「母さん――母さん」
お菊は、大久保の通りへ出るまでは、安心しなかった。
「菊(きい)ちゃん、お遊びなさいな」
こう往来に遊んでいた娘がお菊を見つけて呼んだ。お房の友達もその辺に多勢集っていた。
夕餐(ゆうはん)の煙は古い屋根や新しい板屋根から立ち登った。鍬を肩に掛けた農夫の群は、丁度一日の労働を終って、私達の側を通り過ぎた。それを眺めて、私は額に汗する人々の生活を思いやった。復た私は長い根気仕事を続ける気に成った。
熱いうちにも寂しい感じのする百日紅(さるすべり)の花が咲く頃と成った。やがて、亡くなった子供の新盆(あらぼん)、小諸の方ではまた祗園(ぎおん)の祭の来る時節である。冷(すず)しい草屋根の下に住んだ時とは違って、板屋根は日に近い。壁は乾くと同時に白く黴(かび)が来た。引越以来の混雑(とりこみ)にまぎれて、解物(ほどきもの)も、洗濯物も皆な後(おく)れて了ったと言って、家内は縁側の外へ張物板を持出したが、狭い廂(ひさ)の下に日蔭というものが無かった。
庭の隅(すみ)には枝の細長い木犀(もくせい)の樹があった。まばらな蔭は僅かにそこに落ちていた。軒からその枝へ簾(すだれ)を渡して、熱い土のいきれの中で、家内は張物をしたり、洗濯したりした。
「あれ黒がいけません」
こう言いながら、お菊は穢(きたな)い宿無し犬に追われて来た。
「菊ちゃん、早く逃げていらッしゃい……なんだってそんな大きな下駄(かっこ)を穿(は)くんですねえ」
と言って、家内は腰を延ばした。そして苦しそうな息づかいをした。高く前掛を〆(し)めてはいたが、最早醜く成りかけた身体の形は隠されずにある。
お房の泣く声が聞えた。家内は取縋(とりすが)る妹の方をそこへ押除(おしの)けるようにした。「あ、房ちゃんが復た溝(どぶ)へ陥落(おっこ)ちた」と言って顔を顰(しか)めていると、お房は近所の娘に連れられながら、着物を泥だらけにして泣いてやって来た。
「どうしてそう毎日々々衣服(おべべ)を汚すんだろう」
と家内が言ったので、お房はもう身を竦(すく)めるようにして、無理やりに縁側の方へ連れて行かれた。
「母さん、御免……」
こうお房は拝むように言った。家内は又、この娘を懲(こ)らさないうちは置かなかった。
「房(ふう)ちゃん、どうなさいました」
と、お房の泣声を聞きつけて、そこへ井戸を隔てて住む「叔母さん」が提げにやって来た。この人はここから麹町(こうじまち)の小学校へ通う女教師である。最早(もう)中学へ行くほどの子息(むすこ)がある。
「衣服(おべべ)を泥になんか成すっちゃいけませんよ。これから母さんの言うことをよく聞くんですよ」
と裏の「叔母さん」は沈着(おちつ)いた、深切な調子で、生徒に物を言い含めるように言った。お房は洗濯した単衣(ひとえもの)に着更えさせて貰って、やがて復たぷいと駈出(かけだ)して行った。
「母さん、何か……母さん、何か……」
とお菊はネダリ始めた。何か貰わないうちは母の側を離れなかった。
「泣かなくても、進(あ)げますよ」と家内は叱るように言った。「お煎餅(せんべ)ですよ」
「お煎餅、嫌(いや)――アンコが好い」
「アンコなんか不可(いけ)ません。あんまり食べたがるもんだから、それで虫が出るんですよ――嫌ならお止しなさい」
と母に言われて、お菊は不承々々に煎餅を分けて貰った。
その晩は早く夕飯を済ました。薮蚊(やぶか)の群が侘(わび)しい音をさせて襲って来る頃で、縁側には蚊遣(かやり)を燻(いぶ)らせた。蛙(かわず)の鳴く声も聞えた。家内は、遊び疲れた子供の為に、蚊帳を釣ろうとしていたが、
「父さん、どうしたんでしょう……まあ、おかしなことが有る……」
こう言いながら、ボンヤリ釣洋燈(つりランプ)の側に立った。
「私は物が見えなくなりました……」
