四十三
お縫は迎いを受けて、
衣服が売れて
幾許かの口銭になることゝ悦んで、お定と一緒にまいりました。
定「旦那さま、あのお縫どんを連れてまいりました」
富「おゝ
直に連れて来たか、
此方へ通せ」
縫「旦那様御機嫌宜しゅう」
富「
其処では話が出来ん、
此方へ這入れ構わずずうっと這入れ」
縫「はい……毎度御贔屓さまを有難う……毎度御新造様には
種々頂戴物を致しまして有難う存じます」
富「毎度面倒な事を頼んで、大分
裁縫が
巧いと云うので、大きに
妻も悦んでいる、
就ては忙しい中を
態々呼んだのは他の事じゃアないが、此の
払物の事だ」
縫「はい/\、誠に只お安うございまして、古着屋などからお取り遊ばすのと違って、
出所も知れて居りますから上げました、
途々もお定どんに伺いましたが、大層御意に
入って、黄八丈は旦那様がお召に遊ばすと伺いましたが、少しお
端手かも知れませんが、誠に
宜いお色気でございます」
富「それじゃア話が出来んから
此方へ這入れ」
縫「御免遊ばして……恐入ります」
富「茶を
遣れよ」
縫「恐入ります……これは大層大きなお菓子でございますねえ」
富「それは
上からの下されたので」
縫「へえ中々
下々では
斯ういう結構なお菓子を見る事は出来ません、頂戴致します、有難う存じます」
富「あゝ此の二枚の着物は
何処から出たんだえ」
縫「そりゃアあの何でございます、
私が
極心安い人でございまして、その少し都合が悪いので払いたいと申して、はい私の極心安い人なのでございます」
富「何ういう事で払うのだ」
縫「はい、その何でございます、誠に只もう
出所が分って居りまして、古着屋などからお取り遊ばしますと、それは分りません事で、もしやそれが何でございますね、ま随分お寺へ
掛無垢や何かに成ってまいったのが、知らばっくれて払いに出ます事が
幾許もございます、左様な
不祥な品と違いまして、出所も分って居りますから何かと存じまして」
富「それは分っているが、何ういう訳で払いに出たのだえ」
縫「まことに困ります、急にその災難で」
富「むゝう災難……何ういう災難で」
縫「いえ、その別に災難と申す訳もございませんけれども、急に嫁にまいるつもりで
拵えました縁が破談になりまして、不用になった物で」
富「はゝア、これは何と申す婦人のだえ、何屋の娘か知らんけれども、何と申す人の着物だえ」
縫「そりゃアその何でございます、
私のような名でございますね」
富「手前のような……矢張縫という名かえ」
縫「いゝえ、縫という名じゃアございませんが、その心安くいたす間柄の者で」
富「心安い何という名だえ」
縫「それはどうも誠に何でございますね、その人は名を
種々に
取換る人なんで、最初はきんと申して、それから
芳となりましたり、またお梅となったり
何か致しました」
富「むゝう、今の名は何という」
縫「芳と申します」
富「隠しちゃアいかんぜ、少し
此方にも調べる事があるから、お前を呼んだのじゃ、此の着物を着た女の名は菊といやアせんか」
縫「はい」
富「左様だろうな」
お縫
揉手をしながら、
縫「菊という名に
一寸なった事もあります」
富「一寸成ったとは
可笑しい隠しちゃアいかん、その菊という者は
此方にも少し心当りがあるが、親の
家は
何処だえ」
縫「はい」
富「隠しちゃアならん、お前に迷惑は掛けん、これは買入れるに相違ない、今代金を遣るが、菊という者なればそれで宜しいのだ、菊の親元は何処だえ」
縫「はい、誠にどうも恐入ります」
富「何も恐入る事はない、頼まれたのだから仔細はなかろう」
縫「親元は本郷春木町三丁目でございます、指物屋の岩吉と申します、其の娘の菊ですが、その菊が
死去りましたんで」
富「うん、菊は同家中に奉公していたが、少々仔細有って自害致した」
縫「でございますけれども、これはその自害した時に着ていた着物ではございません」
富「いや/\自害した女の
