青白き夢 |
新潮社 |
1918(大正7)年3月15日 |
1918(大正7)年3月15日 |
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『上れますか。』
高い、こまかい階段の前に、戀人の聲が、彼女の弱い歡樂の淡絹をふりおとした。
彼女は、立止まつた、その瞬間、いま賑かな街を俥で飛んで來た、わづか十五分間の、眩惑されるやうな日のなかの、うれしさの心まどひが、彼女の心の底に常にひそんでゐる孤獨と悲哀の恐ろしさに、つゝまれてしまつた。『私の幸福を、私の弱さがさまたげやしないか。』彼女は、非常に弱かつた。そしてその足は、彼女がせまい胸を壓するやうに、脇の下にはさんでゐる所の、黒い杖でさゝへなければ、まだ若い彼女は、この光りにみちた地上を歩くことが出來なかつた。
そして、それがすべて若くして病める弱い人々のやうに、あらゆるうれしさや、よろこびの、さゝいのなかにも、淋しい恐ろしい孤獨と悲哀とを感ずるチヤンスを、見出すことを忘れさせなかつた。『私の弱さが、私の歡樂をうばひはしないか。』と。
『えゝ、』彼女は、高い階段の先を見上げた。その高い階段は、また先の方に暗くなつて、登つただけ、再び降りなければならなかつた。
彼女は、睫毛をふせた。その階段が、彼女を威壓するやうに見えたから、彼女の弱い足元がふるへて、不安とかなしみが混亂してこみ上げて來るのを感じた。けれども、それが彼女一人の時においてゞなく、戀人の呼吸と、その衣ざはりのかすかな響とを、傍に聞くことが出來たから、不安は、羞恥と淡い恐れとになつて、彼女は、上氣したやうに、頬を赤くそめてうつむいた。
彼女は、そしてその伏せた瞳のなかに、女が白い細やかな、紅の裾に卷かれた兩足を持つて、蛇のやうにすばやく駈け登つて行くのを見た。
彼は、靜かに、そして斜に階段を上り初めた。彼女は、そのあとに從つて、ひそかにかなしい杖の音を立てたが、危さと苦しさと、弱い恐れとかなしみが、彼女のすべて[#「すべて」は底本では「すべで」]を圍繞した、けれども、彼女は、はずむ息を靜めた。苦しさが醜さを、ともなひはしないかと、恐れたのであつた。そして、只その瞳に戀人の足元を見ることが出來たから、涙のやうな微笑をうかべて、無言のまゝ階段の上に、足をすゝめた。
漸く彼女が、階段を降りて地上に立つた時、ふりそゝぐやうにかぶさる、秋の強い日光の黒い木棚のそばに、戀人の青い衣の輝きを見た。彼は、降りて來た階段の高さを、振り仰ぐ瞳のなかに、彼女を見た。彼女の蒼白い頬には、瞳のあたりまで紅の色が上つてゐた。紫に輝く髮の上に、重たい光りのおもさを感じてゐるやうであつた。うつむいたまゝ足元の影を見つめてゐる。そして、彼女の黒塗の杖は、銀いろに輝いてゐた。
『彼女は、かなしんでゐる。』さう思つた時、彼は、彼女に對して自分の感情をつたへる、言葉を一言も見出さなかつた。彼は、彼女を後に振りかへるやうにして、靜かに車内に入つた。彼女は影のやうに從つた。
廣々とした車内には、閉ざゝれた連なる玻璃の窓を透して、金屬のやうな午後の光りが、みちてた。彼は、その光りのなかを、割るやうに、彼女は、その光りのなかに溶されるやうに、二人は、赤いクッシヨンに並んで、腰をおろした。
彼女は、靜かに黒塗の杖から、汗ばんだ白い手をはなした。そして膝の上にかさねた袂のなかの、冷たい絹に、その手の熱をひやしながら、靜かなやはらぎを感じた。
電車は、彼等のほかに幾人かの人をのせて動き出した。郊外へ/\と走る電車は、その窓に輝く木の葉の、きらびやかな影をうつして、人々は、ある漠然とした遠い心に捕はれてた。そして誰れも、その人々の顏について、眺める事をしなかつた。
彼女は、まぶしさうにうつむいてゐた。
その肩に強い日光をうけて、知られざる哀愁が、彼女の胸にみちた 彼女は、足元に木の葉の影を落して、はひよる光りを見つめながら、電車の響きが、彼女の頭に心よいリズムをつけてゐるのを感じた。
『靜かな、空の廣い野に行くんですわね。』と彼女は、戀人に對して確める前に、彼女は、はじめて、野のたのしさに、はれやかな憧憬の心をおこさしめた彼の手紙を思ひ出した。
