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芽生(めばえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 9:18:47  点击:  切换到繁體中文


「母さん、前髪を束(と)って頂戴な」
 熱のある身体にもこんなことを願って、お房は母に連れられて行った。私も、姪に留守居をさせて、別に電車で病院の方へ行って見た。病室は静かな岡の上にあった。そこは、三つばかりある高い玻璃窓(ガラスまど)の一つを通して、不忍(しのばず)の池(いけ)の方を望むような位置にある。私は本郷の通りでお房の好きそうなリボンを買って、それを土産に持って行ったが、室(へや)へ入って見ると、お房は最早高い寝台(ねだい)の上に横に成って、母に編物をして貰っているところであった。丁度池(いけ)の端(はた)には競馬のある日で、時々多勢の人の騒ぐ声が窓の玻璃に響いて来た。
 お房の枕許には、小さな人形だの、箱だのが薬の瓶(びん)と一緒に並べてあった。家内は、寝台の柱にリボンを懸けて見せて、病んでいる子供を楽ませようとした。
「仕舞って置くのよ」
 とお房は言った。
 私達は、部屋付の看護婦の外に、附添の女を一人頼むことにした。この女は私達の腰掛けている傍へ来て、皆川先生の尽力ででもなければ、一人でこういう角の室を占めることは出来ない、これは余程の優待であると話して聞かせた。
 肩の隆(あが)った白い服を着て、左の胸に丸い徽章(きしょう)を着けた、若い肥(ふと)った看護婦が、室の戸を開けて入って来た。この部屋付の看護婦は、白いクロオバアの花束を庭から作って来て、それをお房にくれた。
「房子さん、好いリボンを頂きましたねえ――御土産(おみや)ですか」と看護婦が言った。
「仕舞って置くのよ、仕舞って置くのよ」
 こうお房は繰返していたが、やがて看護婦から貰った花束を握ったまま眠って了った。
 夕方に私は皆川医学士に逢った。お房の病状を尋ねると、今すこし容子(ようす)を見た上でなければ、確めかねるとのことであった。その晩から、私達はかわるがわる子供の傍に居た。
「父さん――父さん――父さんの馬鹿――」
 こう呼ぶ声が私の耳に入った。私は、どうなって行くか分らないような子供の傍に、疲れた自分を見出した。それは病院へ来てから三日目の夜で、宿直の人達も寝沈まったかと思われる頃であった。
「父さん、房ちゃんは最早駄目よ」
 熱の譫語(たわごと)とも聞えなかった。と言って子供の口からこんな言葉が出ようとも思われなかった。私は夢を辿る気がした。
「父さん、房ちゃんは……ねえ……」
 その後が聞きたいと思っていると、パッタリお房の声は絶えた。その晩は私も碌(ろく)に眠らなかった。
 次第にお房はワルく成るように見えた。山で生れて、根が弱い体質の子供で無いから、病に抵抗するだけの力はある筈(はず)だ、とそれを私達は頼みにした。どうかしてこの娘ばかりは助けたく思ったのである。入院して丁度一週間目に成る頃は、私も家のものも子供の傍に附いていた。大久保の方は人に頼んだり、親戚のものに来て泊って貰ったりした。幾晩かの睡眠不足で、皆な疲れた。
 附添の女と私達とは、三人かわるがわる起きて、夜の廊下を通って、看護婦室の先の方まで氷塊(こおり)を砕(か)きに行っては帰って来て、お房の頭を冷した。そして、交代に眠った。疲労(つかれ)と心配とで、私も寝台の後の方に倒れたかと思うと、直(すぐ)に復た眼が覚めた。一晩中、お房は「母さん、母さん」と呼びつづけた。
 まだ夜は明けなかった。私は手拭(てぬぐい)を探して、廊下へ顔を洗いに出た。いくらか清々した気分に成って、引返そうとすると、お房の声は室を泄(も)れて廊下の外まで響き渡っていた。
「母さん――母さん――母さん」
 烈(はげ)しい叫声は私の頭脳(あたま)へ響けた。その焦々(いらいら)した声を聞くと、私は自分まで一緒にどうか成って了うような気がした。
