旧主人・芽生 |
新潮文庫、新潮社 |
1969(昭和44)年2月15日 |
1970(昭和45)年2月15日第2刷 |
1973(昭和48)年12月10日第9刷 |
浅間の麓(ふもと)へも春が近づいた。いよいよ私は住慣れた土地を離れて、山を下りることに決心した。
七年の間、私は田舎(いなか)教師として小諸(こもろ)に留まって、山の生活を眺(なが)め暮した。私が通っていた学校は貧乏で、町や郡からの補助費にも限りがあったから、随(したが)って受ける俸給も少く、家を支(ささ)えるに骨が折れた。そのかわり、質素な、暮し好い土地で、月に僅(わず)かばかりの屋賃を払えば、粗末ながら五間の部屋と、広い台所と、大きな暗い物置部屋と、桜、躑躅(つつじ)、柿、李(すもも)、林檎(りんご)などの植えてある古い屋敷跡の庭を借りることが出来た。私はまた、裏の流れに近い畠(はたけ)の一部を仕切って借りて、学校の小使に来て手伝わせたり、自分でも鍬(くわ)を執って耕したりした。そこには、馬鈴薯(じゃがいも)、大根、豆、菜、葱(ねぎ)などを作って見た。
こういう中で、私は別に自分の気質に適(かな)ったことを始めた。それは信州へ入ってから六年目、丁度長い日露戦争の始まった頃であった。町から出る学校の経費はますます削減される、同僚の体操教師も出征する、卒業した生徒の中にも兵士として出発するものがある、よく私はそういう人達を小諸の停車場に見送って、悲壮な別離を目撃した。東京にある知人も多く従軍した。一年の間、この大きな戦争の空気の中で、私はある著作に従事した。
種々(いろいろ)な困難は、猶(なお)、私の前に横たわっていた。一方には学校を控えていたから、思うように自分の仕事も進捗(はかど)らなかった。全く教師を辞(や)めて、専心従事するとしても、猶一年程は要(かか)る。私は既に三人の女の児の親である。その間妻子を養うだけのものは是非とも用意して掛らねばならぬ。
とにかく、小諸を去ることに決めた。山を下りて、そして自分の仕事を完成したいと思った。
岩村田通いの馬車の喇叭(らっぱ)が鳴った。私は小諸相生町の角からその馬車に乗った。引越の仕度をするよりも、何よりも、先(ま)ず一人の友達を訪ねて、その人の助力を得たいと思ったのである。その日は他に同行を約束した人もあったが、途中の激寒を懼(おそ)れて見合せた。私は独(ひと)りで出掛けた。雪はまだ深く地にあった。馬車が浅間の麓を廻るにつれて、乗客は互に膝(ひざ)を突合せて震えた。岩村田で馬車を下りて、それから猶山深く入る前に、私はある休茶屋の炉辺(ろばた)で凍えた身体を温めずにはいられなかった位である。一里半ばかりの間、往来する人も稀(まれ)だった。谷々の氾濫(はんらん)した跡は真白に覆われていた。
訪ねて行った友達は、牧野君と言って、こういう辺鄙(へんぴ)な山村に住んでいた。ふとしたことから、私はこの若い大地主と深く知るように成ったのである。ここへ訪ねて来る度(たび)に、この友達の静かな書斎や、樹木の多い庭園や、それから好く整理された耕地などを見るのを私は楽みにしていたが、その日に限っては心も沈着(おちつ)かなかった。主人を始め、細君や子供まで集って、広い古風な奥座敷で、小諸に居る人の噂(うわさ)などをした。この温い家庭の空気の中で、唯私は前途のことばかり思い煩(わずら)った。事情を打開けて、話して見よう、話して見ようと思いながら、翌日に成ってもついそれを言出す場合が見当らなかった。
到頭、言わず仕舞(じまい)に、牧野君の家の門を出た。そして、制(おさ)えがたい落胆と戦いつつ、元来た雪道を岩村田の方へ帰って行った。一時間あまり、乗合馬車の立場(たてば)で待ったが、そこには車夫が多勢集って、戦争の話をしたり、笑ったりしていた。思わず私も喪心した人のように笑った。やがて小諸行の馬車が出た。沈んだ日光は、寒い車の上から、私の眼に映った。林の間は黄に耀(かがや)いた。私は眺め、かつ震えた。小諸の寓居(ぐうきょ)へ帰ってからも、私はそう委(くわ)しいことを家のものに話して聞かせなかった。
