北海道文学全集 第四巻 |
立風書房 |
1980(昭和55)年4月10日 |
一
楯井夫婦が、ようやく未墾地開墾願の許可を得て、其処へ引移るとすぐ、堀立小屋を建てゝ子供と都合五人の家族が、落著いた。と間もなく此の家族が四ヶ月あまりも世話になっていた、遠い親類にあたる、その地では一寸した暮しをしていた山崎という農家の、若い嫁と生れて間もない子供と、子供を背負うてかけつけて来た子守女と、その家の老人と四人が惨殺されたという知らせをうけた。
そこは、楯井夫婦が引移った未墾地から、約二里隔った天塩川の沿岸の、やはり新開地である。五六年後には、稚内へ通ずる汽車の工事が始まるというので、第一回目の測量がすむと、もう停車場が此所へ建つの、あすこへ建つのという噂で、気の早い連中はもう自分だちの勝手ぎめで、どしどし家を建て出した。家と云った所で、大抵柾造りのひくい家で、雪の多い北海道の山奥には、どうかすると心細いほど粗末なものである。
ぼつ/\と人が入り込んでから、まだ三四年とたゝないこの山奥の未開地に、警察等の手は届かなかった。郵便局も役場も学校なども、かれこれ七八里の山道を行かねばならないのであった。それに道もようやく、山道を切り開いた所や熊笹を刈ったあとの、とげ/\した荒れた道である。
楯井さんは、此の知らせを受けて、妻と三人の子供を残して兎に角すぐに出かけた。彼は、非常に驚いたけれども、なんとなく信ずることが出来なかった。そんなはずが、けっしてないような気がしてならなかった。彼は、そんな事が、決して世の中にありうることではないと思っていたのではなくて、唯この山奥の新開地に、そんな事をする人がいようとは、どうしても思われなかったのである。
楯井さんは、自分の住んでいるこの山奥を、何という安らかな、そしてなつかしい所だろうと、いつも考えているのであった。
彼が考えている浮世というもの、罪悪などゝいうものからはなれた、大きな自由な安心な、たのしい箱のなかへでも入ったようなつもりで、この山奥の生活をしているのであった。毎日山鳥の啼く音鶯の囀る声、雉子などが樹から樹へ飛びうつるのを、何の慾心なしに見聞している。そして絶えず新らしい木の香や、土の匂が彼にさわやかな清い心を与えているのであった。
楯井さんが、どうしても信ずることが出来ないと思いながらも、出かけたのはもう日の暮れ方であった。ほの暗く一帯に暮れて行く荒地の行く道には、そここゝに笹の根や木の株、草や木の枝などを焼く火が、はっきりと見えて、山道とはいうものゝ少しも淋しくない。夜中ごみ焼をしている人だちは、火影に顔をまっかに染めながら、長いレーキ(ごみさらい)で、火をつゝいたりごみをくべたりしていた。こんな所へ通りかゝると、楯井さんは、
『お晩は、』と云った。(『今晩は』の意である)すると彼方でも、
『こんなに遅くどこさ行きなさるかね。』
と、きっと聞いた。彼等には、夜にかけてすた/\と一人で歩いている彼が不思議に思われたのであった。楯井さんは、そう聞かれるといつも不意を喰ったように、返事のしように困った、
『新開地の山崎の家に、非常なことが出来てこれからそこさ行くんです。』
と、ようやく答えると、そのまゝ彼は通りすぎた。楯井さんは、内気な方ではあるけれども、度胸のすわった人である。そして日清戦争の時従軍したということで、どことなく落著いたような様子をしていた。
楯井さんが、新開地へようやく著いたのは夜も九時近かかった。それに山崎の家のある所へ出るには、どうしても手塩川を渡らなければならないので、河彼方にある渡船場の人を呼ぶには、よほど大きな声を出さなければならなかった、それに手塩川はこの辺に来てかなり河幅を増していた。彼は河岸の樹にぶらさげてある合図の木を、ガタン/\と力をこめて一心にたゝいたり、また時々は手をやすめて、オーイ/\、と呼んだりした。うすぼんやりしたような夜で、急な河の水音ばかりが、はげしく強く耳に入った。楯井さんは、いま自分が行こうとしている所の、惨虐な事件のこと等は、少しも考えられなかった。ふと頭に思浮んでも物凄い心持は少しも起らない。彼は、河の水が時々ちらり、ちらりと白く光っているのを見ていた。
この天塩川は、なかなかの急流なので、普通のように櫓で船を漕いで渡ることは、出来ないのであった。太い強い針金をいく本も縄のように綯って、河の両岸へ渡してある。そしてその針金の上を車が動くようになっていて、車に渡船がつながれると、船頭の一寸した手かげんで上手に、船が流されようとする力を応用して、彼方岸に一人でに行くようになっている。楯井さんは、いつもそれを不思議に面白く見ているのであった。
