間もなくかつみさんは青山の姪と連れだって、私の家へ訪ねて来た。私がこの旧知の女の客を迎えるのは十七年ぶりにもなる。あまりに久しぶりでの対面で、私はかつみさんの顔を見つめるともなく見つめて、言葉も容易には口に出せなかった。私たちは互いに顔の形からして変わっていた。
かつみさんも今では土屋でなしに、他の姓を名乗っている人だ。結婚は二度とも不幸に終わって、今は三度目の家庭に落ちついていると聞く人だ。この薄命な、しかしねばり強い人が、どれほどのこの世の辛酸を経たあとで、今の静かな生活にはいったか、私もそうくわしいことを知らない。かつみさんは、私の子供たちを見に来たいと思いながら今までそのおりもなかったこと、ようやく青山の姪に連れられて来たことなぞを私に話した。
「次郎ちゃんたちのかあさんが今まで達者でいたら、幾つになっていましょう。」
私がこんなことを言い出したのは、あの母さんとかつみさんといくつも年の違わなかったことを覚えているからで。
「叔母さんですか。ことしで、ちょうどにおなりのはずですよ。」
かつみさんの口から出て来る話は、昔ながらの「叔父さん、叔母さん」だ。その時、青山の姪はかつみさんの「ちょうど」を聞きとがめて、
「ちょうどと言いますと――」
「五十ですよ。」
この「五十」が私を驚かした。私は自分の年とったことも忘れて、あの母さんがきょうまでぴんぴんしているとしたら、もうそんな婆さんか、と想ってみた。
母さんの旧い友だちが十七年ぶりで私たちの家へ訪ねて来たというは、次郎に取っても心の驚きであったらしい。次郎は今さらのように、亡くなった母さんをさがすかの面持で、しきりに私たちの話に耳を傾けていた。私が自分の部屋を片づけ、狭い四畳半のまん中に小さな机を持ち出し、平素めったに取り出したことのないフランスみやげの茶卓掛けなぞをその上にかけ、その水色の織り模様だけでも部屋の内を楽しくして珍客をもてなそうとしたころは、末子も学校のほうから帰って来た。末子は女学生風の校服のまま青山の姪のうしろへ来て静かにすわった。いくらかきまりわるげに、初めてあう客に挨拶した。
「これが末ちゃんですか。」と、かつみさんは涙ぐまないばかりのなつかしそうな調子で言った。「まあ、叔母さんにそっくりですこと。」
「どうです、私の子供も大きくなりましたろう。」
「ほんとに。あの叔母さんがお達者でいらしって、今の末ちゃんたちを御覧なすったら、どんなでしょう。」
土屋の甥の亡くなったは、私の子供らの母さんが亡くなったのと同じ年にあたる。あの母さんが三十三、甥が三十七で没した。かつみさんの前ではあったが、つい私は甥のことなぞを言い出した。
「妙なものですね。三十台で亡くなった人は、いつまでも三十台でいるような気がしますね。その人が五十いくつになるとは、どうしても思われませんね。」
「でも、叔父さん、早く亡くなったものがいちばんつまりませんよ。長く生きていれば、こうしてまた叔父さんにお目にかかれるような日もまいりますもの。」
その日はこんな話が尽きなかった。
私の五十六という年もむなしく過ぎて行きかけていた。かつみさんのような人が訪ねて来てくれてもあの土屋の甥や子供らの母さんが達者でいたころのようには話せなかった。ただただ私たちはそういう昔もあったことを考えて、互いに遠く来たことも思った。
不景気、不景気と言いながら、諸物価はそう下がりそうにもないころで、私の住む谷間のような町には毎日のように太鼓の音が起こった。何々教とやらの分社のような家から起こって来るもので、冷たい不景気の風が吹き回せば回すほど、その音は高く響けて来た。欲と、迷信と、生活難とから、拝んでもらいに行く人たちも多いという。その太鼓の音は窪い谷間の町の空気に響けて、私の部屋の障子にまで伝わって来ていた。
私たちの家の入り口へ来て立つような貧困者も多くなった。きのうは一人来た。きょうは二人来たというふうに、困って来る人がどれほどあるかしれない。震災後は働きたいにも仕事がないと言って救いを求めるもの、私たちの家へ来るまでに二日も食わなかったというもの、そういう人たちを見るたびに私は自分の腰に巻きつけた帯の間から蝦蟇口を取り出して金を分けることもあり、自分の部屋の押入れから古本を取り出して来て持たせてやることもある。中にはそういう物乞いに慣れ、逆に社会の不合理を訴え、やる瀬のない憤りを残して置いて行くような人々も少なくない。私は自分に都合のできるだけの金をそういう人々の前に置き、
「まっこと困ったら、来たまえ。」
と、よく言い添えた。そして、それらの人々が帰って行ったあとで、年も若く見たところも丈夫そうな若者が、私ごとき病弱な、しかも年とったもののところへ救いを求めに来るような、その社会の矛盾に苦しんだ。正義が顕れて、大きな盗賊やみじめな物乞いが出た。
私たちの家の婆やは、そういう時の私の態度を見ると、いつでも憤慨した。毎月働いても十八円の給金にしかならないと言いたげなこの婆やは、見ず知らずの若者が私のところから持って行く一円、二円の金を見のがさなかった。
