彼の瞳は、やはり輝いてゐた。永遠の空に對する、星の輝きである。彼女は、その瞳を見る時に、たそがれの空にひとり輝く、明星をあふぐやうな悲しみを覺える。二人は立上つて、はるかな空を仰いだ。空は、暮れるかと思はれる淡藍色に、高く廣く遠かつた。そして、太陽は、かくれたる所から、水のやうな光線の箭で以つて、空を條づけてゐた。彼女は、ゆきくれた旅人のやうな、たよりなさを感じた。足もとの水たまりに、雨上りの空の遠さを見るかなしさに、うち沈んだ。
『森の方に、日が輝いてる。』
彼は、靜かに言つた。彼女は、瞳をめぐらして遠くを見た時に、しげり合つた彼方の森の上に、太陽の光線は明るく輝いて、そこにつらなる野は、靜かな光りにみちてなめらかに見え、百姓家の屋根が幸福らしく見えた。彼女の瞳は輝いた。そして、あの野にすべての苦しみやかなしみが、夢のやうにながれて、この不思議の天地は、一つになるやうに考へられた。
二人は、歩き出した。遠い幸福を求むる爲めに輝いた心は、二人を森に向つて歩かせた。しかし二人が森に近づいた時、そこには限られた他人の家があつて、知られざる人々が木の陰に彼等を眺め、野にはやはり枯草がみにくゝ慄へてゐた。
二人は、足を停めた。そして、かなしみの瞳が、はかなく遠くに放たれた。限られたと思うた野は、また森の蔭からはるかにつゞいて、また二人の希望は、草の盛り上つたやうに見える、彼方の野につながれた。
彼女は言つた。
『あすこへ行きませう。きつといゝに違ひないわ。』
しかし、二人が歩みをよせた時に、そこには、あざみのとげや、ひろげた葉のかげに、恐怖がひそんでゐるやうな草が、まばらに擴がつてゐた。
二人は、しばらくあてどもなく立つてゐた。そして、遂に彼方から近づいて來るやうな人に向つて、二人が求めてゐる廣い緑の野をたづねることにした。近づいて來た人は、年老いた男であつた。彼は、おだやかな笑顏を持つて、この近所にはこれより野がないこと、この野は、どこまでも/\かぎりなくつゞいて、淋しい人の行かない恐ろしい所に出るといふ事や、もう少し行くと、大きな松の木が三本あるといふ事等を、好意を示して彼等に話した。
『松の木の所まで、行きませう。』
二人の希望は、また空にそびえてゐる、緑の木に向つてつながれた。希望は、いかに淋しいものであらう。消えやうとしてつゞく、燭の光りのやうなものだ。二人は、また野を歩き出した。野は、彼等をどこ迄も引きずるやうに、つきては蔭にあらはれ、かくれては蔭に見えて、かぎりなくつゞいた。
しかし、奇蹟のやうに空にそびえてると思つた、三本の松の木は、遂に魔のやうに二人の前に現はれなかつた。彼女は、ふとふみまよふ野の恐怖におそはれた。そして、傍の杉林のかげに息をやすめた時、林のなかに白い枯草のしとねを見出して、疲れた身體は、その上に横坐りになつた。そして彼女は、かなしい涙ぐむやうな瞳を、地に見すゑた。彼は、不安さうに傍に坐つた。枯草は、あたゝかくや軟かかつたけれども、仰いだ杉の木は、頭の上におほひかぶさつて、暗い。
『行きませう。』彼は言つた、林の奧の方にあわたゞしい赤子の泣き聲や、人の足音がして[#「足音がして」は底本では「足音がて」]、追はれるやうな不安に、やはらぎは求め得られなかつた。彼女は、絶望的な瞳を持つて、戀人を見た。そして、再び立ち上つた。
『野があるでせうか。』
彼女の心は、かなしみにみちてゐた。
二人は、また、林をぬけて歩き出した。けれども、振りあふぐ瞳のなかに、彼方に見ゆる丘や森は、すべて幸福に見えた。かなしい希望は、はるかな道々につながつて、彼等二人は、あてどもなく歩いて行つた。
二人は、遂に畑のなかをも通つた。赤い唐辛子の輝きにも、はかないあこがれがあつた。すべてのひそかな小路の奧や、裏に、見出されない祕密の幸福や、緑の野があるやうに見えてならなかつた。そして、彼女は、遠くに白く輝くすゝきのしげみを見出した時、うれしさうに言つた。
『あの、すゝきの上に坐りたい。』
彼女は、彼のあとに從つて、しめつた道や細い小路を疲れたまゝ、夢のやうに歩いた。そして、やうやくすゝきの輝きを間近かに見た時、深い溝は彼女を渡さなかつた。二人はかすかな息をついた。どうすることも出來ない、淋しさである。
『行きませう。』彼は、わだかまりなく言つた、彼女は、茫然と立止まつてた。のがれることの出來ない肉體の弱さと、かぎりないあこがれの心との、なやましい沈默であつた。
二人は、ひきもどした、けれども、深い溝は、彼等に憧憬の絶望を與へはしなかつた。夢みる緑の野は、いまだ二人の頭に淋しい輝きを殘してゐる。日は、野に近くおちた。わづかな木の葉や、木のかげに、不安な夕日のいろがたゞよつてゐる。二人は、歸るべき道を考へなければならなかつた。二人は、遠い空を見かへりながら、不安な、あやしい道をたどつた。うす暗い夢のやうに、黒い木の下の小路をぬけ出た時に、彼等は不意に、鐵道線路のつめたい色を見た。