南向の障子に光線(あかり)をうけた部屋は、家内や子供の居るところである。末の子供はお繁(しげ)と言って、これは私の母の名をつけたのだが、その誕生を済ましたばかりの娘が、炬燵(こたつ)へ寄せて、寝かしてあった。暦や錦絵(にしきえ)を貼(はり)付けた古壁の側には、六歳(むっつ)に成るお房と、四歳(よっつ)に成るお菊とが、お手玉の音をさせながら遊んでいた。そこいらには、首のちぎれた人形も投出してあった。私は炬燵にあたりながら、姉妹(きょうだい)の子供を眺めて、どうして自分の仕事を完成しよう、どうしてその間この子供等を養おう、と思った。
お房は――私の亡くなった母に肖(に)て――頬の紅い、快活な性質の娘であった。妙に私はこの総領の方が贔屓(ひいき)で、家内はまた二番目のお菊贔屓であった。丁度牧野君から子供へと言って貰(もら)って来た葡萄(ぶどう)ジャムの土産(みやげ)があった。それを家内が取出した。家内は、雛(ひな)でも養うように、二人の子供を前に置いて、そのジャムを嘗(な)めさせるやら、菓子麺包(パン)につけて分けてくれるやらした。
私がどういう心の有様で居るか、何事(なんに)もそんなことは知らないから、お房は機嫌(きげん)よく私の傍へ来て、こんな歌を歌って聞かせた。
「兎、兎、そなたの耳は
どうしてそう長いぞ――
おらが母の、若い時の名物で、
笹の葉ッ子嚥(の)んだれば
それで、耳が長いぞ」
これは家内が幼少(おさな)い時分に、南部地方から来た下女とやらに習った節で、それを自分の娘に教えたのである。お房が得意の歌である。
私は力を得た。その晩、牧野君へ宛てた長い手紙を書いた。
幸にも、この手紙は私の心を友達へ伝えることが出来た。その返事の来た日から、牧野君は私の仕事に取っての擁護者であった。しかも、それを人に知らそうとしなかった。私は牧野君の深い心づかいを感じた。そして自分のベストを尽すということより外にこの友達の志に酬(むく)うべきものは無いと思った。
四月の始から一週間ばかりかけて、私は家を探しがてら一寸(ちょっと)上京した。渋谷、新宿――あの辺を探しあぐんで、ある日は途中で雨に降られた。角筈(つのはず)に住む水彩画家は、私と前後して信州へ入った人だが、一年ばかりで小諸を引揚げて来た。君は仏蘭西(フランス)へ再度の渡航を終えて、新たに画室を構えていた。そこへ私が訪ねて行って、それから大久保辺を尋ね歩いた。
郊外は開け始める頃であった。そこここの樹木の間には、新しい家屋が光って見えた。一軒、西大久保の植木屋の地内に、往来に沿うて新築中の平屋があったが、それが私の眼に着いた。まだ壁の下塗もしてない位で、大工が入って働いている最中。三人の子供を連れて来てここで仕事をするとしては、あまりに狭過ぎるとは思ったが、いかにも周囲(まわり)が気に入った。で、二度ほど足を運んで、結局工事の出来上るまで待つという約束で、そこを借りることに決めた。
この話を持って、小諸をさして帰って行く頃は、上州辺は最早(もう)梅に遅い位であった。山一つ越えると高原の上はまだ冬の光景(ありさま)で、それから傾斜を下るに従って、いくらかずつ温暖(あたたか)い方へ向っていた。小諸へ近づけば近づくほど、岩石の多い谷間(たにあい)には浅々と麦の緑を見出(みいだ)すことが出来た。浅間、黒斑(くろふ)、その他の連山にはまだ白い雪があったが、急にそこいらは眼が覚めたようで、何もかも蘇生(そせい)の力に満ち溢(あふ)れていた。五箇月の長い冬籠(ふゆごもり)をしたものでなければ、殆(ほと)んど想像も出来ないようなこの嬉しい心地(ここち)は、やがて、私を小諸の家へ急がせた。
漸(ようや)く春が来た。北側の草屋根の上にはまだ消え残った雪があったが、それが雨垂のように軒をつたって、溶け始めていた。子供等は私の帰りを待侘(わ)びて、前の日から汽車の着く度に、停車場まで迎えに出たという。東京の話は家のものの心を励ました。私は郊外に見つけて来た家のことを言って、第一土地の閑静なこと、樹木の多いこと、地味の好いことなどを話して聞かせた。女子供には、東京へ出られるということが何よりも嬉しいという風で、上京の日は私よりも反って家内の方に待遠しかったのである。その晩、お房やお菊は寝る前に私の側へ来て戯れた。私は久し振で子供を相手にした。