と復た家内が言って、洋燈(ランプ)の灯に自分の手を照らして見ていた。
「オイ、オイ、馬鹿なことを言っちゃ困るぜ」私は真実(ほんとう)にもしなかった。
「いえ、串戯(じょうだん)じゃ有りませんよ、真実に見えないんですよ……洋燈の側なら何でも能く分りますが、すこし離れると最早何物(なんに)も分りません」
「俺の顔は?」
私は笑わずにいられなかった。
その時、家内は手探り手探り暗い押入の方へ歩いて行った。しばらく私もそこに立って、家内の様子を眺めていた。
「早く医者に診て貰うサ」
と私は励ますように言って見た。
翌日になると、明るい光線の中では別に何ともないと言って、家内は駿河台(するがだい)の眼医者のところまで診て貰いに行った。滋養物を取らなければ不可(いけない)――働き過ぎては不可――眼を休ませるようにしなければ不可――種々(いろいろ)に言われて来た。
「一つは粗食した結果だ」
この考えが私の胸に浮んだ。私は信州にある友達の厚意を思って、成るべくこの仕事をする間は、質素に質素に、と心掛けたが、それを通り越して苛酷であった、とはその時まで自分でも気が着かなかった。
日の暮れないうちに、と家内は二人の娘を連れて買物に出掛けた。その日は、私も疲れて一日仕事を休むことにした。縁側に出て庭の木犀(もくせい)に射(あた)る日を眺めていると、植木屋の裏の畠の方から寂しい蛙の鳴声が夢のように聞えて来る。祗園の祭も近づいた、と私は思った。軒並に青簾(あおすだれ)を掛け連ねた小諸本町の通りが私の眼前(めのまえ)にあるような気がして来た。その辺は私の子供がよく遊び歩いたところである。
「ヨイヨ、ヨイヨ」
御輿(みこし)を舁(かつ)いで通る人々の歓呼は私の耳の底に聞えて来た。何時の間にか私の心は山の上の方へ帰って行った。
宿無し犬の黒は私の前を通り過ぎた。この犬は醜くて、誰も飼手が無い。家(うち)の床下からノソノソ這出(はいだ)して、やがて木犀の蔭に寝た。そのうちに、暮れかかって来た。あまり子供等の帰りが遅いと思って、私は門の外へ出て見た。丁度二人の娘は母の手を引きながら、鬼王(きおう)神社の方から帰って来るところであった。
「父さん」とお房が呼んだ。お菊も一緒に成って呼んだ。
「遅かったネ」と私は言って見た。
「今しがたまで、繁ちゃんのお墓でさんざん泣いて来たんですよ」こう家内はそこへ立留って言った。「帰りに八百屋へ寄って、買物をしていましたら、急にそこいらが見えなく成って来て……房ちゃんや菊ちゃんを連れていなかろうものなら、真実(ほんと)に私はどうしようかと……」
「最早(もう)見えないのかい」
「街燈(ガス)の火ばかし見えるんですよ……あとは真暗なんです」
「さあ、房ちゃんも、菊ちゃんも、お家へお入り」
暮色が這うようにやって来た。私達は子供を連れて急いで門の内へ入った。
こういう私の家の光景(ありさま)は酷く植木屋の人達を驚かした。この家族を始め、旧くから大久保に住む農夫の間には、富士講の信者というものが多かった。翌日のこと、切下髪(きりさげがみ)にした女が突然私の家へやって来た。この女は、講中の先達(せんだつ)とかで、植木屋の老爺(じい)さんの弟の連合(つれあい)にあたる人だが、こう私の家に不幸の起るのは――第一引越して来た方角が悪かったこと、それから私の家内の信心に乏しいことなどを言って、しきりに祈祷(きとう)を勧めて帰って行った。
「御祈祷して御貰い成すったら奈何(いかが)です――必(きっ)と方角でも悪かったんでしょうよ」
と植木屋の老婆(ばあ)さんは勝手口のところへ来て言った。義理としても家内は断る訳にいかなかった。
