紫琴全集 全一巻 |
草土文化 |
1983(昭和58)年5月10日 |
1983(昭和58)年5月10日第1刷 |
あなたは私のこの指環の玉が抜けておりますのがお気にかかるの、そりやアあなたのおつしやる通り、こんなにこわれたまんまではめておりますのは、あんまり見つともよくありませんから、何なりともはめかへれば、宜しいので……ですが私の為にはこの指環のこわれたのが記念でありますから、どうしてもこれをはめかへる事が出来ないのです。ああ月日の経つは誠に早いものでこの指環をこわしてから、もはや二年越になります。そのうちたびたび皆さんが、なぜそんな指環をはめてるの、あまり不似合じやアないかと、おつしやいましたが、これには実に深い子細のある事で、それが為、強ゐてそのままにはめておりますのですが、外ならぬあなたの事、いつそこの指環についての私の経歴をお話し致しませう。誠に私は、この指環を見まする毎に、腸を断ち切らるるよりもつらい思ひを致すので……ですが、これは片時も私の手を離す事は出来ません、それは何故と申せば、この指環は、実に私の為の大恩人なので、それはまた何故かと申せば、この指環が、私に幾多の苦と歎きとを与へてくれましたお蔭で、どうやらかうやら、私は一人前の人間にならねばならぬという奮発心を起こしましたからの事で。ですから、この指環は、いつも私の志気を鼓舞し、勇気を増すの媒となりまして、私の為にはこの上もなき励まし手なのでございます。……、人から御覧なされば、たいそう見苦しいようでござりませうが、私にとつては、実に千万金にも替へ難い宝で、真に私に似つかわしき品なのでございます。あなたはまだ、私の委しい経歴は御存じないでしやうが。私の身の上は、実にこのこわれ指環によく似てゐるのでござります。この指環と共に、種々の批難攻撃を人から受けますが、心あつてこわした指環、なんのそれしきの事はかねての覚悟でござりますもの、別に心にも止めませんが、ある時はこの指環を見て、ああ妾と共に憐れなる指環よと、不覚の涙に暮るる事もあるのです。けれども、また心をとり直して、人はいざ、神は私の心を知ろし召してくださいますから、と思ふて、自ら慰めております。ああこのこわれたる指環、この指環に真の価の籠もつてゐるとは、恐らく百年の後ならでは、何人にも分りますまい。
何だか改まつてお話を致しませうと存じましたら、もう胸がいつぱいになつて参りました。忘れも致しませぬ、私がこの指環を私の手にはめる事となりましたのは、今よりてうど五年前のことで、私が十八の年の春でありました。私はちようどその春結婚致しましたので……夫から贈られたものなんです。けれどもただ今で申します契約の指環なぞと申すつもりで与へられたものではありません、ただ何心なく私に買つてくれましたものでござりますが、今から申せば、これを契約の指環と申しても差支へはないのでございませう。
全体その節、私が結婚致しました頃などは、女子教育の種子が、ようやくちらほらと、蒔かれたと申す位の時でござりましたから、私も今日の思想の半ばをすら持ちませず、殊に私は地方におりましたものですから、同じ五年前でも、東京の五年前とはよほど違ひまして、西洋人の夫婦間のありさまなどは、全く夢にも見ました事はござりませず、また完全なる婚姻法はどんなものと申す事も聞かず、ただただ日本古来の仕来りのままをあたりまへの事と心得ておりました。そして、また私が教育を受けた女学校などでも、その頃は、専ら支那風の脩身学を修めさせまして、書物なども、劉向列女伝などと申す様なものばかり読ませておりましたから、私もいつとはなくその方にのみ感化されまして、譬へば見も知らぬゆひなづけの夫に幼少の時死に別れたればとて、それが為に鼻を殺ぎ耳を切りて弐心なきを示せしとか。あるひは姑が邪慳で嫁を縊り殺さうとしても、婦にはいつも自ら去るの義なしとて、夫の家を動かなかつたとか申す様な事を、この上もなき婦人の美徳と心得ておりました。ですから、その時分の考へでは、夫といふものは、実にどの様な人が当るかも知れず、てうどかのみくじとか申すものを振るやうに、吉でも凶でも当つたものは仕方なく、ただただ天命に任かし、自分は自分の義を守り、生涯を潔く送るまでの事と覚悟致しておりました。