九
引続ましてお
聴に入れますが、世の中に腹を立ちます程誠に人の身の害になりますものはございません。
殊に此の
赫ッと
怒りますと、
毛孔が開いて風をひくとお医者が申しますが、
何う云う訳か又
極く笑うのも毒だと申します。また
泣入って倒れてしまう様に
愁傷致すのも養生に害があると申しますが、
入湯致しましても
鳩尾まで這入って肩は
濡してならぬ、物を喰ってから入湯してはならぬ、年中水を浴びて居るが
宜いと申しますが、嫌な事を忍ぶのも、馴れるとさのみ辛いものではござりませぬ。何事も堪忍致すのは極く身の
養生、なれども堪忍の致しがたい事は女房が
密夫を
拵えまして、亭主を
欺し
遂せて、
他で逢引する事が知れた時は、腹を立たぬ者は千人に一人もございません。武田重二郎は中根の家へ養子に来てからお照が
同衾を
為ないのは、何か訳があろうと考えを起して居ります処へ、家来傳助がこれ/\と証拠の文を見せたから、常と違って不埓至極な奴、さア案内しろと云う。傳助も飛んだ事を云ったと思っても今更仕方がありません。重二郎は団子屋のお金の家へ裏口から這入った時はおきんは驚きまして、
きん「何うか
私が悪いからお嬢様をお助けなすって下さい」
と袖に
縋るを振切って、どん/\と
引提げ刀で二階へ
上りました時に、白島山平もお照も
唯だ
恟り致して、よもや重二郎が来ようとは思わぬから、膝に
凭れ掛って心配して、何う致そう、
寧その事二人共に死んで仕舞おうかと云って居る処へ、夫が来たので左右へ離れて、ぴったり畳へ
頭を
摺付けて山平お照も顔を
挙げ得ません。おきんは是れは
最う
屹度斬ると思い、
怖々ながら
上って来て、
きん「
何卒御勘弁なすって下さい、お願いでございます」
重「まア/\静かに致せ、そう騒いではいかん、世間で何事かと思われる、えゝ何も騒ぐ事はない……これさお照お前
何故そんなに驚きなさる、
私が来たので畳へ
頭を摺付け、頭を挙げ得ぬが、
何と心得て左様に恐れて
居るのか、何うも何ともとんと私には分りません……山平殿それでは誠に御挨拶も出来ぬから頭を挙げて下さい…きん、静かに致して下の締りを
宜くして置くが宜いぞ、よう、賊でも這入るといかぬ」
きん「はい誠に何うも何ともお
詫の
致方もございません、お嬢様が何も
私が旧来奉公を致し、他に
行く処もないからきんや
家を貸せと仰しゃった訳でもございません、世間見ずで
入っしゃいますから人の
目褄に掛ってはなりませんと私がお
招び申したのが初めで、
何卒/\御勘弁なすって」
重「これさ静かにしろよう、何だか分りませんが、それじゃア何か
差向で
居る処へ
私が上って来たから、山平殿と不義
濫行でもして居ると心得て、私が立腹して
此れへ上って来た故、差向で居た上からは
申訳は
迚も立たぬ、さア済まぬ事をしたと云うので左様に驚きましたか、左様か、
然うだろう、然うでなければ然う驚く訳はない、誠にきん貴様は迷惑だ…のう山平殿、役こそ
卑いが威儀正しき其の
許が、中々常の心掛けと申し、品行も宜しく、柔和温順な人で、
他人の女房と不義などをうん…なア…
為る様な非義非道の事を致す人でないなア……が差向で
居ったが
過りであった、
男女七歳にして席を同じゅうせずで、申訳が立たぬと心得て、山平殿も恐れ入って
居らるゝ様子、照も亦済まぬ、何う言訳しても身のあかりは立つまい、不義と云われても仕方がない、身に覚えはないけれども是れに二人で居たのが過り、残念な事と心得て其の様に泣入って
居ることか、何とも誠に気の毒な、飛んだ処へ私が上って来たのう、そう云う訳は決してないのう、きん」
きん「はい/\決して
夫れはそう云う、あの、
其様などうも訳ではございませんから」
