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心の鬼(こころのおに)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 9:29:27  点击:  切换到繁體中文

底本: 紫琴全集 全一巻
出版社: 草土文化
初版発行日: 1983(昭和58)年5月10日
入力に使用: 1983(昭和58)年5月10日第1刷

 

 上

 五百機いほはた立てて綾錦、織りてはおろす西陣の糸屋町といふに、親の代より仲買商手広く営みて、富有の名遠近おちこちにかくれなき近江屋といふがあり。主人あるじは庄太郎とて三十五六の男盛り、色こそは京男にありがちの蒼白過ぎたる方にあれ、眼鼻立ちも尋常に、都合能く配置されたれば、顔にもどこといふ難はなく、風体も町人としては上品に、天晴れ大家の旦那様やと、多くの男女に敬まはるる容子ようすなり。されどこの男生れつきてのしまりてにて、おさなきより金の不自由は知らで育てし身が、何に感じてやらそれはそれは尋常ならぬ心得方、五厘の銅貨を二つにも三つにも割りて遣ひたしといふほどの心意気、溜めた上にも溜めて溜めて、さてその末は何とせむ了簡ぞ、そこは当人自身も知るまじけれど、ただ溜めたいが病にて、義理人情はわきまへず、金さへあればそれでよしと、当人はどこまでも済まし込めど、済まぬは人の口の端にて、吝嗇けちを生命の京わらんべも、これには皆々舌を巻きて、近処の噂さかしまし。中にもこれは庄太郎の親なる庄兵衛といふが、どこの馬の骨とも知れぬに、ある年江州より彷徨さまよひ来り、織屋へ奉公したるを手始めに、何をどうして溜めしやら、廿年ほどの内にメキメキと頭をもたげ出したる俄分限、生涯人らしきものの味知らで過ぎしその血の伝はりたる庄太郎、さてかくこそと近辺の、医師の書生の下せし診断、これも一ツの説なりとか。その由来はともかくも、現在の悪評かくれなければや、口入屋も近江屋と聞きては眉を顰め、ハテ誰をがなと考へ込むほどの難所、一季半季の山を越したる、奉公人はなしとかや。さればかかる大家に、年久しく仕ふるといふ番頭もなくその他はもちろん、新参の新参なる奉公人のみなれば、商業の取引打任すべきものはなし、地廻りのみは雇ひ人を遣へど、大阪神戸への取引は、主人自ら出向くが例なり。この一事庄太郎の為には大の頭痛にて、明日行くといふ前一日は、終日ふさぎ通して、例の蒼白き顔いよいよ蒼く、妻のお糸はいへば更なり、たなの者台所の飯焚女まで些細なる事にも眼に角立てらるれば、アアまた明日は大阪行かと、呟くもあれば、お蔭でこちらへ来てより、ついぞ鯛は見た事なきも、目玉の吸もの珍しからず、口唾は腹を癒せりと冷笑あざわらふもあるほどなり。さるはかねてより執着深き庄太郎の、金銀財宝さては家くらに心ひかされてかといふに、これはまたあるべき事か、それよりももつと大事の大事の妻のお糸にしばしだも離るるがつらさにとは、思ひの外なる事もあればあるものかな。
 店よりは二間隔りたる六畳の中の間、目立たぬ処の障子は、ことごとく反古にて張り、畳の上にはこれも手細工に反古張り合はせたる式紙一面に敷き渡し、末なる煙草盆の、しかも丈夫に、火入れは小さき茶釜形なるをひかへて、主人庄太郎外見ばかりはゆつたりと坐りたれど、心に少しの油断もなきは、そこらジロジロ見廻す眼の色にも知られぬ。別に叱言こごといふべき事も見出ださざりしと見えて、少しは落着きたるらしく、やがて思ひ出したやうに、奥の間に針仕事してありし妻を呼びて、我が前へ坐らせ、しげしげとその顔を眺めゐたりしが、投げ出したやうな口調にて、

