旧主人・芽生 |
新潮文庫、新潮社 |
1969(昭和44)年2月15日 |
1970(昭和45)年2月15日第2刷 |
1973(昭和48)年12月10日第9刷 |
ふと大塚さんは眼が覚めた。
やがて夜が明ける頃だ。部屋に横たわりながら、聞くと、雨戸へ来る雨の音がする。いかにも春先の根岸辺の空を通り過ぎるような雨だ。その音で、大塚さんは起されたのだ。寝床の上で独り耳を澄まして、彼は柔かな雨の音に聞き入った。長いこと、蒲団や掻巻にくるまって曲んでいた彼の年老いた身体が、復た延び延びして来た。寝心地の好い時だ。手も、足も、だるかった。彼は臥床の上へ投出した足を更に投出したかった。土の中に籠っていた虫と同じように、彼の生命は復た眠から匍出した。
大塚さんは五十を越していた。しかしこれから若く成って行くのか、それとも老境に向っているのか、その差別のつかないような人で、気象の壮んなことは壮年に劣らなかった。頼りになる子も無く、財産を分けて遣る楽みも無く、こんな風にして死んで了うのか、そんなことを心細く考え易い年頃でありながら、何ぞというと彼は癖のように、「まだそんな耄碌はしないヨ」と言って見る方の人だった。有り余る程の精力を持った彼は、これまで散々種々なことを経営して来て、何かまだ新規に始めたいとすら思っていた。彼は臥床の上にジッとして、書生や召使の者が起出すのを待っていられなかった。
でも、早く眼が覚めるように成っただけ、年を取ったか、そう思いながら、雨の音のしなくなる頃には、彼は最早臥床を離れた。
やがて彼は自分の部屋から、雨揚りの後の静かな庭へ出て見た。そして、やわらかい香気の好い空気を広い肺の底までも呼吸した。長く濃かった髪は灰色に変って来て、染めるに手数は掛かったが、よく手入していて、その額へ垂下って来るやつを掻上げる度に、若い時と同じような快感を覚えた。堅い地を割って、草の芽も青々とした頭を擡げる時だ。彼は自分の内部の方から何となく心地の好い温熱が湧き上って来ることを感じた。
例のように、会社の見廻りに行く時が来た。大塚さんは根岸にある自宅から京橋の方へ出掛けて、しばらく会社で時を移した。用達することがあって、銀座の通へ出た頃は、実に体躯が暢々とした。腰の痛いことも忘れた。いかに自由で、いかに手足の言うことを利くような日が、復た廻り廻って来たろう。すこし逆上せる程の日光を浴びながら、店々の飾窓などの前を歩いて、尾張町まで行った。広い町の片側には、流行の衣裳を着けた女連、若い夫婦、外国の婦人なぞが往ったり来たりしていた。ふと、ある店頭のところで、買物している丸髷姿の婦人を見掛けた。
大塚さんは心に叫ぼうとしたほど、その婦人を見て驚いた。三年ほど前に別れた彼の妻だ。
避ける間隙も無かった。彼女は以前の夫の方を振向いた。大塚さんはハッと思って、見たような見ないような振をしながら、そのまま急ぎ足に通り過ぎたが、総身電気にでも打たれたように感じた。
「おせんさん――」
と彼女の名を口中で呼んで見て、半町ほども行ってから、振返って見た。明るい黄緑の花を垂れた柳並木を通して、電車通の向側へ渡って行く二人の女連の姿が見えた……その一人が彼女らしかった……
彼女はまだ若く見えた。その筈だ、大塚さんと結婚した時が二十で、別れた時が二十五だったから。彼女がある医者の細君に成っているということも、同じ東京の中に住んでいるということも、大塚さんは耳にしていた。しかし別れて三年ほどの間よくも分らなかった彼女の消息が、その時、閃くように彼の頭脳の中へ入って来た。流行の薄色の肩掛などを纏い着けた彼女の姿を一目見たばかりで、どういう人と暮しているか、どういう家を持っているか、そんなことが絶間もなく想像された。
種々な色彩に塗られた銀座通の高い建物の壁には温暖な日が映っていた。用達の為に歩き廻る途中、時々彼は往来で足を留めて、おせんのことを考えた。彼女が別れ際に残して行った長い長い悲哀を考えた。
恐らく、彼女は今幸福らしい……無邪気な小鳥……
彼女が行った後の火の消えたような家庭……暗い寂しい日……それを考えたら何故あんな可愛い小鳥を逃がして了ったろう……何故もっと彼女を大切にしなかったろう……大塚さんは他人の妻に成っている彼女を眼のあたりに見て、今更のようにそんなことを考え続けた。
午後に、会社へ戻ると、車夫が車を持って来て彼を待っていた。彼はそれに乗って諸方馳ずり廻るには堪えられなく成って来た。銀行へ行くことも止め、他の会社に人を訪ねることも止め、用達をそこそこに切揚げて、車はそのまま根岸の家の方へ走らせることにした。
大塚さんが彼女と一緒に成ったに就いては、その当時、親戚や友人の間に激しい反対もあった。それに関らず彼は自分よりずっと年の若い女を択んだ。楽しい結婚は何物にも換えられなかった。そんな風にして始まった二人の結び付きから、不幸な別離に終ったまでのことが、三年前の悲しいも、八年前の嬉しいも、殆ど一緒に成って、車の上にある大塚さんの胸に浮んだ。
もとより、大塚さんがおせんと一緒に成った時は、初めて結婚する人では無かった。年齢が何よりの証拠だ。しかし親戚や友人が止めたように、八年前の彼は二十に成るおせんを妻にして、そう不似合な夫婦がそこへ出来上るとも思っていなかった。活気と、精力と、無限の欲望とは、今だに彼を壮年のように思わせている。まして八年前。その証拠には、おせんと並んで歩いていた頃でも、誰も夫婦らしくないと言った眼付して二人を見て笑ったものも無かった。すくなくも大塚さんにはそう思われた。どうして、おせんが地味な服装でもして、いくらか彼の方へ歩び寄るどころか。彼女は今でもあの通りの派手づくりだ。若く美しい妻を専有するということは、しかし彼が想像したほど、唯楽しいばかりのものでも無かった。結婚して六十日経つか経たないに、最早彼は疲れて了った。駄目、駄目、もうすこし男性の心情が理解されそうなものだとか、もうすこし他の目に付かないような服装が出来そうなものだとか、もうすこしどうかいう毅然とした女に成れそうなものだとか、過る同棲の年月の間、一日として心に彼女を責めない日は無かった――
三年振で別れた妻に逢って見た大塚さんは、この平素信じていたことを――そうだ、よく彼女に向って、誰某は女でもなかなかのシッカリものだなどと言って褒めて聞かせたことを、根から底から転倒されたような心地に成った。「シッカリものだが何だ」こう以前の自分とは反対なことを言って、家へ戻って来た。彼は自分の家の内に、居ないおせんを捜した。幾つかある部屋部屋へ行って見た。
内の庭に向いた廊下のところで、白い毛の長いマルが主人を見つけて馳けて来た。おせんのいる頃から飼われた狆だ。体躯は小さいが、性質の賢いもので、よく人に慣れていた。二人で屋外からでも帰って来ると、一番先におせんの足音を聞付けるのはこのマルだった。そして、彼女の裾に纏い着いたものだ。大塚さんは、この小さい犬を抱いて可愛がったおせんが、まだその廊下のところに立っているようにも思った。
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