十
重「だからノウ、
私が養子に来ぬ前から照の心掛は実に感心、云わず語らず自然と知れますな、と申すは昨年霜月三日にお
兄様は何者とも知れず
殺害され、
如何にも残念と心得、御両親は老体なり、武士の家に生れ、女ながらも
仇を討たぬと云う事はないと心掛けても、
何うも相手は立派な
士であり、女の細腕では討つ事ならず、
誰を助太刀に頼もう、親切な人はないかと思う処へ、
親しく
出入を致す山平殿、
殊に心底も正しく信実な人と見込んだから、兄の
仇討に出立したいと助太刀を頼んだので有ろうが、山平殿は私には
然うはいかん、御養子前の大切の娘御を私が若い身そらで女を連れて
行く訳には
往かん、両親の頼みがなければいかんなどと申されて、
迚もお用いがないのを、止むを得ず助太刀をして下さいと照が再度貴公に頼んだは実に
奇特な事で、頼まれてもまさか女を連れて
行く訳にもいかず、
此方は
只管頼むと云う、是は何うも山平殿も実に困った訳だが、私が改めてお頼み申す訳ではないが、山平殿、中根善之進殿を討ったは水司又市と私は考える、
彼の日逐電して行方知れず、
落書だらけの
扇子が善之進殿の死骸の側に落ちて有ったが、その扇子は部屋で又市が持っていた事を私は承知して
居るから、
敵は私の考えでは又市に相違なし、お国表へ立廻る
彼アいう悪い心な奴、殊に腕前が宜しいから
何んな事を
仕出かすかも知れん、故に私が改めて貴公に頼むは、何うか
隠密になってお国表へ参って、貴公が何うか又市を取押えて呉れんか……照お前は
何処迄も又市を
探ねて討たんければならぬが、私から山平殿に一緒に行って下さいとは、何うも養子に来て間もなし、頼む訳には
表向いかんから、お前はお
父様やお
母様への申訳に、
私も武士の家へ生れ女ながらも敵討を致したい故、池の端の弁天様へ、兄の
仇を討たぬ
中は決して
良人を持ちませんと命に懸けての心願である処へ、
強って養子をしろと仰しゃるから養子をしたが、重二郎とは
未だ
同衾を致しませんのは、是まで私が思い立った事を
果さずば、何うも私が心に済みません、神に誓った事もあり、
仇討に出立致す不孝の段はどの様にもお詫致す、無沙汰で家出致す重々不埓はお
宥し下さいと、文面は
私が教えるから私の云う通りに書きなさい、また山平殿は……貴公に
倶に行って下さいとは云われないが、山平殿は国表へ参って
彼を取調べ、助太刀をしてお照が仇討をして帰る時、貴公も共に其の所へ
行合わし、幸い助太刀をして本意を遂げさせしと云ってお帰りになれば、貴公の家は何うか
潰さぬ様に致そう、重二郎刀に掛けても致すから、二人へ改めて頼む訳にはいかんが、然うして
仇を討たせて
望を
叶えてやって下さい…お前は奉公した事がないからお父様お母様に我儘を云うが、山平殿は親切なれども長旅の事、我儘な事を云って山平殿に見捨てられぬ様に
中好う、なにさ
若し捨てられては仇は討てず、亦これから先は長い旅、水も
異り気候も違うから、詰らん物を食して腹を
傷めぬ様にしなさい、
左様じゃアないか、何でも身を大切にして帰って来てくれんければ困りますぞ、
縦えあゝは仰しゃるが、二人で居たから密通と
思召すに違いない、密通もせぬに然う思われては残念と刃物三昧でもすると、お父様お母様に
猶更済みませんぞよ、必ずとも道中にて悪い物を食して、腹に
中らぬ様にしなさるが
宜いのう、お照」
と
五月になるお照の身重の腹を、重二郎に持って居ります扇でそっと突かれた時は、はッとお照は
有難涙に思わず声が出て泣伏しました。
十一
山平も面目なく、
山「
何共申訳はござらぬ、重々不埓至極な事拙者…」
重「いゝや少しも不埓な事はござらん、国表に
於て又市が
