「ええ、すこし……」
とお初は曖昧な返事ばかりした。
袖子は物も言わずに寝苦しがっていた。そこへ父さんが心配して覗きに来る度に、しまいにはお初の方でも隠しきれなかった。
「旦那さん、袖子さんのは病気ではありません。」
それを聞くと、父さんは半信半疑のままで、娘の側を離れた。日頃母さんの役まで兼ねて着物の世話から何から一切を引き受けている父さんでも、その日ばかりは全く父さんの畠にないことであった。男親の悲しさには、父さんはそれ以上のことをお初に尋ねることも出来なかった。
「もう何時だろう。」
と言って父さんが茶の間に掛かっている柱時計を見に来た頃は、その時計の針が十時を指していた。
「お昼には兄さん達も帰って来るな。」と父さんは茶の間のなかを見して言った。「お初、お前に頼んでおくがね、みんな学校から帰って来て聞いたら、そう言っておくれ――きょうは父さんが袖ちゃんを休ませたからッて――もしかしたら、すこし頭が痛いからッて。」
父さんは袖子の兄さん達が学校から帰って来る場合を予想して、娘のためにいろいろ口実を考えた。
昼すこし前にはもう二人の兄さんが前後して威勢よく帰って来た。一人の兄さんの方は袖子の寝ているのを見ると黙っていなかった。
「オイ、どうしたんだい。」
その権幕に恐れて、袖子は泣き出したいばかりになった。そこへお初が飛んで来て、いろいろ言い訳をしたが、何も知らない兄さんは訳の分からないという顔付きで、しきりに袖子を責めた。
「頭が痛いぐらいで学校を休むなんて、そんな奴があるかい。弱虫め。」
「まあ、そんなひどいことを言って、」とお初は兄さんをなだめるようにした。「袖子さんは私が休ませたんですよ――きょうは私が休ませたんですよ。」
不思議な沈黙が続いた。父さんでさえそれを説き明かすことが出来なかった。ただただ父さんは黙って、袖子の寝ている部屋の外の廊下を往ったり来たりした。あだかも袖子の子供の日が最早終わりを告げたかのように――いつまでもそう父さんの人形娘ではいないような、ある待ち受けた日が、とうとう父さんの眼の前へやって来たかのように。
「お初、袖ちゃんのことはお前によく頼んだぜ。」
父さんはそれだけのことを言いにくそうに言って、また自分の部屋の方へ戻って行った。こんな悩ましい、言うに言われぬ一日を袖子は床の上に送った。夕方には多勢のちいさな子供の声にまじって例の光子さんの甲高い声も家の外に響いたが、袖子はそれを寝ながら聞いていた。庭の若草の芽も一晩のうちに伸びるような暖かい春の宵ながらに悲しい思いは、ちょうどそのままのように袖子の小さな胸をなやましくした。
翌日から袖子はお初に教えられたとおりにして、例のように学校へ出掛けようとした。その年の三月に受け損なったらまた一年待たねばならないような、大事な受験の準備が彼女を待っていた。その時、お初は自分が女になった時のことを言い出して、
「私は十七の時でしたよ。そんなに自分が遅かったものですからね。もっと早くあなたに話してあげると好かった。そのくせ私は話そう話そうと思いながら、まだ袖子さんには早かろうと思って、今まで言わずにあったんですよ……つい、自分が遅かったものですからね……学校の体操やなんかは、その間、休んだ方がいいんですよ。」
こんな話を袖子にして聞かせた。
不安やら、心配やら、思い出したばかりでもきまりのわるく、顔の紅くなるような思いで、袖子は学校への道を辿った。この急激な変化――それを知ってしまえば、心配もなにもなく、ありふれたことだというこの変化を、何の故であるのか、何の為であるのか、それを袖子は知りたかった。事実上の細かい注意を残りなくお初から教えられたにしても、こんな時に母さんでも生きていて、その膝に抱かれたら、としきりに恋しく思った。いつものように学校へ行ってみると、袖子はもう以前の自分ではなかった。ことごとに自由を失ったようで、あたりが狭かった。昨日までの遊びの友達からは遽かに遠のいて、多勢の友達が先生達と縄飛びに鞠投げに嬉戯するさまを運動場の隅にさびしく眺めつくした。
それから一週間ばかり後になって、漸く袖子はあたりまえのからだに帰ることが出来た。溢れて来るものは、すべて清い。あだかも春の雪に濡れて反って伸びる力を増す若草のように、生長ざかりの袖子は一層いきいきとした健康を恢復した。
「まあ、よかった。」
と言って、あたりを見した時の袖子は何がなしに悲しい思いに打たれた。その悲しみは幼い日に別れを告げて行く悲しみであった。彼女は最早今までのような眼でもって、近所の子供達を見ることも出来なかった。あの光子さんなぞが黒いふさふさした髪の毛を振って、さも無邪気に、家のまわりを駆けっているのを見ると、袖子は自分でも、もう一度何も知らずに眠ってみたいと思った。
男と女の相違が、今は明らかに袖子に見えてきた。さものんきそうな兄さん達とちがって、彼女は自分を護らねばならなかった。大人の世界のことはすっかり分かってしまったとは言えないまでも、すくなくもそれを覗いて見た。その心から、袖子は言いあらわしがたい驚きをも誘われた。
袖子の母さんは、彼女が生まれると間もなく激しい産後の出血で亡くなった人だ。その母さんが亡くなる時には、人のからだに差したり引いたりする潮が三枚も四枚もの母さんの単衣を雫のようにした。それほど恐ろしい勢いで母さんから引いて行った潮が――十五年の後になって――あの母さんと生命の取りかえっこをしたような人形娘に差して来た。空にある月が満ちたり欠けたりする度に、それと呼吸を合わせるような、奇蹟でない奇蹟は、まだ袖子にはよく呑みこめなかった。それが人の言うように規則的に溢れて来ようとは、信じられもしなかった。故もない不安はまだ続いていて、絶えず彼女を脅かした。袖子は、その心配から、子供と大人の二つの世界の途中の道端に息づき震えていた。
子供の好きなお初は相変わらず近所の家から金之助さんを抱いて来た。頑是ない子供は、以前にもまさる可愛げな表情を見せて、袖子の肩にすがったり、その後を追ったりした。
「ちゃあちゃん。」
親しげに呼ぶ金之助さんの声に変わりはなかった。しかし袖子はもう以前と同じようにはこの男の児を抱けなかった。
●表記について
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- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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