衣類だから不縁起だというのではない、買っても
宜い」
縫「有難う存じます、その親も
死去りました、其の跡は職人が続いて法事をいたして、石塔や
何かを建てたいという心掛なので」
富「左様か、それで宜しい、もう帰れ/\……おゝ馳走をすると申したっけ、
欺しちゃアならん、
私は
直に
上るから」
と川添富彌は急に支度をして御殿へ出ることになりました。御殿ではお
夜詰の方々が次第/\にお疲れでございます。お医者は
野村覺江、
藤村養庵という二人が控えて居ります。お夜詰には佐藤平馬、
外村惣衞と申してお
少さい時分からお附き申した御家来
中田千股、老女の
喜瀬川、お小姓
繁などが
交々お薬を
上る、なれどもどっとお悪いのではない、
床の上に坐っておいでゞ、庭の景色を御覧遊ばしたり、千股がお枕元で軍書を読んだり、するをお聞きなさる。お熱の
工合でお悪くなると、ころりと横になる。
甚く寒い、もそっと掛けろよと御意があると、綿の厚い
夜着を余計に掛けなければなりません。お大名様方は釣夜具だとか申しますが、それほど奢った訳ではない。お附の者も皆心配して居られます。いまだお年若で、今年二十四五という
癇癖ざかりでございます。老女喜瀬川が出まして、
喜「
上……上」
紋「うむ」
喜「お上屋敷からお使者がまいりました」
紋「うむ、誰が来た」
喜「
上のお使いに神原五郎治がまいりまして、御病気伺いに出ました、お目通りを仰付けられたいと申します、御面倒でございましょうが、お使者ではお会いが無ければなりますまい、
如何致しましょうか」
紋「うむ、神原五郎治か……
彼は嫌いな奴じゃが、
此処へ通せ」
喜「
畏りましてございます……若殿がお会いが有りますから、これへ
直に」
と中田千股という人が取次ぎますと、結構な
蒔絵のお台の上へ、
錦手の結構な
蓋物へ水飴を入れたのを、すうっと持って参り、
喜「お上屋敷からのお
遣い物で」
とお枕元に置く。お次の
隔を開けて両手を
支え、
五「はア」
と
慇懃に辞儀をする。
五「神原五郎治で、長の御不快蔭ながら心配致して居りました、また
上に置かせられてもお聞き及びの通り御病中ゆえ、
碌々お訪ね申さんが、予の病気より梅の御殿の方が案じられると
折々仰せられます、
今日は御病気伺いとして
御名代に
罷り出ました、
是れは水飴でございますが、夜分になりますとお咳が出ますとのこと、其の咳を防ぎますのは水飴が宜しいとのことで、これは
極製の水飴で、これを召上れば宜くお
眠られます、上が
殊の
外御心配なされ、お心を入れさせられし
御品、
早々召上られますように」
紋「うむ五郎治、あゝ予の病気は大した事はない、
未だ壮年の身で、少し位の病魔に負けるような事はない、
快い時は縁側ぐらいは歩くが、只お案じ申上げるのはお
兄様の御病気ばかり、誠に案じられる、お歳といい、此の程はお悪いようじゃが、何うじゃな」
五「はア
一昨日は余程お悪いようでございましたが、
昨日よりいたして段々御快気に
赴き、
今朝などはお
粥を三椀程召上りました、其の上お力になる魚類を召上りましたが、
彼の分では遠からず御全快と心得ます」
紋「うむ悦ばしい、予が夜分咳の出るは余程せつないがの、其のせつない
中にもお兄様をお案じ申上げて、予の病気は兎も角、どうか早くお兄上様の御病気御全快を蔭ながら祈り
居ると申せ」
五「はア、はア、そのお言葉を
上がお聞きでござったら、
嘸お悦びでございましょう、御病苦を忘れ、只お上のことのみ
思召さるゝというのは、あゝ誠にお使者に参じました五郎治
倶に
辱のう心得ます、只今の御一言早々帰りまして、上へ申上げるでございましょう、実に斯様な事を承わりますのは、誠に悦ばしい事で」
紋之丞殿は急に
気色を変え、声を
暴らげ、
紋「五郎治、申さんでも宜しい、お
兄様に左様な事を申さんでも宜しい、弟が兄を思うは
当前の事じゃ、お兄様も
亦予を思うて下さるのは何も珍らしい事はない、改めて左様申すには及ばん、
