八
權六は長助の顔を
視つめまして、
權「
貴方何をなさりやアす」
長「いや面目ないが、実は此の皿を毀したのはお
父様、此の長助でございます」
作「なに……」
長「唯今此の權六に当付けられ、実に其の時は赤面致しましたけれども、
誰も他に知る気遣いは有るまいと思いましたが、実はお千代に恋慕を云いかけたを
恥しめられた恋の
意趣、お千代の顔に疵を付け、
他へ
縁付の出来ぬようにと存じまして、家の宝を自分で毀し、其の罪を千代に塗付けようとした浅ましい心の迷い、それを權六が存じて居りながら、罪を自分の身に引受けて
衆人を助けようという心底、実に感心致しました、それに引換え
私の悪心面目もない事でございますから……」
作「暫く待て/\」
權「若旦那様、まゝお待ちなせえまし、
貴方が
然う仰しゃって下されば、權六は今首を
打斬られても名僧智識の引導より有難く受けます、
何卒お
願えでごぜえますから
私が首を……」
作「どう致して、手前は世の中の宝だ、まゝ
此処へ
昇ってくれ」
と是れから無理やりに權六の手を
把って、泥だらけの足のまゝ畳の上へ上げ、段々お千代
母子にも詫びまして、百両(此の
時だから大したもので)取り出して台に載せ、
作「
何卒此の事を世間へ言わんよう、内聞にしてくれ」
と云うと、
母子とも堅いから金を受けません、それでは困ると云うと。
權「そんなら
私が
志しが有りますから、此のお金をお貰い申し、昨年から引続きまして、当御領地の勝山、津山、東山村の辺は一体に不作でごぜえまして、百姓も
大分困っている様子でございますから、何うか施しを出したいものでがす、それに此の皿のために指を切られたり、中には死んだ者も有りましょうから、どうか本山寺様で
施餓鬼を致し、
乞食に
施行を出したいと思います」
作「あゝ、それは感心な事で、入費の処は
私も出そう」
と云うので、本山寺という寺へまいりまして、和尚さまに掛合いますと、方丈も大きに感心して、そんならばと、是れから
大施餓鬼を挙げました。多分に施行も出しました事でございまして、
彼の砕けた皿を後世のためにと云うので、皿山の
麓方のこんもりとした小高き処へ
埋めて、
標しを建て、これを
小皿山と
[#「小皿山と」は底本では「小皿山を」]名づけました。此の皿山は
人皇九十六代
後醍醐天皇、北條九代の
執権相摸守高時の為めに、
元弘二年三月
隠岐国へ
謫せられ給いし時、美作の国久米の皿山にて
御製がありました「聞き置きし久米の皿山越えゆかん道とはさらにおもひやはせむ」と太平記に出てありますと、講談師の
放牛舎桃林に聞きましたが、さて此の事が追々世間に知れて来ますと、
他人が
尊く思い、尾に尾を付けて云い
囃します。時に
明和の元年、勝山の御城主にお成りなさいました粂野美作守さまのお
城普請がございまして、人足を雇い、お
作事奉行が
出張り、本山寺へ入らっしゃいまして方々御見分が有ります。其の頃はお武家を大切にしたもので、名主年寄始め役人を
鄭重に
待遇し、御馳走などが沢山出ました。話の
序に
彼の皿塚の事をお聞きになりまして、
山川廣という方が感心なされて、
山「妙な奴もあるものだ、其の權六という者は
何処に
居る」
とお尋ねになりますと、名主が、
名「へえ、それは当時遠山と申す浪人の娘のお千代と云う者と夫婦になりまして、遠山の家名を相続して居ります、至って
醜男で、熊のような、毛だらけな男でございますが、女房はそれは/\美くしい女で、權六は命の親なり、
且其の気性に惚れて夫婦になりたいと美人から望まれ、
即ち東山作左衞門が
媒妁人で夫婦になり親子睦ましく暮して居ります、東山のつい地面内へ少しばかりの家を貰って住んで、農業を致し、親子の者が東山のお蔭で今日では豊かに暮して居ります」
と聞いて廣は
猶々床しく思い、会いたいと申すのを名主が、
名「いえ中々
一国もので、少しも人に
媚る念がありませんから、
今日直と申す訳には参りません」
というので、是非なく山川も
一度お帰りになりまして、美作守さまの御前に
於て、自分が実地を
践んで、
何処に何ういう事があり、
此処に斯ういう事があったとお物語を致し、
