森本先生は、一年たゝないうちに学校をよした。そして、まもなく彼女の家に来たけれども、親しむ間もなく彼女の兄と共に、南の方へ旅立った。
辰子は、学校を出た。辰子の周囲は、ひろくなった。辰子はせまい、悲しみに捕はれなくなった。そして、彼女は、すべての世の中すべての自然をパラダイスのやうに見たのだった。
空想と理想は、それに由って建設された。彼女はすべてに対して微笑と親しみとを欲した。そして彼女は、兄夫婦と同居することについて新生活を予想するやうな、嬉しさを持った。辰子は、すべてを自分の理想のなかにつゝんでしまった。
そして明るいはなやかな、親しみと嬉しさを持って、家の門を入って来る嫂を見た。別れてから二年たってゐたけれども、嫂の様子は学校時代と少しもかはらなかった。
玄関には、おそ咲きの梅が咲いてた。嫂はその梅を一寸見て部屋のなかに入って来た。
辰子は、嫂を初めて近くに見た。
嫂ははじめ、無頓着なあっさりした、気のよさそうな人に見えた。そしてまた遠慮してゐるやうにも見えた。彼女は、早く親しみたいといふ嬉しい気づかひを持って、落ちつかなく日常のことをしてゐた。玄関の側の部屋にゐる嫂の方に気を、とられてゐた。しかし、まだ臆病な彼女には、自づから進んで嫂のなかに入ってゆく事が出来なかった。
親しみをお互に求め合ふことは出来ても、何物もない所に、親しみ入らうとすることは出来なかった。
嫂は、また驚く程すまして、驚く程平然としてゐる人のやうにも見えた。気の小さい彼女は、その前でまごついた。不安であった。
嫂は食事以外に、自分の部屋から出て来なかった。食事の時には、黙って彼女の前で箸と口とをうごかすばかりであった。
そして食事が終るとあとを片づけて、すぐ勢よく廊下を歩き、自分の部屋に入り襖をきっちり閉めてしまふ。そのあとはなんの音もしない。微笑したことを、笑ったことを、泣いたことを、無駄口一つ聞いたことを、彼女は知らないのだ。
嫂はまた、恐ろしく冷淡な、かたく己を閉してゐる人のやうにも、またある時には、高慢な無作法な人のやうにも見えた。そしてまた、この世の何の欲望にも、支配されず、またこの世のさゝいな事には、少しも感じないやうにも見えた。彼女は、嫂の部屋が、どんなやうになり、嫂がその中でどんな事をしてゐるかを少も知らない。嫂をつゝむ感情は恐怖と、不安とであった。彼女はまた悲しんだ。
しかし、彼女はその真面目な顔を、食事の時に静かにのぞくけれども、五慾をはなれた聖者のやうな、神々しさや清さは見られなかった。その広い肩や、黒ずんだやせた頬には人間のもついろ/\な欲望、殊にいやしさが目についた。けれども弱い辰子には、それによって自分の悲しみや不安を笑ふことは出来なかった。そして、彼女はなほ嫂に対する理想を持ち、親しみを欲してゐた。それで嫂を自分から離すことが出来ずに、自分のなかに置いてかなしんだ。
辰子は、縫物などのわからない所を、たづねやうと考へては、嫂の部屋の前でまよった。彼女は、自分が学校にゐる時から嫂を信じてゐたことが、間違ひでなかったらうかと考へた。なぜ嫂のことばかりに、執着して自分は恐れかなしんでゐるのだらうかと考へた。
彼女には、みえがあった。いかなる事に対しても嫂を悪く云ふまい、憎くまぬといふのであった。自分が初めて信じたことをとほして、どんな嫂でも親しまねばならない[#「ならない」は底本では「ならならない」]といふのであった。彼女には、意地があった。彼女は、その意地を通すことが出来ないので、不安であった。
しかし、彼女は、日がたつに従ってゆるやかに嫂をはなれて見た。そうしてゐるうちに嫂に対して、かなしみや恐れよりは、おかしさの方が先に立って来た。そして辰子はすぐにフランチェスカのことを思出して、一人で笑った。少しは、おかしい事も笑ひたいこともありそうなものを、いつも/\真面目な顔をしてゝ自分ながら、おかしくてならないだらうかと考へた。