彼女は、もはや堪へがたく疲れてゐた。けれども、杖はつめたく彼女一人を、さゝへてゐた。『戀人の腕によらずに、一人で強くお前の道を歩め。』といふやうに、杖はつれなくつめたかつた。彼女は、その杖から逃れるやうにして、線路の傍の、落葉の上に坐つた、かわいた落葉は、彼女の手のしたに靜かな囁きをつたへた。風が冷たく、彼女の身體をふるはした。彼女は、目の前にかぎりなくつゞく線路の青白さにみいられて見つめた。その青白く光る刄物のやうな表には、遠く汽車のすぎるこまかな震動を、つたへてるやうに見えた。そして、人のないあたりの灰色の空氣が、ひくゝその表にたゞよつてゐた。死が彼女の心を捕へた。死は、彼女の心と共に生れて來た白い花であつたから、戀の憂欝はたゞちに死をともなつた。そして、それが不安なしに合つた時、彼女に最上の幸福が齎らされると思つてゐた。彼女は、ふと自殺者が、汽車のすぎるのをまつやうな心になつた。青白い線路がふるへてゐる。そして微笑してゐる。
『自殺者のやうだわね。』
彼女は、ふと言つて戀人の顏を見た。しかし、立上つてた戀人の瞳は、如何に輝いてたことだらう。彼女は、忽ち後悔の苦悶に捕はれた。死が彼にとつて、どんなに厭はしいものであらうと考へたのである。死が彼に戰慄と憎惡を與へはしまいかと、思つたのである。彼は、いまだ死を口にしたことがない。そして、彼の戀は、はげしい生の欲求によつて、生れたものであるらしかつた。
しかし、彼女の戀は、死によつて芽ぐんだのである。いかにしても死をはなれることの出來ない苦悶であつた。彼の瞳の前に、死は彼女の心に、なやましい混亂をおこす。彼女は、初めから生と死に別れた戀が、なにゝよつて一つになることが出來るだらうかと、思つたのである。彼は、彼女を見た。
『行きませんか。』
彼女は、つとめて死の誘惑にみちた心を、押しかくさうとして立上つた。落葉の上に、彼女の身體がふら/\となつた。彼は、後にまはつた。そして、彼女の裾にからみついた落葉をつまんで、投げてくれた。二人は、また靜かに歩き出した。
やがて、彼等は再び、廣い限りない空につゞく白い道を見た。二人は、その道に疲れた白い埃を立てゝ、元來た道にむなしく歸らなければならなかつた。幸福は、すべて嘆きであつたらうか。憧憬は、悲哀にをはるものだつたらうか。彼女の心は、淋しさにうづもれてゐた。
『疲れたでせう。』彼は言つた。彼女は苦しみながら言つた。
『あたし、あたしたちの戀もかうして、終るんだらうと思ひますわ。』
必ずそれにちがひない。遂に何物もないのではなかつたか。けれども、彼女は深い溝が渡れなかつた。もしや、すゝきのしげみに、幸福がひそんで居はしなかつたらうか。弱いなげきが、彼女の心にみちた。
『彼女は、なげいてゐる。』さう思つた時、せまつた彼の感情は、容易に言葉を見出さなかつた。しかし、やうやく彼は、歩きながら言つた。
『とう/\僕だちは、野がみつからずに歸らなければならないんですね。疲れたでせう。けれども、これが終りじやないんだ。とにかく、僕だちは道をあるいた人です。幸福に通ずる道を、歩いた人ですからね。たとへ野を見出すことが出來ないとしても、よろこばなければならないと思ふんだ。幸福への道だと思へば、今日は、これで十分でしたね。』
しかし、彼女は考へた。果して幸福といふものが、他に存在してゐるだらうか。これが幸福に通ずる道でなくて、このなげきが幸福そのものでないかしら。そして、この不滿が戀そのものであるのだかもしれない。さうすると、私たちの戀も幸福もなんといふかなしい、不滿な、なげきであるのだらう。けれども、彼女はいま心のやはらぎの上に、快い靜けさが起るのを感じてゐた。
二人は、まだ秋の野であつたといふ事に、思ひつかないのだらうか。戀は、秋の野に緑の野を求めるみたされないはかない憧憬であつたかもしれない。そして、求めかねた、不安な不滿な心につながるものであつたかもしれない。戀の安住は、戀の幸福は、死と生を超越しなければ得られないものであつたらうか。また、何物にか到達する道が、戀であるのだかもしれない。
二人は、つめたい風に、すべてが冷たくなつて、再び車内にならんで腰をおろした。おぼろのやうに動く人々が、彼等の前に立ちふさがつた。そして動き出した電車の周圍に、夕ぐれの紫の靄が、たち込めた。淡い電燈が人々の頭の上についた。
二人は、初めて、かさなり合つた彼女の袂の下で、手を握り合つた。靜かに涙のあふれるやうな心持で、彼の冷たい手と、彼女の温かい手と、冷熱が入りみだれて、二つの手の存在が判然としなくなつた時、二人は空につゞくかぎりない白い路と、灰色の野の上に太陽の光線の箭に條づけられた雲の色とを、繪でも見るやうに眺めた。二人の瞳の中には淡い涙の淡絹がとぢこめてゐた。
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