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旧主人(きゅうしゅじん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 11:10:14  点击:  切换到繁體中文


    四

 手桶(ておけ)を提げて井戸に通う路は、柿の落葉で埋まった日もあり、霜溶(しもどけ)のぐちゃぐちゃで下駄の鼻緒を切らした日もあり、夷講(えびすこう)の朝は初雪を踏んで通いました。奥様から頂いて穿(は)いた古足袋(たび)の爪先も冷くなって、鼻の息も白く見えるようになれば、北向の日蔭は雪も溶けずに凍る程のお寒さ。
 十二月の十日のこと、珍しい御客様を乗せた一輌(だい)の人力車(くるま)が門の前で停りました。それは奥様の父親(おとう)様が東京から尋ねていらしったのです。思いがけないのですから、奥様は敷居に御躓(おつまず)きなさる程でした。旦那様も早く銀行から御帰りになる、御二人とも御客様の御待遇(おもてなし)やら東京の御話やらに紛れて、久振で楽しそうな御笑声(わらいごえ)が奥から聞えました。奥様の御喜悦(よろこび)は、まあ何程(どんな)で御座ましたろう、――その晩は大した御馳走でした。
 御客様は金銭上(おかね)の御相談が主で、御来遊(おいで)になりましたような御様子。御着(つき)になって四日目のこと、旦那様と御一緒に長野へ御出掛になりました。奥様は御留守居です。私は洋傘(こうもり)と御履物を揃(そろ)えまして、御部屋へ参って見ると、未だ御仕度の最中。御客様は気短(きぜわしな)い御方で、角帯の間から時計を出して御覧なすったり、あちこちと御部屋の内を御歩きなすったりして、待遠しいという風でした。その時、私は御客様と奥様と見比べて、思当ることが有ましたのです。御客様は丸い腮(あご)を撫(な)で廻しながら、
「婆さんもね、早く孫の顔を見たいなんて、日常(しょっちゅう)その噂(うわ)さばかりさ。どうだね、……未だそんな模様は無いのかい」
 奥様は俯(うつむ)いて、御顔を紅らめて、御返事をなさいません。やがて懐しそうに、
御父(おとっ)さん、羽織を着更(か)えていらッしゃいよ」
「なに、これで結構。こりゃお前上等だもの」
「それでもあんまりひどい」
「この羽織は十五年からになりますがね、いいものは丈夫ですな」
 御客様は袖(そで)口を指で押えて、羽翅(はがい)のように展(ひろ)げて見せました。遽(にわか)に思直して、
「こうっと。面倒だけれど――それじゃ一つ着更えるか」
 と御自分の御包を解(ほど)いて、その中から節糸紬(ふしいとつむぎ)の御羽織を抜いて、無造作に袖を通して御覧なさいました。
「あれ、其方(そっち)のになさいよ」
「これかね。どうして、お前、此方の着物を着た時の羽織さ。ね、――この羽織で結構」
「でも何だかそれじゃ好笑(おかし)いわ。それを御着なさる位なら、まだ今までの方が好(いい)のですもの」
 御客様は茶の平打(ひらうち)の紐(ひも)を結んで、火鉢の前にべたりと坐って御覧なさいました。急に、ついと立ってまたその御羽織を脱ぎ捨てながら、
「それじゃ、これだ――もともとだ。アハハハハハハ」
 奥様がそれを引寄せて、御畳みなさるところを、御客様は銜煙管(くわえぎせる)で眺入って、もとの御包に御納(おしま)いなさるまで、熟(じっ)と視ていらっしゃいました。思いついたように、
「ハハハハ、婆さん紋付なんか入れてよこした」
 こういう罪もない御話を睦(むつ)まじそうになすっていらっしゃるところへ、旦那様も御用を片付けて、御二階から下りておいでなさいました。見る見る旦那様の下唇には嫉(ねたまし)いという御色が顕(あらわ)れました。御客様は急(せ)き立てて、
「さあ、出掛けましょう。もう三十分で汽車が出ますよ」