何んな事を
為るか知れん、万一重役を
欺き、大事は小事より起る
譬喩の通りで捨置かれん……お父様お母様へも書置を
認めるが
宜い……
硯箱を持って来な」
きん「はい」
重「硯箱を早く」
きん「はい」
重「
何んだ是は、
松魚節箱だわ」
きん「はい」
と
漸く硯箱を取寄せて、
紙筆を
把らせましても、お照は紙の上に涙をぽろ/\こぼしますから、墨がにじみ幾度も
書損ない、よう/\重二郎の云う儘に書終り、封を固く致しました。
重「これは私がお母様の
何時も大切に遊ばす
彼の手箱の中へ入れて置く……きん、
何うも長い間
度々照が来てお前の
家でも迷惑だろう、主人の娘が貸してくれと云うものを出来ぬとは義理ずくで
往かんし、親切に世話をしてくれ
忝ない、多分に礼をしたいが、帰り
掛であるからのう、是は誠に心ばかりだが世話になった恩を謝するから」
きん「何う致しまして
私がそれを戴いては済みません、何うかそれだけは」
重「いゝや、其の替り頼みがあるが、今日
私が来て照と山平殿に頼んで旅立をさせた事は、是程も口外して呉れては困る、少しも云ってはならぬよ、口外して
他から知れゝば、お前より
外に知る者はないから
拠なくお前を手に掛けて殺さなければならんよ」
きん「はい/\/\どう致しまして申しません」
重「じゃア宜しい、さア山平殿、照早く表へ出なさい、宜しいから先に立って出なさい」
二人は何事も
只だ有難いと面目ないで前後不覚の
様になって、重二郎の云う儘に表へ出に掛る。台所口の腰障子を
開け、
重「大きに厄介になった…さア心配しなくも
宜い、出なさい」
照「はい…金や長々お世話になりました」
きん「それじゃア直ぐに遠い田舎へいらっしゃいますか、親切にあゝ仰しゃって下さるから、本当に
敵を討ってお出でなさいよ」
照「誠に面目次第もございません」
重「口をきいてはいかん、さア/\」
と二人を連れて出ると、傳助は提灯を持って路地に待って居りまして、
傳「誠に何うも宜く御勘弁なすって」
重「これ静かに致せ、
両人を手討に致し
他を騒がしては宜しくないから」
傳「へい…」
重「人知れぬ処へ行って
両人とも討果すから
袂を押えて
遁さぬように」
傳「へえ……へ宜しゅう」
重「これ提灯を腰へさせ」
傳「へい」
と両人の袂を押えて重二郎に従って、池の端弁天通りから穴の稲荷の前へ参りますと、
重「これ/\、もう往来も途切れたな」
傳「へえー何うぞ御勘弁の出来ます事なれば願いとう、
私は
斯う云う事とは心得ませんで」
重「
静に致せ、照、山平、不埓至極な奴、
予て覚悟があろう、それへ直れ」
と云いながらすらりと長いのを抜きましたから、二人は
彼アは云って出たが、是で手討にされることかと覚悟をして、両手を合わせ
頸を伸ばして居る。
重「女から
先ず先へ斬らなければならん、傳助広小路の方から人が来やアしないか」
傳「いゝえ」
と
覗う傳助の
素頭を、すぽんと
抜打にしましたが、傳助は
好い面の皮。
重「あゝいや驚かんでも宜しい、主人の事を有る事無い事
告口を致す傳助、家に害をなす奴、
此処で
切殺せば
誰も知る者はない、
試切か何かに
遭ったのだろうで済んでしまう」
と小菊の紙を出して血を
拭い、
鞘に納め、有合せの金子を出して、
重「多分に持参すれば宜かったが、今まで心得なかった故、ほんの持合せで二十金ある、路銀の足しにも成るまいが、是でお前が
仇を討って帰ってくれんでは、
私が一生不孝者で終らんければならん、お前の家も絶えてはならん、照も実に道に背いた女と云われるもお前の心一つであるぞよ……我儘者だが
何卒面倒を見て下さるようにお頼み申すぞ」
山「あゝ
忝のうござる」
と重二郎の心底