「皆な温順(おとな)しくしていたかネ」と私が言った。「サ――二人ともそこへ並んで御覧」
二人の娘は喜びながら私の前に立った。
「いいかね。房(ふう)ちゃんが一号で、菊(きい)ちゃんが二号で、繁ちゃんが三号だぜ」
「父さん、房ちゃんが一号?」と姉の方が聞いた。
「ああ、お前が一号で、菊ちゃんが二号だ。父さんが呼んだら、返事をするんだよ――そら、やるぜ」
二人の娘は嬉しそうに顔を見合せた。
「一号」
「ハイ」と妹の方が敏捷(すばしこ)く答えた。
「菊ちゃんが一号じゃないよ、房ちゃんが一号だよ」と姉は妹をつかまえて言った。
大騒ぎに成った。二人の娘は部屋中を躍(おど)って歩いた。
「へい、三号を見て下さい」
と山浦というところから奉公に来ている下女も、そこへお繁を抱いて来て見せた。厚着をさせてある頃で、この末の児はまだ匍(は)いもしなかったが、チョチチョチ位は出来た。どうやら首のすわりもシッカリして来た。家(うち)の内(なか)での愛嬌(あいきょう)者に成っている。
「よし。よし。さあもう、それでいいから、皆な行ってお休み」
こう私が言ったので、お房もお菊も母の方へ行った。家内は一人ずつ寝巻に着更(か)えさせた。下女はまた、人形でも抱くようにして、柔軟(やわらか)なお繁の頬(ほお)へ自分の紅い頬を押宛てていた。
やがて三人の子供は枕を並べて眠った。急に家の内はシンカンとして来た。家内なぞは、子供の眠っている間が僅かに極楽だと言い言いしている。
「一号、二号、三号……」
この自分から言出した串談(じょうだん)には、私は笑えなくなった。三人の子供ですらこの通り私の家では持余している。今からこんなに生れて、このうえ出来たらどうしようと思った。私の母は八人子供を産んでいる。家内の方にはまた兄妹(きょうだい)が十人あった。その総領の姉は今五人子持で、次の姉は六人子持だ。何方(どちら)を向いても、子供の多い系統から来ている。
翌日、私は学校の方へ形式ばかりの辞表を出した。その日から私の家ではそろそろ引越の仕度に取掛った。よく大久保の噂(うわさ)が出た。雨でも降れば壁が乾くまいとか、天気に成れば何程(どれほど)工事が進んだろうとか、毎日言い合った。私達の心の内には、新規に家の形が出来て、それが日に日に住まわれるように成って行くような気がした。
二週間ばかり経ったところで、大久保の植木屋から手紙を受取った。見ると、月の末まで待たなければならなかった。こうなると一度纏(まと)めた道具のうちを復た解(ほど)く必要がある位で、ある荷物は会社に依頼して先へ送り出した。私は本町の角にある茶店(ちゃてん)から、大きな茶箱を二つ求めて来て、書籍のたぐいはそれに詰めた。箪笥(たんす)でも、本箱でも、空虚(から)にして送らなければ壊(こわ)れて了うと言われた。この混雑の中で、幾度(いくたび)か町の人は私を引留めに来た。「夜逃げにでも逃げようかしらん」どうかすると私は家のものに向って、謔語(じょうだん)半分にこんなことを言うこともあった。あまりに長く世話に成り過ぎた、と私は思った。いざこの土地を見捨てて行くとなると、私達の生涯は深く根が生えたように成っていた。とはいえ町の人は私の願を容(い)れてくれた。そして餞別(せんべつ)を集めたり、いろいろ世話をしたりしてくれた。日頃親しくして、「叔父さん」とか「叔母さん」とか互に言い合った近所の人達は、かわるがわる訪ねて来た。いよいよ出発の日が近づいた。三人の子供には何を着せて行こう、とこう家内はいろいろに気を揉んだ。「房(ふう)ちゃん、いらッしゃい、衣服(おべべ)を着て見ましょう――温順(おとな)しくしないと、東京へ連れて行きませんよ」と家内が言って、写真を映した時に一度着せたヨソイキの着物を取出した。それは袖口(そでぐち)を括(くく)って、お房の好きなリボンで結んである。お菊のためには黄八丈の着物を択ぶことにした。