その日から家内は一人ズツ子供を連れて駿河台まで通った。暑い日ざかりを帰って来て、それから昼飯の仕度に掛かった。信州の牧野君からは手紙の着くのを待つ頃であった。それを手にして見ると、「自分の子供の泣声を聞いたら、さぞ房子さん達も待つだろうと思って、急に手紙を書く気に成った――約束のものを送る」としてあった。私はこの友達の志に励まされて、あらゆる落胆と戦う気に成った。家内には新宿の停車場前から鶏肉だの雑物(ぞうもつ)だのを買って来て食わせた。この俗にいう鳥目(とりめ)が旧(もと)の通り見えるように成るまでには、それから二月ばかり掛かった。
翌年の三月には、界隈(かいわい)はもう驚くほど開けていた。この郊外へ移って来て、近くに住む二人の友達もあった。私の家では、四番目の子供も産れていた。はじめての男で、種夫とつけた。姪(めい)も一人郷里から出て来て、家からある学校へ通っていた。この月に入って、漸く私は自分の仕事を終った。
私も労作した。この仕事には、殆んど二年を費した。牧野君からは、早速便りがあって、一緒に心配した甲斐(かい)が有ったと言って、自分のことのように悦んでくれた。骨休めに、遊びに来い、こうも言って寄(よこ)した。私も何処か静かなところでこの疲労に耽(ふけ)りたい、と思った。世帯持のかなしさには、容易に家を飛出すことも出来なかったのである。急に私の家では客が増えた。訪ねて来る友達も多かった。
「母さん、犬殺しよ」
こうお菊は母の傍へ来て言った。近所の「叔父さん」達が総掛りで何故庭の内を馳(か)け廻るか、彼方是方(あちこち)から飛んで来た犬が何故吠(ほ)え立てるか、それを知らせに来るほどお菊も物が解って来た。
お房やお菊はにわかに大きくなった。姉は前髪をとってくれと言うように成ったし、妹は前の年まで歌えなかった唱歌を最早(もう)自由に歌えるように成った。しかし、黒の発達とは比較に成らない。黒が近所へ捨てられた時分は、痩(や)せた、ひょろ長い小犬であったが、一年経つか経たないに、最早一ッぱしの女犬であった――乳房は長く垂下っていた。
黒も逃げおおせた。犬殺しが手を振って、空車を引いて行った翌々日あたりから、復た私の家の床下では、毎晩この犬のゴソゴソ寝に来る音を聞くように成った。
私の仕事が世に出る頃、種夫は新宿の医者に掛かった。この大久保で生れた児はとかく弱かった。ある日、家内が種夫を負(おぶ)って、薬を貰いに出掛けようとすると、それをお菊が、見送ると言いながら、植木屋の横手にある小径を通って、畑の方までも随いて行った。
「彼処(あそこ)まで送って上げましょう」
とお菊は向(むこう)に光る新しい家屋を指して見せて、やがて母と一緒に畑の尽きたところへ出た。新開地らしい道路がそこにあった。
「菊ちゃんここから独りで帰れるの?」
と母が立留って言った。
お菊は独りで帰れると言って、桐の若木がところどころに立っている畑の間を帰りかけた。
「母さん」
こうお菊は振向いて呼んだ。そして母と顔を見合せて微笑(ほほえ)んだ。母は乳呑児を負(おぶ)ったまま佇立(たたず)んでいた。お菊は復た麦だの薩摩芋(さつまいも)だのの作ってある平坦(たいら)な耕地の間を帰ったが、二度も三度も振向いて見た。
「母さん」
この呼声が通じなくなった頃、お菊はサッサと家の方へ戻って来た。翌日も復たお菊が同じように後を追って行くので、家内も可愛そうに思って、その日は一緒に連れて行った。種夫の為に新宿の通りで吸入器を買って、それを家内が提げて帰ったが、丁度菓物(くだもの)の変りめに成る頃で、医者の細君のところからは夏蜜柑(みかん)を二つばかりお菊にくれてよこした。
私の家では、飯を出す客などがあって、混雑した日のことであった。夕方に、お菊は悪い顔をして、遊び友達の方から帰って来た。そして、乳呑児の襁褓(むつき)を温める為に置いてあった行火(あんか)に凭(もた)れて、窓の下のところで横に成った。
「菊ちゃんはどこか悪いんじゃないか」
