彼は手を洗ってる医者を見た。
『え、石炭酸がたくさんありましたから、それで十分でした。なに御心配なさることはない。』
医者が手をふいて座りなほした時に、彼女はぼっと眼を開いて夢でも見たかのやうに、
『赤ちゃんは。』と聞いた。
『あゝ、赤ちゃんを拝見いたしませう。あちらの方ですか。』医者は立ちかけた。すると、彼女は急に泣き出しそうな顔をした。
『赤ちゃんをこゝに置いちゃいけないのでせうか。』彼女は小さな声で云った。
やがて赤ん坊は布団のまゝ運ばれて、彼女の枕元に来た。なんといふあはれないたましい生き物なのだらう。医者は、赤ん坊を見て、
『よほど大切になさらないといけませんな、そして暖かく。育たないかも知れませんから。』
灰色の顔がふとゆがんだ。そして医者は、寒い戸口から消えて行った。
産婆は、ほっと息をついてあはてゝ帰り仕度を初めた。そして明朝早く来ると云ひおいて、やせた髪の毛の少ない彼女もまた戸口から消え去ってしまった。
部屋のなかは急につめたく澄んで来た。もはや夜中だ。疲れ切って、魂を奪はれてしまったやうな彼女がうすく膜のかゝったやうな瞳を上むけてゐた。そして不安と気づかいと恐れと驚きと、すべての肉体の疲労との為めに頭が煙りのやうになって茫然と男は立ちつくした。面を伏せて見たならばあのあはれな赤黒い小さな生き物も、かすかなため息をもらしてゐるだらう。
彼女は、うとうとと眠りにおちて行った。
やがて男は、赤ん坊の傍に彼の床をならべて敷いた。
そして彼は床のなかに静かにすべり込んだが、彼の瞳はなかなかとじられなかった。そして彼にはたへず赤ん坊の糸のやうな、細いかすかな泣き声が耳についてはなれなかった。赤ん坊は度々小さなそして、かすかな泣き声をわずかばかり立てた。男はまた幾度となく静かに赤ん坊の顔をのぞき込んだ。
小さなあはれな生き物は、なんといふ悲しい物あはれな息をしてゐるのだらう。本当に物あはれなかなしい、彼の瞳は涙にくもらうとして来た。なにが故に、この小さな赤ん坊が、云ひしれないかなしみを彼に与へるのだらうか。「可哀想に、おゝ可哀想に」彼は心のなかでくりかへした。そうだ、かなしみの日だ、なんといふかなしみの日だらう。この小さな一箇の生物が生れて来たといふこと、生れて来たといふ日を彼はけっしてよろこびの日として、よろこびのことゝして記憶することが出来ない。すべての人間は真にかなしみの日としてのみ己の生れた日を記憶するであらう、可哀想にすべての生物は生れる。そして死ぬのだ。世の中にかなしみは泉のやうに、流れて絶えないだらう。
彼は今朝、彼女のかすかな腹痛が起って産婆が来た時から、急な金策の為めに寒い冷たい賑かな街の白い道を、あてもなく急いで、彼女に対するあはれみと不安とにいらだちながら、くらくらと目眩に倒れようとして殆んど夕方まで歩きつゞけた自分の姿が目に浮んで来た。そして自分が夜になって、やうやく自分の家に帰って来た時、家のなかの静けさは彼に云ひしれない恐怖を与へた。そしてふるへながら入って来た部屋に、おゝあのかつて見なかった所の、あはれなあはれな赤黒い小さな生き物が、あまりに小さな生き物が白い瞳を糸のやうに開いて、本当にほのかなかすかな息をついてゐたのだった。
どんなに早くっても今夜おそくか、明朝にきっとなるだらうと産婆が云ったために、彼は幾分か安心したのであったけれども、自分の留守にこのあまりに不思議な怖ろしい奇蹟が彼女に行はれたといふことが彼には、どうしたことだといふやうに、只驚かされてしまったのだった。彼女は、一体どうなったか。
やがて彼女は、どこからともなくかなしげなほそ/″\とひゞく唄の声を聞いた。そしてその唄が、彼女のうつゝな心のなかに次第次第に目覚めかゝらうとして来た時、彼女の心が急になんともしれない非常な気づかいの為めに驚いたやうに瞳を見開いた。
人が歩いてゐる。この部屋のなかをひそかにそっと、何物かを抱へながら静かに唄を歌ってるのだ。
『ねんねんねんねん――ねんねんや。』
