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岩石の間(がんせきのあいだ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-9-8 10:59:22  点击:  切换到繁體中文


 高瀬は酒が欲しくないと言って唯話相手に成っていた。彼は学校通いの洋服のポケットから田舎風な皮の提げ煙草入を取出した。都会の方から来た頃から見ると、髪なども長く延ばし、憂鬱な眼付をして、好きな煙草をふかし燻し学士の話に耳を傾けた。
「どうでしょう、高瀬君、今度塾へ御願いしましたせがれの奴は。あれで弟と違って、性質は温順すなおな方なんですがネ。あれは小学校に居る時代から図画が得意でして、その方では何時でも甲を貰って来ましたよ。私が伜に、お前は何に成るつもりだッて聞きましたら、僕は大きく成ったら、泉先生のように成るんだなんて……あれで物に成りましょうか……」
 学士はチビリチビリやりながら、言葉を継いだ。
「妙なもので、家内はまた莫迦ばかに弟の方を可愛がるんです。弟の言うことなら何でも閲く。私がそれじゃ不可いけないと言うと、そこで何時でも言合でサ……家内が、父さんは繁の贔負ひいきばかりしている、一体父さんは甘いから不可、だから皆な言うことを聞かなくなっちまうんだ、なんて……兄の方は弱いでしょう、つい私は弱い方の肩を持つ……」
 学士は頬と言わず額と言わず顔中手拭で拭き廻した。
「しかし、高瀬君、どうしてこんなに御懇意にするように成ったかと思うようですネ……貴方のところでも、今、お子さんはお二人か……実際、子供は骨が折れますよ。お二人位の時はまだそれでもう御座んす。私共を御覧なさい、あの通りウジャウジャ居るんですからネ……おまけに、大飯食おおめしぐらいばかりそろっていて」と言いかけて、学士は思い出したように笑って、「まさか、子供に向って、そんなに食うな、三杯位にして控えて置けなんて、親の身としては言えませんからナ……」
 包み隠しの無い話は高瀬を笑わせた。学士は更に、
「ホラ、勇の下に女の児が居ましょう。上田で生れた児です……真実ほんとに親の言うことなどは聞かない……苦しい時代に出来た児はああいうものかと思いますネ……ウッチャリ放しに育った児ですからネ……子などに関ってはおられなかったんです……しかし、考えて見ると、私の家内もよくやって来ましたよ。貧苦にえる力は家内の方が反って私より強い……」
 しばらく石のような沈黙が続いた。そのうちにかすかに酔が学士の顔に上った。学者らしい長い眉だけホンノリと紅い顔の中に際立きわだって斑白はんぱくに見えるように成った。学士は楽しそうに両手や身体を動かして、胡坐あぐらにやったり、坐り直したりしながら、高瀬の方を見た。そして話の調子を変えて、
「そう言えば、仏蘭西の言葉というものは妙なところに洒落しゃれを含んでますネ」
 と言って、二三のつながった言葉を巧みに発音して聞かせた。
「私も一つ、先生のお弟子入をしましょうかネ」と高瀬が言った。
「え、すこし御りなさらないか」
「今私が読んでる小説の中などには、時々仏蘭西語が出て来て困ります」
「ほんとに、御一緒に一つ遣ろうじゃありませんか」
 仏蘭西語の話をする時ほど、学士の眼は華やかに輝くことはなかった。
 やがて高瀬はこの家に学士を独り残して置いて、相生町の通りへ出た。彼が自分の家まで歩いて行く間には、幾人いくたりとなく田舎風な挨拶をする人に行き逢った。長いひげはやした人はそこにもここにも居た。