そういう私たちの家では、明日の米もないような日がこれまでなかったというまでで、そう余裕のある生活を送って来たわけではない。子供らが大きくなればなるほど金がかかって来て、まだ太郎の家のほうは毎月三十円ずつ助けているし、太郎の家で使っている婆さんの給金も私のほうから払っているし、三郎が郊外に自炊生活を始めてからは、そちらのほうにも毎月六十円はかかった。次郎や末子というものも控えていた。私も骨が折れる。でも、私は子供らと一緒に働くことを楽しみにして、どんなに離れて暮らしていても、その考えだけは一日も私の念頭を去らなかった。
思いもよらない収入のある話が、この私の前に提供されるようになった。
私たちの著作を叢書の形に集めて、予約でそれを出版することは、これまでとても書肆によって企てられないではなかった。ある社で計画した今度の新しい叢書は著作者の顔触れも広く取り入れてあるもので、その中には私の先輩の名も見え、私の友だちの名も見えるが、菊版三段組み、六号活字、総振り仮名付きで、一冊三四百ぺージもあるものを思い切った安い定価で予約応募者にわかとうというのであった。私たちはその特筆大書した定価の文字を新聞紙上の広告欄にも、書籍小売店の軒先にも、市中を練り歩く広告夫の背中にまで見つけた。この思い切った宣伝が廉価出版の気勢を添えて、最初の計画ではせいぜい二三万のものだろうと言われていたのが、いよいよ蓋をあけて見るとその十倍もの意外に多数な読者がつくことになった。
思いもよらない収入のある話と私が言ったのは、この大量生産の結果で、各著作者の所得をなるべく平均にするために、一割二分の約束の印税の中から社預かりの分を差し引いても、およそ二万円あまりの金が私の手にはいるはずであった。細い筆を力に四人の子供らを養って来た私に取って、今までそんなにまとまって持ってみたこともない金である。
まだ私は受け取りもしないうちから、その金のことを考えるようになった。私たちの家では人を頼んで検印を押すだけに十日もかかった。今度の出版の計画が次第に実現されて行くことを私の子供らもよく知っていた。しかしそんなまとまった金がふところにはいるということを、私は次郎にも末子にも知らせずに置いた。
私は、「財は盗みである」というあの古い言葉を思い出しながら、庭にむいた自分の部屋の障子に近く行った。四月も半ばを過ぎたころで、狭い庭へも春が来ていた。
私は自分で自分に尋ねてみた。
「これは盗みだろうか。」
それには私は、否と答えたかった。過ぐる三十年が二度と私の生涯に来ないように、あの叢書に入れるはずの私の著作も二つとは私にないものである。長い労苦と努力とから生まれて来たものとして、髪も白さを増すばかりのような私の年ごろに、受けてやましい報酬であるとは思われなかった。
しかし、私も年をとったものだ。少年の時分から私は割合に金銭に淡白なほうで、余分なものをたくわえようとするような、そういう考えをきょうまで起こした覚えもない。今度という今度は、それが私に起こって来た。私もやっぱり、金でもたくわえて置いて、余生を安く送ろうとするような年ごろに達したのかもしれない。日あたりも悪く、風通しも悪く、午後の四時というと階下にある冬の障子はもう薄暗くなって、夏はまた二階に照りつける西日も耐えがたいこんな谷の中の借家にくすぶっているよりか、自分の好きな家でも建て、静かに病後の身を養いたいと考えるような、そういう年ごろに達したのかもしれない。
今でこそあまり往来もしなくなって、年始状のやり取りぐらいな交際に過ぎないが、私の旧い知人の中に一人の美術家がある。私はその美術家の苦しい骨の折れた時代をよく知っているが、いつのまにか人もうらやむような大きな邸を構え住むようになった。昔を知る私にはそれが不思議なくらいに思えて、あのわびしさを友としていたような人はどこへ行ったろう、とそれを長い間の疑問として残していた。年をとってみて、私も他人の心を読むようになった。あれはただ裕福な人の邸ではなくて、若い時分に人一倍貧苦をなめ尽くした人の住む家だと気がついた。
次郎や、末子をそばに置いて、私は若いさかりの子供らが知らない貯蓄の誘惑に気を腐らした。あるところにはあり過ぎるような金から見たら、おそらく二万円ぐらいはなんでもないかもしれない。しかし、ないところにはなさ過ぎる金から見たら、それだけまとまった高でも大きい。でも、私は、土の中へでも埋めて置くように、死に金をしまって置く気はなかった。どうそれを使ったものかと思った。