「菊(きい)ちゃんの方は色が白いから、何を着ても似合う」
こう皆なが言い合った。
五月の朔日(ついたち)は幸に天気も好く、旅をするものに取って何よりの日和(ひより)だった。子供は近所の娘達に連れられて、先ず停車場を指(さ)して出掛けた。学校の小使が別れに来たから、この人には使用(つか)っていた鍬を置いて行くことにした。私は毎日通い慣れた道を相生町の方へとって、道普請の為に高く土を盛上げた停車場前まで行くと、そこで日頃懇意にした多勢の町の人達だの、学校の同僚だの、生徒だのに出逢った。そこまで追って来て、餞別のしるしと言って、物をくれる菓子屋、豆腐屋のかみさんなどもあった。同僚に親にしてもいいような年配の理学士があったが、この人は花の束にしたのを持って来て、私達の乗った汽車の窓へ入れてくれた。その日は牧野君も洋服姿でやって来て、それとなく見送ってくれた。
「困る。困る」
こう言って、お菊は泣出しそうに成った。この児は始めて汽車に乗ったので、急にそこいらの物が動き出した時は、私へしがみ付いた。
やがて、ウネウネと続いた草屋根、土壁、柿の梢(こずえ)、石垣の多い桑畑などは汽車の窓から消えた。小諸は最早見えなかった。
この旅には、私は山から種々ななものを運ぼうとする人であった。信州で生れた三人の子供は言うまでもなく、世帯の道具、衣類、それから毎日の暮し方まで、私は地方の生活をソックリ都会の方へ移して持って行こうとした。楊(やなぎ)、楓(かえで)、漆(うるし)、樺(かば)、楢(なら)、蘆(あし)などの生い茂る千曲川(ちくまがわ)一帯の沿岸の風俗、人情、そこで呼吸する山気、眼に映る日光の色まで――すべて、そういうものの記憶を私は自分と一緒に山から運んで行こうとした。
汽車が上州の平野へ下りた頃、私は窓から首を出して、もう一度山の方を見ようとした。浅間の煙は雲の影に成ってよく見えなかった。
高崎で乗換えてから、客が多かった。私なぞは立っていなければならない位で、子持がそこへ坐って了えば、子供の方は一人しか腰掛ける場処がなかった。お房とお菊はかわりばんこに腰掛けた。お繁はまた母に抱かれたまま泣出して、乳をあてがわれても、揺(ゆす)られても、どうしても泣止まなかった。何故こんなに泣くんだろう、と家内はもう持余して了った。仕方なしに、お繁を負(おぶ)って、窓の側で起ったり坐ったりした。
四時頃に、私達五人は新宿の停車場へ着いた。例の仕事が出来上るまでは、質素にして暮さなければならないと言うので、下女も連れなかった。お房やお菊は元気で、私達に連れられて大久保の方へ歩いたが、お繁の方は酷(ひど)く旅に萎(しお)れた様子で、母の背中に頭を持たせ掛けたまま気抜けのしたような眼付をしていた。
時々家内は立止って、郊外のありさまを眺めながら、
「繁ちゃん、御覧」
と背中に居る子供に言って聞かせた。お繁は何を見ようともしなかった。
私達親子のものが移ろうとした新しい巣は、着いて見ると、漸(ようやく)く工事を終ったばかりで、まだ大工が一人二人入って、そこここを補(つくろ)っているところであった。植木屋の亭主は早速私を迎えて、沢山盆栽などの置並べてある庭の内で、思いの外壁の乾きが遅かったことなぞを言った。庭に出て水を汲んでいた娘は、家内や子供に会釈しながら、盆栽棚(だな)の間を通り過ぎた。めずらしそうに私達の様子を眺める人もあった。この広い、掃除の届いた庭の内には、植木屋の母屋(もや)をはじめ、まだ他に借屋建(しゃくやだて)の家が二軒もあって、それが私達の住まおうとする家と、樹木を隔てて相対していた。とにかく、私は植木屋の住居(すまい)を一間だけ借りて、そこで二三日の間待つことにした。
「房ちゃんも、菊ちゃんも、花を採るんじゃないよ――叔父さんに叱られるよ」
と私は二人の子供に言い聞かせた。