何とも申し様もございませんから、貰いました路銀を戴きます。
重「達者で行って参れよ」
とちゃら/\
雪駄穿で
行くのを、二人は両手を合せて泣きながら見送ります。重二郎は深い了簡がある事で、其の儘屋敷へ帰りましたが、二人は何うしても仇を討たんでは帰られません。これから仇討出立に相成りますが、
一寸一息つきまして。
十二
偖お話は
二に分れまして、水司又市は恋の遺恨で中根善之進を討って
立退きました。
本はと云えば増田屋の小増と云う別嬪からで、婦人に逢っては
何んな堅い人でも騒動が出来ますもので、だがこの小増は余程勤めに掛っては
能く取った女と見えて、その事を
後で聞いて、
小増「
彼の時私があゝ云う事をした故
斯う云う事になったのだろう、中根はんは可愛相な事をした、気の毒な」
とくよ/\
欝ぎまして見世を引いて居りますから、朋輩は
「くよ/\しないでお線香でも上げて、お
前はんお題目の一遍もあげてお
遣んなはい」
と勧められ、くよ/\して客を取る気もなく
情のある様な
振をするも
外見かは知れませんが、皆来ては
悔みを云う。処が翌年になって
風と来た客は
湯島六丁目
藤屋七兵衞と云う
商人、
糸紙を
卸す
好い身代で、その頃此の人は女房が
亡って、子供二人ありまして欝いで居るから、仲間の者が参会の崩れ
「根津へ行って遊んで御覧なさらんか、ちょうど桜時で惣門内を
花魁の姿で
八文字を踏むのはなか/\品が好く、吉原も
跣足で、美くしいから行って御覧なさい」
と誘われて
行くと、悪縁と云うものは妙なもので、増田屋の小増は藤屋七兵衞の
敵娼に出る、藤屋七兵衞の年は二十九だが、品が好い男で、中根善之進に似ている処から
一寸初会に
宜く取ったから足を近く通う気になり、女房はなし、遠慮なしに
二会馴染をつけ、是から
近しく来るうち互に深くなり、もう年季は
後二年と云うから、そんなら
身請しようと云い、大金を出して其の翌年の二月藤屋の
家へ入る。手に
採るな矢張野に置け
蓮華草、
家へ入ると矢張並の
内儀さんなれども、女郎に似合わぬ親切に七兵衞の用をするが、二つになるお
繼という女の子に九つになる
正太郎という男の子で
悪戯盛り、可愛がっては居りますけれども、
何うも悪態をつき、男の子はいかんもので、
正「
己ん
処のお
母はお女郎だ、本当の
好い花魁ではない、すべた女郎だ」
なんどと申しますから、
増「小憎らしい、此の
子供は悪態をつく」
と
頬片を
捻る、股たぶらを捻る、女郎は捻るのが得手で、
禿などに、
「此の
子供アようじれってえよ」
などゝ捻るものでございます。正太郎を其の如くに捻ったり
打擲を致しますから
痣だらけになります。さア奉公人は
贔屓をする者もあり、又
先の
内儀が
居れば
斯んな事はないなどと云い、中には今度の内儀は惣菜の中に
松魚節に
味淋を入れるから
宜いなどと
小遣を貰うを悦ぶ者もあり、小僧も
彼方此方へ付きまして内がもめまする。先妻は
葛西の
小岩井村の百姓
文左衞門の娘で、
大根畠という処に
淺井様と云うお
旗下がございまして其の処へ十一歳から奉公をして居りましたから、江戸言葉になりまして、それに
極堅い人で、家を治めて居りました処が、
夭死を致しましたけれども、田舎は堅いから娘を
嫁付けますと盆暮には
屹と参りますが、
此方では女房が死んでからは少しも
音信をしない、けれども、向うには二人の孫があるので、柿時には柿を
脊負って
婆様が出掛けて来ます。
婆「はア御免なせえ」
男「へいお出でなさい、久しくお出でなさいませんね」
婆「誠に無沙汰アしました、
皆は変りねえか」
男「へい
皆変る事もござりません…あの坊ちゃん田舎のお婆さんがお出でなすったよ」