然るを事珍らしく左様の事を申伝えずとも、よも斯様の事は御存じで有ろう、左様に
媚![※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/2-88/2-88-72.png)
った事を云うな」
五「はア……誠にどうも」
老女「左様なお
高声を遊ばすと
却って御病気に障ります、左様な心得で五郎治が申した訳ではありません」
紋「一体斯様な事をいう手前などはな主人を
常思わんからだ、主人を思わん奴が
偶々胸に主人の為になる事を
浮ぶと、あゝ忠義な者じゃと
自ら誇る、家来が主人を思うは
当然の事だ、常思わんから
偶に主人を思う事があると、
私は忠義だなどと自慢を致す、不忠者の心と引較べて左様に申す、
白痴者め、早々帰れ」
と
以ての外不首尾でございますから、
五「ホヽ」
と五郎治
[#「五郎治」は底本では「五郎次」]は手持不沙汰で、
五「
今日は
上の御名代として
罷出ましたが、
性来愚昧でございまして、申上げる事も
遂にお気に障り、お腹立に相成ったるかは存じませんが、
偏に御容赦の程を願います」
紋「
退れ」
五「はっ」
老「五郎治殿御病気とは申しながら誠に
御癇癖が強く、時々斯ういうお高声があります事で、
悪しからず……あなた、左様なことを御意遊ばすな、それがお悪い、お高声を遊ばすとお動悸が出まして、
却って、お悪いとお医者が申しました」
紋「うむ、
今日はお兄上様からお
心入の物を下され、それを持参いたしたお使者で、
平生の五郎治では無かった、誠に使者
太儀」
ごろりと
直に横っ倒しになり、
掻巻を鼻の
辺まで
揺り上げてしまう。仕方が無いから五郎治はそろり/\と跡へ
退る。一同気の毒に思い、一座白け渡りました。
千「神原氏、余程の御癇癖お気に
支えられん様に、我々はお
少さい時分からお附き申していてさえ、時々お
鉄扇で打たれる様な事がある、御病中は誠に心配で、
腫物に障るような思いで、此の事は
何卒上へ仰せられんように」
五「宜しゅうございます」
老「五郎治殿、誠に
今日は
遠々の処御苦労に存じます、只今の事は
上へ仰せ上げられんように、何もござりませんが
一献差上げる支度になって居りますから、あの
紅葉の
間へ」
と言われて五郎治は是を
機会に其の座を
退きました。暫く経つと紋之丞様がばと起上って、
紋「惣衞/\」
惣衞「はア」
紋「惣衞、何は帰ったか五郎治は」
惣「えゝ
慥かお次に
扣え居りましょう、
上のお
使でございますから、紅葉の方へ案内致しまして、一献出しますように膳の支度をいたして居ります」
紋「じゃが
何じゃの、
何故お
兄様は
彼な奴を愛して側近く置くかの、
彼はいかん奴じゃ」
惣「左様な事を
今日は御意遊ばしません方が宜しゅうございます」
紋「云っても宜しい、
彼は
![※(「言+滔のつくり」、第4水準2-88-72)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/2-88/2-88-72.png)
い武士じゃ、
佞言甘くして蜜の如しで、神原
或は寺島
等をお愛しなさるのは、勧める者が有るからじゃの、惣衞」
惣「御意にござります」
紋「心配じゃ」
惣「御病中何かと御心配なされては相成りません、
程無うお国表から福原數馬も出仕致しますから」
紋「あゝ數馬が来たら何うか成るか、あゝ
逆上せて来た、折角お兄様から下すった水飴、
甜めて見ようか」
惣「召上りませ、お湯を是へ」
是から蓋が附いて高台に載せてお湯が出ました。側に
在ります銀の
匙を
執って水飴を
掬おうとしたが、旨くいきません。
紋「これは思うようにいかんの」
惣「
極製の水飴ゆえ
金属ではお取り
悪うございます、
矢張木を
裂いた箸が宜しいそうで」
紋「
然うかの、箸を持て」
と箸を二本
纒めて
漸々沢山捲き上げ、老女が