こう私は客を前に置いて、家のものに尋ねて見た。お菊はお腹が痛い痛いと言いつつ遊びに紛れていたとのことで、家のものもそれほどには思わなかったのである。姪は熊(くま)の胆(い)を盃に溶かしてお菊に飲ませたりなぞした。
急に熱が出て来た。子供の持薬だの、近所の医者に診(み)せた位では、覚束(おぼつか)ないということを私達が思う時分は、最早(もう)隣近所では寝沈まっていた。お菊は吐いたり下したりした。それが沈着(おちつ)いて、すこしウトウトしたかと思うと、今度はまた激しい渇(かわき)の為に、枕元にある金盥(かなだらい)の水までも飲もうとした。私は空の白むのを待兼ねて、病児を家内に託して置いて、車で皆川医学士を迎えに行った。まだ夜は明けなかった。町々の疲れた燈火(ともしび)は暗く赤く私の眼に映った。
「菊ちゃん、御医者様が入来(いら)ッしゃるよ」と私が子供の枕元へ帰って来て呼んだ時は、お菊もまだ気がタシカだった。お繁の時のことも有るから、医学士も気の毒がって早速来てくれた。
家内は蔭の方で、
「貴方がたが入来(いら)ッしゃるちょっと前に、房ちゃんが肩掛を冠(かぶ)って踊って見せたんですよ。その時菊ちゃんも可笑(おか)しがって笑って――『可笑しな房ちゃん!』なんて。まだそんなに正気だったんですよ……。『お水! お水!』ッて困りました……。『御医者様が入来(いら)ッしゃるとお水を下さる』そんなこと言って欺(だま)しましたら、漸(ようや)くそれで温順(おとな)しく成ったところなんですよ……」
お菊は大きな眼を開いて医学士の方を見たが、やがて泣出しそうに成った。
「菊ちゃん、御医者様に診て頂くんですよ……ね、お水を頂くんでしょう……そうすると直に癒(なお)りますよ」
と母に言われて、お菊は漸く学士の方へ小さな手を出した。
少壮ではあるが、篤実な、そしていかにも沈着いた学士の態度は、私達に信頼する心を起させた。学士は子供の腸を洗ってやりたいと言ったが、不便な郊外のことで、近くに洗滌器(せんじょうき)を貸すところも無かった。家内は二三の医者の家を走り廻って、空しく帰って来た。
「一つ注射して見ましょう」
こう学士が、病児の顔を眺めながら、言出した。
家内はお菊の胸の辺(あたり)を展(ひろ)げた。白い、柔い、そして子供らしい肌膚(はだえ)が私達の眼にあった。学士は洋服の筒袖を捲(まく)し上げて、決心したような態度で、注肘の針に薬を満たした。
「痛いッ」
お菊は泣き叫んだ。鋭い注射の針は二度も三度も射された。
間もなく私はこの病児を抱いて、車で大学病院へ向った。学士も車で一緒に行ってくれた。途次(みちみち)小児科医の家の前を通る度に、学士は車を停めて、更に注射を加えて行こうかと考えて、到頭それも試みずに本郷へ着いた。車の上でお菊の蒼ざめた顔を眺めて行った時に、この児は最早駄目だ、と私は思った。
病名は消化不良ということであった。この急激な身体の変化は多分夏蜜柑の中毒であろうと言われた。私達の後を追って、大久保に住む一人の友達も、家のものも急いで来た。一刻々々にお菊は変って行った。それから二時間しかこの児は生きていなかった。
大久保の家では留守居してくれた人達が様子を案じ顔に待っていた。私はお菊の死体を抱きながら車から下りた。最早呼んでも返事をしない子供に取縋(とりすが)って、家内や姪は泣いた。お房も、お繁の亡くなった時とは違って、姉さんらしい顔を泣腫らしていたが、その姿が私にはあわれに思われた。
お菊は矢張(やはり)長光寺に葬った。親戚や知人(しるべ)を集めて、この娘の為には粗末ながら儀式めいたことをした。狭い墓地には二人の子供がこんな風に並んだ。
菊 子 の 墓
繁 子 の 墓
愛していた娘のことで、家内はよくお房を連れてはこの墓へ通った。
