「次郎ちゃん、きょうはお前と末ちゃんを下町のほうへ連れて行く。自動車を一台頼んで来ておくれ。」
「とうさん、どこへ行くのさ。」
「まあ、とうさんについて来て見ればわかる。きょうはお前たちに分けてくれるものがある。」
次郎は、私がめずらしいことを言い出したという顔つきをした。いよいよ私の待っていた日が来た。私は娘にも言った。
「早昼で出かけるぜ。お前もしたくをするがいいぜ。」
次郎が町のほうへ自動車を約束しに行って帰って来たころに、私も末子も茶の間にいて着物をかえるところであった。出かける時間の都合もあったので、私は昼飯をいつもより早く済ました上で、と思った。
「末ちゃん、羽織でも着かえればそれでたくさんなんだよ。きょうは用達に行くんだからね。」
「じゃ、わたしは袴にしましょう。」
私と末子とがしたくをしていると、次郎は朝から仕事着兼帯のような背広服で、自分で着かえる世話もなかったものだから、そこに足を投げ出しながらいろいろなことを言った。
「おい、末ちゃんはそんな袴で行くのかい。」
「そうよ。」
そう答える末子は婆やにまで手伝ってもらわないと、まだ自分ひとりでは幅の広い帯が堅くしめられなかったからで。末子は母さんののこした古い鏡台の前あたりに立って、黒い袴の紐を結んだが、それが背丈の延びた彼女に似合って見えた。
次郎は私のほうをもながめながら、
「こうして見ると、とうさんの肩の幅はずいぶん広いな。」
「そりゃ、そうさ。」と私は言った。「ここまでしのいで来たのも、この肩だもの。」
「僕らを四人も背負って来たか。」
次郎は笑った。
間もなく飯のしたくができた。私たちは婆やのつくってくれた簡単な食事についた。
「きょうは下町のほうへ行って洋食でもおごってもらえるのかと思った。」
そういう次郎はあてがはずれたように、「なあんだ」と、言わないばかりの顔つきであった。
「用達に行くんじゃないか。そんな遊びに行くんじゃあるまいし。まあとうさんについて来てごらんよ。へたな洋食などより、もっといい事があるから。」
その時になって、私は初めて分配のことを簡単に二人の子供に話したが、次郎も末子も半信半疑の顔つきであった。
自動車は坂の上に待っていた。私たちは、家の前の石段から坂の下の通りへ出、崖のように勾配の急な路についてその細い坂を上った。砂利が敷いてあってよけいに歩きにくい。私は坂の途中であとから登って来る娘のほうを振り返って見て、また路を踏んで行った。こうして親子三人のものが一緒にそろって出かけるというは、それだけでも私には楽しかった。
「新橋の手前までやってください。」
と、私は坂の上に待つ運転手に声をかけて、やがて車の上の人となった。肥った末子は私の隣に、やせぎすな次郎は私と差し向かいに腰掛けた。
「きょうは用達だぜ。次郎ちゃんにも手伝ってもらうぜ。」
「わかってるよ。」
動いて行く車の上で、私たちは大体の手はずをきめた。
「末ちゃんは風呂敷を忘れて来やしないか。」
と、私が言うと、末子は車の窓のそばから黒い風呂敷を取り出して見せた。
私たちを載せた車は、震災の当時に焼け残った岡の地勢を降りて、まだバラック建ての家屋の多い、ごちゃごちゃとした広い町のほうへ、一息に走って行った。町の曲がり角で、急に車が停まるとか、また動き出すとか、何か私たちの乗り心地を刺激するものがあると、そのたびに次郎と末子とは、兄妹らしい軽い笑みをかわしていた。次郎が毎日はく靴を買ったという店の前あたりを通り過ぎると、そこはもう新橋の手前だ。ある銀行の前で、私は車を停めさせた。
しばらく私たちは、大きな金庫の目につくようなバラック風の建物の中に時を送った。
「現金でお持ちになりますか。それとも御便利なように、何かほかの形にして差し上げるようにしましょうか。」
と、そこの銀行員が尋ねるので、私は例の小切手を現金に換えてもらうことにした。私が支払い口の窓のところで受け取った紙幣は、風呂敷包みにして、次郎と二人でそれを分けて提げた。
「こうして見ると、ずいぶん重いね。」
待たせて置いた自動車に移ってから、次郎はそれを妹に言った。
「どれ。」
と、妹も手を出して見せた。
私たちの乗る車はさらに日本橋手前の方角を取って、繁華な町の中を走って行った。私は風呂敷包みを解いて、はじめて手にするほどの紙幣の束の中から、あの太郎あてに送金する分だけを別にしようとした。不慣れな私には、五千円の札を車の上で数えるだけでもちょっと容易でない。その私を見ると、次郎も末子も笑った。やがて次郎は何か思いついたように、やや中腰の姿勢をして、車のゆききや人通りの激しい外の町からこの私をおおい隠すようにした。
私たちはある町を通り過ぎようとした。祭礼かと見まごうばかりにぎやかに飾り立てたある書店の前の広告塔が目につく。私は次郎や末子にそれを指して見せた。
「御覧、競争が始まってるんだよ。」
紅い旗、紅い暖簾は、車の窓のガラスに映ったり消えたりした。大量生産の機運に促されて、廉価な叢書の出版計画がそこにも競うように起こって来たかと思いながら、日本橋手前のある地方銀行の支店へと急いだ。郷里の山地のほうにいる太郎あてに送金するには、その支店から為替を組んでもらうのが、いちばん簡単でもあり、便利でもあったからで。日本橋の通りにあるバラック風な建物の中でも、また私たちはしばらく時を送った。その建物の前にある石の階段をおりたところで、私は連れの次郎や末子を見て言った。
「さあ、太郎さんへはお金を送った。これからは次郎ちゃんや三ちゃんの番だ。」
自動車が動くたびに私の子供に話したことがほんとうになって行った。「へたな洋食よりいい事がある」と私が誘い出した意味は、その時になって次郎にもわかって来た。私は京橋へんまで車を引き返させて、そこの町にある銀行の支店で、次郎と三郎との二人のために五千円ずつの金を預けた。兄は兄、弟は弟の名前で。
私は次郎に言った。
「これはいつでも引き出せるというわけには行かない。半年に一度しかそういう時期は回って来ない。」
「そこはとうさんに任せるよ。」
私は時計を見た。どこの銀行でも店を閉じるという午後の三時までには、まだ時の余裕があった。私はその日のうちに四人の兄妹に分けるだけのものは分け、受け取った金の始末をしてしまいたいと思った。そこは人通りの多い町中で、買い物にも都合がいい。末子は家へのみやげにと言って、町で求めた菓子パンなどを風呂敷包みにしながら、自動車の中に私たちを待っていた。
「末ちゃん、今度はお前の番だよ。」
そう言って、私は家路に近い町のほうへとまた車をいそがせた。
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