日の暮れる頃、会社から来た一台の荷馬車が植木屋の門前で停った。私達は先に送った荷物と一緒に大久保へ着いたことに成った。この混雑の中で、お繁は肩掛に包まれたまま、取散らした手荷物などの中に寝かされていた。稀(たま)にアヤされても、笑いもしなかった。その晩は、遅くなって、一同夕飯にありついた。
翌日は、荷物の取片付に掛るやら、尋ねて来る客があるやらで、ゴタゴタした。お繁は疲れて眠り勝であったが、どうかすると力のない眼付をしながら、小さな胸を突出すような真似(まね)をして見せる。この児はまだ「うま、うま」位しか言えない。抱かれたくて、あんな真似をするのだろうと、私達は解釈した。で、成るべく顔を見せないようにした。温順(おとな)しく寝ているのを好い事にして、いくらか熱のあったのも気に留めなかった。思うように子供を看(み)ることも出来なかったのである。
大久保へ来て三日目に、私は先ず新しい住居(すまい)へ移って、四日目には家のものを移らせた。新築した家屋のにおいは、不健康な壁の湿気に混って、何となく気を沈着(おちつ)かせなかった。壁はまだ乾かず、戸棚へは物も入れずにある。唐紙は取除(とりはず)したまま。種々なことを山の上から想像して来た家内には、この住居はあまりに狭かった。
「家賃を考えて御覧な」
と私は笑った。
歩調を揃(そろ)えた靴の音が起った。カアキイ色の服を着けた新兵はゾロゾロ窓の側を通った。金目垣(かなめがき)一つ隔てた外は直ぐ往来で、暗い土塵(つちぼこり)が家の内までも入って来た。
お房は物に臆しない方の娘で、誰とでも遊んだから、この住居へ移った頃には最早(もう)近所の娘の中に交っていた。そして、小諸訛(なまり)の手毬歌(てまりうた)なぞを歌って聞かせた。短い着物に細帯ではおかしいほど背丈の延びた学校通いの姉さん達を始め、五つ六つ位の年頃の娘が、夕方に成ると、多勢家の周囲(まわり)へ集った。お菊はなかなか用心深くて、庭の樹の下なぞに独(ひと)りで遊んでいる方で、容易に他の子供と馴染(なじ)もうともしなかった。
「房ちゃん、大手のお湯(ゆう)へ行きましょう」
こうお菊は母に連れられて入浴に出掛ける時に言った。この娘は小諸の湯屋へ行くつもりでいた。
漸く家の内がすこし片付いて、これから仕事も出来ると思う頃、末の児は意外な発熱の状態(ありさま)に陥入った。新開地のことで、近くには小児科の医者も無かった。村医者があると聞いて、来て診(み)て貰(もら)ったが、子供を扱いつけたことが無いと見えて、とかくハッキリしたことも言ってくれなかった。この医者を信ずる信じないで、家では論が起った。生憎(あいにく)また母の乳は薄くなった。私は町へ出て、コンデンス・ミルクを売る店を探したが、それすらも見当らなかった。その晩は牛込に住む友達の家に会があった。私は途中でミルクを買いしなこの友達にも逢って、小児科医の心あたりを聞いて見る積りであった。村医者は二度も三度も診に来た。最早駄目かしらん、こんな気が起って来た。
「最後の晩餐(ばんさん)!」
と、不図(ふと)、私は坂の途中で鷲(わし)印のミルク罐(かん)を買いながら思った。牛込の家には、種々な知人が集っていた。そこで戦地から帰って来た友達にも逢った。君は、私がまだ信州に居た頃、従軍記者として出掛けたのであった。
「電話で一つ聞き合わせてあげましょう。皆川という医学士が大学の方に居ますが、この人は小児科専門ですから」
こう主人は気の毒がって言ってくれた。
丁度戸山には赤十字社の仮病院が設けてある時であった。皆川医学士が、臨時の手伝いとして通っていると言って、戸山からわざわざ私の家へ見舞に寄ってくれた頃は、お繁は最早(もう)床の上に冷たく成っていた。
東京の郊外へ着く早々、私達は林の中にでも住むような便りなさを感じた。同時に、小諸でよく子供の面倒を見てくれた近所のシッカリした「叔母さん」達を恋しく思った。あのお繁が胸を突出すような真似をして見せたのは、漸く私達にその意味が解った。口のきけない子供は、死んでから苦痛を訴え始めた。