 お房の枕頭(まくらもと)には黒い布を掛けて、光を遮(さえぎ)るようにしてあった。お房は半分夢中で、下口唇を突出すようにして、苦しそうな息づかいをした。胸が痛み、頭が痛むと言って、母に叩(たた)かせたが、もっと元気に叩いてくれなどと言って、どうかすると掛けてあるショウルを撥飛(はねとば)した。
 日の出が待遠しかった。私は窓のところへ行って見た。庭はまだ薄暗く、木立の下あたりは殊(こと)に暗かったが、やがて青白い光が朝の空に映り始めた。梢(こずえ)に風のあることが分って来た。テニスの網も白く分って来た。この静かな庭の方へ、丁度私達の居る病室と並行に突出した建築物(たてもの)があって、その石階(いしだん)の鉄の欄(てすり)までも分って来た。赤く寂しい電燈が向うの病室の廊下にも見える。顔を洗いに行く人も見える。お菊の亡くなる時に世話をしてくれた若い看護婦も通る。
「母さん――母さん――馬鹿、馬鹿――」
 と復たお房が始めた。「母さん、あのねえ……」などと言いかけるかと思うと消えて了う。
 上野の鐘は不忍の池に響いて聞えた。朝だ。ホッと私達は溜息(ためいき)を吐(つ)いた。
 小児科のことで、隣の広い室には多勢子供の患者が居た。そこには全治する見込の無いものでも世話するとかで、死後は解剖されるという約束で来ているものもあった。晩に来て朝に帰る親達も多かった。
「母さん――母さん――母さん――母さん――ん――」
 この叫声は私達の耳について了った。どうかすると、それが歌うように、低い柔な調子に成ることもあった。
 友達や親戚のものはかわるがわる見舞に来てくれた。午後に私は皆川医学士に呼ばれて、大きなテエブルの置いてある部屋へ行った。他に人も居なかった。学士は私と相対(さしむかい)に腰掛けて、私に煙草をすすめ自分でもそれを燻(ふか)しながら、医局のものは皆な私の子供のことを気の毒に思うと言って、そのことは病院の日誌にも書き、又、出来得る限りの力を尽しつつあることなぞを話してくれた。その時、学士は独逸(ドイツ)語の医書を私の前に披(ひら)いて、小児の病理に関する一節を私に訳して聞かせた。お房の苦んでいる熱は、腸から来たものではなくて、脳膜炎であること――七歳の今日まで、お房はお房の生き得るかぎりを生きたものであること――こういう宣告が懇切な学士の口唇から出た。私は厳粛な、切ない思に打たれた。そして、あの子供を救うべきすべての望は絶えたことを知った。室へ戻って見るとお房は一時気の狂(ちが)った少女のようで、母親の鼻の穴へ指を突込み、顔を掴(つか)み、急に泣き出したりなぞしていた。
「房ちゃん、見えるかい」と私が言って見た。
「ああ――」とお房は返事をしたが、やがて急に力を入れて、幼い頭脳(あたま)の内部(なか)が破壊し尽されるまでは休(や)めないかのように叫び出した。
「母さん――母さん――母さんちゃん――ちゃん――ちゃん――ちゃん」
 この調子が可笑(おか)しくもあったので、看護のもの一同が笑うと、お房は自分でも可笑しく成ったと見えて、めずらしく笑った。それから、ヒョットコの真似なぞをして見せた。
 寝台の側に附添っていた人々は、喜び、笑った。お房も一緒に笑ううちに、逆上(のぼ)せて来たと見えて、母親の鼻といわず、口といわず、目といわず、指を突込もうとした。枕も掻※(かきむし)った。人々は皆な可懼(おそろ)しく思った。終(しまい)には、お房は大声に泣出した。
 こういう中へ、牛込の法学士から私の子供が入院したことを聞いたと言って、訪ねて来てくれた画家があった。君は浮世絵の方から出た人であった。君の女の児は幼稚園へ通う途中で、あやまって電車のために引き殺されたということで、それを私に泣いて話した。この可傷(いたま)しい子供の失い方をした画家は、絶えず涙で、お房の苦しむ方を見ていた。
 今はただ幼いものの死を待つばかりである。こう私は二三の友達の許(もと)へ葉書を書いた。翌日はお房の呼ぶ声も弱って来て、「かあちゃん、か――」とか、「馬鹿ちゃん、馬」とか、きれぎれに僅(わず)かに聞えるように成った。家の方も案じられるので、私は皆川医学士に子供のことを頼んで置いて、それからちょっと大久保へ帰った。