頻りに世話をいたして、
老「さア/\お口を」
紋「うむ」
と今箸を取りにかゝる処へ駈込んで来たのは川添富彌、物をも云わず紋之丞様が持っていた箸を
引奪って、突然庭へ棄てた時には老女も驚き、殿様も
肝を
潰しました。
四十四
紋「何じゃ/\」
富「ハッ富彌で」
紋
[#「紋」は底本では「富」]「
白痴……何をいたす」
富「ハア」
と胸を
撫下し、
富「誠に幸いな処へ駈付けました、どうか水飴を召上る事はお
止りを願います、決して召上る事は
相成ません」
老「はアどうも
私は
恟りしました、これは何という事です、御無礼至極ではござりませんか、
殊に只今お上屋敷からお見舞として下されになった水飴、お咳が出るから召上ろうとする所を、
奪ってお庭へ棄てるとは何事です」
富「いえ、これは棄てます」
紋「富彌、此の水飴はお
兄様がな咳が出るからと云って養いに
遣わされた水飴を、
何故其の方は庭へ棄てた」
富「いえ
仮令お上屋敷から参りましても、
天子将軍から参りましても此の水飴は富彌
屹度棄てます」
紋「何うか致したな
此奴は……これ其の方は予が口へ入れようとした水飴を庭へ棄てた上からは、取りも直さず予とお兄様を庭へ投出したも同様であるぞ、品物は構わんが、折角お心入れの品を投げ棄てたからは主人を投げたも同じ事じゃ」
富「へえ重々恐入ります、其の段は誠に恐入りましたが、水飴を召上る事は決して相成りません」
紋「何故ならん」
富「何でも相成りません」
紋「余程
此奴は何うかいたして
居る、無礼至極の奴じゃ」
富「御無礼は承知して居ります、
甚だ相済みません事と存じながら、お毒でござるによって上げられません」
紋「何故毒になる、
若し毒になるなら、水飴を上げても咳の助けには相成らん、
却って悪いから
止せと何故止めん」
富「左様な事を口でぐず/\申している内には召上ってしまいます、召上っては大変と存じまして、お庭へ投棄てました」
紋「余程変じゃ…」
富「
先ま外村氏安心致しました」
外「安心じゃアない、
粗忽千万な事じゃないか、手前は只驚いて何とも申上げ様がない、お上屋敷から下すったものを無闇にお庭へ投棄てるというは何ういう心得違いで」
紋「外村彼是云うな、此奴は君臣の道を
弁えんからの事じゃ、予を
嘲弄致すな、年若の主人と
侮り
何の
様な事を致しても宜しいと存じておるか、幼年の時から予の側近く
居るによって、いまだに予を子供のように思って馬鹿に致すな」
富「いえ、中々もちまして」
紋「いや
容赦は出来ん、棄置かれん、
今日の
挙動は容易ならんことじゃ」
富「お棄置きに成らんければお手打になさいますか」
紋「
尤も左様」
富「
私も
素より覚悟の上、お手打になりましょう」
外「これ/\何だ、何を馬鹿を申す、少々
逆上て
居る様子、只今御酒を戴きましたので、惣衞
彼に
成代ってお詫をいたします、富彌儀
太く
逆上をして
居る様子で」
富「いゝえ
私はお手打に成ります」
紋「おゝ手打にしてやる是へ出え」
富「いゝえお止めなすっても
私は出る」
と大変騒々しくなって来た処へ、這入って来ましたのは秋月喜一郎という御重役で、お茶台の上へ水飴を載せてスーと這入って来ながら此の
体を見て。
喜「何を遊ばすの、御病中お高声はお宜しく有りません、富彌如き者をお相手に遊ばしてお論じ遊ばすのはお宜しくない、富彌も控えよ」
富「へえ/\」
と云ったが心の
中で、此の秋月は忠義な者と思ったから。
富「何分宜しく、
併し水飴はお
止め申します」
紋「えゝ喜一郎、
今日は富彌の罪は
免さんぞ、幼年の折から側近くいて世話致しくれたとは申しながら、余りと云えば予を嘲弄いたす、予を
蔑にする富彌、免し難い、斬るぞ」
喜「これは又大した御立腹、全体何ういう事で」
紋「予が咳を治さんとて、上屋敷から遣わされたお心入れの別製の水飴を甜めようとする処へ、此奴が駈込んで参り
突然予が持っていた箸を