 休みの日が来た。
 高瀬が馬場裏の家を借りていることは、最早もう仮の住居とも言えないほど長くなった。彼は自分のものとして自由にその日を送ろうとした。
 南の障子へ行って見た。濡縁ぬれえんの外は落葉松からまつの垣だ。風雪の為に、垣も大分破損いたんだ。毎年聞える寂しい蛙の声が復た水車小屋の方からその障子のところへ伝わって来た。
 北の縁側へ出て見た。腐りかけた草屋根の軒に近く、毎年虫に食われて弱って行く林檎りんごの幹が高瀬の眼に映った。短い不恰好ぶかっこうな枝は、その年も若葉を着けた。微かな甘い香がプンと彼の鼻へ来た。彼は縁側にもたれて、五月の日のあたった林檎の花や葉を見ていたが、妻のお島がそこへ来て何気なく立った時は、彼は半病人のような、逆上のぼせた眼付をしていた。
「なんだか、俺は――気でもちがいそうだ」
 と串談じょうだんらしく高瀬が言うと、お島は縁側から空を眺めて、
「髪でも刈って被入いらっしたら」
 と軽い返事をした。
 急に大きな蜜蜂みつばちがブーンという羽の音をさせて、部屋の中へ舞い込んで来た。お島は急いで昼寝をしている子供の方へ行った。庭の方から入って来た蜂は表の方へ通り抜けた。
まあちゃんはどうしたろう」と高瀬がこの家で生れた姉娘のことを聞いた。
屋外そとで遊んでます」
「また大工さんの家の娘と遊んでいるじゃないか。あの娘は実に驚いちゃった。あんな荒い子供と遊ばせちゃ困るナア」
「私もそう思うんですけれど、泣かせられるくせに遊びたがる」
「今度誘いに来たら、断っちまえ。――吾家うちへ入れないようにしろ――真実ほんとに、串談じょうだんじゃ無いぜ」
 夫婦は互に子供のことを心配して話した。
 血気さかんなものには静止じっとしていられないような陽気だった。高瀬はしばらく士族地への訪問も怠っていた。しかしその日は塾の同僚をおとなうよりも、足の向くままに、好きな田圃道を歩き廻ろうとした。午後に、彼は家を出た。
 岩と岩の間を流れ落ちる谷川は到るところにあった。何度歩いても飽きない道を通って、赤坂裏へ出ると、青麦の畠が彼の眼にひらけた。五度いつたび熟した麦の穂は復た白く光った。土塀どべい、白壁の並び続いた荒町の裏を畠づたいに歩いて、やがて小諸の町はずれにあたる与良町の裏側へ出た。非常に大きな石が畠の間に埋まっていた。その辺で、彼は野良仕事をしている町の青年の一人に逢った。
 最早青年とも言えなかった。若い細君を迎えてかまどを持った人だ。しばらく高瀬は畠側の石に腰掛けて、その知人しりびとの畠を打つのを見ていた。
 その人は身を斜めにし、うんと腰に力を入れて、土のかたまりを掘起しながら話した。風が来て青麦を渡るのと、谷川の音と、その間には蛙の鳴声も混って、どうかすると二人の話はとぎれとぎれに通ずる。
「桜井先生や、広岡先生には、せめて御住宅すまいぐらいを造って上げたいのが、私共の希望なんですけれど……町のために御苦労願って……」
 とその人は畠に居て言った。
 別れを告げて、高瀬が戻りかける頃には、壮んな蛙の声が起った。大きな深い千曲川の谷間たにあいはその鳴声で満ちあふれて来た。飛騨ひだ境の方にある日本アルプスの連山にはまだ遠く白雪を望んだが、高瀬は一つ場処ところに長く立ってその眺望を楽もうともしなかった。不思議な寂寞さびしさは蛙の鳴く谷底の方からい上って来た。恐しく成って、逃げるように高瀬は妻子の方へ引返して行った。

「父さん」
 と呼ぶ子供を見つけて、高瀬は自分の家の前の垣根のあたりで鞠子まりこと一緒に成った。
まあちゃん、吾家おうちへ行こう」
 と慰撫なだめるように言いながら、高瀬は子供を連れて入口の庭へ入った。そこには畠をするくわなどがすみの方に置いてある。お島はあがかまちのところに腰掛けて、二番目の女の児に乳を呑ませていた。

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