 放擲(うっちゃらか)して置いた家の中はシンカンとしていた。裏に住む女教師なども病院の方の様子を聞きに来た。寂しそうに留守をしていた姪は、留守中に訪ねてくれた人達だの、種々な郊外の出来事だのを話して、ついでに、黒が植木屋の庭の裏手にある室(むろ)の中で四匹(ひき)ばかりの子供を産んだことを言出した。幾度(いくたび)饑(う)え、幾度殺されそうにしたか解らないこの死(し)に損(そこな)いの畜生にも、人が来て頭を撫(な)でて、加(おまけ)に、食物(くいもの)までも宛行(あてが)われるような日が来た。
 私は庭に出て、子供のことを考えて、ボンヤリと眺め入った。樹木を隔てた植木屋の勝手口の方では、かみさんが障子を開けて、
「黒――来い、来い、来い」
 こう呼ぶ声が聞えた。
 二晩ばかり、私は家の方に居た。その翌(あく)る晩も、知らせが有ったら直に病院へ出掛ける積りで、疲れて眠っていると、遅くなって電報を受取った。
「ミヤクハゲシ、スグコイ」
 とある。九時半過ぎた。病院へ着く前に最早あの厳重な門が閉されることを思って、入ることが出来るだろうかとは思ったが、不取敢(とりあえず)出掛けた。追分(おいわけ)まで車で急がせて、そこで私は電車に移った。新宿の通りは稲荷(いなり)祭のあるころで、提灯(ちょうちん)のあかりが電車の窓に映ったが、そのうちに雨の音がして来た。濡(ぬ)れて光る夜の町々の灯――白い灯――紅い灯――電線の上から落ちる青い電光の閃(きらめ)き――そういうものが窓の玻璃(ガラス)に映ったり消えたりした。寂しい雨の中を通る電車の音は余計に私を疲れさせた。車の中で私は前後を知らずにいることもあった。時々眼を覚ますと、あのお房が一週間ばかり叫びつづけに叫んだ焦々(いらいら)した声が耳の底にあった。
「母さん――母さん――母さん――母さん――」
 私は自分の頭脳(あたま)の中であの声を聞くように成った。同時に病院へ行けば最早お房はイケナイかしらんと、思いやった。須田町で本郷行に乗換えた。万世(まんせい)橋のところに立つ凱旋門(がいせんもん)は光って見えたかと思うと復た闇に隠れた。
 暗い時計台の下あたりには往来する人もなかった。私は門の外から呼んで見た。その時、門番が起きて来て、私の名を呼んで、それから厳しい門を開けてくれた。
「どうして私のことを御存じでしたか」と私は嬉しさのあまりに聞いて見た。
「ナニ、断りが有りましたからネ」と門番が言った。
 小児科の入口も堅く閉っていた。内の方で当番らしい女の声がして、やがて戸が開いた。分室へ通う廊下のあたりは、亜鉛葺(トタンぶき)の屋根にそそぐ雨が寂しい思を与えた。看護婦室の前で年をとった看護婦に逢ったきり、他には誰にも逢わなかった。やがて私は長い廊下を突当ったところにある室(へや)の前に立った。
「駄目かナ」
 と戸の外で思った。
 妙に私は手が震えた。一目に子供の運命が見られるような気がして、可恐(おそろ)しくて、戸が押せなかった。思い切って開けて見ると、お房はすこし沈着(おちつ)いてスヤスヤ眠っている。
 翌朝(よくあさ)は殊にワルかった。子供の顔は火のように熱した。それを見ると、病の重いことを思わせる。
「母さん何処(どこ)に居るの?」とお房は探すように言った。
此処(ここ)に居るのよ」と母は側へ寄ってお房の手に自分のを握(つか)ませた。
「そう……」とお房は母の手を握った。
「房ちゃん、見えないのかい」
 と母が尋ねると、お房は点頭(うなず)いて見せた。その朝からお房は眼が見えなかった。
 この子供の枕している窓の外には、根元から二つに分れた大きな椎(しい)の樹があった。それと並んで、二本の樫(かし)の樹もあった。若々しい樫の緑は髪のように日にかがやいて見え、椎の方は暗緑で、茶褐(ちゃかっ)色をも帯びていた。その青い、暗い、寂(さ)びきった、何百年経つか解らないような椎の樹蔭から、幾羽となく小鳥が飛出した。その朝まで、私達は塒(ねぐら)とは気が付かなかった。
 燕(つばめ)も窓の外を通った。田舎者らしい附添の女はその方へ行って、眺めて、
「ア――燕が来た」
 と何か思い出したように言った。丁度看護婦が来て、お房の枕頭(まくらもと)で温度表を見ていたが、それを聞咎(ききとが)めて、
