは有りません。
甲「うゝーん」
と倒れた、詰らんものを食ったので、見物の弥次馬が、
△「
其方へ二人逃げた、威張った野郎の癖に
容ア見やアがれ、殴れ/\」
と何だか知りもしないのに無茶苦茶に
草履草鞋を投付ける。
織「これ喜六、よくお礼を申せ」
喜「へえ、誠に
有難えことで、
初りは心配して居りました、
若し貴方に怪我でもあらば仕様がねえから飛出そうと思ってやしたが、此の通りおっ
死ぬまで威張りアがって野郎」
二つ三つ打つを
押止め、
浪「いや打ったって致し方がありません罪も報いもない
此奴を殺しても仕様がないから、御家来
憚りだが
彼方で手桶を借り水を汲んで来て下さい」
喜「はい
畏まりました」
彼の侍は
其処に倒れた浪人の双方の脇の下へ手を入れ、
脇肋へ
一活入れる。
甲「あっ……」
と息を
吹反す処へ水を
打掛ける。
甲「あっ/\/\……」
浪「
其様な弱い事じゃアいけません、果合いをなさるなら立上って尋常に華々しく」
甲「いえ/\誠に恐入りました、
酔に乗じ
甚だ詰らん事を申して、お気に障ったら幾重にもお
詫を致します、どうか御勘弁を願います」
喜「今度は詫るか、詫るというなら堪忍してやるが、弱え奴だな、
己ような年い
老った弱えもんだと馬鹿にして、三つも四つも殴りアがって、斯う云う旦那に
捉まると
魂消てやアがる、我身を
捻って
他人の痛さが分るだろう、初まりの二つは我慢が出来なかったぞ、己も殴るから
然う思え」
と握拳を固めてこん/\と続けて二つ打つ。
甲「誠に先程は御無礼で」
と
這々の
体で逃げて
行くと、弥次馬に
追掛けられて又打たれる、
意気地のない事。
織「どうか
一寸旧の席へ、まア/\
何卒…」
浪「いえ、
些と取急ぎますから」
織「でもござろうが」
と無理に
旧の茶屋へ連戻り、
上座へ直し、
慇懃に両手を突き、
織「
斯ようの中ゆえ拙者の姓名等も申上げず、恐入りましたが、拙者は
粂野美作守家来渡邊織江と申す者、
今日仏参の
帰途、是なる娘が飛鳥山の花を見たいと申すので連れまいり、図らず貴殿の
御助力を得て無事に相納まり、何ともお礼の申上げようもござりません、
併しどうも
起倒流のお腕前お立派な事で感服いたしました、いずれ
由あるお方と心得ます、御尊名をどうか」
浪「
手前は名もなき浪人でございます、いえ恐入ります、左様でございますか、実は拙者は松蔭大藏と申して、根岸の日暮が岡の脇の、乞食坂を
下りまして左へ折れた処に、見る蔭もない
茅屋に
佗住居を致して居ります、此の
後とも幾久しく……」
織「左様で、あゝ惜しいお方さまで、只今のお身の上は」
大「誠に恥入りました儀でござるが、浪人の
生計致し方なく
売卜を致して居ります」
織「売卜を……易を……成程惜しい事で」
喜「お前さまは
売卜者か、どうもえらいもんだね、
売卜者だから負けるか負けねえかを
占て置いて掛るから大丈夫だ、誠に有難うござえました」
織「
何れ御尊宅へお礼に出ます」
と
宿所姓名を書付けて別れて帰ったのが縁となり、渡邊織江方へ松蔭大藏が
入込み、遂に粂野美作守様へ取入って、どうか侍に成りたい念があって
企んで致した罠にかゝり、渡邊織江の大難に成ります所のお話でございます。此の松蔭大藏と申す者は前に述べました通り、従前美作国津山の御城主松平越後様の家来で、
宜い役柄を勤めた人の子でありますが、浪人して図らず江戸表へ出てまいりましたが、
彼の權六とも馴染の事でございますゆえ、權六方へも再三訪れ、權六もまた大藏方へまいりまして、大藏は織江を存じておりますから喧嘩の
仲裁へ入りました事でございます。屋敷へ帰っても物堅い渡邊織江ですから早く礼に
往かんければ気が済みませんので、お竹と喜六を
伴れ、結構な進物を
携えまして日暮ヶ岡へまいって見ると、
売卜の看板が出て居りますから、
織「あ
此家だ、喜六
一寸其の玄関口で訪れて、松蔭大藏様というのは
此方かと云って伺ってみろ」
喜「はい
畏りました、えゝお頼み申します/\」
大「ドーレ
有助何方か取次があるぜ」
有「はい畏りました」