それに、母は女大学をソツクリそのまま自分の身に行なつて解釈して見せたと申す位の人でありましたから、父に対しましても、敷居を隔て、手をつかへてでなくては滅多に話などは致しませず、すべて父へのあしらい方が、お客様に接する様でありましたから、私は子供の時から、なぜよそのお父さんは、あんなに心易いのだらうと、よその父子の間柄を、不思議に思ひます位でありました。さように母は父に遠慮ばかり致しておりましたものですからこれにもまた大ひなる感化を受けまして、私はただ何かなしに、婦人の運命は憐れはかないものよとのみ思ひ込んでをりました。けれども、その頃既に幾分かどつかに承知の出来ぬところがありましたものと見へまして、時々は、どうも婦人の運命は誠につまらないが、どうか私は一生人に嫁がないで、気楽に過ごす事は出来ぬ事かと、思ふた事もありました。そう致して、十五六歳の頃でござりましたろふ、しきりに父母は私に結婚を勧めました。それは一度や二度の事ではなく、断つても断つても、不思議に、またかまたかと思ひますほど、ここはどうだ、かしこはどうだと申して、いろいろのさきを勧められました。けれども私はただいやでございますいやでございますの一点張りで、押し通してをりましたが、始めの内こそ、母も何分まだ年が参りませんから、も少し見合はせましても……と、父に申してくれましたが、十八といふ年の正月になつた時は、もうもう、母も、私の為に弁護の地位には立つてくれませんでした。そして父も、この時はもうそろそろ少し腹を立てまして、我儘なことをいふ奴じや、全体おまへの躾が悪いからッて、時々母にまで小言を申す様になりました。かくてある日の事でした、父は私をちよつとと、居間へ呼びますから、何の用かと行つて見ますれば、父は私の座につきますのをまちかねたといふ面持にて、断然と結婚の事を申し渡しました。その時の私の驚き、実に思ひ出しても冷汗が出る位です。かねてよりかくのたまはば、こう、こうのたまはば、かくと、いひわけは、どれ程か思案も致してをりましたが、その時のやうに、かくすつかりと断定してこうしろと命令を下されんなどとは、思ひも寄りませんでした。ですから、ただ呆気にとられまして、ただソーツと、父の貌を見上げましたが、父は嫌といふなら、いつてみよといはぬばかりの、意気込みでした。しかし母も脇に坐つてをりましたから、何とか申してくれることと信じて、心待ちに待つてをりましたが、母も父の権幕に恐れましたか、ただしはかねて承知致してをりましたものか、何とも申してくれませんで、ただ心配そうに私の顔を眺め、早くハイと申し上げよといはぬばかりに、眼顔で知らせてをりました。私はかく両方から柔に剛に睨まれ、何と申して宜しきやら分らず、殊に常からあまり心易くはなき父、誠に当惑致しましたが、終に一生懸命で、震ふ唇を噛みしめて、「何分まだ勉強が足りませぬから、今少し御猶予を」と、半ばいはせず、父はピカリとしたる眼にて、私を睨み、「何ッ勉強が足りない? と、馬鹿な事をいふッ、普通の勉強はさせたでないかッ? 何が不足? 何が気に喰はぬ? 我儘者めが」。と鋭くもいひ放ちました。母は悪いことをと申す面持にて、私を見遣りましたが、私はさる了見で申しました事ではありませぬといひ訳致さんにも、とみには口へ出ず、やうやくにして、また、「どうか私は、東京の女子師範学校へでも参りまして」といはむとせしに、これもまた半途にて父に遮られ、「何ツ、師範学校、フウン、小学校の教師になつて、それからどうするチユウんだ、一生独りで遣り通すといふ事は容易に出来るもんじやアないツテ、その、そんな、そのわけの分らない事をいはないで、いふ事を聞くが宜しいツ、今更どうなるもんか、お母さんに話してあるから、よく聞くが宜しい」ツて、ポイと立つて、どこへか行つてしまいました。