と云うと嬉しいから、ちょこ/\と駈出して来て、
正「お婆さんおいで」
婆「何うした、毎度来てえ/\と思っても忙しくて
来られねえで、
汝が顔を見てえと思って来たが、なにかお繼は達者か、なにか店へも出ねえが
疱瘡したか、
然うだってえ話い聞いた、それ
汝がに柿を持って来た、はア喰え」
正「柿、有難う、田舎のお婆さんが柿を持って来てくれると
宜いって然ういって居たが、お
父さんが、あのまだ青いから
最う少したって、お月見時分には赤くなるからってそう云ったよ」
婆「何だか知らねえがお
母が
異って何うせ旨くは
治るめえ、
汝が憎まれ口でも叩いて、何うせな
家も
うなや[#欄外に校注:おだやか○平穏○]にゃア
往くめえと
文吉も心配して居るが、何うも仕方がねえ、早く女親に別れる汝だから、何うせ運は
好くねえと思って居るが、何でも逆らわずにはい/\と云って居ろよ」
十三
正「はい/\て云って居るの、あのねえお手習に
往くのも六つの六月から往くと
宜いて云ったけれども早いからてね、七つの七月から往く様になったから、
先にはお弁当なんぞも届けて呉れるのだが、今度のお
母さんが来てからは
然う往かないの、お父さんが
何処かへ行ってもお土産に絵だの
玩具だの買って来たが、此の頃は買って来ないでお母さんの物
計り
簪だの
櫛だのを買って来て、坊には何にも買って来てくれないよ」
婆「
汝のような可愛い子があっても子に構わず
後妻を持ちてえて、おすみの三回忌も経たねえうち、女房を持ったあから、汝よりは
女郎の方が可愛いわ……
虐めるか」
正「怖ろしく虐めるの、縁側から
突飛したり…こんなに
疵が有るよ、あのね
裁縫が出来ないに出来る振をして、お父さんが帰ると広げて出来る振をして居るの、お父さんが出て
行くと、
突然片付けて
豌豆が好きで、湯呑へ入れて店の
若衆に隠して食べて居るから、お母さんお呉れって云ったら、
遣らないと云ってね、広がって居るから
縫物を踏んだら突飛して
此処を打って、
顋へ疵が出来たの」
婆「呆れた、
大い疵があるに気が
注かねえで居た、それで
汝黙って居たか、
父に云わねえか」
正「云った、云ったけれどもお母さんが旨く云って、おのお前の着物を縫っていると踏んだから、いけないと云ったら、
態と踏んだから
縫物を
引張ったら滑って転んだって
然ういって嘘をつくの、
先のお母さんが生きていると
宜いんだけれども、お婆さんの処へ逃げて
行こうと思った、連れてって呉れねえか」
婆「おゝ連れて行かねえで、見殺しにする様なもんだから、可愛そうに、
汝に食わせべえと思って柿を持って来たゞ」
正「あのね
麦焦が来ても、自分で砂糖を入れて塩を入れて掻廻してね、隠して食べて、私には食べさせないの、柿もね、
皆な心安い人に
遣って坊には一つしか呉れないの、渋くッていけないのを呉れたの」
婆「それは
父に
汝いうが
宜い」
正「云ったっていけない、いろんな嘘をついて云つけるからお父さんは本当と思って、あのお母さんは義理が有るのだから大事にしなければならない
[#「ならない」は底本では「なならい」]、優しくすれば増長する、今からそれじゃアいけねえってねえ、一緒になってお父さんが拳骨で
打って痛いやア」
婆「あれえ一緒になって、呆れたなア本当にまア、
好え、七兵衞どんに
己逢って、
汝だけはお婆さんが連れて
行く、田舎だアから
食物アねえが不自由はさせねえ、十四五になれば立派な
処へ奉公に遣って、藤屋の別家を出させるか、
然うでなければ己が方の
別家えさせるから一緒に行くか」
正「行きたいやア、だから田舎で食物が無くってもお母さんに
抓られるより
宜いから行くよ」
七「