 これお糸や。

といひながら臭き煙草を一ぷくくゆらし、これも吹殻より煙の立つやうな不始末な吸ひやうはせず。吹かしたる煙の末をも篤と見済まして、あはれこれをも軒より外へは出しともなげなり。さて炭団埋めたる火鉢の灰を、かけた上にもかけ直して、ほんのりとぬくい位の上加減と、手つきばかりは上品にのんびりとその上にかざし、またしげしげとその顔を見て、

 これお糸ゆふべもいうた通り、今日はこれから大阪まで行つてこねばならぬ。いつもいふ事ぢやが、留守中は殊に気をつけて、仮りにも男と名の付くものには逢ふ事はならぬぞよ。たとへ家に召遣ふものでも男にはお前が直接じかにいひ付ける事はならぬぞ。その為に下女といふものが置いてあるのやさかい。また商売用に来た人は、店の者が取捌とりさばく筈でもあり、それで分らぬ事はわしが留守ぢやというておけばそれで済む。それでも内方に逢ひたいといふ人があつたら、よくその名前を覚えておけ、後日の心得にもなる事やさかい。それからまた親類の奴ぢやがな、これはとかく親類といへばええかと思うて、わしの留守でもかまはずづんづん上るものがあるといふ事ぢやが、これからはそんな事があつたら、親類でも何でも構はぬ、とつとといんで貰ふがよい。
 ナ何叔父さんはどうしやうといふのか、知れたこツちや。叔父さんでも同じこツちや。
 ウム……いつぞや叔父さんが怒つた事がある……フフン何構ふもんかい、たとへ甥の嫁でも留守に逢はうといふのが、向うが間違いぢや。それで気に入らねばここの家へ来ぬがええわ、あたあほうらしい、亭主の留守に人の女房に相手になつて、何が面白い事があろぞい、誰でもその身で知れたものぢや、てんでに我が女房は気にしてるくせにアハ……ナアお糸さうじやないか。

 ちよつと妻の顔色を窺ひしかど、何の返事もなければ不満らしく、また煙草一二ふく燻らして、ポンと叩く灰吹の音にきじめを利かし。

 何でもかんでも搆はせんわ、一切断るといふ事を忘れまいぞー誰はええ、彼はええといふ事になると、ついものがややこしなつて来てうちの規則が破れるさかい。何のお前人の女房といふものは、亭主の気にさへ入ればそれでよいのじや。よその人の気に入ると、えて間違ひが出来るさかいな。

 少し声を潜めて、

 トいふも実はわしのお父さんがそれでしくじつてはるのや。
 ウ何ぢや、親類の人だけは受けが悪なると困る。ハ……分らぬ事をいふ奴ちや。わしとこの親類に誰ぞ、ヘイ上げまようというて、金を持て来るものがあるかい――、あらしよまいがな。それ見イな、何が困る事があろぞひ。まだしも無心をいはぬだけが取得と思つてる位の先ばかりじやないか、それを何心配する事があろぞひ。そんな奴でもちよつと来て見イな、茶の一杯も振舞はんならんし、畳も自然損じるといふもんぢや。そこへ気がつかぬとは、さてさて世帯気のないこツちや。いつもお前の心配は、とかく方角が違うて困る……
「なるほど分りました。」
 分つたか、分つたらそれでよい。それからまた飯時のこツちやがな、お前はいつも、わしがいひ付けといても、わしの留守には出て見てくれぬさかいいかん。これから行くと、なんぼ急いでも帰りは夕方になるやろさかい、昼飯はわしの留守に喰う事になる。さうすると皆ンなが、ここを先途と喰ふさかい、いつもいふ通りその時だけは台所へ出て、火鉢の傍で見張つててくれ。それも男の方はなるべくその顔を見ぬやうにして、手を見てゐればよい。それでも勘定は分るさかい、女子の方は構はせん、充分顔を見ててやれ。さうするとあんなもんでもちつとは遠慮して、四杯のとこは三杯で済ますといふもんぢや。男の方はしよことがない、手だけで勘忍してやるのやけどなハ……