 御二人とも厚い外套(がいとう)を召して御出掛になりました。爺さんも御荷物を提げて、停車場まで随いて参りました。後で、取散かった物を片付けますと、御部屋の内は煙草の烟(けむり)ですこし噎(む)せる位。がらりと障子を開けて、御客様の蒲団(ふとん)や、掻巻(かいまき)や、男臭い御寝衣(ねまき)などを縁へ乾しました。
 御独(おひとり)になると、奥様は総桐の箪笥(たんす)から御自分の御召物を出して、畳直したり、入直したり、又た取出したりして御眺めなさる――それは鏡に映る御自分の御姿に見惚(みとれ)ると同じような御様子をなさるのでした。全く御召物は奥様の御身の内と言ってもよいのですから。私も御側へ寄添いまして見せて頂きました。どれを拝見しても目うつりのする衣類(もの)ばかり。就中(わけても)、私の気に入りましたのは長襦袢です。それは薄葡萄(ぶどう)の浜縮緬(ちりめん)、こぼれ梅の裾(すそ)模様、※(ふき)緋縮緬(ひぢりめん)を一分程にとって、本紅(ほんこう)の裏を附けたのでした。奥様はそれを御膝の上に乗せて、何の気なしに御婚礼の晩御召しなすったということを、私に話して聞かせました。不図(ふと)、御自分の御言葉に注意(こころづ)いて、今更のように萎返(しおれかえ)って、それを熟視(みつめ)たまま身動きもなさいません。死(しん)だ銀色の衣魚(しみ)が一つその袖から落ちました。御顔に匂いかかる樟脳(しょうのう)の香を御嗅ぎなさると、急に楽しい追憶(おもいで)が御胸の中を往たり来たりするという御様子で、私が御側に居ることすら忘れて御了いなすったようでした。
「ああああ着物も何も要らなくなっちゃった」
 と仰(おっしゃ)りながら、その長襦袢を御抱きなすったまま、さんざん思いやって、涙は絶間(とめど)もなく美しい御顔を流れました。
 その日は珍しく暖で、冬至近いとも思われません位。これは山の上に往々(たびたび)あることで、こういう陽気は雪になる前兆(しらせ)です。昼過となれば、灰色の低い雲が空一面に垂下る、家(うち)の内は薄暗くなる、そのうちにちらちら落ちて参りました。日は短し、暗さは暗し、いつ暮れるともなく燈火(あかり)を点(つけ)るようになりましたのです。爺さんも何処(どっか)へ行って飲んで来たものと見え、部屋へ入って寝込んで了いました。台所が済むと、私は奥様の御徒然(おさむしさ)が思われて、御側を離れないようにしました。時々雪の中を通る荷車の音が寂しく聞える位、四方(そこいら)は※(ひっそり)として、沈まり返って、戸の外で雪の積るのが思いやられるのでした。御一緒に胡燵(おこた)にあたりながら、奥様は例の小説本、私は古足袋のそそくい、長野の御噂さやら歯医者の御話やら移り移って盗賊の噂さになりますと、奥様は急に寂しがって、
「どうしたろう、爺さんは」
「もう最前(とっく)に寝て了いました」
「おや、そう、早いことねえ。お前戸じまりをよくしておくれ。泥棒が流行(はや)るッて言うよ」
 と、二人で恐(こわ)がっておりますと、誰か来て戸を叩(たた)く音が聞えました。「はてな、今時分」と、ついと私は立って参りまして、表の戸を明けて見れば――一面の闇(やみ)。仄白(ほのじろ)い夜の雪ばかりで誰の影も見えません。暫(しばら)く佇立(たたず)んでおりましたが、「晴れたな」と口の中で言って、二歩(あし)三歩(あし)外へ履出(ふみだ)して見ると、ぱらぱら冷いのが襟首(えりくび)のところへ被(かか)る。
「あれ、降ってるのか」と私は軒下へ退(の)いて、思わず髪を撫(な)でました。暗くはあるが、低い霧のように灰色に見えるのは、微(こまか)い雪の降るのでした。往来の向(むこう)で道を照して行く人の小提灯(ぢょうちん)が、積った雪に映りまして、その光が花やかに明く見えるばかり。
 私は戸を閉めて暫時(しばらく)庭に立っていますと、外からコトコトと戸を叩く音がする。下駄の雪を落す音が聞える。一旦閉めた戸を復(ま)た開けて、「誰方(どなた)」と声を掛けて見ました。誰かと思えば――美しい曲者(くせもの)。