何方かお出でなすった……おやお出でなさい、
榮二郎お茶を持って来てお婆さんに上げな、田舎の人だから餅菓子の方が
宜いから……
宜くお出でなすったね、お噂ばかり致して居りまして、
此方から
一寸上らなければ成らんですが、何分忙がしいので店を空けられないで、御無沙汰ばかり、まア此方へ」
婆「はい御免なせえ、御無沙汰アして
何時も御繁昌と聞きましたが、文吉も
上らんではならねえてえ云いますが、秋口は用が多いで
参り
損なって済まねえてえ噂ばかりで、お
前さんも達者で」
七「まことに宜くお出でなすった、
帝釈様へお
詣りに行こうと思って、帰りがけにお寄り申そうとお
梅とも話をして居たが……お梅」
梅「おや宜く
入っしゃいました、宜く田舎の人は重い物を
脊負ってねえ」
婆「はい御無沙汰、はい
己が屋敷内に
実りました柿で、重くもあるが
何うかまア渋が抜けたら孫に呉れべえと、孫に食わしてえばっかりで、
重えも
厭わず
引提げて来ましたよ……はア最う構わず、飯も食って来ましたから、途中で足い
労れるから蕎麦ア食うべえと思って、両国まで来て蕎麦ア食ったから腹がくちい、構って下さるな…七兵衞さん、
私参って相談致しますが、惣領の正太郎は私が方へ
引取るから」
七「
何で、
何ういう訳で」
十四
婆「何ういう訳もねえ、おらが方へ来てえだ云うが、おらが方へ置きたくはねえが、お
前様ア留守勝で
家の事は御存じござんねえが、
悪戯は
果すかは知らねえが、
頑是がねえ
十にもなんねえ正太郎だから、少しぐれえの事は勘弁して下さえ」
七「あれさお婆さん極りを云って居るぜ、来ると愚痴を云うが、
私の子だもの、奉公人も付いて居るわね……正太は又田舎のお婆さんに何か云ッつけたな」
正「何も云ッつけやアしない、お婆さんが
彼方へ連れて行くてえから行きてえや」
七「行きたいと」
婆「何ういう訳で大事の
親父をまず捨てゝ、
己が方の田舎へ来てえ、不自由してもと
児心にも思うは
能く/\だんべえと思うからお呉んなさえ、
縁切でお呉んなさえ」
七「そんな馬鹿な事を云ってはいけません」
婆「
何故そんならぞんぜえに育てるよ」
七「ぞんざいに育てはしませんよ」
梅「旦那……正太郎が云ッつけたのでお婆さんは
然うと思って居るのでしょう、私だっても頑是がないから、それは
彼れも我儘を致しますが、
邪慳に育てることは出来ません、仏様の前も有りますから、私も来たての身の上で私が邪慳に育てるようなことは有りませんよ」
婆「邪慳にしないてえ、これが
顋の
疵は何うした、なぜ縁側から
突落した、お
女郎だアから子を持ったことが
無えから、子の可愛い事は知りますめえが、あんたに子が出来て御覧なさえ、一つでも
打くことは出来ねえよ、辛いから児心にも
己ア方へ行きてえと云うのだ、おらは正太を
此処へは置かれましねえよ」
七「お婆さん
何処までも正太は連れて行くと云うが、家督させようと云うので何う有っても
遣らぬてえば何うする」
婆「遣らぬと云えば命に掛けても連れて
往きやすべえ、
打ったり
擲えたりして疵を付けるような内へは置かれやしねえじゃアござんねえか、何処へ出てもお代官様へ出ても連れて
行くだア、はア」
七「そんな事を云って……正太
手前お婆さんの方へ行きたいか」
正「行きたいや」
婆「それ見なさえよ、
善く云った、何うあっても縁切で」
七「そんなら上げましょう、其の代り
何ですぜ、お
前さんの処とは絶交ですぜ」
婆「絶交でも何でも連帰りやすべえ」
七「
行通いしませんよ」
婆「当りまえ、おらア方で誰が
来べえ、お
前さんのような女房が死んで一周忌も経たねえ
中、
女郎を買って子供に泣きを掛けるような人では、
何んな事が有ってもお前さんの側へは