彼の權六の事に及びますと、美作守さま殊の
外御感心遊ばされて、左様な者なら一大事のお役に立とうから召抱えて宜かろうとの御意がござりましたので、山川は早速作左衞門へ
係ってまいりました。其の頃は御領主さまのお抱えと云っては有難がったもので、作左衞門は
直に權六を呼びに
遣わし、
作「是れは權六、来たかえ、さア
此方へ
入んな」
權「はい、ちょっくら
上るんだが、誠に御無沙汰アしました、
私も何かと忙しくってね」
作「此の間中お
母さんが塩梅が悪いと云ったが、
最う
快いかね」
權「はい、此の時候の悪いので弱え者は駄目だね、あなた
何時もお達者で結構でがす」
作「
扨て權六、まア此の上もない悦び事がある」
權「はい、
私もお蔭で喰うにゃア困らず、
彼様心懸の
宜い女を
嚊にして、おまけに旦那様のお
媒妁で本当は
彼のお千代も
忌だったろうが、仕方なしに私の嚊に成っているだアね」
作「なに
否どころではない、貴様の心底を
看抜いての上だから、人は
容貌より
唯心じゃ、何しろ命を助けてくれた恩人だから、否応なしで」
權「
併し夫婦に成って見れば、仕方なしにでも
私を大事にしますよ」
作「今
此処で
惚けんでも
宜い兎に角夫婦仲が
好ければ、それ程結構な事はない、時に權六段々善い事が重なるなア」
權「
然うでございます」
作「知っているかい」
權「はい、あのくらい運の
宜い男はねえてね、
民右衞門さまでございましょう、
無尽が当って
直に村の年寄役を言付かったって」
作「いや
左様じゃアない、お前だ」
權「え」
作「お前が
倖倖[#「倖倖」は「僥倖」の誤記か]だと云うは粂野美作守様からお抱えになりますよ、お召しだとよ」
權「へえ有難うごぜえます」
作「なにを」
權「まだ腹も
空きませんが」
作「なに」
權「お
飯を喰わせるというので」
作「アハ……お飯ではない、お召抱えだよ」
權「えゝ
然うでござえますか、藁の中へ包んで
脊負って歩くのかえ」
作「なにを云うんだ、勝山の御城主二万三千石の粂野美作守さまが小皿山の一件を御重役方から聞いて、貴様を是非召抱えると云うのだが、人足頭が
入るというので、貴様なら地理も
能く
弁えて居って適当で有ろうというのだ、初めは棒を持って見廻って歩くのだが、江戸屋敷の侍じゃアいかないというので、お召抱えになると、今から
直に貴様は侍に成るんだよ」
權「はゝゝそりゃア
真平御免だよ」
作「真平御免という訳にはいかん、是非」
權「是非だって侍には成れませんよ、第一侍は字い知んねえば出来ますめえ、また剣術も知らなくっちゃア出来ず、それに
私ゃア馬が誠に
嫌えだ、
稀には随分
小荷駄に
乗かって、
草臥休めに一里や二里乗る事もあるが、それでせえ嫌えだ、
矢張自分で歩く方が
宜いだ、其の上いろはのいの字も書くことを知らねえ者が
侍に成っても無駄だ」
作「それは皆
先方さまへ申し上げてある、山川廣様というお方に貴様の身の上を話して、学問もいたしません、剣術も心得ませんが、
膂力は有ります、人が
綽名して
立臼の權六と申し、両手で臼を持って片附けますから、あれで力は知れますと云ってあるが、其の山川廣と云うのはえらい方だ」
權「へえ、
白酒屋かえ」
作「山川廣(口の
中にて)山川白酒と聞違えているな」
權「へえー其の方が得心で、粂野さまの御家来になるだね」
作「うん、
下役のお方だが、今度の事に就いては其の
上役お作事奉行が来て居ますよ、有難い事だのう」
權「有難い事は有難いけんども、
私ゃア
無一国な人間で、
忌にお
侍へ上手を
遣ったり、窮屈におっ
坐る事が出来ねえから、
矢張胡坐をかいて
草臥れゝば寝転び、腹が
空ったら胡坐を掻いて、塩引の
鮭で茶漬を
掻込むのが
旨えからね」
作「
其様ことを云っては困る、是非承知して貰いたい」
權「兎に角母にも相談しましょう、お千代は
否と云いますめえが、お
母も有りますし、年い
老っているから、
貴方から安心の
往くように話さんじゃア承知をしません、だから其の前に
私がお役人さまにも会って、是れだけの者だがそれで勤まる訳なら勤めますとお前さまも立会って証人に成って、三人