引奪って庭へ棄てた、これ
取も直さず兄上を庭へ投げたも同じ事じゃから免さん、それへ直れ、
怪しからん奴じゃ」
喜「これは怪しからん、富彌、何ういう心得だ、
上から下された水飴というものは一通りならんと、梅の御殿様の
思召すところは
御情合で、
態々仰附けられた水飴を何で左様な事をいたした」
富「お毒でございますから、お口に
入らん内にと口でお
止め申す
間合がございませんから、無沙汰にお庭へ棄てました」
喜「それは又何ういう訳で」
富「何ういう訳と申して、只今申上げる訳にはまいりませんが、至ってお毒で」
喜「ムヽウ、是は初めて聞く水飴は周の世の末に始めて製したるを取って
柳下惠がこれを見て
好い物が出来た、歯のない老人や乳のない子供に甜めさせるには妙である、誠に結構なものが出来た、後の世の
仕合であると申したという、お咳などには大妙薬である、
斯る結構な物を毒とは何ういう
理由だ
尤も其の時に
盜跖という大盗賊が手下に話すに、
是れは
好いものが出来た、戸の
枢に塗る時は音がせずに
開く、盗みに忍び
入るには妙である至極
宜い物であると申したそうだ、同じ水飴でも見る人によっては
然う違う、拙者もお見舞いに差上る積りで態々白山前の飴屋源兵衞方から持参いたした此の水飴」
富「これは
怪しからん秋月の御老人に限って
其様なことは無いと存じていたが、是は怪しからん、あなたは何うかなすったな」
喜「其の方こそ何うかして
居る、お咳のお助けになり、お養いになる水飴を」
富「ス……はてな」
と心の
中で川添富彌が忠義無二の秋月と思いの
外、上屋敷の家老寺島
或は神原五郎治と
与して、水飴を
上へ勧めるかと思いましたから、顔色を変えてジリヽと膝を前へ進め。
富「相成りません」
紋「
白痴……喜一郎あのような事を申す、余程
訝しい変になった」
喜「余程変に相成りましたな」
富「御老臣が献ずる水飴でも決して相成りません、
私はお手打に成ります、
上のお手打は元より覚悟、お手打になっても
聊か
厭いはございませんが、水飴は毒なるものと
思召しまして此の
後も召上らんように願います、
仮令喜一郎が持って参りましょうとも、水飴を召上る事は相成りません」
紋「
何じゃ何の事じゃ、
白痴め」
喜「拙者が持って参った水飴が毒じゃと申すのか、ムヽウ……それじゃア斯う致そう、拙者がお毒味を致そう。
上お
匙を拝借致します」
と
入物の蓋を取り
除けて水飴を取りにかゝるから、川添富彌がはてなと見て居ります。秋月は富彌の顔を見ながら、水飴を箸の
端へ段々と
巻揚げるのを膝へ手を置いて御舎弟紋之丞殿が見詰めて居りましたが、口の処へ持って来るから。
紋「喜一郎、毒味には及ばん」
喜「はっ」
紋「もう宜しい、予は水飴は嫌いになった、毒味には及ばん、水飴は取棄てえ」
喜「はッ」
紋「喜一郎が勧めるのも忠義、富彌が
止むるも忠義、二人して予を思うてくれる志
辱なく思うぞ」
喜「ほう」
富「ほう」
御懇の御意で喜一郎富彌は
落涙致しました。
喜「富彌有難く御挨拶を申せ……有難うございます」
富「あゝ有難うございまする」
と涙を払い
富「無礼至極の富彌、お手打になっても苦しからん処、格別のお言葉を頂戴いたし、富彌死んでも
聊か
悔む所はございません」
紋「いや喜一郎と富彌の両人へ何か馳走をして
遣れ、喜瀬川は料理の支度を」
老女「はい」
と鶴の
一声で、
忽ち結構なお料理が出ました。水飴を
棄ると、お
手飼の
梅鉢という犬が来てぺろ/\皆甜めてしまいました。それなりに
夜に
入りますとお庭先が
寂と致しました。
尤も御案内の通り谷中三崎村の
辺は淋しい処で、裏手はこう/\とした森でございます。所へ頭巾
目深に大小を無地の羽織の下に
落差しにして忍んで来る一人の侍、裏手の外庭の林の前へまいると、グックと云うものがある。はて何だろうと暗いから、
透して見ると、お手飼の
白班の犬が
悶いて居ります。
怪しの侍が