参りませんよ、
碌な物も喰わせねえではア」
梅「あゝ云うことを云って、正太が云ッつけるからですよ」
婆「何云ったって是が
皆な知って居らア、何だ、さア正太来い」
と中々田舎のお婆さんで何と云っても聴きません。到頭強情で、正太郎を
負って連れて帰った。さア一つ
災が出来ますと、それからとん/\拍子に悪くなります。
十五
翌年湯島六丁目の藤屋火事と申して、自宅から出火で、土蔵
二戸前焼け落ち、
自火だから元の通り建てる事も出来ませんで、
麻布へ越しましたが、それから九ヶ年過ぎますると寛政四
壬子年麻布大火でござります。
市兵衛町の火事に
全焼と成りまして、
忽ちの間に土蔵を落す、災難がある、引続き商法上では損ばかり致して忽ち微禄して、只今の
商人方と
異って其の頃は落るも早く、借財も
嵩み、仕方が無いから分散して、夫婦の中に十歳になりますお繼という娘を連れて、
行く
処もなく、
越中の国
射水郡高岡と云う処に、
萬助という以前の奉公人が達者で居ると云うから、これを頼って
行き、
大工町という
片側町で、片側はお寺ばかりある処へ
荒物店を出し、詰らぬ物を売って商い致す
中に、お梅もだん/\慣れまして、
外に
致方も無いから
人仕事を致しますし、碌には出来ませんが、
前町は寺が多いからお寺の仕事をします。和尚さんの着物を縫ったり、
納所部屋の洗濯をしたり、よう/\と細い煙りを立てまして居ります
中、お話は早いもので、もう此の高岡へ来ましてから三年になりますが、大工町に
宗慈寺という真言宗の和尚さんは、
永禪と申して年三十七でございます。此の人は誠に調子の
宜い和尚さんで、檀家の者の扱いが宜しいから信じまして、畳を替える本堂の障子を
張替る、諸処を修繕するなど皆檀家の者が
各番に致す、田舎寺で大黒の一人ぐらいは置くが、この和尚は
謹慎のよい人故仕事はお梅を頼み、七兵衞が来ると調子宜くして、
永「お前は
以前大家と云うが、
災に
遭って微禄して困るだろう、
資本は沢山は出来ぬが十両か廿両も貸そう」
と云って金を貸す。苦し紛れに借ると返せないから言訳に行くと、
永「もう十両も持って
行け」
と三四十両も借財が出来ましたから、お梅は大事にしてはお寺へ
手伝いに
行き宜く勤めます。ちょうど九月節句前、鼠木綿の着物を縫上げて持って
行くと、人が居ないから台所から
上り、
梅「あの
眞達さん、
庄吉さん……居ないの、
何方も
入っしゃいませんか」
永「
誰じゃ」
梅「はい」
永「おゝお梅さんか、
此方へ来なさい」
梅「はい、まことに御無沙汰致しました」
永「いゝや
最う
何うも、もう
出来たかえ、早いのう、今ねえ皆
使に
遣ったゞ、眞達も庄吉も居ないで退屈じゃア有るし、それに雨が降って来た故」
梅「いゝえ大した雨でもございません、どうと来るようで又あがりそうでございますよ」
永「そうかえ、檀家の者も来ぬから一人で一杯遣って居たのよ、おゝ着物がもう
出来たか、
好う出来た」
梅「お
着悪うございましょうが……お着悪ければ又縫直しますから召して御覧なさいまし」
永「好う
出来た、一盃
酌いで呉れんかえ、
何ぼう坊主でも酒の
酌は
女子が
宜え、妙なものだ、出家になっても女子は断念出来ぬが、何うも自然に有るもので、出家しても諦められぬと云うが、女子は何うも妙に感じが違う」
梅「旨いことを仰しゃること、あなた此の間の
松魚節味噌ね、あれは知れませんから又
て来ましょう」
永「あれか、旨かった、あれ
宜えのう……一盃遣りなさい」
と一盃飲んでお梅に
献す、お梅が飲んで和尚に献す。その
中酒の
酔が廻って来まして、
永「眞達は帰りませんわ、
大門まで遣ったが、お梅はんお前もまア一昨年から前町へ来て、
