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かなしみの日より(かなしみのひより)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 9:39:08  点击:  切换到繁體中文

底本: 素木しづ作品集
出版社: 札幌・北書房
初版発行日: 1970(昭和45)年6月15日

 

彼女は、遠くの方でしたやうな、細い糸のやうな赤ん坊の泣き声を、ふと耳にしてうつゝのやうに瞳を開けた。もはや部屋のなかには電気がついてゝ戸は立てられてあった、そして淡黄色うすきいろい光りが茫然ぼんやりと部屋の中程を浮かさるゝやうになって見えた。
『一寸もお苦しくは御座いませんか。気が遠くなるやうじゃ御座いませんか。』
 彼女の瞳がうっすらと開いたのを見て、色の黒い目っかちのやうな産婆がすぐ声をかけた。彼女はなんにも見なかった。そしてその声ばかりを耳元で静かに聞いた。
『いゝえ、一寸も苦しくないの。それはいゝ気持。』
 そして彼女は夢のなかで一人ごとを云ふやうに、快よさそうに云った。するとまた、
『大丈夫ですか、まだすんだのじゃありませんからね。もう一度、ほんのちょっと苦しみさへすればそれでいゝんですからね。』とやさしい声がきこえて来た。
「おゝ、私は非常に苦しんだのだった。あの時は障子に明るい日があたってちらちらしてゐた。そして私が、寒さと冷汗と烈しい痛みのなかにふるへてゐた私が、くらやみの中に閉ぢた眼をふと開けて、あの障子にちらちら踊ってた日を見たのだった。外はまばゆい程明るかった。そして私は本当にすべてが消滅するかと思はれるほど苦しんだのだった。」
 彼女は、ふと頭のなかですべてのことを思ひ浮べたやうだった。あの恐ろしい発作のやうななやみを、そして彼女はぼんやりと、どこかに非常にあはれな小さな赤ん坊がゐるに違ひないと思った。彼女はぼんやりと再び瞳を開けた。
 すると、目の前にいつも髪を結ひに来る赤い顏の肥えた髪結さんの、まんまるい大きな眼が不安そうに光ってゐた。
『ね、奥様、ちょっと起き上って見ちゃどうですか。私がそっとこう大切に手をかけて見てあげますから、あゝ私はどうしたらいゝか気が気ぢゃない。奥様、のちのものが下りないと、大変なんですがねえ、どうしたらいゝだらう。血が頭に上ってしまったら。ね、奥様一寸起き上って見なすっちゃどうですか。そうするとすぐ下りるんですけれどもね。第一寝てお産するのがいけないのだ。』
『髪結さんなの。』
彼女は低い声で気のなさそうに聞いた。
『えゝ、奥様がなんだといふ事を聞いたもんですから、まあ一寸と思って急いで来たんですがね、赤さんが出てしまったのに後のものが下りないなんていふもんだから、私しゃ吃驚びっくりしてしまった。』
『いゝの、私はこのまゝでいゝの。』
 彼女は、そばであはたゞしく大声で話しかけられたので目覚めかけたやうな頭が、またぼうとなって来た。そしてまたうっすらと瞳を閉ぢてしまった。
 彼女はたゞ夢のやうである。そして彼女はこの夢のやうな淡いふんわりと浮き上ってるやうな心持を、なぜか多くの人々が気づかひそうに見守ってゐることが感じられた。けれども彼女はどうしようとも思はなかった。そして彼女の心は只茫然ぼんやりと時々遠くの方へ引づられてゆくやうな気がした。
 やがて玄関の戸が強く開く音がして部屋のふすまが開けられると、ふっと冷たい空気が流れ込んで来た。そして外から帰って来た男が、つめたそうな顔をして不安にうるんでる瞳を見はりながら入って来た。
『どうした、大丈夫か。』