つか/\/\と出て来ました男は、少し
小侠な男でございます。
子持縞の
布子を着て、無地小倉の帯を締め、千住の河原の煙草入を提げ、
不粋の
打扮のようだが、もと
江戸子だから
何処か気が利いて居ります。
有「え、おいでなさえまし、何でござえます」
喜「えゝ松蔭大藏様と仰しゃるは
此方さまで」
有「え、松蔭は手前でござえますが、何か
当用か身の上を御覧なさるなれば丁度今余り人も居ねえ処で宜しゅうござえます、ま、お
上んなせえまし」
喜「いや、
然うじゃアござえません、旦那さまア
此方さまですと」
織「あい、御免くだされ」
と立派な侍が入って来ましたから、有助も少し
容を正して、
有「へえ、おいでなせえまし」
織「えゝ拙者は粂野美作守家来渡邊織江と申す者、えゝ早々お礼に
罷り
出ずべきでござったが、
主用繁多に
就き存じながら大きにお礼が延引いたしました、
稍く
今日番退きの帰りに
罷出ました儀で、先生御在宅なれば目通りを致しとうござる」
有「はい畏りました……えゝ先生」
大「何だ」
有「
何んだか飛鳥山でお前さんがお助けなすった粂野美作守の御家来の渡邊織江とかいう人がお嬢さんを連れて礼に来ましたよ」
大「左様か
直に茶の良いのを入れて
莨盆、に火を
埋けて、
宜いか己が出迎うから……いや是は/\どうか見苦しい処へ何とも恐入りました、どうか直にお通りを……」
織「
今日は宜く御在宅で」
大「宜うこそ……是れはお嬢様も御一緒で、此の通りの
手狭で何とも恥入りましたことで、さ
何卒お通りを……」
織「えゝ御家来誠に恐入りましたが、
一寸お台を……何でも宜しい、いえ/\
其様な大きな物でなくとも宜しい、これ/\其の包の大きな方を
此処へ」
と風呂敷を
開きまして、中から取出したは
白羽二重一匹に金子が十両と云っては、其の頃では大した進物で、これを大藏の前へ差出しました。
十四
尚も織江は
慇懃に、
織「先ず御機嫌宜しゅう、えゝ過日は図らずも飛鳥山で何とも御迷惑をかけ、
彼の
折はあゝいう場所でござって、碌々お礼も申上げることが出来んで、屋敷へ帰っても
此娘が又どうか早うお礼に出たいと申しまして、実に容易ならん御恩で、実に
辱けない事で、彼の折は主名を明すことも出来ず、怖い事も恐ろしい事もござらんが、
女連ゆえ大きに心配いたし居りました、実に其の折は意外の御迷惑をかけまして誠に相済みません事で」
大「いえ/\何う致しまして、再度お礼では
却って恐入ります、
殊に
御親子お揃いで斯様な処へおいでは何とも
痛入りましてござる」
織「えゝ
此品は(と盆へ載せた品を前へ出し)
[#「)」は底本では脱落]何ぞと存じましたが、御案内の通りで、
下屋敷から是までまいる間には何か
調えます処もなく、殊に
番退けから
間を見て抜けて参りましたことで、広小路へでも出たら何ぞ有りましょうが、是は誠にほんの到来物で、粗末ではござるが、どうか御受納下さらば……」
大「いや是は恐入ったことで……斯様な御心配を戴く
理由もなし、お
辞のお礼で十分、どうか品物の所は御免を
蒙りとう、
思召だけ頂戴致す」
織「いえ、それは貴方の御気象、誠に御無礼な次第ではあるけれども、ほんのお礼のしるしまでゞございますから、どうかお受け下さるように……
甚だ
何でござるが
御意に
適った色にでもお染めなすって、お召し下されば有難いことで、甚だ御無礼ではござるが……」
大「
何ともどうも恐入りました訳でござる
然らば折角の
思召ゆえ此の羽二重だけは頂戴致しますが、只今の身の上では斯様な結構な品を
購るわけには
迚もまいりません、
併し此のお
肴料とお
記しの包は戴く訳にはまいりません」
織「左様でもござろうが、貴方が
何でございますなら御奉公人にでもお
遣わしなすって下さるように」
大「それは誠に恐入ります、嬢さま誠に何とも……」
竹「いえ親共と早くお礼に
上りたいと申し暮し、
私も
種々心ならず居りましたが、何分にも番がせわしく、それ故大きに遅れました、
彼の節は何ともお礼の申そうようもございません、喜六やお前
一寸此方へ出て、宜くお礼を」