「燕が来たって、そんなにめずらしがらなくても可(よ)かろう」と戯れるように。
「房ちゃんのお迎えに来たんだよ」と附添の女は窓に倚凭(よりかか)った。
「またそんなことを……」と看護婦が叱るように言った。
「しかし、病院へ燕が来るなんて、めずらしいんですよ」
 こう附添の女は家内の方を見て、訛(なまり)のある言葉で言って聞かせた。その日、お房の髪は中央(まんなか)から後方へかけて切捨てられた。あまり毛が厚すぎて、頭を冷すに不便であったからで。お房は口も自由に利(き)けなかったがまだそれでも枕頭に積重ねてある毛糸のことを忘れないで、「かいとオ、かいとオ」と言っていた。時々痰(たん)の咽喉(のど)に掛かる音もした。看護婦はガアゼで子供の口を拭(ぬぐ)って、薬は筆で飲ませた。最早(もう)口から飲食(のみくい)することもムツカシかった。鶏卵に牛乳を混ぜて、滋養潅腸(かんちょう)というをした。
 皆川医学士を始め、医局に居る学士達はかわるがわる回診に来た。時には、学生らしい人も一緒に随いて来た。看護婦だの、身内のものだのが取囲(とりま)いている寝台の側に立って、皆川医学士はその学生らしい人にお房の病状を説明して聞かせた。そして、子供の足を撫(な)でたり、腹部を指して見せたりした。学生らしい人は又、こういう時に経験して置こうという風で、学士の説明に耳を傾けていた。学士達の中には、まだ年も若く、ここへ来たばかりで、冷静に成ろう成ろうと勉めているような人もあった。
 病院へ来て二週間目にあたるという晩には、お房は最早(もう)耳もよく聴えなかった。唯、物を言いたそうにする口――下唇を突出すようにして、息づかいをする口だけ残った。過度の疲労と、睡眠の不足とで、私達は半分眠りながら看護した。夜の二時半頃、私は交代で起きて、附添の女や家内を休ませたが、二人は横に成ったかと思うと直に死んだように成って了った。どうかすると、私も病人の寝台に身体を持たせ掛けたまま、まるで無感覚の状態(ありさま)に居ることもあった。
 翌朝(よくあさ)に成って、附添の女は私達の為に賄(まかない)の膳を運んで来た。
「オイ、その膳をここへ持って来てくれ」と私は家内に言付けた。
「子供が死んで、親ばかり残るんでは、なんだか勿体(もったい)ない――今朝はここで食おう」
 膳には、麩(ふ)の露、香の物などが付いた。私達は窓に近い板敷の上に直(じか)に坐って、そこで朝飯の膳に就いた。
 回診は十時頃にあった。医学士達は看護婦を連れて、多勢で病人の様子を見に来た。終焉(おわり)も遠くはあるまいとのことであった。午後までも保(も)つまいと言われた。前の日まで、お房が顔の半面は痙攣(けいれん)の為に引釣(ひきつ)ったように成っていたが、それも元のままに復(かえ)り、口元も平素(ふだん)の通りに成り、黒い髪は耳のあたりを掩(おお)うていた。湯に浸したガアゼで、家内が顔を拭ってやると、急に血色が頬へ上って、黄ばんだうちにも紅味を帯びた。痩(や)せ衰えたお房の容貌(かたち)は眠るようで子供らしかった。
 よく覚えて置こうと思って、私は子供の傍へ寄った。家内はお房の髪を湿して、それを櫛(くし)でといてやった。それから、山を下りる時に着せて連れて来たお房の好きな袷(あわせ)に着更えさせた。周囲(まわり)には「姉さん達」も集って来ていた。死は次第にお房の身(からだ)に上るように見えた。
 こうなると、用意しなければならないことも多かったので、それから夕方まで私は子供の傍に居なかった。やがて最早(もう)息を引取ったろうか、そんなことを思いながら、病院の方へ急いで見ると、まだお房は静かに眠る状態(さま)である。小鳥も塒(ねぐら)に帰る頃で、幾羽となく椎の樹の方へ飛んで来た。窓のところから眺めると、白い服を着た看護婦だの、癒りかけた患者だのが、彼方此方(あちこち)と庭の内を散歩している。学士達は消毒衣のままで、緑蔭にテニスするさまも見える。ここへお房が入院したばかりの時は、よく私も勧められてテニスの仲間入をしたものだが、最早ラッケットを握る気にも成れなかった。
