三
楯井さんは、六日目で再び自分の開墾地の堀立小屋に帰った。楯井さんは、あのお寺さんの話しを道々気にしながら、不思議な事もあるものだと考えていた。
楯井さんは、開墾地に帰って来ても、別にあの惨虐な物語りを口にしなかった。けれども楯井さんは心の中で様々なことを考えていた。しかし、気の早いせっかちな楯井さんのおかみさんは、やはり女だけにその話しを待ちかまえていたように楯井さんを迎えたのであった。そして、無理矢理夫からその話しを少しでも聞きとっては、思出したように涙を流した。楯井さんは、重々しい調子で妻の問に対して答えるとすぐ口を閉じて、自分の考えたことや思出したことなどは少しも云わなかった。
『一番可哀想なのは、おなかさん(嫁さんの名)と赤(赤ん坊)だ。あんないゝ嫁さんもないもんだ。』
と、おかみさんは、自分が四ヶ月も世話になって、いやな顔どころか、何から何につけて気がきいて親切にめんどう見てくれた嫁さんの事を、一番思出してたまらなくなつかしく悲しかったのだ。三人の子供を抱えて他の家に厄介になった気苦労も、あのやさしい美しい嫁さんの為めに、忘れて仕舞ってた位であった。おかみさんは、いろ/\思出すごとに、断片的に楯井さんに聞くのであった。
『おなかさんは、あんないゝ人だに。山崎の亭主は、まるっきり家にいないからあんな事になったんだ。』
と、おかみさんは山崎の亭主のことを、恨めしく思ったりした。楯井さんは、おかみさんがどんな事を云っても、外のことを考えていた。そしてなんという事もなくお寺さんの話を、いつも思出しているのであった。楯井さんは急に、
『お寺さんの話では、おなかさんが殺された晩、ひどい音がして朝見ると、御堂の前に血がうんと散らばっていたと云った。きっとおなかさんの知らせだろう。』
と、非常に陰気な様子をして云った。けれどもおかみさんは、そんな話を少しも気にかけない。
『あのお寺さんの話しだもの。あてんならない、そんな事が今時世の中にあってたまるもんか。あんないゝおなかさんが、おばけになるなんてそんなわけはない。』
と、なんでもないことのように云ってしまった。楯井さんは、それきり何にも云わなかった。
それから丁度一週日ばかり、毎日雨が降りつゞいた。楯井さんの家では別にかわったこともなく、毎日雨が降っても汗を流して開墾に勉めた。
ある晩、ながい間降りつゞいていた雨が、夕方からカラッとやんで、なんとも云えない静かな雨上りの夜となった。楯井さんの家では麦を夜中かゝって煮る為めに、大きな鍋が少しばかり突込んだ薪の火にかけてあった。火は勢なくトロ/\と燃えていた。三人の子供は、もう寐静まっている。楯井さんのおかみさんは、大きな湯沸に水をくもうと思って外に出ると、まもなく変な顔をして戻って来た。
『父さん、あれはなんだろか。樹の株の上にいる光ったものは。』
と、青い顔をして、後を振りかえり振りかえり小屋に入って来た。楯井さんは、黙って土間にあった太い長い棒切を握って、そっと外に出て見た。井戸のすぐ側の太い樹の切株の上に、青い大きな光る珠がのっていた。
おかしい、と楯井さんは口の中で云って、その側へ静かに歩みよると、首をのばして熟視した。火の玉は、玉の心まですきとおっているようで、また表面だけ光っているようでもある。楯井さんは、その太い長い棒で力まかせに叩きつけた。青い光りの玉は、何の音もせずに消えた。楯井さんはふと変な気がした。全く何の手ごたえもしない。そして心の底まで冷っとするような気がすると、それと同時に楯井さんは、すぐ嫁さんの霊だと思込んでしまった。
小屋の入口の所で、この様子をみていた楯井さんのおかみさんは、楯井さんがこちらに向って歩いて来るのを見ながら、
『なんだろう、父さん、あんな鳥がいるというが、鳥なら人が行けば逃げそうなもんだね。』
と云いながら急に、
『父さん、父さん、また出た。また出た。』
と叫んだ。楯井さんは急に後を振りかえると、今度は少しはなれた切株の上に、やはり前と同じ火の玉が青白く光っていた。楯井さんは、また静かに歩いて行くと、その切株の側まで行って、例の棒で叩きつけた。火の玉は、またはっと消え去った。
楯井さんは、それを三度くりかえした。そして三度目からもうその火の玉は出なかった。
楯井さんは小屋に入ってからも、別に驚いた様子も見えなかった。火の玉だけで気持を悪くしたのは、かえって楯井さんのおかみさんであった。しかし、おかみさんはすぐにそれを忘れてしまったように、床に入った。
間もなく楯井さんも床に入ったが、彼は少しもねむれなかった。楯井さんの心では、慥かにあの火の玉は、無残に殺された山崎の人々のたましいに違いないと思った。最初の玉は嫁さんので、二度目の玉は老人ので、三番目が子守女のであろうと考えた。が、すぐに赤ん坊のも出れば四つ出なければならないと、神経質になりきって考え込んだ。しかし子供は、この世の中で何の罪も犯していないから、無事に極楽浄土へ往生したのだ――、自分だちは何の恨みもあの殺された人々にはないはずだが、しかし何の為めに、自分だちの家へこうして祟って来るのだろう。と、楯井さんは、殆ど夜のほの/″\と白みかゝる頃まで様々と考え悩んだ。楯井さんは、もう夜あけまで、少しもねむらなかった。そしてあたりが白み出して、すべての物がはっきり見え出すと床をぬけ出た、そして外に出た。