「奥様、桜井さんがいらっしゃいましたよ」
 と、早速申上(もうしあげ)に参りましたら、奥様は不意を打たれて、耳の根元から襟首までも真紅(まっか)になさいました。物の蔭に逃隠れまして、急には御見えにもなりませんのです。この雪ですから、歯医者の外套は少許(すこし)払った位で落ちません。それを脱げば着物の裾は濡(ぬ)れておりました。いつもの様に御履物を隠して、奥様の御部屋へ御案内をしますと、男はがたがたと震えておりましたのです。
 先ず濡れたものを脱がせて、奥様は男に御自分の裾の長い御召物を出して着せました。それは本紅(ほんこう)の胴裏を附けた変縞(かわりじま)の糸織で、八つ口の開いた女物に袖を通させて、折込んだ広襟を後から直してやれば、優形(やさがた)な色白の歯医者には似合って見えました。奥様は左からも右からも眺めて、恍惚(うっとり)とした目付をなさりながら、
「お定、よく御覧よ。まあ、それでも御似合なさること。まるで桜井さんは女のように御見えなさるんだもの」
 と仰って、私の手を握りしめるのです。
 私は歯医者から美しい帯上(おびあげ)を頂きました。
 奥様の御差図(さしず)で、葡萄酒を胡燵(おこた)の側に運びまして、玻璃盞(コップ)がわりには京焼の茶呑茶椀(ぢゃわん)を上げました。静な上に暖で、それは欺(だま)されたような、夢心地のする陽気。年の内とは言いながら梅も咲(さき)鶯も鳴くかと思われる程。猫まで浮れて出て行きました。私は次の間に退(さが)って、春の夜の夢のような恋の御物語に聞惚れて、唐紙の隙間(すきま)から覗(のぞ)きますと、花やかな洋燈(ランプ)の光に映る奥様の夜の御顔は、その晩位御美しく見えたことは有ませんでした。奥様があの艶(つや)を帯(も)った目を細くなすって葡萄酒を召上るさまも、歯医者が例の細い白い手を振って楽しそうに笑うさまも、よく見えました。御物語も深くなるにつけ、昨日の御心配も、明日の御煩悶(わずらい)も、すっかり忘れて御了いなすって、御二人の口唇(くちびる)には香油(においあぶら)を塗りましたよう、それからそれへと御話が滑(はず)みました。歯医者は桜色の顔を胡燵(おこた)に擦(こす)りつけて、
「奥さん」
「あれ復(ま)た。後生ですから『奥さん』だけは廃(よ)して頂戴よ」
 こころやすだてから出たこの御言葉は、言うに言われぬほど男の心を嬉しがらせたようでした。男は一寸舌なめずりをして、酒に乾いた口唇を動かしながら、
「酔った。酔った。何故こんなに酔ったか解らない」
「だっても御酒(ごしゅ)を召上ったんでしょう」奥様は笑いました。
「少ばかりいただいて、手までこんなに紅くなるとは」
 と出して見せる。
「でも、御覧なさいな、私の顔を」
 と奥様は頬(ほお)に掌を押当てて御覧なさいました。
「貴方はちっとも紅く御成(おなん)なさらない。紅くならないで蒼(あお)くなるのは、御酒が強いんだって言いますよ。――貴方はきっと御強いんだ」
「よう御座んす。沢山(たんと)仰い」と奥様はすこし甘えて、「ですがねえ、桜井さん、私は何程(どんなに)酔いたいと思っても、苦しいばかりで酔いませんのですもの」
 男は奥様の御言葉に打たれて、黙って奥様の美しい目元を熟視(みつめ)ました。奥様は障子に映る男の影法師を暫く眺めていらっしゃるかと思うと、急に御自分の後を振返って、物を探る手付で宙を掴(つか)んで御覧なさいました。恐怖(おそれ)は御顔へ顕れました。やがて、すこし震えて男の傍へ倚添(よりそ)いながら、
「何時までもこうして二人で居られますまいかねえ。噫(ああ)、居られるものなら好けれど」
 と沈(しめ)る。男は歎息(ためいき)を吐(つ)くばかりでした。奥様も萎れて、
「私はもう御目にかかれるか、かかれないか、知れないと思いますわ。あの昨夜(ゆうべ)の厭(いや)な夢、――どうして私はこんな不幸(ふしあわせ)な身(からだ)に生れて来たんでしょう。若しかすると、私は近い内に死ぬかも……もう御目にかかれないかも……知れません」
