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刺繍(ししゅう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 11:16:08  点击:  切换到繁體中文


 食堂へ行って見た。そこにはおせんが居た時と同じように、大きなけやきづくりの食卓が置いてある。黒い六角形の柱時計も同じように掛っている。大塚さんはその食卓の側に坐って、珈琲コーヒーでも持って来るように、と田舎々々した小娘に吩咐いいつけた。廊下を隔てて勝手の方が見える。働好きな婆さんが上草履うわぞうりの音をさせている。小娘は婆さんの孫にあたるが、おせんの行った後で、田舎から呼び迎えたのだ。家には書生も二人ほど置いてある。しかし、おせん時代のことを知っているものは、主人思いの婆さんより外に無かった。婆さんは長く奉公して、主人が食物くいもの嗜好しこうまでも好く知っていた。
 小娘は珈琲茶碗ぢゃわんを運んで来た。婆さんも牛乳の入物を持って勝手の方から来た。その後から、マルもいて入って来た。
「マルも年をとりまして御座いますよ。この節は風邪かぜばかり引いて、くしゃみばかり致しております」
 こう婆さんが話した。大塚さんはその日別れた妻に逢ったことを、誰も家のものには言出さなかった。
 マルは尻尾しっぽを振りながら、主人の側へ来た。大塚さんが頭をでてやると、白い毛の長くおおかぶさった額を向けて、狆らしい眼付で彼の方を見て、嬉しそうに鼻をクンクン言わせた。
 こうして家の内を眺め廻した時は、おせんらしいおせんは一番その静かな食卓の周囲まわりに居るように思われた。おせんは夫を助けて働ける女では無かったし、ことに客なぞのある場合には、もうすこし細君らしい威厳をそなえていたら、と思うことも多かった。「奥様はあんまり愛嬌あいきょうが有り過ぎるんで御座いますよ、誰にでも好くしようと成さり過ぎるんで御座いますよ」と婆さんまでが言う位だった。でも食卓の周囲なぞは楽しくした方で、よくその食堂のすみのところに珈琲をく道具を持出して、自分でったやつをガリガリと研いたものだ。
 香ばしい珈琲のにおいは、過去った方へ大塚さんの心を連れて行った。マルをひざに乗せて、その食卓にむかい合っていた時の、彼女の軽い笑を、まだ大塚さんは聞くことが出来た。毛糸なぞも編むことが上手で、青と白とで造った円形の花瓶かびん敷を敷いて、好い香のする薔薇ばらでその食卓の上を飾って見せたものだ。花は何に限らず好きだったが、黄な薔薇は殊におせんが好きな花だった。そして、自分で眼を細くして、その香気においいで見るばかりでなく、それを家のものにも嗅がせた。マルにまで嗅がせた。まだ大塚さんはその食卓の上に載せた彼女の白い優しい手を見ることが出来た。その薔薇を花瓶のまま持って夫に勧めた時の、彼女の呼吸までも聞くことが出来た。

 庭へ行って見た。食堂から奥の座敷へ通うところは廻廊風に出来ていて、その間に静かな前栽せんざいがある。可成かなり広い、植木の多い庭が前栽つづきに座敷の周囲まわり取繞とりまいている。古い小さな庭井戸に近く、毎年のように花をつける桜の若木もある。他の植木に比べると、その細い幹はズンズン高くなった。最早紅くふくらんだつぼみを垂れていたが、払暁あけがたの温かい雨で咲出したのもある。そこはおせんが着物の裾を帯の間にはさんで、派手な模様の長襦袢ながじゅばんだけ出して、素足に庭下駄を穿きながら、草むしりなぞを根気にしたところだ。大塚さんは春らしい日のあたった庭土の上を歩き廻って、どうかすると彼女が子供のように快活であったことを思出した。
 そうだ。優しい前髪と、すらりとした女らしい背とを持った子供だった。彼女がかたづいて来たばかりの頃は、大塚さんは湯島の方にもっと大きなやしきを持っていたが、ある関係の深い銀行の破産から、ひとに貸してあったこの根岸の家の方へ移り住んだのだ。そういう時に成ると、おせんは何をしていかも解らないような人で、自分の櫛箱くしばこの仕末まで夫の手をわずらわして、マルを抱きながら、それを見ていたものだ。それほど子供らしかった。ああいう時には、大塚さんはもう嘆息して了った。でも、この根岸へ移って落着いてからは、春先に成るとよもぎの芽を摘みに行くところがあると悦んで、軽々とした服装みなりをしては出掛けて行って、その帰りにはすみれの花なぞを植木屋から買って戻って来た。その無邪気さには、又、憎むこともどうすることも出来ないようなところが有った。
 こういう娘のような気で何時までも居て、時には可愛くて可愛くて成らなかったおせんが、次第に大塚さんには見ても飽き飽きする様な人に変って行った。彼女と別れる前の年あたりには、大塚さんは何でも彼女の思う通りに任せて、万事家のことは放擲うっちゃらかして了った。小言一つ言わなかった……唯、彼女を避けようとした……そして自分は会社のことにばかり出歩いた……さもなければ、会社の用事に仮托かこつけて、旅にばかり出掛けた……そんなことをして、名のつけようの無い悲哀かなしみを忘れようとした……
 おせんと同棲して五年ばかり経った時の大塚さんは、何とかして彼女と別れる機会をのみ待った。機会が来た……しかも堪え難い形でやって来た……それを大塚さんは考えた。