空にはまだ暁の星が光っていた。冷えびえするような空気が、この山奥にみちていた。遠い山の頂には、白い雲がはかれたようになってかぶさっていた。
楯井さんは、一寸あたりを見まわして、昨夜の樹の所へ行った。そして株の切口の所を神経質にこま/″\と見入った。切株は雨にぬれてうす黒くしめっていたが、しかし其他には何の変ったこともない。楯井さんの眼には、青白いかびのような色が株の根本まで印されているのが見当って、少し驚いたが、すぐこれはどんな樹にでもあるものだという事に気づいた。実際、どんな樹にでも北の方に面した皮には、苔のようなものが幹の上の方から根にかけて、一直線に生じている。それは光線に当らない為めに生じたもので、必ず北に面しているので山や林で方角を失った者が、この苔を見て方角を知ることさえあるのであった。
楯井さんは、一度目の樹の株二度目の樹の株三度目の樹の株とくわしく調べるように見てまわったが、別に目立って変ったこともない。林の上の方からは、日が上ったと見えて急に赤い光りがさして来たので、あたりがまたきら/\とはっきり動き出したようであった。楯井さんは静かに小屋に入って火をたき初めた。その日は、非常にいゝ天気であった。楯井さんは、やはり汗をながして開墾にいそがしかった。其夜は何事もなかった。
それから三日目の夕方であった。全く世の中に到底この様な事があろうとは思われない程、気味の悪い物凄い事が、この小屋を襲った。それは楯井さんの神経の働きでも妄想でもなかった。それは楯井さんにも、楯井さんのおかみさんにも、長男の十二才になる慎造にも、明らかに其の事がわかったのであったから。
夕方、一家のものが、一日の劇しい労働につかれて日が暮れると小屋に戻って来た。そして、揃って夕食を終えて、二人の小さい子供は、まだ膳の片付もすまないうちに、もうごろ/\と炉ばたのむしろの上にうたゝねを初めていた。
楯井さんは黙って炉の火をいじったり、薪をくべたりなどしていたその瞬間、全く皆なの心が申し合せたように、しんみりしていた。なんとなくぬけ出すことの出来ないような沈黙のなかにいた。そして親子三人は、何かの不思議な物音、物音というよりもかすかな遠い幽鬱な響を耳にした。三人の心に冷い総毛立つような気味悪さが流れ込んで来た。楯井さんのおかみさんは、楯井さんの側へ近よった。
三人とも少しも動かなかった。そして小屋の入口を見た。入口には実際殺された嫁さんの姿が、煙のようにしかし正しく立った、小屋の入口の代用として上からぶら下げてあるむしろを手で横にあけながら、青白くすきとおるような嫁さんの顔が、はっきりと皆の顔にうつった。幻影ではない。妄想ではない。慥かにあの嫁さんの姿である。
三人は驚くよりも、むしろ悲しかった。約一分間の後その姿は戸口に見えなかった。楯井さんは、急に黙って立上った。そして小屋の片隅に仏壇がわりに自分で吊った棚へ火をともした。棚は煙ですゝけて、やはりすゝけ切った位牌らしいものがのっていた。
楯井さんは、そこに火をともしたが、別に両手を合せもしないで、静かに戸口の方に行ったが、その右手には何か棒切のようなものを持っていた。
楯井さんは、入口のむしろを開いて外をのぞいた。しかし彼の眼には彼の心が感じたようなものはうつらなかった。楯井さんは二三歩ずつ進んだ。そしてあたりを見まわしながらまた二三歩歩いた。楯井さんは自分の手に棒切を握っているのに気付くと、自分で恥かしそうにそれを投げた。そしてまたあたりを見まわした。楯井さんは非常に不安でならなかった。自分が何かの因果をうけたように、心苦しくそして淋しかった。楯井さんは、自分の家も自分の存在も忘れたように、何かの不思議な心につゝまれた。彼れの心は闇の中を辿っているようであった。しかし楯井さんはまた歩き出した。そしてあの樹の株の所へ行った。彼は何かその樹の株が、不思議の元であるまいかと考えて、それを究めようと思った。
楯井さんは、樹の株の前の所まで行ったけれどもまた戻って来た。そしてあとへ引かえしながら、小屋の入口をみた。彼は今の不思議なものゝなにかのつながりを見たいように思った。そしてその不思議なものは、まだ必ず自分の小屋の近くをうろついているような気がした。そう考えると楯井さんは恐ろしいような気がしながら、便所小屋の前のせまい所をぬけて、小屋の裏の方からグルリと廻って、また入口の所へ来た。そして小屋へ入って行った。炉のそばには、楯井さんのおかみさんと慎造とが、不思議そうな顔をして楯井さんの入って来たのを見た。楯井さんは炉の前に来てぼんやりと、たった一言
『明日は、皆でおなかさんの墓参りをするんだ。』
と、一人ごとのように云った。
●表記について
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