どの時代を思い出してみても、私にはそう楽なという日もない。ずっと以前に、私は著作のしたくをするつもりで、三年ばかり山の上に全く黙って暮らしたこともある。私もすでに結婚してから三年目で、家のものなぞはそろそろ単調な田舎生活に飽いて来て、こんなことでいつ芽が出るかという顔つきであったし、それに私たちの家ではあの山の上だからやって行けたと思うほどの切り詰めた暮らしをしていたから、そういう不自由さとも戦わねばならなかったし、毎年十一月から翌年の三月へかけて五か月もの長い冬とも戦わねばならなかった。一度降ったら春まで溶けずにある雪の積もりに積もった庭に向いた部屋で、寒さのために凍み裂ける恐ろしげな家の柱の音なぞを聞きながら、夜おそくまでひとりで机にむかっていた時の心持ちは忘れられない。でも、私はあの山の上から東京へ出て来て見るたびに、とにもかくにも出版業者がそれぞれの店を構え、店員を使って、相応な生計を営んで行くのにその原料を提供する著作者が――少数の例外はあるにもせよ――食うや食わずにいる法はないと考えた。私が全くの著作生活に移ろうとしたのも、そのころからであった。
私の目にはまだ、六畳に二畳の二階が残っている。壁がある。障子がある。ごちゃごちゃとした町中の往来を隔てて、魚を並べた肴屋の店がその障子の外に見おろされる。向かい隣には、白い障子のはまった下町風の窓も見える。そこは私があの山の上から二度目に越して行った家の二階で、都会の空気も濃いところだ。かつみさん夫婦がかわるがわる訪ねて来て、よく登って来たのもその二階だ。そこに私は机を置いて、また著作にふけったが、そのころに私の書いたものが子供らの母さんの女学校時代の友だちのうわさにも上ったかして、そういう昔なじみの家庭を見に行って帰って来るたびに、いろいろ友だちから冷やかされたことだの、「お富さん(子供らの母さん)もずいぶん人がいい、あんなことを書かれて、黙っている細君があるものか。」と言われたことだの、それをあの母さんが私に話してみせた。でも、そういう人は私の書いたものが旧い友だちのうわさに上るというだけにも満足して、にわかに自分の夫を見直すような顔つきであったには、私も苦笑せずにはいられなかった。そのころの私が自分の周囲に見いだす著作者たちはと言えば、そのいずれもが新聞社に関係するとか、学校に教鞭を執るとか、あるいは雑誌の編集にたずさわるとかして、私のように著作一方で立とうとしているのもめずらしいと言われた。私はよくそう思った。これはまだ著作で家族を養えるような時代ではないのだと。私もやせ我慢にやせ我慢を重ねていたが、親子四人に女中を一人置いて、毎月六七十円の生活費を産み出すにすら骨が折れた。そのころの私たちは十六円の家賃の家で辛抱したが、それすら高過ぎると思ったくらいだ。
三年の外国の旅も、私の生涯の中でのさびしい時であったような気がする。もっとも、その間には、これまで踏んだことのない土を踏み、交わったことのない人にも交わってみ、陰もあり日向もあるのだからその複雑な気持ちはちょっと言葉には尽くせない。実に無造作に、私はあの旅に上って行った。その無造作は、自分の書斎を外国の町に移すぐらいの考えでいた。全く知らない土地に身を置いて見ると、とかく旅の心は落ちつかず、思うように筆も取れない。著作をしても旅を続けられるつもりの私は、かねての約束もその十が一をも果たし得なかった。「これまで外国に来て、著作をしたという人のためしがない。」と言って、ある旅行者に笑われたこともある。でも私は国を出るころから思い立っていた著作の一つだけは、どうにかしてそれを書きあげたいと思ったが、とうとう草稿の半ばで筆を投げてしまった。国への通信を送るぐらいが精いっぱいの仕事であった。それに国との手紙の往復にも多くの日数がかかり世界大戦争の始まってからはことに事情も通じがたいもどかしさに加えて、三年の月日の間には国のほうで起こった不慮な出来事とか種々の故障とかがいっそう旅を困難にした。私も、外国生活の不便はかねて覚悟して行ったようなものの、旅費のことなぞでそう不自由はしないつもりであった。時には前途の思いに胸がふさがって、さびしさのあまり寝るよりほかの分別もなかったことを覚えている。
過去を振り返って見ると、今の私がどうにか不自由もせずに子供らを養って行けるというだけでも、不思議なくらいである。あの子供らの母さんの時代のことを思うと、今の借家ずまいでも私には過ぎたものだ。
「富とは、生命よりほかの何物でもない。」
この言葉が私を励ました。
私は旅人のような心で、今までどおりのごくあたりまえな生活を続けたかった。家は私の宿屋で、子供らは私の道づれだ。その日、その日に不自由さえなくば、それでこの世の旅は足りる。私に肝要なものは、余生を保障するような金よりも強い足腰の骨であった。
大きくなった子供らと一緒に働くことの新しいよろこび、その考えはどうにか男親の手一つで四人のちいさなものを育てて来た私にふさわしく思われた。私は自分の身につけるよりも、今度の思いがけない収入を延び行く時代のもののほうに向けようと考えるようになった。
私は自分に言った。
「いっそ、あの金は子供に分けよう。」
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