あとで母はしみじみと私に申し聞かせました、「お父さんの御性分として、あの様に仰しやつては、滅多にあとへはおひきなさるまい、殊にこの度の先はよほどお父さまにもお気に召した様子、仲人もかの松村氏なり、必ず為悪しくは計らふまじ、これほどの履歴もあり、これ程までの学問もあるとの事、たやすく得られる縁談ではないほどに……そして、女子といふものは、よい加減の時分に片付かないでは、とうとうよい先を見失つてしまふもんだから……」と、遂にはおろおろ声になつて説き諭しました。私もただ今ならば、なかなかこれらの事に得心は致しませんが、その時はほんのおぼこ娘であつて、そしてまたとても一度はどこへか遣らるものと覚悟してをりましたから、心弱くもうけひくとはなしに、うけひきました。いまさら思へば、私はなぜこの時に、も少し手強く断らなかつたかと、我ながらも不思議な様に思ひます。それから、母は、見合ひの事をいひ出しまして、明後日都合がよくばと、先方からの申込み、善は急げだから、お前もそのつもりで、明日は髪をも結ひ、着物や襟の取合はせなども考へて、おくがよかろふと申しました。なれども、私はこの時、何と申して宜しいやら分りませぬから、ただハイと申しましたものの、その後我が部屋へ帰りまし、つくづくと考へて見ますれば、既に九分九厘まで父が極めた結婚、見合ひを致した上で、嫌と申したところがその申し条の立ツ筈もなく、ただ恥しき思ひをして、先方に顔を見らるるばかりなるは、実にどうもつまらないと思ひましたから、わざと片意地に見合ひをする事は嫌ですと、母に申し張りました。今から思へば、これもまた馬鹿なことで、実に私の失策でした。けれども、また退いて考へますれば、私は幼き時から、学校の友達か、親戚の外は、滅多に人に逢つた事はござひませず、父の客などが参りました時なども、たまたま私が玄関などにうろついてをりますと、いつも母がそれお人がいらしツた、はやく陰れよ、それそちらへと、納戸へ逐ひ遣らるるが習はしとなつておりましたから、人を見る目などはなかなかもつておりませんでした。ですから、たとへこの時見合ひを致しましたところが、やはり何も私には分らなかつたので、なまじい極まらぬ前に見て、とやかくと心配致したよりも、むしろしばらくでも、嫁入りはいやとおもふ内に、もしやどういふ人かと幽かにボーツと楽しんだところもあつただけが、まだしも幸いだつたかと、せめてもの思ひ出にして、あきらめておりますのです。
それからとうとうその年の弥生、桜の咲くといふ頃に、まづまづ結婚は済ましました。けれども、なぜか私はどうしてもその夫に馴染む事が出来ず、二三ヶ月といふものは、まるで自分は、一生ここの家におるべきものか、何だか分りませんでした。夫は私を愛してくれたのでもありませうか? 時々博物場や、なんかへ、連れて行つてくれまして、何を買つてやらふ、かを買つてやろう、などと申しました事もありましたが、私はどうもものを買つて貰ふ気にはなれませんでした、それは何故かなれば、私はどうも、そこの家の人になつたのか何だか、自分にちつとも心が落着きませんからの事で、そして一所に歩行いたり、なんか致しましても少しも、楽しい事はなく、ただただ我が里におりました時の事のみを思ひ出しまして、どこへ参りましても、ああお母さんや姉さんと一所にここへ来たならばと、そればかり思ふておりました。その内、ある日の事でした。十五六ばかりの小女が、どこからか手紙を持つて使ひに参りました。下女は何心なく執次いで、私の傍へ持つて参りますを、夫は何故か急き手を差延べまして、こちらへ持つて来ればいいじやないかと、下女を睨みつけました。私は何の事だか少しも分らず、つまらぬ事に腹を立てる、怖らしい人よと、ふと心に思ひました。夫はやがて、かの手紙を見終りていつになくくるくると巻いて袂へ入れ、いづれこちらから返事するといひ置けと、下女に申し付けて、かの使ひを戻しました。そしてその晩の事でした、ちよつと近所まで散歩に行つてくるからと申して出て行きましたが、十時になつても、十二時になつても、帰つて来ず、私はぜひ夫の帰りますまではとぞんじまして、褥をも敷かせず、幸いの折からと、学校の友達へ送る手紙など認めておりました。その内、だんだん夜も更けて参りますから、私はとにかく下女などは休ませやうとぞんじまして、先に寝かしましたが、一人の下女はお淋しからふからと申して、私のとぎに、傍へ参つておりました。