 彼女のもとの居間へ行って見た。今は親しい客でも有る時に通す特別な応接間に用いている。そこだけは、西洋風にテーブルを置いて、安楽椅子に腰掛けるようにしてある。大塚さんはその一つに腰掛けて見た。
 可傷いたましい記憶の残っているのも、その部屋だ。若く美しい妻を置いて、独りで寂しく旅ばかりするように成ったということや、あれ程親戚友人の反対が有ったにもかかわらず、誰の言うことも聞入れずに迎えたおせん、その人としまいには別れる機会をのみ待つように成って行ったということは、後から考えれば、夢のようだ。実際、それが事実であったから仕方ない。何物にも換えられなかった楽しい結婚のしとね、そこから老い行く生命いのちむような可恐おそろしい虫が這出はいだそうとは……
 大塚さんは彼女を放擲うっちゃらかしてかまわずに置いた日のことを考えた。あらゆる夫婦らしい親密したしみ快楽たのしみも行って了ったことを考えた。おせんは編物ばかりでなく、手工に関したことは何でも好きな女で、刺繍ししゅうなぞも好くしたが、しまいにはそんな細い仕事にまぎれてこの部屋で日を送っていたことを考えた。
 悲しい幕が開けて行った。大塚さんはその刺繍台の側に、許し難い、若い二人を見つけた。もっとも、親しげに言葉の取換とりかわされる様子を見たというまでで、以前家に置いてあった書生が彼女の部屋へ出入ではいりしたからと言って、とがめようも無かったが……疑えば疑えなくもないようなことは数々あった……彼は鋭い刃物の先で、妻の白い胸を切開いて見たいと思った程、はげしい嫉妬しっとで震えるように成って行った。
 そこまで考え続けると、おせんのことばかりでなく、大塚さんは自分自身が前よりはハッキリと見えて来た。そういう悲しい幕の方へ彼女を追いったのは、誰か。よしんばおせんは、彼女が自分で弁解したように、罪の無いものにもせよ――冷やかに放擲うっちゃらかして置くような夫よりは、意気地は無くとも親切な若者をよろこんだであろう。それを悦ばせるようにしたものは、誰か。そういうことを機会に別れようとして、彼女の去る日をのみ待っていたものは、一体誰か。
 おさえ難い悔恨の情が起って来た。おせんがこの部屋で菫の刺繍なぞを造ろうとしては、花の型のある紙を切地きれぢ宛行あてがったり、その上から白粉おしろいを塗ったりして置いて、それに添うて薄紫色のすが糸を運んでいた光景さまが、唯涙脆なみだもろかったような人だけに、余計可哀そうに思われて来た。大塚さんは、安楽椅子にりながら、種々いろいろなことを思出した。若い妻が訳もなく夫をおそれるような眼付して、自分の方を見たことを思出した。彼女の鼻をかむ音がよくこの部屋から聞えたことを思出した。
 今居る書生の一人がそこへ入って来た。訪問の客のあることを告げた。大塚さんは沈思を破られたという風で、誰にも逢いたくないと言って、用事だけ聞いて置くようにとその書生に吩咐いいつけた。
「いずれ会社のものを伺わせます、その節は電話で申上げますッて、そう言ってくれ給え」
 と附添えて言った。大塚さんが客をことわるというは、めずらしいことだった。

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