 高く笑ひてまた小声になり、

 さうするとまア一人前に一杯づつは違てくるといふもんじや。一杯づつ違ふとして見ると、コーツとなんぼになる知らん。

 首をひねりてちよつと考へ、

 まア男が十人で女が三人そこへ丁稚の長吉やがな……

 いひかけてまた考へ、ポンと膝を叩きて、

 ええわ、子供の割にはよう喰ひよるさかい、こいつも一人前に見といてやろ、さうするとコーツとなあ。……

 次第に左の手の指を折りたるを、妻の面前にさし出して、それと七分三分にその顔を眺め、

 そやろがな、これで十四人じや、そうするとどれだけになる知らん。

 得意らしくうつむきて勘定にかかり、たちまちに胸算は出来たりと見えて、しきりに自ら感歎し、

 えらいものなア。ちよつとこれで一遍に四合六勺あまりは違ふさかいな。

 振り向きて肩後うしろひかへし張箪笥の上より、庄太郎の為には、六韜三略虎の巻たる算盤、うやうやしく取上げて、膝の上に置き、上の桁をカラカラツと一文字に弾きて、エヘント咳払ひ、ちよつとこれを下に置きて、あたかも説明委員といふ見得になり、

 まあそれざつと三杯を一合と見いな、もつとも家の茶碗は小さうしてあるけど、みんながてんこ盛りに盛りよるさかいな、そこで、

とまた算盤を取り上げて、今度は手に持ちたるまま妻の顔を見て、

 先づここへ三と置くやろ、さうしてこちらへ十四とおいてと、エエ十四を三で除るとすると、――な、それな三一三十の一三進が一十、ソレ三二六十の二、三二六十の二でそれな……

 ちよつと頭を掻きて、

 除り切れんさかい都合が悪いけど、これでざつと四合六勺なんぼといふものやろ、

 どうじやといはぬばかり手柄顔に、また妻の顔を見て、

 それな、そこでコーツと一石を十二円の米として、

とまたぱちぱち算盤と相談、

 五銭六厘は違はうといふもんじや。ゑらいもんなあ。今は割木がたこなつてるさかい、これで一束は買へまいけれど、まア一度分のきものは、ざつとここから出やうといふもんじや。何となア怖いもんなア。

 今は自分の得意のみにては飽き足らずや、妻よりも感歎の声を上げさせむと、しきりにその同意を促したれど、これはまたいかなる事ぞ、鬼の女房に鬼神のなり損ねてや。この女房京女には似ず、先刻来の事にはいつさい無頓着にてあごを襟に埋めたまま何事をか他事を考へゐたり。
 庄太郎はやや不満ならぬにあらねど、元来惚れたる妻なればや、我と我が機嫌をとり直してからからと笑ひ、妻の顔を下より覗くやうにして、

 アハ……これはまたちと御機嫌を損ねたかな。

 これには妻も何とかいうてくれさうなものと、しばしためらひゐたりしが、なほもかなたは無言なれば、また重ねかけて、

 何じやまた怒つたのか、何にもそないな怖い顔せいでもえいがな、お前はとかく私が勘定の話すると気に入らぬけれど、わしばかりの世帯ぢやないがな。この身代がようなれば、やはりお前もええといふもんぢや。――が今のはほんの物の道理をいうて見たのや、何もこれで雑用が減つたか減らぬか、それを月末に勘定してみやうといふではなし、ほんの話をして見ただけの事やさかい、万事その心得で居てさへ貰へばええといふこツちや。