鼎足で
緩くら話しをした上にしましょう」
作「鼎足という事はありませんよ、宜しい、それではお
母には
私が話そうから、
直に呼んだら宜かろう」
とこれから母を呼んで段々話をしましたが、もと遠山龜右衛門という立派な侍の御新造に娘ゆえ大いに悦び、
母「お屋敷へお抱えに成るとは此の上ない結構な事で」
と早速承知を致しましたので、是れからお抱えに成りましたが、
私は頓と心得ませんが、棒を持って見廻って歩き、大した高ではございません、十石三人扶持、御作事方
賄い役と申し、少禄では有りますが、段々それから昇進致す事になるので、
僅でも
先ず
高持に成りました事で、毎日棒を持って歩きますが、一体勉強家でございまして、少しも役目に怠りはございません、誠に宜く働き、人足へも手当をして、骨の折れる仕事は自分が手伝いを致して居りました。此の事が御重役
秋月喜一郎というお方の耳に入りどうか權六を江戸屋敷へ差出して、江戸詰の者に見せて、
惰け者の
見手本にしたいと
窃かに心配をいたして居ります。
九
粂野美作守さまの御舎弟に
紋之丞前次さまと云うが有りまして、
当時美作守さまは御病身ゆえ御控えに成って入らっしゃるが、
前殿さまの御秘蔵の若様でありましたから、御次男でも中々羽振りは宜うございますが、誠に武張ったお方ゆえ武芸に達しておられますので、馬を
能く乗るとか、槍を能く使うとか云う者があると、近付けてお側を放しません。所で
件の權六の事がお耳に入りますと、其の者を予が
傍へ置きたいとの御意ゆえ、お附の衆から老臣へ申し立て、
上へも
言上になると、苦しゅうないとの
御沙汰で、至急に江戸詰を仰付けられたから、母もお千代も悦びましたが、悦ばんのは遠山權六でございます。窮屈で
厭だと思いましたが、致し方がありませんから、江戸
谷中三崎の
下屋敷へ引移ります。只今は開けまして綺麗に成りましたが、其の頃梅を大層植込み、梅の御殿と申して新らしく御普請が出来て、誠にお立派な事でございます。前次様は權六が江戸着という事をお聞きになると、至急に会いたいから早々呼出せという御沙汰でございます。是れから
物頭がまいりまして、段々
下話をいたし、權六は着慣れもいたさん
麻上下を着て、紋附とは云え木綿もので、
差図に任せお次まで
罷り
出で控えて居ります。
外村惣江と申すお
附頭お
納戸役川添富彌、
山田金吾という者、其の
外御小姓が二人居ります。
侍分の子で十三四歳ぐらいのが附いて居り、殿様はきっと固く
鬢を
引詰めて、芝居でいたす忠臣蔵の
若狭之助のように眼が
吊し上っているのは、
疳癪持というのではありません。髪を引詰めて結うからであります、誠に活溌な良い御気象の御舎弟さまで、
小姓「えゝ、お召によりまして權六お次まで控えさせました」
前「あゝ富彌、早速其の者を見たいな、ずっと連れてまいって予に見せてくれ、余程勇義なもので、
重宝の皿を
一時に打砕いた気象は実に英雄じゃ、感服いたした早々
此処へ」
富「えゝ、田舎育ちの武骨者ゆえ、何とお言葉をおかけ遊ばしても御挨拶を申し上ぐる
術も心得ません無作法者で、実に手前どもが会いましても、はっと思います事ばかりで、何分にも
御前体へ
罷出でましたら
却って御無礼の義を……」
前「いや苦しゅうない、無礼が有っても宜しい、早く会いたいから呼んでくれ、無礼講じゃ、呼べ/\」
富「はっ/\權六/\」
權「はい」
富「お召しだ」
權「はい、おめしと云うのは
御飯を喰うのではない、呼ばれる事だと此の頃覚えました」
富「
其様な事を云ってはいかん、
極御疳癖が強く
入っしゃる、其の代り御意に
入れば仕合せだよ」
權「詰り気に入られるようにと思ってやる仕事は出来ましねえ」
富「其様なことを云ってはいかん、何でも物事を
慇懃に云わんければなりませんよ」
權「えゝ
彼処で
隠元小角豆を喰うとえ」
富「丁寧に云わんければならんと云うのだ」
權「そりゃア出来ねえ、此の儘にやらして下せえ」
富「此の儘、困りましたなア、
上下の肩が曲ってるから
此方へ寄せたら宜かろう」
權「之れを寄せると又此方へ寄るだ、懐へこれを
納れると格好が
