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千曲川のスケッチ(ちくまがわのスケッチ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-11 8:57:14  点击:  切换到繁體中文



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   「千曲川のスケッチ」奥書

 このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。まだこの外にもわたしがあの信濃しなのの山の上でつくったスケッチは少くなかったが、人に示すべきものでもなかったので、その中から年若い人達の読み物に適しそうなもののみを選み出し、更にそれを書き改めたりなぞして、明治の末の年から大正のはじめへかけ当時西村渚山しょざん君が編輯へんしゅうしている博文館の雑誌「中学世界」に毎月連載した。「千曲川ちくまがわのスケッチ」と題したのもその時であった。大正一年の冬、佐久良さくら書房から一巻として出版したが、それが小冊子にまとめてみた最初の時であった。

実際私が小諸こもろに行って、かわいた旅人のように山を望んだ朝から、あの白雪の残った遠い山々――浅間、牙歯ぎっぱのような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の跡、それから淡い煙のような山巓さんてんの雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の眼に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。何んとなく私の内部には別のものが始まったような気がしました。

 これは後になってからの自分の回顧であるが、それほどわたしも新しい渇望を感じていた。自分の第四の詩集を出した頃、わたしはもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。この心からの要求はかなりはげしかったので、そのためにわたしは三年近くも黙して暮すようになり、いつ始めるともなくこんなスケッチを始め、これを手帳に書きつけることを自分の日課のようにした。ちょうどわたしと前後して小諸へ来た水彩画家三宅克巳みやけかつみ君が袋町というところに新家庭をつくって一年ばかり住んでおられ、余暇には小諸義塾の生徒をも教えに通われた。同君の画業は小諸時代に大に進み、白馬会の展覧会に出した「朝」の図なぞも懐古園附近の松林を描いたもののように覚えている。わたしは同君に頼んで画家の用いるような三脚を手に入れ、時にはそれを野外へ持ち出して、日に日に新しい自然から学ぶ心を養おうとしたこともある。浅間山麓さんろくの高原と、焼石と、砂と、烈風の中からこんなスケッチが生れた。

 過ぎ去った日のことをすこしここに書きつけてみる。わたしたちのふるい「文学界」、あの同人の仕事もわたしが仙台から東京の方へ引き返す頃にはすでに終りを告げたが、五年ばかりも続いた仕事が今日になってかえって意外な人々に認められ、若いロマンチックと呼ばれる声をすら聞きつける。今日からあの時代を振り返ってみたら、それもいわれのあることであろう。いかに言ってもわたしたちは踏み出したばかりで、経験にも乏しく、ことに自分なぞは当時を追想するたび冷汗ひやあせの出るようなことばかり。それにしても、わたしたちの弱点は歴史精神に欠けていたことであった。もしその精神に欠くるところがなかったなら、自国にある古典の追求にも、西欧ルネッサンスの追求にも、あるいはもっと深く行き得たであろう。平田禿木とくぼく君も言うように、上田敏君は「文学界」が生んだ唯一の学者である。その上田君の学者的態度をもってしてもこの国独自な希臘ギリシャ研究を残されるところまで行かなかったのは惜しい。西欧ルネッサンスに行く道は、希臘に通ずる道であるから、当然上田君のような学者にはその準備もあったろう。しかし同君はそちらの方に深入りしないで、近代象徴詩の紹介や翻訳ほんやくに歩みを転ぜられたように思われる。

 このスケッチをつくっていた頃、わたしは東京の岡野知十君から俳諧雑誌「半面」の寄贈を受けたことがあった。その新刊の号に斎藤緑雨りょくう君の寄せた文章が出ている。緑雨君の筆はわたしのことにも言い及んである。
 「彼も今では北佐久郡の居候いそうろう山猿やまざるにしてはちと色が白過ぎるまで」
 緑雨君はこういう調子の人であった。うまいとも、辛辣しんらつとも言ってみようのない、こんな言い廻しにかけて当時同君の右に出るものはなかった。しかし、東京の知人等からも離れて来ているわたしに取っては、おそらくそれが最後に聴きつけた緑雨君の声であったように思う。わたしは文学の上のことで直接に同君から学んだものとてもほとんどないのであるが、しかし世間智に富んだ同君からいろいろ啓発されたことは少くなかった。鴎外おうがい思軒しけん、露伴、紅葉、その他諸家の消息なぞをよくわたしに語って聞かせたのも同君であった。同君歿後ぼつごに、馬場孤蝶こちょう君は交遊の日のことを追想して、こんなに亡くなった後になってよく思い出すところを見ると、やはりあの男には人と異なったところがあったと見えると言われたのも同感だ。
 紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いた頃のことも忘れがたい。わたしは一年に一度ぐらいしか東京の友人を訪ねる機会もなかったから、したがって諸先輩の消息を知ることもまれになって行ったが、おそらく鴎外漁史なぞはあの通り休息することを知らないような人だから、当時その書斎とする観潮楼かんちょうろうの窓から、文学の推し移りなどを心静かに、注意深くも眺めておられたかと思う。そして柳浪りゅうろう、天外、風葉等の作者の新作にも注意し、又、後進のものの成長をも見まもっていてくれたろうと思う。明治文学もようやく一変すべき時に向って来て、誰もが次の時代のために支度を始めたのも、明治三十年代であったと言っていい。