「また、つまらんことを。夢という奴は宛になるもんじゃなし」
「そう貴方のように仰るけれど、女の身になって御覧なさい――違いますわ。ああ、もういやいや、そんな話は廃(よ)しましょう」と奥様は気を変えて、「何時でしたっけねえ、始て貴方に御目にかかったのは。ネ、去年の五月、ホラ磯部の温泉で――未だ私がここへ嫁(かたづ)いて来ない前……」
「おおそうそう、月参講(げっさんこう)の連中が大勢泊った日でしたなあ。御一緒に青い梅のなった樹の蔭を歩いて、あの時、ソラ碓氷川(うすいがわ)で清(い)い声がしましたろう。貴方がそれを聞きつけて、『あれが河鹿(かじか)なんですか、あらそう、蜩(ひぐらし)の鳴くようですわねえ』と仰ったでしょう」
「覚えていますよ。それから岡へ上って見ると、躑躅(つつじ)が一面に咲いていて。ネ、私は坂を歩いたもんですから、息が切れて、まあどうしたら好(よか)ろうと思っていると、貴方が赤い躑躅の枝を折って、『この花の露を吸うがいい』と仰って、私にそれを下すったでしょう」
「あの時は又た能く歩きましたなあ。貴方も草臥(くたぶれ)、私も草臥、二人で岡の上から眺めていると、遠く夕日が沈んで行くにつれて空の色がいろいろに変りましたッけ。水蒸気の多い夕暮でしたよ。あんな美しい日没(ひのいり)は二度と見たことが有ません、――今だに私は忘れないんです」
「あら、私だっても……」
 御二人は目と目を見合せて、昔の美しい夢が今一度眼前(めのまえ)を活(い)きて通るような御様子をなさいました。奥様は茶呑茶椀を取上げて、
「さ、も一つ召上りませんか」
「沢山」
「そう、そんなら私頂きましょう」
「え、召上るんですか。――然し、もう御廃(およ)しなさいよ」
「何故、私が酔ってはいけませんの」
「貴方のは無理な御酒なんだから」
「それじゃ未だ私の心を真実(ほんとう)に御存(ごぞんじ)ないのですわ。私はこうして酔って死ねば、それが何よりの本望ですもの」
 無理やりに葡萄酒の罎(びん)を握(つか)ませて、男の手の上に御自分の手を持添えながら、茶呑茶椀へ注ごうとなさいました。御二人の手はぶるぶると戦(ふる)えて、酒は胡燵掛(こたつがけ)の上に溢(こぼ)れましたのです。奥様は目を閉(つぶ)って一口に飲干して、御顔を胡燵(おこた)に押宛てたと思うと、忍び音に御泣きなさるのが絞るように悲しく聞えました。唐紙に身を寄せて聞いて見れば、私も胸が込上げて来る。男は奥様を抱くようにして、御耳へ口をよせて宥(なだ)め賺(すか)しますと、奥様の御声はその同情(おもいやり)で猶々(なおなお)底止(とめど)がないようでした。私はもう掻毟(かきむし)られるような悶心地(もだえごこち)になって聞いておりますと、やがて御声は幽(かすか)になる。泣逆吃(なきじゃくり)ばかりは時々聞える。時計は十時を打ちました。茶を熱く入れて香(かおり)のよいところを御二人へ上げましたら、奥様も乾いた咽喉(のど)を霑(しめ)して、すこしは清々(せいせい)となすったようでした。急に、表の方で、
「御願い申しやす」
 それは酔漢(よいどれ)の声でした。静な雪の夜ですから、濁った音声(おんじょう)で烈(はげ)しく呼ぶのが四辺(そこいら)へ響き渡る、思わず三人は顔を見合せました。
「誰だろう」と奥様は恐(こわ)がる。
「御願い申しやす、御休みですか」
 歯医者はもう蒼青(まっさお)になって、酒の酔も覚めて了いました。震えながらきょろきょろと見廻して、目も眩(くら)んだようです。逃隠れをしようにも、裾の長い着物が足纏(まと)いになって、物に躓(つまず)いたり、滑(すべ)ったりする。罎は仆(たお)れて残った葡萄酒が畳へ流れました。
 半信半疑で聞いていた私も、三度呼ばれて見れば、はッと思いました。父親(おやじ)の声に相違ないのです。
「奥様、吾家(うち)の御父(おとっ)さんで御座ますよ」