宜いと、お千代が云いましたが、何にも
入っては居ません」
富「此の頃は別して手へ毛が生えたようだな」
權「なに
先から斯ういう手で、毛が
一杯だね、足から胸から、
私の胸の毛を見たら殿様ア
魂消るだろう」
富「其様な大きな声をするな、是から縁側づたいにまいるのだ、間違えてはいかんよ、
彼処へ出ると
直にお目見え仰せ付けられるが、
不躾に殿様のお顔を見ちゃアなりませんよ」
權「えゝ」
富「いやさ、お顔を見てはなりませんよ、
頭を
擡ろと仰しゃった時に始めて首を上げて、殿様のお顔をしげ/″\見るのだが、
粗にしてはなりませんよ」
權「そんならば
私を呼ばねえば
宜いんだ」
富「さ、
私の尻に
尾付いてまいるのだよ曲ったら構わずに……
然う
其方をきょと/\見て居ちゃアいかん、あ痛い、何だって私の尻へ
咬付いたんだ」
權「だってお
前さん尻へ
咬付けって」
富「困りますなア」
と小声にて小言を云いながら御前へ出ました。富彌は慇懃に両手を突き、一礼して、
富「へい、お召に依って權六
罷出ました、お目見え仰付けられ、權六身に取りまして此の上なく
大悦仕り、有難く
御礼申上げ奉ります」
殿「うん權六、もっと進め/\」
と云いながら見ると、肩巾の広い、筋骨の
逞しい、色が
真黒で、毛むくじゃらでございます。実に
鍾馗さまか北海道のアイノ
人が出たような様子で有ります。前次公は見たばかりで大層御意に入りました。
殿「どうも骨格が違うの、是は妙だ、權六其の方は国で衆人の為めに
宝物を打砕いた事を予も聞いておるが、感服だのう、
頭を
擡げよ、
面を上げよ、これ權六、權六、
如何致した、何も申さん、返答をせんの」
富「はっ、これ御挨拶を/\」
權「えゝ」
富「御挨拶だよ、お言葉を
下し置かれたから御挨拶を」
權「御挨拶だって……」
と只きょと/\して物が云えません。
殿「もっと前へ進め、遠くては話が分らん、ずっと前へ来て、大声で遠慮なく云え、
頭を上げよ」
權「上げろたって顔を見ちゃアなんねえと云うから誠に困りますなア、何うか此の儘で前の方へ押出して
貰いてえ」
小姓「此の儘押出せと、
尋常の人間より大きいから一人の
手際にはいかん、
貴方そら尻を押し給え」
權「さアもっと力を入れて押出すのだ」
殿「これ/\何を致す
其様なことをせんでも宜しいよ、つか/\歩いてまいれ、成程立派じゃなア」
權「えゝ、まだ
頭を上げる事はなんねえか」
殿「富彌、余り
厳ましく云わんが
宜い、窮屈にさせると
却って話が出来ん、成程立派じゃなア、昔の勇士のようであるな」
權「へえー、なんですと」
殿「
古の英雄加藤清正とも黒田長政とも云うべき人物じゃ、どうも顔が違うのう」
權「へえーどうも誠に違います」
富「誠に違いますなんて、自分の事を其様な事を云うもんじゃア有りませんよ」
殿「これ/\小声で
然うぐず/\云わんが
宜い」
權「
衆人が然う云います、へえ
嚊は誠に器量が
美いって」
富「これ/\家内の事はお尋ねがないから云わんでも
宜い」
權「だって話の
序だから云いました」
富「話の序という事がありますか」
殿「其の方
生国は
何処じゃ、美作ではないという事を聞いたが、
左様か」
權「何でごぜえます」
殿「生国」
權「はてな……何ですか、あの勝山在にいる医者の
木村章國でがすか」
殿「左様ではない、生れは何処だと申すのじゃ」
權「生れは忍の行田でごぜえますが、
少せえ時分に両親が死んだゞね、それから仕様がなくって
親戚頼りも
無えもんでがすが、懇意な者が
引張ってくれべえと、引張られて
美作国へ
参りまして、十八年の
長え間
大くお世話さまでごぜえました」
富「これ/\お世話さまなんぞと云う事は有りませんよ」
權「だってお世話になったからよ」
殿「これ富彌控えて居れ、一々咎めるといかん、うん成程、武州の者で、長らく
国許へ参って居ったか、其の方は余程力は勝れて
居るそうじゃの」
權「
私が力は
何の位あるか自分でも分りませんよ、何なら相撲でも取りましょうか」
富「これ/\
上と相撲を取るなんて」
權「だって、力が分らんと云うからさ」
殿「誠にうい奴だ、予が近くにいてくれ、予が側近くへ置け」