楯井さんが渡船をのりすてゝ、山崎の家についた時は、せまい新開地のことであるから大勢の人が集まって、もう死骸は家に入れられてしまっていた。
楯井さんは、悲しいというよりもどうしようというように、人々の中に入って行った。そして、一番先にいろんな巾がかけられてある、死骸らしいものに眼がとまると、彼の瞳はそこからはなれようとしなかった。人は沢山集まっているけれども、かんじんの家のものが皆殺されてしまったので、どうするにも手出しが出来ない。殺された嫁さんの亭主は泊りがけで、遠い海岸の方に出かけたきり、三四日帰宅しないというし、余は全くの他人である。それで、その嫁さんの遠い親類に当るという楯井さんが、この中では一番家の事情に通じている所から、人々は楯井さんの来たのを喜んだ。楯井さんは黙って、前の方に進み出ると、うす暗いランプの光りで、なんとなく夢のような荘厳な心持になりながら、いろんな巾で蔽うてある死体らしいものゝ巾を半分ほど除けて見た。
それは子守女の死体であった。もはやすっかり黒い血がにじんで仕舞って、顔も頭もはっきりしてない。髪の毛が血に交って、こびりついたようにかたそうに光っている。灯りが暗いので全体に物凄い影がさして、紫色の耳から頸へかけての肉の色が、一番目立ってはっきりと見えた。
楯井さんは、この惨ましい死体を見ると、顔をどこかへかくそうとするような様子をして、しばらく眼をとじた、けれども彼はどうしてもあの若い嫁さんの死体を見なければならないような気がしたので、楯井さんは殆ど無意識に、これが嫁さんの死体だと思うと、巾をまくって見た。
あんの定、それは嫁さんの死体であった。右の肩から頭へかけて、余程残忍にやられて、肉が飛び散って仕舞ったのであろうか、着物の上からではあるけれども、右肩は全く切り取られてしまったように思われた。この死体もまた、血にまじった長い黒髪が乱れてぞっとするような心持がした。それに死体を家のなかに運び入れた人だちが、乱暴に二三尺も上から死体をほうり投げて置いたかのように、うつむきになって、身体が斜にねじれているので、なんとなくこゝで殺されたように思われた。そして、左の手は掌を上にして丁度腕の関節の所から現われて、紫色の影の中に黄色い手の色が物凄く浮いていた。
楯井さんは、線香のもうなくなりかけてるのを見ると、自分で長い線香に火をつけて、急に男泣きに泣き出すと、ぽた/\と膝の上に涙を落した。そしてまた不意に気がついたように、落した涙をふきながら、
『誰れか、警察にやってくれましたかい、』
と、云ったけれども、誰れに問うてよいのやら解らないので、急に語尾を低くおとしてしまった。
『馬で走らしたんだが、まだ帰って来るにゃはやい。』
と、楯井さんには見馴れない一人の男が云った。
あゝ何という可哀そうなことをしたんだろう。誰れがこんな目にあわせたんだろう。楯井さんには、殆ど想像もつかなかった。殺されたものは、みな若い女、子供、老人である。人から恨みをうけるようなものは一人もない。
しかし楯井さんは、誰れにも誰れがこんな目にあわしたのだと聞くことが出来なかった。只、一時もはやく警察の人が来てくれゝばいゝと思っていた。時がだん/″\と、このごた/″\した光景のまゝで経って行くばかりで、誰れにどうしてよいやらわからない。彼はみんなが黙り込んでしまうと、仕方がないように頭をたれたまゝじっとして動かなかった。丁度、何物にか威圧されたような静けさが、家のなかにみなぎった。
楯井さんは、ふと頸を上げると、この家の嫁さんが、自分だち家族が長い間厄介になってた時に、非常に亭主には気兼しながらもなお自分だち家族に、親切にして気をつけてくれたことを、はっきりと思出して、あの小柄なよく働いていた細おもての顔が目に見えて来ると、胸がこみ上げて来て涙をおさえることが出来なかった。楯井さんは、この殺された赤ん坊の生れた時も知っている。赤ん坊はまだ二百日たらずにしかならない。そして親も子も死んだのではなくて、殺されたのだ。楯井さんは、いろ/\の事を考えながら、蝋燭の灯が消えかゝって、パチ/\音がするのを、じっと見ていた。
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