その声がどんなに物あはれに、その声がかなしみからやうやうぬけ出たやうにきこえたことだらう。唄ってるのは男だった。彼のいづこからその細やかな、すき通るやうな声が出て来るのであらうか。彼は一生懸命だった。赤ん坊を両手に抱へ込んで、静かに瞳をふせながら折々糸のやうに細く声を立てゝ泣くのをなだめようと、歩いてるのであった。そして赤ん坊のあまりに物あはれなその顔に、彼のくぼんだ深い瞳をうるませながら、なぐさめがたい悲しみにふるえながら、ひそかに歩いてゐたのであった。
『あゝ、赤ちゃんは。』
彼女の不思議な気がゝりが、彼女が目覚めると同時に声を立てた。そして彼女は赤ん坊をかゝへてゐる男の後姿をながめた。
『あゝ、赤ちゃんが泣くの。』
けれども、彼女の声はひくかった。彼は静かに唄を歌ってゐた。
『ねんねんねんねん――ねんねんや――赤ちゃんはおりこうだ、ねんねしな――』
彼女はふと、その唄を聞くと、涙がぼうと浮んで来た。そしてそのかなしみのなかに、彼女は茫然と沈んでしまった。動かされない身体の痛みとだるさを、そして彼女は急に感じたのだった。
彼女は、やがてまた耳についてるやうな、細くかなしげな声の為めに目覚めた。そしてそっと彼女の隣りの夜具に瞳をやると、大きな夜具の上が心地動いたとも思はれないほど、動いて、すき通るやうな小さな声はそこから洩れてゐたのであった。
『おゝ、赤ちゃんや。』
彼女は、力なく夜具のなかから手を出した。そして隣りの夜具の上にやうやくその指をのばした。そして彼女の口は自然に開かれて彼女がかつて唄ったことのない唄が口から出て来た。
『ねんねんねんねん――ねんねんな。ねんねんねん――ねんねしな――。』
とぎれとぎれに彼女は力なく唄って、その疲れたやうな白い小さな指先で、夜具の上を静かに打ちはじめた。
彼女はつかれた。そして彼女の手は赤ん坊の夜具の上にしほれたやうに投げ出されたまゝ動かなくなった。そして彼女の瞳がぼんやりと閉ぢられてしまったけれども、彼女はなほ唄ってゐた。
『ねんねんねんねん、ねんねんな――、赤ちゃんはねんねしな、ねんねしな――』
男は、ふとつめたい床のなかから唄の声を聞いて飛び立つやうに目覚めた。そして見るとねてるやうな彼女の唇から、歌がとぎれとぎれに聞えてゐたのであった。そして赤ん坊は小さな顔に皺をよせて、細い細い声を立てゝ泣いてゐた。
しら/″\と白い光りが部屋のなかにどこともなくたゞよって、いつのまにか部屋は暁の冷たい空気にみたされた。そして彼等の夢のやうな夜が明けたのであった。そして、彼も彼女も淋しく床のなかにめざめた。
赤ん坊は、一人赤ん坊のみは、やうやく平和のかなしみのなかに瞳を閉ぢて、静かな息をついてゐた。
お葉は、初めて、やうやく、彼と自分との間にかつて見なかった所の、そしていづこから来たとも知れないこの小さな生き物が横へられてあるのを見て驚いた。彼女はしみじみと、半ば布団のかげに、半ば白い光りをあびてる幼な児の顔を不思議なものゝやうに見つめた。
「私から、私からこの生き物が生れた?」どうしてそんな事を信ずることが出来よう。おゝそして、それが我子、我子と云はねばならないか。どうして、そんな事を信ずることが出来やうか。」
あの苦しいなやみ、あの苦しい痛みのうちにこの赤ん坊が生れたとしたならば、それは神か悪魔でなければならない。けれども、この生れ出たこの悪魔は、神はどうしてあはれむべきものであらうか。
『私は、私が赤ちゃんを生んだのでせうか。そうして、この赤ちゃんは、一体誰れのものなのでせう。』
彼女は男の目覚めてるのを見て云った。
『可哀想だ、俺はたゞ可哀想でならない。そして、この生れて来たあはれな小さなものは俺だち二人のなかに生れ、俺だち二人の間にゐるのだからね、なんといふ可愛いやつだらう。大切にしなければならない、なにしろ、しかしどうしたらいゝものだらう[#「句点脱落」はママ]』
男はそっと赤ん坊の布団をのぞき込んだ。そして三人が顔を見合せた時に、なんとはなしに底の方から微笑が浮び上って来た。
そのほゝ笑みは、一体なんであったらう。人間の悲しみの日からは、やがて微笑や、希望が浮び出て来る。またやがて朝の日光も、ばら色に輝くことだらう。男は新たに、この幼なきものゝために、山の如くつまれた雑務をとりかたづける為めに起き上った。
(『婦人公論』大正5・5)
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