 そして彼は彼の冷え切った大きな手で、彼女のやはらかな疲れ切って投げ出され、忘られたやうな小さな手をかたく握りしめた。
『大丈夫か、しっかりしてくれ。』
 男は静かに、彼女の生へ際のみだれた毛をなで上げてやった。
 彼女はぢっと彼の顔を見て居たが、急に力強いはっきりした意識が目覚めて来た。そうだ。彼女はなにか云はなければならない。
『赤ちゃんが生れましたの。』
『うむ。』男はあはれそうに彼女を慰めようとして、笑ひを浮べながら、
『うむ、赤ちゃんを見て来たよ。赤ちゃんは大丈夫だ。さ、もう少しだ、しっかりしてゝくれ。』
 お葉は静かにうなづいた。そして、もう一度なにかを云はふと、男が瞳に眼を上げた時お腹と、腰との間へんが、しめるやうに痛み出した。
『おゝ。』彼女は顔をゆがめた。男は、
『がまんしてくれ。』と力をそへるやうに彼女の腕首をつよくおさへた。
『痛み出しましたか。今度はすぐ下りるでせう。』産婆は、あはたゞしく彼女の腰やお腹をさすり初めた。
 けれどもやがてその痛みは、すっと逃れるやうに消えてしまった。そして彼女はまた茫然と夢のなかに浮かされたやうな快さのなかに、うっとりと瞳を閉ぢてしまった。お葉の身体はなんでもないやうな厚い夢の衣につゝまれてしまったやうであった。
 男はほっと深く息を吸ひ込むやうにして、窓の方をにらむやうに眼を見はった。
 いま彼の神経は、帆のやうに張りきって、また次の瞬間には木の葉のやうに、ふるへてゐるのであった。真白な殆んど冷たそうな色をして静かに目を閉ぢてるこの可哀想な女が、不自由な肉体でどれ丈の苦しみをしたことだらう。妊娠中に知らない旅から旅へと歩いて少しの慰安も与へることが出来ずに、彼女の心がなやみに疲れ、かなしみにおぼれて、なんの用意もない所に、不意にそしてあまりに早くお産をしなければならなくなったのだ。
『ゆるしてくれ。すべてのことをゆるしてやってくれ。』
 男は小さな声で、彼女の顔に息をふきかけるやうに云った。その時彼はふとむこうの部屋で、そうだ、あのあはれな生物がうすい眼を開いてたあの小さなうす暗い部屋の方で、さわぐやうな声を聞いた。男は急に立ち上って部屋を出た。
 うす暗い部屋のなかに三人の女が、かたまるやうによりあつまってゐた。そしていまうす赤黒くほそく痩せた赤ん坊が、布団の上から抱き上げられやうとしていた。女だちの手があはてゝ布団をまくり上げてゐた。
『赤ちゃんが、おゝすっかり冷たくなってしまって、どうしませう。』
と若い近所の子持の奥さんが、あはてゝ赤坊を抱き上げた。赤坊は少しも泣かなかった。そして白いやうな眼をうっすりと細目にあけてゐた。赤坊は毛布にかたくつゝまれて、湯たんぽの湯がかへられたりした。そして赤坊は再び寝かされたが、若い子持の奥さんは心配そうに、その細くうっすらと開いた白い眼を見つめてゐた。
『旦那、大変ですね。』と柱にぶらさがるやうにした女があった。
『私しゃ驚いてるんですよ。旦那、赤ん坊はどうでもいゝとして、奥様がですよ。赤ん坊は明るいうちに出てしまって、そしてまだ後のものが降りないって云ふじゃありませんか。このまゝでゐるともう奥様は死んじゃいますよ。旦那どうかなさいましよ。だから私しゃあの産婆さんはいけないって云ふんだ。』
『あゝ髪結さんかい。ありがたう。』
 彼はあはてゝまた産室に戻った。
 彼女は茫然と瞳を見開いて不思議なやうに部屋の壁や天井を見てゐた。そして産婆は平然と彼女の傍にその目っかちのやうな瞳をかたよせて坐ってゐた。
『大丈夫かい。本当にしっかりしてくれ。』
 彼は入るなり云って彼女の枕元に坐った。産婆は片目にしわくちゃな皺をよせて笑った。
『どうでせうか。本当に心配はないでせうか。医者をよびませうか。』