彼女は、もはや嫂の真面目な顔、強い足音を聞いても、恐怖ばかりでなくなった。瞬間の恐怖についで不安のおかしさが入りみだれて来た。かなしさは、淡くなって彼女を考へさせることをしなかった。
若い彼女のよろこびや、うれしさは、また遠く外に向って走った。彼女は、美しいものにあこがれ、恋を思った。けれども、辰子は家にゐて嫂の姿や顔を見る時、不思議を感ぜずには居られなかった。
嫂は、若い日の喜びや悲哀があったらうか。嫂は、恋を思ったことがあるだらうか。
辰子は、殆んど興味に近い感情を持って、嫂がいかなる感情の一面を持ってるかを知りたくてならなかった。
青葉の影が濃くなった。嫂の部屋は、濃い青葉の影と明るい初夏の日光のなかに開けられてあった。辰子は、嫂の部屋を初めて見た。窓際に大きな机が置いてあって、大きな硯箱が一つのせてある。そしてペンとインキが端の方にあった。
床の間には、小箪笥が置いてあって、その側には、驚く程沢山な本が積みかさねてあった。辰子は、早速その本の一冊を借りやうと思った。
辰子は、縁を歩いて来た。そして縁の柱によったまゝ、手水鉢のそばの紫陽花の葉をちぎってた嫂は、そこを通りすぎやうとした。いつもの強いするやうな足音をして、つんとそったまゝ、その真面目なむっとしたやうな顔が来たのだ。辰子はまたふと、恐怖におそはれた。そして行きすぎてしまってから、つまったやうな声で、
『嫂さん。』と呼んだ。嫂は、黙って振りむいた。
『どうぞ、どんな本でも一冊借して下さいませんか。』彼女は、云った。
嫂は、そのまゝ部屋に入って行った。何事も云はないで、彼女が茫然したやうな様子をして立ったまゝで居ると、嫂はやがて一つの本を持って来て云った。
『なんにもありませんよ』。
辰子は、嫂から借りた厚い本を持って早速自分の部屋にかけ込んだ。
その本のなかには恋のあはれを黒染の衣につゝんだ滝口入道のことなどが書いてあった。清い空想に涙ぐむ彼女は、すっかり捕へられて読んだ。そして、その幻からやうやくはなされた時に、辰子は気がついた。そして驚いた。
嫂の赤いインクのラインは、恋になやむ時頼のあはれさに二重にも三重にも引かれてあったのである。
辰子は、なんとなく驚いてしまった。外形は、どんな人でも、人の感情といふものは、大方おなじものなのだ。
彼女は、思がけないやうな気がした。しかし心安さを感じた、そして、それと同時に、またふと嫂の真面目らしいむっとした、顔を思出すと笑ひ出したいやうな気になった。
しかし、辰子の笑ひは、単なる、おかしさに過ぎなかった。冷笑も嘲笑もなかった。また嫂の前で笑ふ丈の大胆さもなかった。笑ひは邪気のないものであった。その下により多くの恐怖と不安とがあった。で嫂の姿の見えない時に、辰子は邪気なく笑った。
彼女は、時々学校時代の自分のかなしみを思出して、あはれに思ったり等した。辰子はまだ嫂をいゝ人だの悪い人だのと批判することは出来なかった。只かなしいことが時々おかしいことにかはるばかりであった。
辰子は、そののち、嫂が夢二畫集を持ってることを聞いて借りた。彼女は幾度も、かつて見たものであったけれども。
畫集のなかには、まだ赤インクが見えた。センチメンタルな甘い哀愁や、悲哀や寂寥にも、点やラインが引いてあった。そして折々には、嫂自らの思出の歌らしいのが書きつけてあった。辰子は、少し嫂を軽蔑しなければならないやうに思った。
彼女は、ある時、久し振りに旅から帰って来た、兄の顔を玄関でよく見た。彼女は、
「泣きぼそみあり、わが思ふ人」。といふ嫂のかきつけてあった歌の下句を思出してゐるからであった。彼女は淡い恐怖の心を持って見た。しかし、青白い兄の顔には黒子が一つもなかった。
辰子は、もはや自分の心で嫂を考へまいと思った。嫂は、いつまでも冷たく真面目にすましてゐた。
(推定・大正四年作・発表誌不明)
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