今更仕方がなかった。そして口説(くど)いてなぞいる場合では無い、と私は思った。幼児(おさなご)のことだから、埋葬の準備も成るべく省くことにして、医者の診断書を貰うことだの、警察や村役場へ届けることだの、近くにある寺の墓地を買うことだの、大抵のことは自分で仕末した。棺も、葬儀社の手にかけなかった。小諸から書籍を詰めて来た茶箱を削って貰って、小さな棺に造らせて、その中へお繁の亡骸(なきがら)を納めた。
「房(ふう)ちゃん、来て御覧なさい――繁ちゃんは死んじゃったんですよ」
こう家内が言った。
「菊(きい)ちゃん、いらッしゃい」
とお房は妹を手招きして呼んで、やがて棺の中に眠るようなお繁の死顔を覗(のぞ)きに行った。急に二人の子供は噴飯(ふきだ)した。
「死んじゃったのよ、死んじゃったのよ」
とお菊は訳も解らずに母の口真似をして、棺の周囲(まわり)を笑いながら踊って歩いた。
「馬鹿だねえ……御覧なさいな、繁ちゃんは最早ノノサンに成ったんじゃ有りませんか……」
と復た母に言われて、お房は不思議そうに、泣腫(は)らしている母の顔を覗き込んだ。丁度そこへ家内の妹も学校の方からやって来たが、この有様を見ると、直に泣出した。終(しまい)にはお房も悲しく成ったと見えて、母や叔母と一緒に成って泣いた。
蝋燭(ろうそく)の火が赤く点(とぼ)った。
「兎の巾着でも入れてやりナ」
と私が言ったので、家内や妹は棺の周囲へ集って、毛糸の巾着の外に、帽子、玩具(おもちゃ)、それから五月の花のたぐいで、死んだ子供の骸(から)を飾った。
墓地は大久保の長光寺と言って鉄道の線路に近いところにあった。日が暮れてから、植木屋の亭主に手伝って貰って、私はこの大屋さんと二人で棺を提げて行った。同じ庭の内の借家に住む二人の「叔父さん」、それから向(むかい)の農家の人などは、提灯(ちょうちん)を持って見送ってくれた。この粗末な葬式を済ました後で、親戚や友達に知らせた。
こうして私の家には小さな新しい位牌(いはい)が一つ出来た。そのかわり、お繁の死は、私達の生活の重荷をいくらか軽くさせた形であった。まだお房も居るし、お菊も居る――二人もあれば、子供は沢山だ、と私は思った。
どうかすると私は串戯(じょうだん)半分に家のものに向って、
「お繁が死んでくれて、大(おおい)に難有(ありがた)かった」
こんなことを言うこともあった。私は唯自分の仕事を完成することにのみ心を砕いていた。
「子供なぞはどうでも可い」
多忙(いそが)しい時には、こんな気も起った。何を犠牲にしても、私は行けるところまで行って見ようと考えたのである。
郊外には、旧い大久保のまだ沢山残っている頃であった。仕事に疲れると、よく私は家を飛出して、そこいらへ気息(いき)を吐(つ)きに行った。大久保全村が私には大きな花園のような思をさせた。激しい気候を相手にする山の上の農夫に比べると、この空の明るい、土地の平坦(たいら)な、柔い雨の降るところで働くことの出来る人々は、ある一種の園丁(にわづくり)のように私の眼に映った。角筈に住む水彩画家の風景画に私は到る処で出逢った。
「房ちゃん、いらッしゃい――懐古園へ花採りに行きましょう」
と、ある日お菊は姉のお房を呼んで、二人して私の行く方へ随(つ)いて来た。
私は子供を連れて、ある細道を養鶏所の裏手の方へ取って、道々草花などを摘んでくれながら歩いた。お房の方は手に一ぱい草をためて、「随分だわ」だの、「花ちゃん、よくッてよ」だのと、そこに居りもしない娘の名を呼んで見て、しきりに会話の稽古(けいこ)をしたり、あるいはお菊と一緒に成って好きな手毬歌(てまりうた)などを歌いながら歩いて行った。
行っても、行っても、お菊の思うような小諸の古い城跡へは出なかった。桑畠のかわりには、植木苗の畠がある。黒ずんだ松林のかわりには、明るい雑木の林がある。そのうちに、木と木の間が光って、高い青空は夕映(ゆうばえ)の色に耀(かがや)き始めた。
急にお菊は勝手の違ったように、四辺(あたり)を眺め廻した。そして子供らしい恐怖に打たれて、なんでも家の方へ帰ろうと言出した。
[1] [2] [3] 下一页 尾页