そして私が手紙を認めてゐますのをつくづくと見まして、どうも、奥様は、結搆なお手を持つてゐらつしやいます、先の奥様はと、うつかりと申しました。私はその先の奥様という詞が、フツと耳にとまりまして、「ヲヤ、私のさきに、誰か居たの」と、思はず下女の貌を見詰めました、この下女は、私よりもズツと以前にこの家に傭はれて参つたので、何もかもよく存じてゐますのですから、今私に問ひかけられ、余儀なくこう答へました。「ヲヤ、私と致しました事が、ついうつかりと……、かような事を申しましては、旦那さまの御叱りを蒙りませうが、もう仕方がござりませんから、申し上げませう、それはあなたのお越になる五六日前までも、このお家に居たお方がありましたので、たしか旦那さまが、書生さんの時分に、下宿なすツてゐらしつたお宅の娘さんなそうでござイます」と、一部始終を語りました。さては、昼間のあの使ひ……、多分……と思ひましたが、下女の手前さる気色は見せられずと、わざと冷淡に、そう、そうかへと、聞き流しに致して、おきました。けれども、この時から、何となく心持が悪しくなりまして、誠につまらぬ事をする人よ、その様な婦人のあるならば、始めより私を迎へぬがよし、また迎へし位ならば、さような事を止むべきにと、思ひましたが、もとよりさる事を口外致す筈でないと、独り心に秘めまして、をもしろからぬ月日を送ツておりました。それから後と申すものは、三月より四月、四月より五月と、だんだんに夫の外出が繁々になりまして、遂には三日も四日も、いづれへか行きて、家に帰らぬことなどもありました。始めの内は、私も二晩三晩も眠らないで、待つておりましたが、幾夜も続きますと、もうそうそうは眼も続かず、ついとろとろと眠る事もありましたが、もの事と申すものは、何てもあいにくなもので、さような晩に限りまして、夫は深更に帰つて参りました。門を叩く音がふと耳に入りまして、急ぎ戸をひき開くれば、夫は酒気を芬々とさせながら、私を睨み付けまして、「なんだ、先刻にから戸の破れる程叩いたじやあないか、なぜ開けない、隣家へ聞こえても不都合じやないか、夫を戸外に立たせておいて、優々閑々と熟睡しておるとは、随分気楽な先生だ」など、囁かるる心苦しさ。それらの事は、忍ぶ事も出来ますが、夜中かく怒りの声きこへては、下女などが目を醒まし誤つて夫の帰りの遅きをば、私がとやかく言ひ争ふなど思はれましては、実に不面目極まる事と思ひましたが、それを申し出せばなほさら小言かるることと、ぬれ紙にでもさはる様に、あなたの御無理はごもつともとひたすらに謝りゐり、どうやらこふやら、睡りに就いて貰ふ事はたびたびでござりました。かかるたび毎に、私は、学校に在つた時の事など思ひ出しまして、我が同級のもつとも仲善かりし某姉も、まだ独身であるものを、誰某もまた今は学校に奉職せられしと聞くに、妾のみはなど心弱くも嫁入りして、かかる憂き目を受くる事かと、不覚の涙に暮れたる事もありました。
父はその頃遠方へ行き、里には母のみ残つておりました。母はさすがに女親とて、これらの事の察しも早く、私がたまさか里へ帰りますたびに、どふやらそなたは、近頃顔色も悪ひ様だし、たいそう痩せた様だな、なにか心配でもあるのではないか、お父さんがこちらにゐらつしやれば、どうとも御相談の申し様もあるけれども、女親の私では申したところが仕方もあるまい、まあまあとにかく、お前の身を大事にして、あんまり心配せぬが宜しいと、いはるる時の悲しさ。泣くまじとは思へど、平常気の知れぬ夫の傍に居て、口さがなき下婢の手前などに気をかね、一途に気を張詰めたる身ですから、たまたま嬉しき母の詞を聞いてはしみじみ母の慈愛が身に徹して、イイエ、なに、心配などはござりませぬと、口には立派にいひ放ちましても、あいにくに滝なす涙は、私よりも正直に、母に誠を告げました。私はそを見せじとて、ソーツと、手巾もて目を拭ひ、そしらぬ顔で母の方を見ますれば、母は私より先に、はや眼の縁を真赤にして、をりました。かかる事がたび重なり、母は終に、それ故と申すでもござりますまい? なれども、平常から病身の身とて、遂に全く床に就く事となりまして、程なく私の事をいひいひはかなくも、私が十九の秋朝の露と消へ失せました。