喜「はい旦那さま、
彼の
折は何ともはアお礼の云う
様もござえません、
私なんざアこれもう六十四になりますから、何もこれ
彼奴等に
打殺されても命の
惜いわけはなし、只私の不調法から旦那様の御名義ばかりじゃアねえ、お屋敷のお名前まで出るような事があっちゃア済まねえと覚悟を極めて、私一人
打殺されたら事が済もうと思ってる所へ、旦那様が出て何ともはアお礼の
申ようはありません、見掛けは綺麗な優しげな、力も何もねえようなお前様が、大の野郎を
打殺しただから、お侍は
異ったものだと噂をして居りました」
大「
然う云われては
却って困る、これは御奉公人で」
喜「はい
私ア
何でござえます、お嬢さまが
五才の時から御奉公をして居り、
長え間これ十五年もお附き申していますからお
馴染でがす、
彼の時お酒が一口出たもんだから、お供だで少し加減をすれば宜かったが、急いで
飲っつけたで、えら腹が
空ったから、二合出たのを
皆な
酌飲んじまい、酔ぱらいになって、つい身体が横になったところから不調法をして、旦那様に御迷惑をかけましたが、先生さまのお蔭さまで助かりましたは、何ともお礼の申上げようはござえません」
織「えゝ
今日は
直にお
暇を」
大「何はなくとも折角の
御入来、
素より斯様な
茅屋なれば別に
差上るようなお
下物もありませんが、
一寸詰らん支度を申し付けて置きましたから、一口上ってお帰りを」
織「いや
思召は
辱けないが、
今日は少々急ぎますから、
併し貴方様はお品格といい、
先達て三人を相手になすったお腕前は余程武芸の道もお心懸け、御熟練と御無礼ながら存じました、どうか承わりますれば新規お抱えに相成った權六と申す者と前々から知るお間柄ということを一寸屋敷で聞きましたが、
御生国は
矢張美作で」
大「はい、手前は津山の越後守家来で、父は松蔭大之進と申して、
聊か高も取りました者でござるが、父に少し届かん所がありまして、お
暇になりまして、
暫くの間
黒戸の方へまいって居り又は權六の居りました村方にも居りました、それゆえに
彼とは知る仲でございます」
織「実にどうも貴方は
惜いことで、大概忠臣二君に
事えずと云う堅い御気象であらっしゃるから、立派な処から抱えられても、再び
主は持たんというところの御決心でござるか」
大「いえ/\二君に
仕えんなどと申すは立派な武士の申すことで、どうか斯うやって
店借を致して、
売卜者で生涯
朽果るも心外なことで、
仮令何様な下役小禄でも
主取りをして家名を立てたい
心懸もござりますが、これという
知己もなく、
手蔓等もないことで、
先達て權六に会いまして、これ/\だと承わり、お前は
羨しい事で、遠山の苗字を継いでもと
米搗をしていた身の上の者が
大禄を取るようになったも、全くお前の
心懸が良いので自然に左様な事になったので、拙者などは早く親に別れるくらいな不幸の生れゆえ、とても
然ういう身の上には成れんが、
何様な処でも宜しいから再び武家になりたい、口が有ったら世話をしてくれんかと權六にも頼んで置きましたくらいで、
何の様な小禄の
旗下でも宜しいが、お手蔓があるならば、どうか御推挙を願いたい、此の儀は權六にも頼んで
置ましたが、御重役の尊公定めしお
交際もお広いことゝ心得ますから」
織「承知致しました、えゝ宜しい、いや実に昔は何か貞女両夫に
見えずの教訓を守って居りましたが、
却ってそれでは御先祖へ対しても不孝にも相成ること、拙者主人
美作守は小禄でござるけれども、拙者これから屋敷へ立帰って主人へも話をいたしましょう、貴方の御器量は拙者は宜く承知しておるが、家老共は
未だ知らんことゆえ、始めから貴方が越後様においでの時のように大禄という訳にはまいりません、小禄でも宜しくば心配をして御推挙いたしましょう」
大「どうもそれは
辱けない事で」
と是から互に酒を飲合って、快く其の日は別れましたが、妙な物で、助けられた恩が有るゆえ、織江が
種々周旋いたしたところから、丁度十日目に松蔭大藏の
許へお
召状が到来致しましたことで、大藏
披いて見ると。