 彼はやがて哀願するやうに産婆に云った。
『えゝ大丈夫です。この位なら私でも少し無理をすればたりるんですけれどもね。まあ、もう少し様子を見ることにしませう。』
 沈黙がつゞいた。そして彼はじっとうつゝのやうな彼女の顔を一秒でも見のがさないやうにと深く見つめてゐた。死は、どんなにひそかに表はれて来るものだらうか。そして死はいかなるかげにひそんでゐるものだかわからない。
 やがて、次第に夜がふけて来たやうだった。真暗な夜の空の冷たさが、どこからともなくひそやかに流れて来たやうだ。そして、部屋の空気がいつとなくひえ/″\として来た。けれども彼女の後産はまだ下りなかった。そして彼女はつめたそうな顔をして、うつゝともなく瞳をとぢたまゝでゐる。
『大丈夫かい。なんでもない?』
 彼は一生懸命に云った。彼女は茫然とうなづいて瞳を見開いたが、その瞳の底が淋しさうに光った。すると産婆が身ぶるひをしながらせはしさうに口を利いた。
『でも御心配なら産科の医者をおよびになってもよござんすよ。あの野田さんがよござんせう。』
 男はあはてゝ医者を呼びにやった。彼女はふと驚いたやうに瞳を見開いて聞いた。
『お医者さまが来るの。』
『うん、只来てこゝにゐて貰ふだけなんだからね。なにも心配しない方がいゝよ。』
 彼女は黙ってうなづいたが、どこか苦しそうに肩をひそめた。
 まもなく寒い外にくるまべるがなりひゞいて、背の小さな青い顔の、黒い服を着た男が入って来た。すると産婆が急に席をうごいて、口をゆがめて笑ひながら医者に長い挨拶をした。そして彼女は話し出した。
『私も一度拝見しましたばかりで、よく身体の様子はわからないので御座いますが、かすかな痛みは今朝からあったやうで御座いまして、私の参りましたのが丁度お昼、それからすぐに陣痛がだんだん烈しくなって来まして、午後三時頃には三銭銅貨大ほど子宮孔が開いて来まして、四時半にはもう生まれてしまったのですが。』
『あ、もう赤さんは出てしまったのですか。』
医者はどんよりした眼を開けて聞いた。
『え、お産は案外早かったので御座いますよ。』
『女でしたか、男でしたか。』
『お嬢さんで入らっしゃいましたが、なにしろお月が早いので。』産婆が云ひかけようとすると医者がそれをさへ切るやうにして云った。
『それで、出ないといふのは後産なのですな。』
 そして、彼は立上った。
 医者は彼女の身体を診察した、そして、心配そうに坐ってゐる男の方に向って、
『なに、私が一寸手をかけますと、じきに出ます。なにか消毒液、アルコールがありますか。なかったら一寸取って下さい。』
 男は一寸と云って、あはてゝ家を出て行った。
 医者は、やがて腕をまくり上げて、ふと隅にあった石炭酸を見つけだして。そして、『これでいゝ。』と云ひながら、熱湯にまぜて、手を指の先から腕まで一心に洗ひ出した。彼女はそっと上目を開けて悲しそうに医者を見た。
 医者は、アルコールが来ないうちに、もはや彼女の肉体にふれてゐた。彼女は思はず寒さの為めにふるへるやうに、身ぶるひした。まだ男は帰って来ない。そして枕元には誰れもゐなかった。
 それは、我慢すべき痛みであったらう。けれども痛みは戦慄すべきものであった。彼女は産婆のざらざらした皺のよったやせた手にすがりついた。
 男がいそがしく外から白い瓶をさげて帰って来た時には、手術が終ってたのだった。彼は冷たい外からあはたゞしく部屋のなかに入って来て、ぢっと眼を閉ぢてる彼女を不安そうに眺めた。
『もう終りましたか、なんとなく。』

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