 奥様は屏風(びょうぶ)の蔭にちいさくなっていた男の手を執って、押入のなかに忍ばせました。私は立って参りまして表の戸を開けながら、
「御父さん、何しに来たんだよ……今頃」
「はい、道に迷ってまいりやした」と舌も碌々(ろくろく)廻りません様子。
「仕様がないなア、こんなに遅くなって人の家へ無暗(むやみ)に入って来て」
 親とは言ながら奥様の手前もあり、私は面目ないと腹立(はらだた)しいとで叱(しか)るように言いました。もう奥様は其処へいらしって、燈火(あかり)に御顔を外向(そむ)けて立っておいでなさるのです。
「お定の御父さんですか」
否(いいえ)、そうじゃごわしねえ。私(わし)は東京でごわす」
 と恍(とぼ)け顔に言淀(よど)んで、見れば手に提げた菎蒻(こんにゃく)を庭の隅(すみ)へ置きながら蹣跚(よろよろ)と其処へ倒れそうになりました。
「これ、さ、そんな処へ寝ないで早く御行(おいで)よ」
「まあ、いいから其処へ暫く休ませて遣(や)るが好(いい)やね」
「こんなに酔ったと言っちゃ寝てしまって仕方がありません。これ、御行(おいで)よ」
「そこですこし御休みなさい」
「はい」と父親(おやじ)は上框(あがりがまち)へ腰を掛けながら、
「私はお定さんに惚れて来やした」
「早く去(い)っとくれよ。こんなに遅くなって人の家へ酔って来たりなんかして」
「そう言うな。十月余(とつきあまり)も逢わねえじゃねえか。顔が見たくはねえか……」
 奥様は炉辺の戸棚(とだな)を開けて、玻璃盞(コップ)を探しながら、
「水でも一つ上げましょう」
「見ろ、奥様はあの通り親切にして下さる、……時にお定、今幾時だ」
「十二時」と私は虚言(うそ)を吐(つ)いてやりました。
「なに、十……」と険(けわ)しい声で、
「十一時半」
「さあ水を御上り」と奥様はなみなみ注いだのを下さる。
「難有うごわす。ええ、ぷ、私(わし)は今夜芸者……を買って、四五円くれて了った。復(また)、私はこれから行って、……そ、そ、その、飲もうというんで」
「大変酔ったものだね」
「これ、早く御帰りよ。まるでその姿(なり)は雫(しずく)じゃないか、――傘も持たず」
洋傘(こうもり)は買ったけれども、美代助にくれて来やした。ええ、ぷ、……なあ奥様(おくさん)、一服頂戴して」
「煙草なんか呑まなくても好(いい)から、さっさと御行(おいで)」
「さあ、煙草盆を上げますよ」
 と出して下さる。その御顔を眺めて、父親は甘(うま)そうに一服頂いて、
「よう、奥様は未だ若えなア。旦那様(だんなさん)は――私旦那様の御顔も見て行きたい」
「旦那様は御留守だよ」と私が横から。
「幾時だ」と復(また)尋ねる。
「十一時半。主家(うち)じゃもう十時になれば寝るんだよ。さあ、さっさと御帰りよ」
「水を、も一つ上げましょう」
「沢山、もう頂きました」
「すこし沈静(おちつ)いたら、今夜は早く御帰りなさい。お定もああして心配していますから、ね、そうなさい」
「はい。はい。さあこれから行って復た芸者を揚げるんだ。六区へでも行かずか」
「さあ、そうだ、そうなさい」
「これは不調法を申しやした。御免なすって御くんなさい。酔えばこんなものだが、奥様、酔わねえ時は好い男だ。アハハハハハハ」
 と、よろよろしながら立上りました。
「おやすみ、おやすみ」と可笑(おかし)な調子。
「何だねえ、確乎(しっかり)して御行(おいで)よ」と私は叱るように言いまして、菎蒻(こんにゃく)を提げさせて外へ送出す時に、「まあ、ひどい雪だ――気を注(つ)けて御行よ」と小声で言いました。
「お、や、す、み」
 と歌のように調子をつけながら、千鳥足で出て行く。暫く私は門口に佇立(たたず)んで後姿を見送っておりますと、やがて生酔(なまよい)の本性(ほんしょう)を顕して、急にすたすたと雪の中を歩いて行きました。見れば腰付(こしつき)から足元からそれ程酔ってはいないのです。父親は直ぐ闇に隠れて見えなくなって了いました。