 旧いものをこわそうとするのは無駄な骨折だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀れている。これが仙台以来のわたしの信条であった。きたるべき時代のために支度するということも、わたしに取っては自分等を新しくするということに外ならない。このわたしの前には次第に広い世界がひらけて行った。不自由な田舎教師の身には好い書物を手に入れることも容易ではなかったが、長く心掛けるうちには願いもかない、それらの書物からも毎日のように新しいことを学んだ。わたしはダルウィンが「種の起原」や「人間と動物の表情」なぞのさかんな自然研究の精神に動かされ、心理学者サレエの児童研究にも動かされた。その時になってみると、いつの間にかわたしの書架も面目を改め、近代の詩書がそこに並んでいるばかりでなく、英訳で読める欧州大陸の小説や戯曲の類が一冊ずつ順にふえた。トルストイの「コサックス」や「アンナ・カレニナ」、ドストイエフスキイの「罪と罰」に「シベリアの記」、フロオベルの「ボヴァリイ夫人」、それにイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」はわたしの愛読書になった。一体、わたしが初めてトルストイの著作に接したのは、その小説ではなく、明治学院の旧い学窓を出た翌年かに巌本いわもと善治氏夫妻の蔵書の中に見つけた英訳の「労働」と題する一小冊子であったが、そんな記憶があるだけでも旧知にめぐりあう思いをした上に、その正しい描写には心をひかれ、千曲川の川上にあたる高原地の方へ出掛けた折なぞ、トルストイ作中の人物をいろいろ想像したり、見ぬ高加索コーカサスの地方へまで思いをせたりしたものであった。当時わたしは横浜のケリイという店からおもに洋書を求めていたが、その店から送り届けてくれたバルザックの小説で、英訳の「土」も長くわたしの心に残った。不思議にもそれらの近代文学に親しんでみることが反って古くから自分等の国にあるものの読み直しをわたしに教えた。あの溌剌はつらつとして人に迫るような「枕の草紙」に多くの学ぶべきもののあるのを発見したのも、その時であった。