 自ら詫びるやうな調子になりて、

 わしも今出て行こうといふ矢先じや。お前の怒つた顔を見て行くのも、あんまりどつとせんさかい、ちと笑ろて見せいな。

 同時に算盤は、無情にもわきへ突遣られたり。

 コーツとなア、その代はり土産は何を買うて来か知らん、二ツ井戸のおこしはお前が好きやけど、○万の蒲鉾はわしも喰べたいさかいな。

 さも大事件らしくしばし考へ込みしが、庄太郎はポンと手を叩きて、

 いいわ、負けといてやろ、おこしにして来るさかいな。ひよつと夕飯までに帰らなんだら、少し御飯ごぜんひかへて喰べとくがよい、腹のすいてる方がおいしいさかいな。

 いかなる場合にも、勘定を忘れぬ男なりけり。お糸もかう機嫌を取られてみれば、さすが我が亭主だけに、厭はしき人ながらも気の毒になりて、やうやく重き唇を開き、

 宜しうござります、何んにも御心配おしやすな、あんたに御心配かけるやうな事はしまへんさかい、安心してゆつくりと行ておいでやす。

 大張込みにいひたるつもりなれど、そのゆつくりといひしが気にかかりて、庄太郎はむツとした顔付、

 何じやゆつくりと行て来いといふのか。

 俄然軟風の天気変はりて、今にも霹靂一声頭上に落ちかからむ気色にて、庄太郎は猜疑の眼輝かせしかど、例の事とて、お糸は早くも推しけむ、につこりと笑ひを作りて、

 いいえ、なアゆつくりというたのはそりやあなたのお心の事、おからだはどこまでもお早う帰つて貰ひまへんと、私も心配どすさかい。

 庄太郎はとみに破顔一番せむとしたりしにぞ、白き歯を見せてはならぬところと、わざと渋面、

 さうなうてはかなはぬ筈ぢや、亭主の留守を喜ぶやうな女房では、末始終が案じられる。それはマアそれでよいが、また何にもいふ事はなかつたかしらん。

 考へ果てしなき折しも、店の方にて丁稚の長吉、待ちあぐみての大欠伸、

 旦那はまアいつ大阪へ行かはるのやろ、人を早う早うと起こしといて、今時分までかかてはるのやがな、おつつけ豆腐屋の来る時分やのに。

 庄太郎聞き付けてくわつと怒りを移し、

 これ長吉ちよつと来い。

 我が前へ坐らせて、

 お前は今何をいうてたのぢや。いつ行こと行こまいと、こちの勝手じや、お前の構ひにはならぬこツちや。そんな事いうてる手間で隣家へ行て、もう何時でござりますると聞いて来い。ついでに大阪へ行く汽車はいつ出ますと、それも忘れまいぞ。

 叱り飛ばして出しやり、もと柱時計の掛けありし鴨居の方を見て独言のやうに、

 ああやはり時計がないと不自由ななア、要らぬものは売つて金にしとく方が、利がついてよいと思うて、何やかや売つた時に一所に売つてしまうたが、こんな時にはやつぱり不自由なわい。でも隣家は内よりもしんしよが悪い僻に、生意気に時計を掛けてよるさかい、聞きにさへやれば、内に在るのも同じこツちや。あほな奴なア、七八円の金を寐さしといて、人の役に立ててよる。

 これにも女房無言なれば、また不機嫌なりしところへ、長吉帰り来りて、九時三十分といふ報告に、さうさうはゆつくりと構へて居られず、

 ええか、今いうただけの事は覚えてるな。

 念の上にも念を推してやうやくに立上り、辻車の安価なるがある処までと長吉を伴につれ、持たせたるささやかなる風呂敷包の中には、昼餉ひるげの弁当もありと見ゆ。心残れる我家の軒を、見返りがちに出行きたり。

 しばらくありて丁稚の長吉、門の戸ガラリ、

 ヘイ番頭さんただ今、

 いひ訳ばかり頭を下げぬ。名は番頭なれどこれも白鼠とまではゆかぬ新参、長吉の顔見てニヤリと笑ひ、

 安価やすい車があつたと見えて、今日はどゑろう早かつたな。またお前何やら、大まい五厘ほどの駄賃貰ろて、お糸さんの探偵いひ付けられて来たのやろ。そんな不正いがんだ金は番頭さんが取上げるさかい、キリキリここへ出せ出せ。

 おだてかかれば、上を見習ふ若い者二三人、中にも気軽の三太郎といふが、

 これ長吉ツどん、うつかり番頭さんに口を辷らすまいぞ。極内でわしに聞かしとくれ。おほかた旦那はこういうてはつたやろ。店の者の中でも、この三太郎は一番色白でええ男やさかい、あれにはキツト気をつけいとナそれ。

 アハ……と笑い転げる長吉をまた一人が捉へて、

 なんのそんな事があろぞい。三太郎はあんな男やさかい気遣ひはない、向ふが惚れてもお糸が惚れぬ。それよりはこの惣七。あれがどうも案じられると、いははつたやろ。

 いふ尾についてまた一人が、

 三太郎ツどんも惣七どんも、その御面相で自惚うぬぼれるさかい困るわい。お糸さんの相手になりそなのは、わしの外にはない筈じやがな、ナ、ナ、これ長吉ツどんナ旦那の眼鏡もそうやろがな。