 お房の眼の上には、眸(ひとみ)が疲れると言って、硼酸(ほうさん)に浸した白い布が覆(かぶ)せてあった。時々痙攣の起る度に、呼吸は烈しく、胸は波うつように成った。頭も震えた。もはや終焉(おわり)か、と思って一同子供の周囲(まわり)に集って見ると、復たいくらか収って、眠った。
 夕日は室(へや)の内(なか)に満ちた。庭に出て遊ぶ人も何時の間にか散って了った。不忍(しのばず)の池(いけ)の方ではちらちら灯(あかり)が点(つ)く。私達は、半分死んでいる子供の傍で、この静かな夕方を送った。
 お房は眠りつづけた。看護の人々も疲れて横に成るものが多かった。夜の九時頃には、私は独(ひと)り電燈の下に椅子に腰掛けてお房の烈しい呼吸の音を聞いていた。堪(た)えがたき疲労、心痛、悲哀などの混(まざ)り合った空気は、このゴロゴロ人の寝ている病室の内に満ち溢(あふ)れた。隣の室の方からは子供の泣声も聞えて来た。時々お房の傍へ寄って、眼の上の白い布を取除いて見ると、子供の顔は汗をかいて紅く成っている。胸も高く踴(おど)っている。
 上野の鐘は暗い窓に響いた。
「我もまた、何時までかあるべき……」
 こう私は繰返して見た。
 分ち与えた髪、瞳(ひとみ)、口唇――そういうものは最早二度と見ることが出来ないかと思われた。無際無限のこの宇宙の間に、私は唯(ただ)茫然(ぼうぜん)自失する人であった。
 看護婦が入って来た。体温をはかって見て、急いで表を携えて出て行った。何時の間にか家内は寝台の向側に跪(ひざまず)いていた。私はお房の細い手を握って脈を捜ろうとした。火のように熱かった。
「脈は有りますか」
「むむ、有るは有るが、乱調子だ」
 こんな話をして、私達は耳を澄ましながら、子供の呼吸を聞いて見た。
 急に皆川医学士が看護婦を随えて入って来た。学士は洋服の隠袖(かくし)から反射機を取出して、それでお房の目を照らして見た。何を見るともなしにその目はグルグル廻って、そして血走った苦痛の色を帯びていた。学士は深い溜息(ためいき)を吐(つ)いて、やがて出て行って了った。
 夢のように窓が白んだ。猛烈な呼吸と呻声(うめき)とが私達の耳を打った。附添の女は走って氷を探しに行った。お房の気息(いき)は引いて行く「生」の潮(うしお)のように聞えた。最早(もう)声らしい声も出なかったから、せめて最後に聞くかと思えば、呻声(うめき)でも私達には嬉しかった。死は一刻々々に迫った。私達の眼前(めのまえ)にあったものは、半ば閉じた眼――尖った鼻――力のない口――蒼ざめて石のように冷くなった頬――呻声も呼吸も終(しまい)に聞えなかった。
 数時間経って、お房が入院中世話に成った礼を述べ、又、別れを告げようと思って、私は医局へ行った。その時、大きなテエブルを取囲(とりま)いた学士達から手厚い弔辞(くやみ)を受けた。濃情な皆川医学士は、お房のために和歌を一首作ったと言って、壁に懸けてある黒板の方を指して見せた。猶(なお)、埋葬の日を知らせよなどと言ってくれた。
 看護婦や附添の女にも別れて、私はショウルに包んだお房の死体を抱きながら、車に乗った。他のものも車で後(あと)になり前(さき)になりして出掛けた。本郷から大久保まで乗る長い道の間、私達は皆な疲労(つかれ)が出て、車の上で居眠を仕続けて行った。
 お菊と違って、姉の方は友達が多かった。私達が大久保へ入った頃は、到る処に咲いている百日紅(さるすべり)のかげなぞで、お房と同年位の短い着物を着た、よく一緒に遊んだ娘達にも逢った。ガッカリして私達は自分の家に帰った。
「貴方は男だから可(よ)う御座んすが、こちらの叔母さんが可哀そうです」
 弔いに来る人も、来る人も、皆な同じようなことを言ってくれた。留守を頼んで置いた甥(おい)はまた私の顔を眺めて、
「私も家のやつに子供でも有ったら、よくそんなことを考えますが、しかし叔父さんや叔母さんの苦むところを見ると、無い方が可いかとも思いますね」
 と言っていた。
 こうして復た私の家では葬式を出すことに成った。お房のためには、長光寺の墓地の都合で、二人の妹と僅(わず)か離れたところを択(えら)んだ。子供等の墓は間(あい)を置いて三つ並んだ。境内は樹木も多く、娘達のことを思出しに行くに好いような場処であった。葬式の後、家内は姪を連れてそこへ通うのをせめてもの心やりとした。
