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分配(ぶんぱい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 9:08:07  点击:  切换到繁體中文

底本:
出版社: 岩波文庫、岩波書店
初版発行日: 1956(昭和31)年3月26日、1969(昭和44)年9月16日第13刷改版
入力に使用: 1974(昭和49)年12月20日第18刷

 

四人もある私の子供の中で、くなったかあさんを覚えているものは一人ひとりもない。ただいちばん上の子供だけが、わずかに母さんを覚えている。それもほんの子供心に。ようやくあの太郎が六歳ぐらいの時分の幼い記憶で。
 母さんを記念するものも、だんだんすくなくなって、今は形見かたみの着物一枚残っていない。古い鏡台古い箪笥たんす、そういう道具の類ばかりはそれでも長くあって、毎朝私の家の末子すえこが髪をとかしに行くのもその鏡の前であるが、長い年月と共に、いろいろな思い出すらも薄らいで来た。
 あの母さんの時代も、そんなに遠い過去になった。それもそのはずである。太郎や次郎はもとより、三郎までもめきめきとおとなびて来て、しまの荒い飛白かすり筒袖つつそでなぞは着せて置かれなくなったくらいであるから。
 目に見えて四人の子供には金もかかるようになった。
「お前たちはもらうことばかり知っていて、くれることを知ってるのかい。」
 私はよくこんな冗談を言って、子供らを困らせることがある。子供、子供と私は言うが、太郎や次郎はすでに郷里の農村のほうで思い思いに働いているし、三郎はまた三郎で、新しい友だち仲間の結びつきができて、思う道へと踏み出そうとしていた。それには友だちの一人と十五円ずつも出し合い、三十円ばかりの家を郊外のほうに借りて、自炊生活を始めたいと言い出した。敷金しききんだけでも六十円はかかる。最初その相談が三郎からあった時に、私にはそれがお伽噺とぎばなしのようにしか思われなかった。
 私は言った。
「とうさんも若い時分に自炊をした経験がある。しまいには三度三度煮豆で飯を食うようになった。自炊もめんどうなものだぞ。お前たちにそれが続けられるかしら。」
 私としては、もっとこの子を自分の手もとに置いて、できるだけしたくを長くさせ、窮屈な思いを忍んでもらいたかったが、しかしこういう日のいつかやって来るだろうとは自分の予期していたことでもある。それがすこし早くやって来たというまでだ。それに気質の合わないことが次第によくわかって来た兄妹きょうだいをこんな狭い巣のようなところに無理に一緒に置くことの弊害をも考えた。何も試みだ、とそう考えた。私は三郎ぐらいの年ごろに小さな生活を始めようとした自分の若かった日のことを思い出して現に私から離れて行こうとしている三郎の心をいじらしくも思った。
 この三郎を郊外のほうへ送り出すために、私たちの家では半分引っ越しのような騒ぎをした。三郎の好みで、二枚の座ぶとんの更紗さらさ模様も明るい色のを造らせた。役に立つか立たないかしれないような古い椅子いすや古い時計の家にあったのも分けた。持たせてやるものも、ないよりはまだましだぐらいの道具ばかり、それでも集めて、荷物にして見れば、洗濯せんたくしたふとんから何からでは、おりから白く町々をうずめた春先の雪のみちを一台の自動車で運ぶほどであった。

 その時になって見ると、三人の兄弟きょうだいの子供は順に私から離れて行って、末子一人ひとりだけが私のそばに残った。三郎を送り出してからは、にわかに私たちの家もひっそりとして、食卓もさびしかった。私は娘とばあやを相手に日を暮らすようになったが、次第に私の生活は変わって行くように見えた。巣から分かれるはちのように、いずれ末子も兄たちのあとを追って、私から離れて行く日が来る。これはもはや、時の問題であるように見えた。私は年老いて孤独な自分の姿を想像で胸に浮かべるようになった。
 しかし、これはむしろ私の望むところであった。私か、私は三十年一日のような著作生活を送って来たものに過ぎない。世には七十いくつの晩年になって、まだ生活を単純にすることを考え、家からも妻子からもいっさいの財産からものがれ、全くの一人となろうとした人もあったと聞くが、早く妻を先立さきだてた私はそれと反対に、自分は家にとどまりながら成長する子供を順に送り出して、だんだん一人になるような道を歩いて来た。
 私の周囲へはすでに幾度か死が訪れて来た。最近にもまた本郷ほんごうの若いおいの一人がにわかに腎臓炎でくなったという通知を受けた。ちょうど、私の家では次郎が徴兵適齢に当たって、本籍地の東京で検査を受けるために郷里のほうから出て来ていた時であった。次郎も兄の農家を助けながらいたという幾枚かの習作の油絵をげて出て来たが、元気も相変わらずだ。亡くなった本郷の甥とはおな年齢どしにも当たるし、それに幼い時分の遊び友だちでもあったので、その告別式には次郎が出かけて行くことになった。
「若くて死ぬのはいちばんかわいそうだね。」
 と、私は言って、新しい仏への菓子折りなぞを取り寄せた。私はまた、次郎や末子の見ているところでこころざしばかりの金を包み、黒い水引きを掛けながら、
「いくら不景気の世の中でも、二円の香奠こうでんは包めなくなった。お前たちのかあさんが達者たっしゃでいた時分には、二円も包めばそれでよかったものだよ。」
 と言ってみせた。
 次郎はもはや父の代理もできるという改まった顔つきで出かけて行った。日ごろ人なつこく物に感じやすい次郎がその告別式から引き返して来た時は、本郷の親戚しんせきの家のほうに集まっていた知る知らぬ人々、青山からだれとだれ、新宿からだれというふうに、旧知のものが並んですわっているところで、ある見知らぬ婦人から思いがけなく声を掛けられたという話を持って帰って来た。
「どなたでございますか。」
「いやな次郎ちゃん、わたしを忘れちまったの?」
 これは二人ふたりの人の挨拶あいさつのように聞こえるが、次郎は一人ひとりでそれを私たちにやって見せた。
「いやな次郎ちゃん――だとサ。」
 と、また次郎が妹に、その婦人の口まねをして見せた。それを聞くと、末子はからだもろとも投げ出すような娘らしい声を出して、そこへ笑いころげた。
 どうしてその婦人のことが、こんなに私たちの間にうわさにのぼったかというに、十八年も前にくなった私のおいの一人の配偶つれあいで、私の子供たちから言えばかあさんの友だちであったからで。かつみさんといって、あの甥の達者たっしゃな時分には親しくした人だ。あの甥は土屋つちやという家にとついだ私の実の姉の一人息子ひとりむすこにあたっていて、年も私とは三つしか違わなかった。甥というよりは、弟に近かった。それに、次郎や末子の生まれた家と、土屋の甥のしばらく住んでいた家とは、歩いて通えるほど近い同じ隅田川すみだがわのほとりにあったから、そんな関係から言っても以前にはよく往来した間がらである。次郎のちいさな時分には、かつみさんも母さんのところへよく遊びに来て、長火鉢ながひばちのそばで話し込んだものである。この母さんの友だちですら、次郎が今あって見てはわからないくらいになってしまった。

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