胡蝶の夢
胡蝶の夢の人の身を
旅といふこそうれしけれ
常世に長き天地を
宿といふこそをかしけれ
青き山邊は吾枕
花さく野邊は吾衾
星縫ふ空は吾帳
さかまく海は吾緒琴
いづこよりとは告げがたし
いづこまでとは言ひがたし
いま日の光いま嵐
來る歡樂哀傷の
人のさかりをかりそめに
夏といはむもおもしろや
あゝわれひとの知らぬ間に
心の色は褪せ易し
胸うち掩ふ緑葉の
若き命もいくばくぞ
かんばせの花紅き子も
あはれや早く翁顏
あるひは高く撃てれども
翅碎けて八重葎
あるひは遠く舞へれども
望は落ちて塵埃
譽も聲も浮ける雲
すぐれし才はいづこぞや
涙も夢も草の雨
流れて更に音も無し
思うて誰か傷まざる
歩みて誰か迷はざる
人の命を兒童の
戲と言ふは誰が言葉
賤も聖も丈夫も
兒童ならぬものやある
晝には晝に遊ぶべし
夜には夜に遊ぶべし
破りはつべき世ならねば
身は狂ふこそ悲しけれ
捨てつ拾ひつこの命
行きつ運りつこの環
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落葉松の樹
落葉松の樹はありとても
石南花の花さくとても
故郷遠き草枕
思はなにか慰まむ
旅寢は胸も病むばかり
沈む憂は醉ふがごと
獨りぬる夜の夢にのみ
たゞ夢にのみ山路を下る
[#改ページ]
ふと目はさめぬ
ふと目は覺めぬ五とせの
心の醉に驚きて
若き是身をながむれば
はや吾春は老いにけり
夢の心地も甘かりし
昔は何を知れとてか
清しき星も身を呪ふ
今は何をか思へとや
剛愎なりし吾さへも
折れて泣きしは戀なりき
荒き胸にも一輪の
花をかざすは戀なりき
勇める馬の狂ひいで
鬣長く嘶きて
風こゝちよき青草の
野邊を蹄に履むがごと
又は眼も紫に
胸より熱き火を吹きて
汲めど盡きせぬ眞清水の
泉に喘ぎよるがごと
若き心の躍りては
軛も綱も捨てけりな
こがれつ醉ひつ筆振れば
筆神ありと思ひてき
あゝうつくしき花草は
咲く間を待たで萎むらむ
消えはてにけり吾戀は
藝術諸共消えにけり
そは何故のうき世にて
人に誠はありながら
戀路の末はとこしへの
冬を生命に刻むらむ
黒髮われを覆ふとも
血潮はわれを染むるとも
花口脣を飾るとも
思は胸を傷ましむ
繪筆うちふる吾指は
歎きのために震ふかな
涙に濡るゝ吾紙は
象空しく消ゆるかな
かはりはてたる吾命
かはりはてたる吾思
かはりはてたる吾戀路
かはりはてたる吾藝術
この世はあまり實にすぎて
あたら吾身は夢ばかり
なぐさめもなき幻の
境に泣きてさまよふわれは
[#改ページ]
縫ひかへせ
縫ひかへせ縫ひかへせ
膩に染みし其袂
涙に濡れし其袂
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
君が衣を縫ひかへせ
愁は水に汗は瀬に
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
捨てよ昔の夢の垢
やめよ甲斐なき物思
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
腐れて何の袖かある
勞れて何の道かある
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
薄き羽袖の蝉すらも
歌うて殼を出づる世に
濯げよさらば嘆かずもがな
縫ひかへせ縫ひかへせ
君がなげきは古りたりや
とく新しき世に歸れ
濯げよさらば嘆かずもがな
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
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