富「いえ、それは余り
何で、此の通りの
我雑ものを」
殿「苦しゅうない、誠に正直潔白で
宜い、予が
傍に居れ」
權「それは御免を願いてえもんで、
私には出来ませんよ、へえ、
此様な窮屈な思いをするのは御免だと初手から断ったら、白酒屋さんの、えゝ……」
殿「山川廣か」
權「あの人よ」
富「あの人よと云う事が有るかえ、
上のお言葉に背く事は出来ませんよ」
權「背くたって
居られませんよ」
富「
居られんという事は有りません、御無礼至極じゃアないか」
權「御無礼至極だって
居られませんよ」
殿「マ富彌控えて居れ、然う一々小言を申すな、面白い奴じゃ」
權「
私ア
素米搗で
何も知んねえ人間で、剣術も知んねえし、学問もした事アねえから何うにも斯うにもお
侍には成れねえ人間さ、力はえらく有りますが、何でも召抱えてえと御領主さまが云うのを、無理に断れば親や女房に難儀が掛るというから、そりゃア困るが、これ/\で宜くばと
己がいうと、それで
宜いから来いと云われ、それから
参っただねお
前さま…」
富彌ははら/\いたしまして、
富「お
前さまということは有りませんよ、
御前様と云いなさい」
權「なに御前と云うのだえ、飯だの御膳だのって
何方でも
宜いじゃアないか」
殿「これ富彌止めるな、宜しいよ、お
前も御前も同じことじゃのう」
權「然うかね、其様な事は存じませんよ、それから
私が
此処の
家来になっただね、して見るとお
前様、私のためには
大事なお人で、私は
家来でござえますから、永らく居る内にはお
互えに
心安立てが出て来るだ」
富「これ/\心安立てという事がありますか」
權「するとお
大名は誠に疳癪持だ」
富「これ/\」
殿「富彌又口を出すか、宜しい、控えよ、実に大名は疳癪持だ、疳癪がある、それから」
權「殿様に我儘が
起れば、
私にも疳癪が有りますから、主人に間違った事を云われると、ついそれから仲が悪くなります、時々逢うようにすれば、人は何となく懐かしいもので、あゝ会いたかった、宜く来たと
互えに大騒ぎをやるが、
毎日傍にいると、私が殿様の疳癪をうん/\と気に障らねえように聞いていると、私が胡麻摺になり、
諛になっていけねえ、此処にいる人に
偶には
些とぐれえ腹の立つ事があっても、主人だから仕方がねえと諦め、御前さまとか
御飯とかいう事になって、実の所をいうと然ういう人は横着者だね」
殿「成程左様じゃ、至極左様じゃ、
正道潔白な事じゃ、これ權六、以来予に悪いことが有ったら其の方
諫言を致せ、是が君臣の道じゃ、宜しい、許すから居てくれ」
權「
尊公がそれせえ御承知なら居ります」
殿「早速の承知で過分に思う、併し其の方は剣道も心得ず、
文字も知らんで、予の側に
居るのは、何を以て君臣の道を立て奉公を致す心得じゃ」
權「他に心得はねえが、
夜夜中乱暴な奴が
入るとなりませんから、
私ゃア寝ずに御殿の
周囲を
内証で見廻っていますよ、もし狐でも出れば
打殺そうと思ってます」
殿「うん、じゃが戦国の世になって戦争の起った時に、
若し味方の者が追々敗走して敵兵が
旗下まで切込んでまいり、敵兵が予に槍でも向けた時は何う致す」
權「然うさね、
其処が大切だ」
殿「さ何う致して予を助ける」
權「そりゃア
尊公どうも此処に一つ」
と權六は胸をたゝき、
「忠義という刄物が有るから、剣術は知らねえでも義という鎧を着ているから、敵が槍で尊公に
突掛けて
参れば、
私ア
掌で受けるだ、一本脇腹へ突込まして、敵を
捻り倒して
打殺してやるだ、其の内に尊公を助けて逃がすだけの仕事よ」
殿「うん成程、立派な事だ、
併し然う
甘く口でいう通りに
行くかな」
權「
屹度行ります、其処は
主家来の情合だからね」
殿「うん面白い奴じゃ、
然らば敵が若し斯様に致したら何うする」
とすっと立ち上って、欄間に掛けて有りました九尺
柄の
大身の槍を取って、スッ/\と二三度しごいて、
「斯様に突き掛けたら何う致す」
と真に突いて
蒐った時に權六が、
權「然うすれば斯う致します」
と少しも動かずに、ジリ/\と殿様の前へ進むという正直律義の人でございます。