 ホッと一息吐(つ)いて、私は御部屋へ参って見ますと、押入のなかに隠れた人は頭かきかき苦笑(にがわらい)をしておりました。私は御気毒にもあり、御恥しくもあり、奥様の御傍へ寄添いながら、
「御父さんは上りにくいもので御座ますから、あんな酔った振をして、恍(とぼ)けて参ったんで御座ます」
「お前に逢い度(たい)からさ」
「私が是方(こちら)へ上る時に、『己(おれ)も一諸に行こう』と申しますから、誰がそんな人に行って貰うもんか、旦那様の御家へなんぞ来るのは止(よ)しとくれ、と言って遣りましたんで御座ます」
「逢い度ものと見えるねえ」
「『十月余も逢わねえじゃねえか、顔が見たくはねえか』なんて申しましたよ。馬鹿な、誰があんな酔ぱらいに逢い度もんか」
御母(おっか)さんも心配していなさるだろうよ」
 と言われて、私は逢いに来た父親(おやじ)よりも、逢いに来ない母親(おふくろ)の心が恋しくも哀しくも思われました。歯医者は熟(じっ)と物を考えて、思い沈んでおりましたのです。奥様はその顔を覗くようになすって、
「桜井さん、何をそんなに考込んでいらっしゃるの」
「成程――さすがは親だ」
「大層感心していらっしゃるのねえ」
「人情という奴は乙なものだ。……そうかなあ」
「何が、そうかなあですよ」
「難有い」
「ホホホホホ」
「そういうものかなア」
「あれ、復(また)」
「そうだ、もう半年も手紙を遣らない」
誰方(どなた)のところへ」
「なにも私は御恩を忘れて御無沙汰(ぶさた)をしてるんじゃ無いけれど……」
「まあ、好笑(おかし)いわ」
「つい、多忙(いそがし)くッて手紙を書く暇も無いもんだから」
「貴方、何を言っていらっしゃるの」
「え、私は何か言いましたか」
「言いましたとも。もう半年も手紙を遣らないの、御恩を忘れはしないの、手紙を書く暇がないのッて、――必(きっ)と……思出していらっしゃるんでしょう」と奥様は私の方へ御向きなすって、
「ねえ、お定、桜井さんは御容子(ようす)が好(よく)っていらっしゃるから……」
「止して下さい。貴方はそう疑(うたぐ)り深いから厭さ」と男はすこし真面目(まじめ)になって、「こうなんです――まあ、聞いて下さい。私には義理ある先生が有ましてね、今下谷(したや)で病院を開いているんです。私もその先生には、どんなに御世話に成ったもんだか知れません。全く、先生は私を子のように思って、案じていて下さるんで。私がこれまでに成ったというのも、先生の御蔭ですからね。ですから、『貴様は友達の出世するのを見ても羨ましくはないか、悪※(わるあがき)も好加減にしろ』なんて平素(しょっちゅう)御小言を頂戴するんです。……先生の言う通りだ――立身、出世、私はもうそんな考が無くなって了った。私の心を占領してるのは……貴方、貴方ばかりです。ああ、昔の友人(ともだち)と競争した時代から見ると、私も余程これで変ったんですなア」
 と言って、稍(やや)暫時(しばらく)奥様の御顔を見つめておりましたが、やがて、思付いたように立上りました。見れば今まで着ていた裾の長い糸織を脱いで、自分の着物に着替えようとしましたから、奥様も不思議顔に、
「何故、それを着ていらっしゃらないんですか」
「なんだか私は……こう急に気分が悪く成りましたから、今夜は帰ります」
「お帰りなさるたッて、このまあ雪に……。貴方の着物は未だ乾かないじゃ有ませんか」
「なあに、構いません。尻端(しりはし)を折れば大丈夫」
「まあ、真実(ほんとう)に御帰りなさるんですか。それじゃ、あんまりですわ……」
 歯医者は躊躇(もじもじ)して、帽子を拈(ひね)っておりましたが、やがて萎(しお)れて坐りました。
「無理に御留め申しませんから……もう少し居て下さいな」
「然し、またあんまり遅くなると……」
「遅くなったって好じゃありませんか。まあもうすこし」
「そう仰らずに、今夜だけは帰して下さい」
「そんなら、もう二十分」

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