『秋だつて云ふのに、僕は、綺麗にのびた草の上に、無上の光りに輝いてる花の廣い野を見てゐます。』彼女は、瞳をなかば閉ぢた。そして、その中に彼とおなじ、花の廣い野を見ることが出來た。また、『二日の日曜日には廣い/\、野に行きませんか。二人が開くサンドイッチの上に、やはらかい煙りのやうな雲の影がすう/\と通るんですね。あの本を二人で大きな聲を上げて、讀みませう。二つの呼吸が一つのまるい温さになり、二つの呼吸が一つの長い大きな呼吸になつて、涙の出るやうなうれしさを感じたい、遠くから見たら、二人が秋草と一緒に搖れてるんですね。水のやうにけざやかな秋の空は、美しい光りを孔雀の翅のやうにひろげて、その中に憧憬の歡樂を夢みる二人は、本當に幸福なんですね――本當に二人を母のやうに從順に、氣をくばつてくれるやうな、場所がほしい。』
彼女は、これ等の文句を頭の中に、くりかへしながら、目の前に孔雀の翅のきらびやかな蔭を見た。そして、彼女がいまかうして戀人と、そのみどりの野を、花の野を求めに行かうとするまでには、その手紙は幾度繰りかへされて、彼女の瞳に輝きを與へたことだらう。戀は、彼女の心に死を願ふ病める幽欝の夕の、窓に求めた白い花であつたのだけれども、野の幸福を求める心は、光りのやうに白い花を赤く輝かしたのだ。
しかし、その光りは淡い歡樂の憧憬だつた。夕の光りのやうに、夜のかなしみはやはり、彼女の心の背後にあつた。そして、彼女の弱い肉體に征服された心は云ふ。『すべてが寂寥に、終りはしないか。すべては悲哀に、終りはしないか。』彼女は、淡い混亂の幽欝に捕はれて、なやましい心に何事かを言はうと、戀人を見た。
彼は、靜かに股にはさんだステッキの上に、兩手をかさねて、動かないものゝやうに、窓の方を見てゐた。その瞳は、いかなる色にかゞやき、いかなる影をやどしてゐるかは、解らない。
彼女は、ふといま言ふべき言葉が、かなしみ以外に出ないことを恐れた。彼女に、戀人は悲しみを最も厭ふ人のやうに見えた。この幸福を求めに行く時に、かなしみの言葉は、彼の心を傷つけるかとも思はれた。彼女は晴れやかな、輝く心にならうとつとめた。そして、彼女は默した。
けれども、彼女には、いまだ手も觸れたことのない、戀人の心は神祕であつた。沈默は知られざる淵であつた。しかしまた彼の言葉も、彼女に取つていかに、源の知れない水であつたらうか。
彼女は、やがてまた彼に對して、何か言はうとした。けれども、すべての言葉は、言ひ出さうとする時、たよりなく厭はしく思はれた。それに、戀人の心は、知られざる淵であつたから、投げ入れた小石の行方に對する不安が、彼女のかなしみの心に、いかなる嘆きを齎らすか、はかり知れなかつた。
彼女はまた、遂に沈默した。
『もうぢきですね。』
不意に、彼が沈默を破つた。そして、常の如くに輝いてる彼の瞳は、彼女を見た。
『えゝ、もうぢきですわ。』彼女は、つとめてかるく答へた。そして再び、目の前に孔雀の翅のきらびやかな蔭を想像した。
二人は、最終の所で電車を降りた。そしてこまかな店の間を通りぬけて、線路を横ぎつた時に、うす藍色の空のはてにつゞく、白い路を見た。二人は立止まつた。はるかな戀に對する、かぎりない希望の淋しさが、彼女の心を引きしめた。
『野があるでせうか。』
彼女は、その手に杖をにぎりしめて、戀人を見た。彼は、はるかな空のなかに瞳をかゞやかせながら言つた。
『きつと、いゝ野があるに違ひない。』
二人は歩いた。二人の胸のなかには、彼女が彼と共に二階の欄干によつて、木や草や、森や、屋根の上に人の上に、すべての都會の上に高く遠い空の不可思議を、あふいだ時と等しいはるかな憧憬の、緑の野があつた。そして戀の淋しい心は、やがてくづれがゝつた土手にそうて、細い小路に折れまがつて行つた。その道のほとりに、土の下に草は淺黄色に枯れてゐた。秋草のやさしさは、灰色にふみにじられてゐる。二人は、無言のまゝ歩いた。細い道と、折れた草とは、彼女の弱い足をなやましたけれども、緑のひろ野を求める心が、二人の道をいそがした。
けれども、秋は夏の幸福を從へて、もはや末であつたから、蟲が折々細い聲をしぼつて、彼等の足音に嘆きをつたへた。
二人は、やがて灰色の枯草が地にふしてかなしむ、廣い野に出た。そして、野の中程の土の高みに、とり殘されたやうになびく、五六本のすゝきの蔭に、二人は立止まつた。
彼女の足は、すつかりつかれてゐた。いこふ野に一本の木もなく、土はかたく荒れて、草はまばらに肌を見せてゐた。秋風は、この野の末から末に渡つて、彼女の生際ににじんだ汗は、つめたく肌にしみてゐた。彼女は、遂に杖をはなれて、冷たい土に腰をおろして、すゝきの蔭に睫毛をふせた。
『淋しい野ね。』
彼女は、遂に幸福は悲哀でなかつたらうかと、涙ぐんだ。しかし希望は、涙のうちに輝いた。
『緑の野があるでせうか。』
『えゝ、きつと彼方の森の方に、あるに違ひない。』
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