 今から明治二十年代を振り返ってみることは、私に取って自分等の青年時代を振り返ってみることであるが、あの鴎外漁史なぞが「舞姫」の作によって文学の舞台に登場せられたのは二十年代も早い頃のことであり、「新著百種」に「文づかい」が出たのも二十四年の頃であったと思う。だんだん時がたった後になってみると、当時の事情や空気がそうはっきりと伝わらなくなり、多くの人に残る記憶も前後して朦朧もうろうとしたものとなり勝ちであるが、明治の文学らしい文学はあの二十年代にはじまったと言っていい。今日明治文学として残っているものの一半はほとんどあの十年間に動いた人達の仕事であるのを見ても、明治二十年代は筆執り物書くものが一斉に進むことの出来たような、若々しい一時代であったことが思われる。これには種々な理由があろう。当時は新日本ということが多くの人々によって考えられ、新しい作者を求める社会の要求の強かったことも、その理由の一つとして数えられよう。長谷川二葉亭はせがわふたばていの「浮雲」があれほどの新しさを私達の胸中にび起したのも、その要求をみたし得たからであって、あれほどあざやかに当時を反映し、当時を批評した作品もめずらしかった。一方にはまた、鴎外漁史のような人があって、レッシングの「とりこ」、アンデルセンの「即興詩人」、その他の名訳をつぎつぎに紹介せられたことも、当時の文学の標準を高める上に、少からぬ影響を多くの作者に与えた。「水沫集みなわしゅう」一巻は、青春の書というにはあまり老成なような気もするが、明治二十年代の早い春はあの集のどのページにも残っている。
 もし、明治二十年代の文学があの調子で進むことが出来たら、その発達には見るべきものがあったろうに、それが最初のような純粋を失い、新鮮を失うようになって行ったに就いては、種々な原因がなくてはならない。
 ともあれ、当時発達の途上にあった言文一致の基礎工事がまだまだ不十分なものであったことも争われない。紅葉山人のような作者ですら雅俗折衷の文体と言文一致の間を往来した。何と言ってもあの頃は、古くからある文章の約束がまだ重く残って、言葉の感情とか、その陰影とかの自然な流露を妨げていた。この状態はどうしても行き詰る。そこでだんだん変化と自由とを求めるようになって行って、これまで物を書いていた作者達も今までの表現の方法では、やりきれなくなって行ったかと思う。私は斉藤緑雨君のような頭の好い人がそういう点で苦しみぬいたことを知っている。同君も文章そのものの苦労が大き過ぎて、「油地獄」や「かくれんぼ」に見せたような作者としての天禀てんびんを十分に延ばし切ることが出来なかったのではなかろうかと思う。
 その後に、鴎外漁史はめずらしく創作の筆を執って、「そめちがえ」一篇を「新小説」誌上に発表した。私はそれを読んで漁史のような人の上にもある一転機の来たことを感じた。「そめちがえ」の砕けた題目が示すように、漁史は最早あの「文づかい」や「うたかたの記」に見るような高い調子で押し通そうとする人ではなかったらしい。その頃には、透谷君や一葉女史の短い活動の時はすでに過ぎ去り、柳浪にはやや早く、蝸牛庵主かぎゅうあんしゅは「新羽衣はごろも物語」を書き、紅葉山人は「金色夜叉こんじきやしゃ」を書くほどの熟した創作境に達している。鴎外漁史の「そめちがえ」を出されたころに明治二十年代のはじめを顧みると、文壇は実に隔世の感があった。十年の月日は明治の文学者に取って短い時ではなかった。
 おそらく二十年代の末から三十年代のはじめへかけては、明治文学者の生涯の中でも特に動きのある時代で、あの緑雨君が鴎外漁史や幸田露伴氏等との交遊のあったのもあの頃であり、諸先輩が新進作家の作品に対して合評会なぞを思い立ったのもあの時代であったかと思う。
 思えば、明治文学の早い開拓者の多くは、欧羅巴ヨーロッパからの文学を取り入れる上に就いて、いずれも要領の好い人達であった。そこに自国の特色がある。これは徳川時代の文学者が遺産を受けついだからでもあり、支那しな文学の長い素養からも来ていると思う。ともあれ、他の当時の文学者の多くがまだ十八世紀の英吉利イギリス文学を目標としていた中で、独逸ドイツ本国の方から十九世紀にあるものを感知して帰って来たところに鴎外漁史の強味があった。その人自身ですら自国に芽ぐんで来た言文一致の試みを採りあげるに躊躇ちゅうちょしていたほどの時代を考えると、山田美妙、長谷川二葉亭二氏などの眼のつけかたはさすがに早かったと思われる。
 私は明治の新しい文学と、言文一致の発達とを切り離しては考えられないもので、いろいろの先輩が歩いて来た道を考えても、そこへ持って行くのが一番の近道だと思う。我々の書くものが、古い文章の約束や云い廻しその他から、解き放たれて、今日の言文一致にまで達した事実は、決してあとから考えるほど無造作なものでない。先ず文学上の試みから始まって、それが社会全般にひろまって行き、新聞の論説から、科学上の記述、さては各人のやり取りする手紙、児童の作文にまで及んで来たに就いてはかなり長い年月がかかったことを思ってみるがいい。何んと云っても徳川時代に俳諧や浄瑠璃じょうるりの作者があらわれて縦横に平談俗語を駆使し、言葉の世界に新しい光を投げ入れたこと。それからあの国学者が万葉、古事記などを探求して、それまで暗いところにあった古い言葉の世界を今一度明るみへ持ち出したこと。この二つの大きな仕事と共に、明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根柢こんていに横たわる基礎工事であったと私には思われる。わたしがこんなスケッチをつくるかたわら、言文一致の研究をこころざすようになったのも、一朝一夕に思い立ったことではなかった。

 到頭、わたしは七年も山の上で暮した。その間には、小山内薫おさないかおる君、有島生馬いくま君、青木しげる君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。わたしはよく小諸義塾の鮫島さめじま理学士や水彩画家丸山晩霞ばんか君と連れ立ち、学校の生徒等と一緒に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出掛けた。このスケッチは、いろいろの意味で思い出の多い小諸生活の形見である。





底本:「千曲川のスケッチ」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年4月20日発行
   1970(昭和45)年5月5日25刷改版
   1998(平成10)年8月25日68刷
入力:割子田数哉
校正:松永正敏
2001年1月9日公開
2004年2月6日修正
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