 子供の亡くなったことに就いて、私は方々から手紙を貰った。殊に同じ経験があると言って、長く長く書いて寄(よこ)してくれた雑誌記者があった。君とは久しく往来も絶えて了ったが、その手紙を読んで、何故に君が今の住居(すまい)の不便をも忍ぶか、ということを知った。君は子供の墓地に近く住むことを唯一の慰藉(なぐさめ)としている。
 不思議にも、私の足は娘達の墓の方へ向かなく成った。お繁の亡くなった頃は、私もよく行き行きして、墓畔(ぼはん)の詩趣をさえ見つけたものだが、一人死に、二人死にするうちに、妙に私は墓参りが苦しく可懼(おそろ)しく成って来た。
「父さんは薄情だ――子供の墓へお参りもしないで」
 よく家のものはそれを言った。
 私も行く気が無いではなかった。幾度(いくたび)か長光寺の傍(そば)まで行きかけては見るが、何時でも止して戻って来た。何となく私は眩暈(めまい)して、そこへ倒れそうな気がしてならなかった。
 寄ると触ると、私の家では娘達の話が出た。最早お繁の肉体(からだ)は腐って了ったろうか、そんな話が出る度に、私は言うに言われぬ変な気がした。
 家内は姪をつかまえて、
「房ちゃんや菊ちゃんが二人とも達者で居る時分には、よく繁ちゃんのお墓へ連れてって桑の実を摘(と)ってやりましたッけ。繁ちゃんの桑の実だからッて教えて置いたもんですから、行くと、繁ちゃん桑の実頂戴ッて断るんですよ。そうしちゃあ、二人で頂くんです……あのお墓の後方(うしろ)にある桑の樹は、背が高いでしょう。だもんですから、母さん摘(と)って下さいッて言っちゃあ……」
 種夫に乳を呑ませながら、こんな話を私の傍でする。姪はまた姪で、お房やお菊のよく歌った「紫におう董(すみれ)の花よ」という唱歌を歌い出す。
「オイ、止してくれ、止してくれ」
 こう言って、私は子供の話が出ると、他の話にして了った。
 山から持って来た私の仕事が意外な反響を世間に伝える頃、私の家では最も惨澹(さんたん)たる日を送った。ある朝、私は新聞を懐(ふところ)にして、界隈(かいわい)へ散歩に出掛けた。丁度日曜附録の附く日で、ぶらぶらそれを読みながら歩いて行くと、中に麹町(こうじまち)の方に居る友達の寄稿したものがあった。メレジコウスキイが『トルストイ論』の中からあの露西亜(ロシア)人の面白い話が引いてあった。それは、芽生(めばえ)を摘んだら、親木が余計成長するだろうと思って、芽生を摘み摘みするうちに、親木が枯れて来たという話で、酷(ひど)く私は身にツマされた。ドシドシ新しい家屋の建って行く郊外の光景(ありさま)は私の眼前(めのまえ)に展(ひら)けていた。私は、何の為に、山から妻子を連れて、この新開地へ引移って来たか、と思って見た。つくづく私は、努力の為すなく、事業の空しきを感じた。
 眺め入りながら、
「芽生は枯れた、親木も一緒に枯れかかって来た……」
 こう私は思うように成った。
 その晩、私は急に旅行を思い立った。磯部(いそべ)の三景楼というは、碓氷川(うすいがわ)の水声を聞くことも出来て、信州に居る時分よく遊びに行った温泉宿だ。あそこは山の下だ、あそこまで行けば、山へ帰ったも同じようなものだ、と考えて、そこそこに旅の仕度を始めた。
「なんだか俺は気でも狂(ちが)いそうに成って来た。一寸磯部まで行って来る」
 こう家のものに言った。翌朝(よくあさ)早く私は新宿の停車場を発(た)った。



底本:「旧主人・芽生」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年2月15日初版発行
   1970(昭和45)年2月15日2刷
入力:紅 邪鬼
校正:菅野朋子
ファイル作成:野口英司
2000年7月8日公開
2000年12月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

枕も掻※(かきむし)った。

第4水準2-78-12

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