かなりくたぶれて私は家に帰り着いた。ほとんど一日がかりでその日の用達に奔走し、受け取った金の始末もつけ、ようやく自分の部屋にくつろいで見ると、肩の荷物をおろしたような疲れが出た。
私は、一緒に帰って来た次郎と末子を、自分のそばへ呼んだ。銀行へ預けた金の証書を、そこへ取り出して見せた。
「次郎ちゃん、御覧。これはもうお前たちのものだ。どうこれを役に立てようと、お前たちの勝手だ。これだけあったら、ちょっとフランスあたりへ行って見て来ることもできようぜ。まあ、一度は世界を見てくるがいい。このお金はそういうことに使うがいい。それまではとうさんのほうに預かって置いてあげる。」
子供を育てるには、寒く、ひもじく、とある人がかつて私に言ってみせたが、あれは忘れられない言葉として私の記憶に残っている。あまり多くを与え過ぎないように、そうかと言ってなるべく子供らが手足を延ばせるように。私も艱難に艱難の続いたような自分の若かった日のことを思い出して、これくらいのしたくは子供らのためにして置きたいと考えた。父としての私が生活の基調を働くことに置いたのはかなり旧いことであること、それはあの山の上へ行って七年も百姓の中に暮らして見たころからであること、金の利息で楽に暮らそうと考えるようなことは到底自分ら親子の願いでないこと、そういう話までも私は二人の子供の前に言い添えた。
その時、末子は兄のそばに静かにいて、例のうつむきがちに私たちの話に耳を傾けたが、自分の証書を開いて見ようとはしなかった。私はそれを娘の遠慮だとして、
「末ちゃん、お前も御覧。もっと、よく御覧。お前の名前もちゃんとそこに書いてあるよ。」
と言って、その分け前を確かめさせた。
私たちの間には楽しい笑い声が起こった。次郎は、両手を振りながら、四畳半と茶の間のさかいにある廊下のところを幾度となく往ったり来たりした。
「さあ、おれも成金だぞ。」
その次郎のふざけた言葉を聞くと、私はあわてて、
「ばか。それだからお前たちはだめだ。」
としかった。
もはや、私の前には、太郎あてに銀行でつくって来た為替を送ることと、三郎にもこれを知らせることとが残った。私も、著作に従事するものの癖で、筆執ることが仕事のようになっていて、手紙となるとひどくおっくうに思われてならない。でも、ほかの手紙でもなかった。私は太郎あてのものをその翌日になって書いた。
送金。
金五千円。
これは思いがけない収入があって、お前と、次郎と、三郎と、末ちゃんに父さんの分ける金です。お前の家でも手の足りないことは、父さんもよく承知しています。父さんはほかに手伝いのしようもないから、お前の耕作を助ける代わりとしてこれを送ります。この金を預けたら毎年三百円ほどの余裕ができましょう。それでお前の農家の経済を補って行くことにしてください。
これはただ金で父さんからもらったと考えずに、父さんがお前と一緒に働いているしるしと考えてください。くれぐれもこの金をお前の農家に送る父さんの心を忘れないでください。
くわしいことは、いずれ次郎が帰村の日に。
太郎へ
ちょうど、そこへ三郎が郊外のほうの話をもって訪ねて来た。
「おう、三ちゃんもちょうどいいとこへ来た。お前にも見せるものがある。」
と、私は言って、この子のためにも同じように用意して置いた証書を取り出して見せたあとで、
「お前も一度は世界を見て来るがいいよ。」
と言い添えた。
「そうしてもらえば、僕もうれしい。」
それが三郎の返事であった。
何か私は三人の男の子に餞別でも出したような気がして、自分のしたことを笑いたくもあった。時には、末子が茶の間の外のあたたかい縁側に出て、風に前髪をなぶらせていることもある。白足袋はいた娘らしい足をそこへ投げ出していることがある。それが私の部屋からも見える。私は自分の考えることをこの子にも言って置きたいと思って、一生他人に依るようなこれまでの女の生涯のはかないことなどを話し聞かせた。
それにしても、筆執るものとしての私たちに関係の深い出版界が、あの世界の大戦以来順調な道をたどって来ているとは、私には思えなかった。その前途も心に懸った。どうかすると私の家では、次郎も留守、末子も留守、婆やまでも留守で、住み慣れた屋根の下はまるでからっぽのようになることもある。そういう時にかぎって、私はいるかいないかわからないほどひっそりと暮らした。私の前には、まだいくらものぞいて見ない老年の世界が待っていた。私はここまで連れて来た四人の子供らのため、何かそれぞれ役に立つ日も来ようと考えて、長い旅の途中の道ばたに、思いがけない収入をそっと残して置いて行こうとした。
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