 銘々少し思ふふしありと見えて、冗談半分真顔半分で問ひかかるをかしさを、長吉はこらへて、

 へいへいただ今申します、旦那のいははりましたのには、店の奴等は三太郎といひ、惣七十蔵、その他のものに至るまで……

といひかければ、早銘々得意になりて、我こそその心配の焦点ならめと、一刻も早くその後を聞きたげなり。長吉は逃支度しながら声色めかして、

 いづれを見ても山家育ち、身代はりに立つ面はない、長吉心配するに及ばぬといわはりました。

といひ捨てて、己れ大人を馬鹿にしたなと、三人が立ちかかりし時は長吉の影は、はや裏口の戸に隠れたり。跡にはどつと大笑ひ、中にも番頭の声として、

 やはりお糸さんが別品べつぴんやさかい、皆なが気にしてると見えるな。旦那の心配も無理はない。死んだ先妻のお勝さんといふは、よほど不別品やつたといふ事やけど、それでも気にしてゐやはつたといふこツちやさかいな。アハ……番頭さんもお糸さんを、別品やというて誉めてる癖に、我が事は棚へ上げとかはるさかいをかしいわい。

 同士討ちの声がやがやとかまびすし。かかる騒ぎも広やかなる家の奥の方へは聞こえず。お糸は夫を出しやりて後は、窮屈を奥の一間に限られたれば、飯時の外は台所へも出られぬ身の、一人思ひに沈める折ふし、先妻の子のお駒といひて、今年七歳なるが学校より帰り来り、

 ヘイお母アさんただ今。

 おとなしく手をつかゆるを、お糸は見て淋しげなる笑ひを漏らし、

 おおえらい早かつたなア、もうお昼上りかへ。
 ヘイお昼どす。
 そんなら松にさういうて、早うお飯喰べさせてお貰ひ、お母アさんも今行くさかい。

 お駒はものいひたげに、もぢもぢとしてやがて、

 あのお母アさん、焼餅たらいふものおくれやはんか。
 エ、焼餅、焼餅といふものではないえ、女子おなごの子はお焼きといふものどすへ。けどそれは今内にないさかい、また今度買うて上げますわ。
 いいえ私は知つてます、お焼きがあると皆ンながいわはりました。
 誰れがへ。
 学校で隣のお竹さんや、向ひのお梅さんが、あんたとこにはお父ツさんが、毎日焼いてはるさかい、たんと焼餅があるやろ、いんだらお母アはんにお貰ひて。
 ええそんな事をかへ。

 お糸は口惜しく情なく、さては夫の嫉妬りんき深き事、くより近所の噂にも立ちて、親の話小耳に挾みし子供等の、口より口に伝はりて、現在父の悪口とも知らぬ子供の、よそでなぶられ笑はるるも、誰が心のなす業ぞや。さはいへ夫を恨むは女の道でなし、我に浮きたる心微塵もなけれど、疑はるるはこの身の不徳、ああ何となる身の果てぞと、思案に暮るるをお駒は知らず。継子根性とて、あるものを惜しみて、母のくれぬものとや思ひ違へけむ、もうもう何にもいりませぬといはぬばかり、涙を含み口尖らせ、台所の方へ走りゆく後姿いぢらしく、お糸は追ひかけて、外のものを与へ、やうやくに機嫌とり直しぬ。
 五時といふに庄太郎は帰りつ。約束の土産の外に、お糸が日頃重宝がる、小椋屋のびんつけさへ買ひ添へて、いつになき上機嫌、花の噂も聞いて来たれば、明日は幸ひ日曜の事、お駒をも連れて嵐山あたりへ、花見に行かむといひ出たるは、長吉の報告に、今日の留守の無難を喜びての事なるべし。お糸も優しくいはれて見れば底の心はすまねども、上辺に浮きたる雲霧は、拭ふが如く消え失せて、その夜は安き眠りに就きぬ。

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