紫琴全集 全一巻 |
草土文化 |
1983(昭和58)年5月10日 |
1983(昭和58)年5月10日第1刷 |
上
素麺は潰しても潰しの利かぬ学者の奥様
山の手のどこやらに、是波霜太様とて、旦那は日々さるお役所の属官勤め、お髭もまだ薄墨の、多くはあらぬ御俸給ながら、奥様もさる学校の女教師様、お二方の収入を、寄合世帯の御仲睦しく、どちらが御主人とも分らぬ御会釈ぶり。お座敷にはちやんとお二方の机並べて、男女合宿の書生交際、奥様役もかたみ代はり。毎朝の御出勤にも、旦那様の洋杖奥様持ちて送り出たまへば、奥様がお穿きものの注意、旦那様より老媼に与へらるるほどの御心入り。二三町は御一所に、向ふ横町でお別れの際には、両方から丁寧にお辞儀なさるるとて、男尊女卑の風習に慣れし人達の珍しがり、時刻を計りてわざわざ見物に行くほどの評判も、我に疚しきところなければと、お二方は澄ましたもの。両方から様づけの御相談も奇麗に調ひ、日曜毎には上野浅草、手を携へて御散歩のつど、今日はあなたのお奢りになされませ、次の日曜には私がと、いつさい議論はぬきにしての同権交際。これで一生が済むものなれば、女の子を生んだとて、さう案じたものではない。孫にも何か職業をと、老媼も大きに発明したほどの仕儀。去年の暮には、旦那様から、奥様へは吾妻コート、奥様からは旦那様へ、銀側時計のお贈り物。この暮は何がよからむと、春早々から、暮れゆく年の、人の苦労も御存ぢなきかの嬉しき御思案。真理に合ひし御算段も、がらりと外れし奥様の御懐妊。初夏の頃より酸きもの好みしたまひて、十二月の末といふには、お二方へ平等のお贈りもの、天からも降らず、地よりも湧かねど、奥様のお腹より、おぎやあおぎやあと飛出せしお子宝。そのお喜びにお歳暮のとりやりも立消えとなりしその代はり、おしめの詮索、玩具の買ひ入れ、御余念もなきその内に、年も明けお枕直しも済みて、奥様は従前の通り御出勤。赤様は乳母の手に、虫気もなく育ちたまふ嬉しさに、今日はあなたが早かつたの、明日は私が勝ちまするのと、御帰宅の遅速に、赤様の可愛さ加減、正比例でもするかのやうに、お土産までも競争心、罪のないいさかひに日を暮したまふ程に、ゆく月も来る月も、会計は足らぬがち、これまでには覚えなき、三十日の苦労にお気がつき、さても不思議小さき人一人殖えたればとて、この費物の相違はと、お二人ともども細かき算盤置きたまへば、なるほど奥様の御出勤故に、身分不相応なる乳母といふ金喰ひ代物、これで確かに五六円づつの相違はあり、その上出産当時の費用、旧産婆では心許なしと、内務省免許の産婆のちやきちやき産科医までも人選びした上、習慣ではあれど古襤褸古綿などは、産褥熱を起こすものと、これも消毒したガーゼ。万事病院もどきのお手当の済口は、毎月の収入で償ふてゆく筈なりし、それやこれやでこの仕儀と。ここ一番改革の必要に迫られて、旦那様はその夜一夜、まんじりともしたまはず。考へ通したる挙句の果てが、あるべき事か勿躰なや、学者の奥様を潰しものに、これからはお台所働き。お守り役も御自身に、乳母と老媼はお払筥、人二人減らすとして見ると、よし十何円の奥様のお月給それは皆目這入らぬとしたところで、お身のまはりの張も要らず、御交際費も皆無となる、その上にもまた世帯の費用、主婦自分が立働くと、下婢にさすとは二割の相違。それやこれやを差引けば、さうした方が遙か利方と。苦肉の一策いひにくさうに、打明けての御談合。奥様とてもこの節の会計、持てあぐみたまふ折からとて、いやいやながらもさう致しまする外はとの御内意に、首尾よう御相談纒まりて、速かに学校を御辞職の、それよりは形勢一変、お頭だけは束髪の、奥様が何事ぞ、前垂掛の世話女房、赤様をおんぶして、釜の下焚き付けたまふ事もある。それは覚悟の上ながら、慣れぬ手業の煮たきの失策。お学問とは関係なきを、万々御承知の筈の旦那が、かうして見ればつゆいささか、伎倆なき奥様の、内兜見透したまひてや。お詞さへもいつしかに、どうせいかうせいの下女待遇。いかに養はれてゐればとて、そんな筈ではなかりしと、奥様が今日この頃の不平の矢先。旦那様よりまた横柄なる御註文。たびたび異味の、御馳走には恐れるから、今日は肉も肴も要らない。あつさりとしただしで、冷素麺ならば造作もなからう。この間某の宅で振舞はれし、それは実に甘かりし。あれは実に幸福だ、細君が料理の上手故にと、あてこすりの誉め詞は、確かに我を批難の心か。さても憎し縁側で、髭をひねるその手間で、なぜこの台所の忙しさ、手伝ふては下されぬかと、奥様のお腹立はまた一倍。なんでもない事冷素麺、それはかうするものであろと、さつと一杓水かけて、すすぎし上のゆで加減、何とでござんす良人と、この頃の信用恢復に、鼻もたかだかさし付くるつもりなりしに、青菜に塩のそれならぬ、生素麺に水の奇特。さても不思議やめちやめちやの惣潰れ、打つて一丸となすべきも、引延ばされぬ時間の切迫。まだかまだかとせつかるる、奥様ははや絶躰絶命。この失策を披露しては、またまた相場が下がるであろと、思ひ付きの急腹痛あいたあいたとうめかかるに旦那様も大吃驚。どこぢやさすつてやらうかと、ひだるきお腹に力一ぱい、お部屋へ扶け入りたまひての御介抱振。まんざら御愛情の失せしでもなき御様子に、奥様もほつと安心の、その次にはお気の毒、始めて素麺の仔細、かくかくと打明けての御懺悔、あまりの事に旦那様もお腹は立たず。我も貴様を、潰して遣ふつもりならず、やはりこれも素麺同様、潰しの利かぬ代物だつたか。これでは思案を代へねばならぬと、己が名の霜太霜太を、幾度も繰返したまひしとかや。(『女学雑誌』一八九七年七月二五日)