彼のようにまア夫婦暮しで
宜く稼ぎなさるが、七兵衞さんは
以前大家の人ですが、運悪く田舎へ来てなア気の毒じゃ、なれど此の高岡は
家数も八千軒もある処で、良い
船着の
処じゃが、けれども江戸御府内にいた者は
何処へ行っても自由の足りぬものじゃ、さぞ不自由は察しますぞよ……お梅はん
私をお前忘れたかえ、覚えて居まいのう」
十六
梅「はい覚えてと仰しゃるは」
永「
私の顔を忘れたかえ、十三年も逢わぬからなア」
梅「そうでございますか、じゃア旦那江戸にいらっしゃいましたことが有るの」
永「お前は
以前根津の増田屋の小増という
女郎だね」
梅「あれ不思議な、旦那
何うして知れますの」
永「何うしたって、それは知れる、忘れもしない十三年
前、九月の
月末からお前の処へ
私も足を近く通った、私は水司又市だが忘れたかえ」
梅「おやまア何うも、旦那
然う仰しゃれば覚えて居ますよ、だけれどもお
髪が変ったから
些とも分りませんよ……何うもねえ」
永「何うもたって
私は忘れはせんぜ、お前
此処へ来ると
直ぐ知れた、若いうち惚れたから知れるも道理、私は頭ア
剃こかして此の宗慈寺へ直って、住職して
最う九年じゃアが、
斯うなってから今まで
女子は勿論
腥い物も食わぬも皆お前故じゃア」
梅「私ゆえとは」
永「忘れやアしまい、お前が
斯様じゃア、榊原藩の中根善之進は
間夫じゃアからと云うて、金を
私の膝へ叩き付けてな忘れやアしまい」
梅「あれ昔の事を云っては困りますね、年の
往かない
中は
下らないもので、
女郎子供とは
宜く云ったもので、
冥利が悪いことで、その冥利で今は斯うやって斯う云う処へ来て、貧乏の
世帯にわく/\するも昔の
罰と思って居りますよ」
永「丁度あのそれ忘れやアせんで、あの時叩付けられたばかりでない、大勢で
悪口云われ、田舎武士と云って、手前などが
女子を買っても惚れられようと思うは
押が強いなどと云って、重役の
権を
振って中根が
打擲して、扇子の
要でな面部を打割られたを残念と思って、
私は七軒町の
曲角で
待伏して、あの朝善之進を一刀に切ったのは私じゃアぜ」
梅「あれまアどうも」
永「
宜えか、
斯う打明けた話じゃが切ってしまって眼が
醒めて、あゝ飛んだ事をしたと思ったがもう
為てしまい是非がない、とても屋敷には
居られない、
外に
知己がないから
風っと思い付き、
此処に伯父が住職して居るから金まで盗んで
高飛し、頭を
剃こかして改心するから弟子にしてと云うて、成らぬと云うを
強て頼み、斯う
遣って今では住職になって、十三年も衣を着て居るもお前故じゃないか、人を殺したのもお前故じゃ」
梅「何うもねえ、
然うで、何うもねえまア、何うもねえ、元は私が悪いばかりで中根さんも然ういう事になり、罪作りを仕ましたねえ」
永「七兵衞さんは知るまいが、金を貸すもお前故だ、是まで出家を
遂げても、お前を見て
私は煩悩が
発って出家は遂げられませんぜ」
梅「お前さん……あれ、何をなさる、いけませんよ、眞達さんが帰るといけません、あれ」
永「
私ももう隠居しても
宜えじゃア、どの様な事が有っても
此処は離れやアせんじゃ、
後住を直して、
裏路の寂しい処へ
隠居家ア建てゝ、大黒の一人ぐらいあっても宜えじゃア、七兵衞さんが得心なれば何うでもなる、
此方へ来て金も沢山貯めて居るが、嫌かえ、私はお前故斯う遣って人を殺して出家になり、お前が又来て迷わせる、罪じゃアないか」
とぐっと手を引き、お梅の脊中へ手を掛けて膝を
突寄せた時は、お梅はあゝ嫌と云うたら人を殺すくらいの悪僧、どんな事をするか知れぬ、何うかして此処を切抜け様と心配致すが、此の挨拶は何うなりますか、
一寸一息つきまして。