その時の私の心の裏、申すもなかなか愚かな事でござりました。最初は、母も私の身を早く片付けて安心せんと思ひ、私も母があまりに心配致しますから、母の心も休めたいと、すすまぬ結婚を致しましたが、その結婚が仇となりて、母の命を縮めたかと思ひますれば、胸も張裂ける様でござりました。なれども、私はこれも皆私の行届かぬ故と、観念致しまして、叶はぬまでもと、なほも不遇悲惨の裏に二年の月日を送りました。実に反動と申すものは恐ろしいもので、私はこの結婚後の二三年間において、いつとはなく、非常に女子の為に慷慨する身となりました。もつともその頃は、てうど女権論の勃興致しかかつた時で、不幸悲惨は決して女子の天命でないといふ説が、ようやく日本の社会に顕はれて参りました。私も平素好めることとて、家事紛雑の傍らにも、ときどきの新刊書籍、女子に関する雑誌などは、絶へず座右を離さず閲覧しておりましたものですから、いつとはなく、泰西の女権論が、私の脳底に徹しまして、何でも日本の婦人も、今少し天賦の幸福を完ふする様にならねばならぬと、いふ考へが起こつて参りました。それ故、一つは自分の憂鬱を慰むる為、一つは世間幾多の婦人達の不幸を救はむとの望みにて、時々こむずかしきことなどを申す身となりました。さてそうなつてみると私の覚悟がよほど変わつて参りました。それまでは支那流儀に、ただ何事も忍んでさへゐればよい、自分の幸福をさへ犠牲にすれば宜しいといふ、消極的の覚悟でありましたが、この時からは、もはやそれにて満足が出来ず、どうぞ、私の不幸はとにかく、夫の行ないをため直して、人の夫として恥しからぬ丈夫にならせたいといふ、一歩進んだ考へになりました。それ故たびたび、真心の諫めを尽くして見ましたが、何分夫は私よりもはるか年もたけ、私よりも万事に経験を積んでおりますものですから、私の申す事は、容易に心に止めませんで、後には何か申し出しますと、またしても賢しげに女の分際で少しの文字を鼻に掛くるかと、一口にいひ消してしまふ様になりました。これも私のまことが足らぬからの事、私にそれだけの価値がないからの事で、あはれ私に、モニカほどの力はなくも、せめて今少し夫の敬重を惹く価値がありますなればと、そぞろに身を悔やむ様になりました。なれども破れた布はたやすくつくろひ難く砕けた玉は元のままにはなり難い譬への様に、そこにはまた様々事情があつて、とても私の力には及ばぬ様に思ひましたし、また私が傍におりましてはよしなき、反動を夫に与へて、夫の為にも、かへつて宜しくあるまいと存じましたから、とうとう心を定めまして、不本意ながらも、終に双方で別るる事となりました。それ故私はひたすら世の中の為に働こふと決心しましたが、私は記念の為にこの指環の玉を抜き去りまして、かの勾践の顰に倣ふことにはならねど、朝夕これを眺めまして、私がこの玉を抜き去りたる、責めの軽からざることを思ひまして、良しや薪に伏し肝は甞めずとも、是非ともこの指環の為に働いて、可憐なる多くの少女達の行末を守り、玉のやうな乙女子たちに、私の様な轍を踏まない様、致したいとの望みを起こしたのでござります。
とはいへ今ではおひおひ結婚法も改まり世間に随分立派な御夫婦もござりますから、それらの方のありさまを見ますと、なぜ私は、ああいふ様に夫に愛せられ、また自らも夫を愛することが出来なかつたのかと、この指環に対しまして、幾多の感慨を催す事でござります。
ただ幸いに私の父は今なほ壮健で居りまして、大いに私の多年の辛苦を憐れんでくれまして、老躯がよしなき干渉より、あつたら若木の枝を折らせし事よとて、絶へず書を寄せて私を慰めてくれまして、今はかへつて私の志望を賞し、しきりに私を励ましてくれますから、私はこれを何よりの楽しみに、悲しき中に、楽しき月日を送つてゐます。ただこの上の願ひには、このこわれ指環がその与へ主の手に依りて、再びもとの完きものと致さるる事が出来るならばと、さすがにこの事は今に……。(『女学雑誌』一八九一年一月一日)
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