下
約定証書の持腐りは、犬も喰はぬ喧嘩の本色
提燈に釣鐘、釣り合はぬは不縁の基と、いひしは昔の昔の話。今では愛情の、一致だにあらば、よし華族様の御夫人に、小屋ものの娘が上らうとも、長持のせぬには限らぬ箪笥釣台、取揃へての拵へ取り、大流行の世の中とて、そんな事気にするものはなき、太平の御代に、これもたしかそのお仲間とか聞きし。名も数寄屋橋近くに、金輪内雅と名のりたまふ紳士様。門柱太しく立てし黒板塀、官員様ならば高等官三四等がものはある御生活向き。旦那様のお時計と指輪だけにても、確かに千円の価値はと、隣の財宝羨むものの秘かにお噂申しける。それしては高利貸めきたる男の、革提下げたるが、出這入りするも異なものと、これはいふだけ野暮の沙汰か。お年は三十五六と見ゆれど、雀百までには、まだ六十年からの御余裕のある事とて、なかなかの御出精。女といへば醜美に拘らず、ざら撫での性悪を御存じの上でお乗込みありし、奥様もまた曰くつき。そんな顔は少しもなさらねど、三二年前までは、水谷町辺で母娘二人のしがない暮し。味噌漉下げてお使ひ歩行の途中とは、それは人の悪口なるべけれど、どこやらにて、当時幅利きの旦那様に見初められたまひしが、釣合はぬ御縁の緒。人橋かけての御申込みにも、うかとは乗らぬ女親の細かい采配。萌え出る春に逢はせまするは嬉しけれど、かれかれにならせたまはむ、秋の末が気遣はれましてと。いやではなきお断りの奥の手は、一生見捨てぬといふ誓文沙汰。万一にも浮気らしい事した節には、何時離縁をいひ出らるるとも、一言も申すまじ。またその節には違約金として、幾千の金を差出すべし。もちろん母御の一生は、当方にて引受ける筈、そには月にいくばくの手当と。注文通りの一札を、まんまと首尾よく請取つたる上、やつとの事でお輿入ありしといふ、金箔付きの恋女房様。さすがは多くの女ども、見飽きたまひし旦那の御鑑識ほどありてと、御容貌には誰も点の打人なきに、旦那様も御満足の、その当座こそ二世も三世も、浮気はせまいと心の錠。いささかもつて偽りを仰せられし訳ではなけれど、光明輝く黄金仏も、一年三百六十五日、打通しての開帳には、有難味も失する道理。そろそろ性悪の尻尾押さへられてはそのつどに、たびたびのいざこざもあつた末、うかうか年を過ごしてはと、奥様は口惜し紛れ、こんな時こそ証文が、ものいふ人を頼んで来うと、愛から慾へ廻り舞台。仕掛も大形な弁護士三昧、示談で行かずば表沙汰。愛はどうでも金だけは、取逃さぬ工夫をと、身分の軽い人だけに、お意気込も御大層なる掛合振りに。旦那様も大吃驚、忘れたではなき証文の、文言を持出されては大変と、これも然るべき弁護士頼み込みての御応対。犬も喰はぬ喧嘩ながら、書いたものがあるだけに、弁護士の歯牙にはかかりて、やつさもつさの談判も、旦那の方がどうやら負気味。離婚といふに未練はなけれど、金輪内雅の名詮自称、やりくり一つで持つ機関に、幾千円の穴明けてはと。金に七分の未練ありて、弁護士同士が四角四面の交渉中。こちらは丸う出直せし旦那の智恵嚢、かへつて直接談判で、曖昧の局を結んだ方が、どうやら身腹の痛まぬ訳と、そこは手練の好文句、山鳥の尾のながながしき手紙でのお呼び出しも、懲りずまに二度三度。懲りてはをつても連添ひし人の、かくまで仰せらるるものをと。奥様もお腹立の癒ゆるにつけて未練よりは、自惚の手伝ひて、我知らすお出向きの、談判はどこへやら。機先を制する旦那の上手。かねて欲ししとお話ありし、紋絽の丸帯、縮緬の浴衣、改めてお約束の、指環までも取添へて、いはねど悟れ、これ程の心尽くし、見捨てる我に出来やうかと。鰕で鯛釣るにこにこ顔、熔けるやうに笑はれては奥様ももともとまんざらではなき夫婦中。証書さへ握つてをればと早速の分別。あれはあの代言が、勧めたのでござんする。私は離縁の望みよりも、あなたのお浮気が止めさせましたさ。それなればいふまでもない事、なほ一二年、添ふて見た上の了簡にせよと、お仲直りの御相談。たちまちに大磯へ避暑のお思ひ立。明日ともいはずすぐさまに、新橋よりの御同乗。跡に母御が口あんくり、小言も急にはいひ出さね、その手持不沙汰加減よりも、気の毒は、弁護士二人の、身の上にぞ止めける。(『女学雑誌』一八九七年八月一〇日)
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