暫く視て
居る。最前から森下の
植込みの蔭に腕を組んで様子を
窺うて居るのは
彼の遠山權六で、
曩に松蔭の家来有助を取って押えたが、松蔭がお羽振が
宜いので、事を
問糺さず、無闇に人を
引括り、
上へ手数を掛け、何も
弁えん奴だと權六は遠慮を申付けられました、遠慮というのは
禁錮の事ですが、權六
些とも
[#「些とも」は「些とも」「些とも」などの誤記か]遠慮をしません、相変らず
夜々のそ/\出てお庭を
見巡って居りますので、今權六が
屈んで見て居りますと、犬がグック/\と苦しみ、ウーンワン/\と
忌な声で
吠える、暫く
悶いて居りましたが、ガバ/\/\と泡のような物を吐いて土をむしり木の根方へ頭をこすり附けて横っ倒しに
斃れるのを見て、怪しの侍が
抜打にすうと犬の首を
斬落して、懐から紙を取出し、すっかり血を
拭い、
鍔鳴をさせて
鞘に収め、血の附いた紙を藪蔭へ投込んで、すうと
行きに掛るから權六は怪しんですうッと立上り、
權「いやア」
と
突然に
彼の侍の
後から組附いた時には、
身体も
痺れ息も
止るようですから、侍は驚きまして、
曲者「放せ」
權「いや放さねえ、怪しい奴だ、何者だ、何故犬う斬った、さ何者だか名前を云え」
曲「手前たちに名前を申すような者じゃアねえ、
其処放せ」
權「放さねえ、さ役所へ
行け」
曲「役所へ
行くような
者じゃア
無え」
權「黙れ、頭巾を深く被りやアがって、大小を差して怪しい奴だ、此のまア
御寝所近え奥庭へ這入りやアがって、
殊に大切な犬を斬ってしまやアがって、さ
汝何故犬を斬った」
曲「何故斬った、此の犬は
己に
咬付いたから、ムヽ咬付かれちゃアならんから斬ったが何うした」
權「黙れ、
己ア見ていたぞ、咬付きもしねえ犬を斬るには何か
理由があるだろう、云わなければ
汝絞殺すが何うだ」
曲「ムヽせつないから放せ」
權「放せたって容易にア放さねえ、さ
歩べ、え
行かねえか」
と
大力無双の權六に
捉えられたのでございますから身動きが出来ません。
引摺られるようにしてお役所へ参り、早々届けに成りました事ゆえ、此の者を
縛し上げまして、其の
夜罪人を入れ置く処へ入れて置き、翌日お調べというのでお役所へ呼出しになりました時には、
信樂豐前というお方がお目付役を仰付けられて、掛りになりました。此の信樂という人は
左したる
宜い身分でもないが、理非明白な人でありますから、お目付になって、
内々叛謀人取調べの掛りを仰付けられました。
差添は
別府新八で、曲者は
森山勘八と申す者で、神原五郎治の家来であります。呼出しになりました時に、五郎治の
弟四郎治が
罷り出ます事になりお縁側の処へ
薄縁を敷き、其の上に遠山權六が坐って居ります。お目付は正面に居られます。また砂利の上に
莚を敷きまして、其の上に
高手小手に
縛されて森山勘八が居りますお目付が席を進みて。
目付「神原五郎治
代弟四郎治、遠山權六役目の儀ゆえ言葉を改めますが、左様に心得ませえ」
四「はっ」
權「ほう」
目付「權六其の方昨夜外庭見廻りの
折、内庭の
檜木山の蔭へまいる
折柄、面部を包みし怪しき侍
体のものが、内庭から忍び
出で、お手飼の梅鉢を一刀に斬りたるゆえ、怪しい者と心得て組付き、引立て来たと申す事じゃがそれに相違ないか」
權「はい、それに相違ございません、どうも眼ばかり出して、
長え物を
突差しまして、あの檜木山の間から出て来た……、怪しい奴と思えやして見ているうち、犬を斬りましたから、何でも怪しいと思えやしたから、ふん
捕めえました」
目付「うん……神原五郎治家来勘八、
頭を上げえ」
勘「へえ」
目「何才になる」
勘「三十三でございます」
目「其の方
陪臣の身の上でありながら、
何故に御寝所近い内庭へ忍び込み、
殊には面部を包み、刄物を提げ、忍び込みしは
何故の事じゃ、又お手飼の犬を斬ったと申すは
如何なる次第じゃ、さ
有体に申せ」
と
睨めつけました。