私の家に復たこのような不幸が起ったということは、いよいよ祈祷の必要を富士講の連中に思わせた。女の先達は復た私の家へ訪ねて来て、それ見たかと言わぬばかりの口調で、散々家内の不心得を責めた。「度し難い家族」――これが先達の後へ残して行った意味だった。
お菊が生前の遊び友達は、小さな下駄の音をさせて、朝に晩に家の前を通った。家内は窓の格子(こうし)にとりついて、そういう子供の姿を眺める度に、お菊のことを思出していた。
「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実(ほんと)にツマラない」
こう家内は口癖のように嘆息した。
私も、散々仕事で疲れた揚句で、急にお菊が居なくなった家の内に坐って見た時は、暴風にでも浚(さら)われて持って行かれたような気がした。山を下りてから、私には安い思をしたという日も少なかった。私の生命(いのち)は根から動揺(ゆすぶ)られ通しだ。
「ナニ、まだお房が居る」
と私は言って見た。
麻疹(はしか)後、とかくお房は元気が無かった。亡くなった私の母親を思出させるようなこの娘は、髪の毛の濃く多いところまでも似て来た。信州の牧野君からは子守を一人心配してよこしてくれた頃で、いくらか私の家でも沈着(おちつ)き、手も増えた。二人まで子供を失くしたことを考えて、私達はこの残った娘を大切に見なければ成らないと思った。上野に玩具(おもちゃ)の展覧会があった日には、お房も皆なに連れられて出掛けたが、何を見てもさ程面白がりもしないし、象や猿の居る動物園へ寄っても「早く吾家(おうち)へ帰りましょう」とばかりで、新宿の電車の終点から大久保まで疲れたような顔をして歩いて帰って来た。
草木も初夏の熱のために蒸される頃と成った。庭には木犀の若葉もかがやいたし、植木屋の盆栽棚には種々な花も咲いたし、裏の畠の方には村の人達が茶を摘んでいたし、何処へ行っても子供に取っては楽しい時であった。お房は一寸遊びに出たかと思うと、直に帰って来てゴロゴロしていた。お繁やお菊で私達も懲(こ)りたから、早速、新宿の医者に見せた。牛込の医者にも見せた。早く薬を服(の)ませて、癒したいと思って、医者の言う通りに、消化の好い物だの、牛乳だの、山家育ちで牛乳が嫌だと言えばミルク・フッドだの、と種々にしていたわった。お房は腸が悪いとのことであった。不思議な熱は出たり引いたりした。
五月の下旬に入っても、まだお房は薬を服んでいた。勧めてくれる人があって、私はある医者の許(ところ)へこの娘を見せに連れて行った。その時は、大久保に住む一人の友達とも一緒だった。強健(じょうぶ)そうな年寄の医者は、熱のために萎(しお)れた娘を前に置いて、根本から私達の衛生思想が間違っていることを説いた。他の医者が腸の悪い子供に禁物だというようなものでも、すべて好いとした。牛乳のかわりに味噌汁、粥(かゆ)のかわりに餅(もち)、ソップのかわりに沢庵(たくあん)の香の物……それから、この慷慨(こうがい)な老人は、私達が日本固有の菜食を重んじない為に、それで子供がこう弱くなると言って、今日の医学、今日の衛生法、今日の子供の育て方を嘲(あざけ)った。私は娘を連れて、スゴスゴ医者の前を引下った。煎(せん)じ薬を四日分ばかりと、菜食の歌を貰って、大久保へ帰った。
何となくお房の身体には異状が起って来た。種々な医者に見せ、種々な薬を服ませたが、どうしても熱は除(と)れなかった。時とすると、お房の身体は燃えるように熱かった。で、私も決心して、復た皆川医学士の手を煩(わずら)わしたいと思った。月の末に、学士の勧めに随って、私はお房を大学の小児科へ入院させることにした。
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